いつもの朝の散歩道。桜並木のところを通りかかったとき、肩に軽く何かが当たりました。
振り返ると、桜の枯葉がはらりと肩に落ちたのでした。
その時、「もうそろそろだよ」と季節が肩を叩いたように感じられました。暑さが延々と続く中で、いつの間にか確実に時は流れ、秋の色が濃くなってまいりました。
ワタシたちの仲間内では、時が経つのがなんと早いのでしょう、という言葉が口癖です。60歳から70歳くらいの世代は、間もなくやってくるであろう「お迎え」を意識し始める年代であります。
亡き父が、少年であったワタシに向かって「時間で言えば、まだお前は午前9時くらいだね。俺は、そろそろ夕方が近くなっている。」と言っていたのを思い出します。その頃の父は50歳前後でしたか。40年前では、まだ、平均寿命は70歳程度であったのでしょう。その父は、「夜」になるのを待たずに逝ってしまいましたが。
時間を短く感じるのは、個々人が持つ時間の尺度のせいです。例えば、7歳の子供は、その物差し(経験)が7年しかありません。70歳の高齢者はその十倍の物差しになります。すると、1年の目盛は、老人にとって子供の十分の一にしかなりませんね。
もう一つの理由は、日々の時間の密度でありましょう。感受性の塊である子供たちは、見知らぬ事象を次々に経験し、記憶に留めます。しかし、齢をとると、日々起きることは、何度も経験したありふれた出来事にしか感じません。すると一日に起きた事柄のほとんどが記憶に残らず、いつの間にか夜になっていると思うのです。記憶がスカスカになってるのですよ。
「時」は、万物にとって唯一平等なものです。
生まれ落ちたときから、人間は不平等であります。遺伝子レベルから親の資力、家系・容姿にいたるまで、同じ人はいません。
しかしながら、時間だけは誰にも平等に与えられるので、その時々をいかに過ごすかで人生の色や形が変わっていくのですね。
どんな権力者でも、時は確実に死をもたらします。太古の昔から為政者は、不老不死の薬を求めましたが、時に抗うことは出来ません。それなのに、使い切れないほどの巨額な財産を築くのに夢中な人がなんと多いことでしょう。
気が付けば、外は秋の雨。
父が言った命の時間で言えば、ワタシは、日がとっぷり暮れて秋の夜長に差し掛かっております。
もうそろそろ冬も訪れます。
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