ルカ福音書第4章
18~19節「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(聖書協会共同訳)
1~13節 イエス荒野の誘惑で、平行記事はマタイ4章1~11節、マルコ1章12~13節にある。40日の断食はイスラエル荒野40年と重なる。悪魔の存在は天使の顔を持つ(ヨブ記1章)。誘惑の第一は飢餓で、奇跡でなく神の言(ロゴス)で応える。第二は権力と繁栄、第三は神殿だがイエスはこれも神の言葉で応える(申命記6章13節、6章16節)。イエスのメシア性が証明された。
14~15節 イエスは育ったナザレで、安息日に会堂に入り立ってイザヤ61章1~2節を読み上げた。ヨベルの年、圧迫された民が解放される出来事を記した箇所だが、大胆にもその使信は「今日、あなたがたが耳にした時、実現した」と告げた(21節)。人々はこの恵みの言葉に驚き、このひとはヨセフの子ではないかと言った。
耳にする人々とは誰か。貧しく喜びのない日々を送る者、罪と心の痛みに縛られ捕らわれている者、行く先の見えない不安な生活を送っている身体しょうがい者、そして様々な重圧におしつぶされている者がそれら一切から解放されるという宣言である。会堂に集まったユダヤ教徒はイエスの口から出る恵み深い言葉に驚いたが、他人事として受け取った(22節)。「医者よ、自分を治せ」の諺を引きイエスは彼らの態度に対して、エリヤの時代の大飢饉に際して独りの寡婦にだけ餓えを癒やし(列王記上17章1~24節)、エリシャは多くの病人の中からナアマンだけが独り癒やした(列王記5章1~15節)ことに触れた。
この譬を聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、彼らは総立ちになってイエスを歓迎しないばかりか、シドン人や、アラム人と比較してその不信を責められたため、町の外に追い出し、町がたって山の崖から突き落とそうとした(29節)。しかしイエスは人々の間を通り抜けて立ち去った。
31~37節 イエスが神から遣わされたメシアである理解はどうして得ることになるのか。ガリラヤの町カファルナウムに行き、安息日には人々に教えておられた。汚れた霊につかれた男が大声を出して「ナザレのイエス、構わないでくれ、我々を滅ぼしに来たのは分かっている、神の聖者だ」と叫ぶ。イエスは「黙れ、出て行け」と命じ正気に戻った。
38~41節 会堂から立ち去りシモンの家に行き、シモンの姑の熱病に苦しんでいたところで、枕元で熱を叱りつけて癒やされる。さらに日暮れになると安息日がおわり、病人を抱えた人々が集まり、その一人一人に手を置いて癒やされた(マルコ1章21~28節)。
42~44節 翌朝にはイエスは寂しい所に出て行かれたが、群衆は探し回り、イエスを見つけて集まり、一人一人に手を置いて癒やされ悪霊を追い出されが、人々の引き留めることを退け、「ほかの町にも福音を、告げ知らせねばならない」と語り、諸会堂に行って宣教した。
この見える「しるし」によって、ユダヤの人々はイエスが権威と力を持つメシアであることを初めて認めることになるが、しかしこれはイエスの本心ではない(11章29~30節see)。
18~19節「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(聖書協会共同訳)
1~13節 イエス荒野の誘惑で、平行記事はマタイ4章1~11節、マルコ1章12~13節にある。40日の断食はイスラエル荒野40年と重なる。悪魔の存在は天使の顔を持つ(ヨブ記1章)。誘惑の第一は飢餓で、奇跡でなく神の言(ロゴス)で応える。第二は権力と繁栄、第三は神殿だがイエスはこれも神の言葉で応える(申命記6章13節、6章16節)。イエスのメシア性が証明された。
14~15節 イエスは育ったナザレで、安息日に会堂に入り立ってイザヤ61章1~2節を読み上げた。ヨベルの年、圧迫された民が解放される出来事を記した箇所だが、大胆にもその使信は「今日、あなたがたが耳にした時、実現した」と告げた(21節)。人々はこの恵みの言葉に驚き、このひとはヨセフの子ではないかと言った。
耳にする人々とは誰か。貧しく喜びのない日々を送る者、罪と心の痛みに縛られ捕らわれている者、行く先の見えない不安な生活を送っている身体しょうがい者、そして様々な重圧におしつぶされている者がそれら一切から解放されるという宣言である。会堂に集まったユダヤ教徒はイエスの口から出る恵み深い言葉に驚いたが、他人事として受け取った(22節)。「医者よ、自分を治せ」の諺を引きイエスは彼らの態度に対して、エリヤの時代の大飢饉に際して独りの寡婦にだけ餓えを癒やし(列王記上17章1~24節)、エリシャは多くの病人の中からナアマンだけが独り癒やした(列王記5章1~15節)ことに触れた。
この譬を聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、彼らは総立ちになってイエスを歓迎しないばかりか、シドン人や、アラム人と比較してその不信を責められたため、町の外に追い出し、町がたって山の崖から突き落とそうとした(29節)。しかしイエスは人々の間を通り抜けて立ち去った。
31~37節 イエスが神から遣わされたメシアである理解はどうして得ることになるのか。ガリラヤの町カファルナウムに行き、安息日には人々に教えておられた。汚れた霊につかれた男が大声を出して「ナザレのイエス、構わないでくれ、我々を滅ぼしに来たのは分かっている、神の聖者だ」と叫ぶ。イエスは「黙れ、出て行け」と命じ正気に戻った。
38~41節 会堂から立ち去りシモンの家に行き、シモンの姑の熱病に苦しんでいたところで、枕元で熱を叱りつけて癒やされる。さらに日暮れになると安息日がおわり、病人を抱えた人々が集まり、その一人一人に手を置いて癒やされた(マルコ1章21~28節)。
42~44節 翌朝にはイエスは寂しい所に出て行かれたが、群衆は探し回り、イエスを見つけて集まり、一人一人に手を置いて癒やされ悪霊を追い出されが、人々の引き留めることを退け、「ほかの町にも福音を、告げ知らせねばならない」と語り、諸会堂に行って宣教した。
この見える「しるし」によって、ユダヤの人々はイエスが権威と力を持つメシアであることを初めて認めることになるが、しかしこれはイエスの本心ではない(11章29~30節see)。