昨日の話の続きがあります。
篆刻を学ぶために集めた書籍を読むと、摸刻が大事、古典を学べとあります。
そこで、先人の先生たちが、篆刻について微に入り細に入り、多くを教えてくれるのです。
まず、とにかく普通には使わない専門用語が多いのです。まず「方寸の美」。
原義は一寸四方という意味で、狭い四角のことを指します。仏教用語では心臓や胸中のことを表すそうですが、まず使いませんね。それから、ああしろこうしろというしきたりや手順も複雑で面倒なんです。曰く「摸刻は、細部まで寸分たがわず再現しろ」と書かれております。それは無理。原寸がわからず、印材の種類も異なります。
その極意には字法、章法、刀法とあって、作業は選分、校字、仮印稿、布字、転写、印刻、補刀、撃辺、と進みます。さらに鈐印(けんいん)、修正、側款で完成。なんのこっちゃ?
半年、独学でやっていると、意味することは分かります。いちいち説明がなくとも、自然とその工程を辿っております。(やり方はアバウトで雑ですが)練習生や学生を集めて教えるために、それぞれを細かに名前を付けて説明するんでしょうね。
専門の印刀(篆刻刀)を用い、作品作りには微妙な彫り感を出すために、印材を固定するための道具「印床」を使わず、左手を持ち手に、右手で彫る、というのです。
ですが、年寄りで、残された時間が短く、手指には力が入らずしびれこわばりがあるのです。目は老眼で、しょぼしょぼし、ものがぼやけているので手元も怪しいのです。鋭利な刃物を使うのはとても危険なのです。ましてや、血液サラサラの薬を飲んでいると、深く傷つければ出血が止まりません。
理論や理想は分かりますが、では現実的な作業をその通りにしなければ篆刻を習得し、いい印が作れないのか、という問題であります。これは誰も教えてくれないのです。摸刻だって、上記の手順通りに寸分たがわず彫るとしたら、一本彫るのに何日もかかります。手元が狂って指を怪我すれば数日中断、彫るべき場所以外に刀が滑れば、一から平らに磨いて彫り直すのでしょうか?
削った粉は、彫った都度「小指」で払って除く、とありました。印刀(ワタシの場合は手芸に使う目打ち)は2.3ミリ彫っては軌道修正しながら彫り進めるので、常に粉を払って下書き通りに削れているか、どちらに向ければいいのかを判断するのです。やってるうちに自然と身に付きました。だが、小指は使いません(笑)
そうそうのんびりしていられない歳回りのワタシとしては、工程は出来るだけ端折って簡便に済ませます。印の大きさは考えず、真似する印を忠実に再現することも無意味だとしております。技術を学び、どんな意図やコンセプトで作られているかを想像しながら彫ればよし。指導書通りに鋭い印刀を手に持った印材を彫っていたなら、とっくにワタシは出血多量になっているでしょう。
現実には、なんどか「補刀」(元の印影と比べながら微修正を加える作業)して、試しに押印しているいるうち、「おっ、いいじゃないか」という瞬間が来ます。摸刻している印と細部が違っていても、彫残しや撃辺(印の縁をわざと壊したり削ること)が不十分でも構わないのです。その雰囲気が出ていれば、もう完成、それ以上修正を加え丁寧に仕上げても、使い道は無くいずれ印面を削ってまた練習に使うか、人様に彫る印材として再利用するだけですから。
大事なことは、篆刻に限らず、世の中に無数無制限に出回っている情報は、うのみにしないで、自分で咀嚼し、頭の中と経験で取捨選択する。自分の状態に合ったこと、納得できることを信じ、実践することなのではなかろうかと思います。
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