美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

「私」という意識のはじまりの物語  (美津島明)

2015年08月03日 00時36分30秒 | 文学
「私」という意識のはじまりの物語  (美津島明)



自分を他と明瞭に区別された「私」と認識しはじめたのはいつのことなのだろうか。そのきっかけはなんだったのだろうか。過ぎ去った時の静まりかえった薄暗がりをできるだけ川上までさかのぼってみよう。

そこにだけやわらかい光が当たっているかのようなひとつの鮮やかな情景が浮かんでくる。

三歳のころと思われる。当時のわが家は、長崎県佐世保市の、国鉄の踏み切りの近くの家の一角を間借りして住んでいた。生垣と汲み上げ式の手押しポンプの付いた深い井戸のある家だったと記憶している。そのころのことである。

午後のことだったと思う。私はそのとき家の中で母の帰りを待ちながらひとりでぽつんと遊んでいた。そうこうするうち、子ども心に結構長い時間が過ぎたような気がしはじめてきた。そういう気分に伴ってこころもとなさがどこからともなくしのびよってくる。

やがて、陽が傾き、すりガラスの窓の外が薄暗くなってきたように感じられた。すると、しのびよってきていたこころもとなさが急にふくらんで、渦巻くような不安に変貌しはじめた。母がいつ帰ってくるのか皆目見当がつかなくなって、自分を取り巻く世界がまったく未知のもののように感じられるのだった。箪笥の上に飾ってあったこけしまでもがこちらを冷たく見つめているような気がする。私は、母のいない世界にひとりぼっちでおいてけぼりにされたような気がしてきたのだ。

それでついふらふらと外へ迷いでることになった。すると、見慣れていたはずの踏み切りが、いつもよりうず高く感じられ、そこを渡って向こう側に行ってしまったらもう二度とこちら側、つまり母のいる世界に戻って来られなくなってしまうような感覚に襲われた。いいかえれば、こちら側が踏切の向こう側の世界から理不尽にも追い込まれてしまったように感じたのだ。

私は怖くなって一目散に家に逃げ帰り、部屋の隅で子犬のように震えていた。そんなふうにして自分なりに耐え忍び、しびれを切らしかかったところで、やっと母が帰ってきたのだった。私は母の姿を目にするとほどなく、こらえていたものがどっと噴き出してきて、涙があとからあとからどんどんあふれてきた。そうして、いかに自分が長い時間にわたって不当にも孤独に耐えることを余儀なくされたか、どうにもうまく言葉にできないまま、母にむしゃぶりつくように抗議しながら訴えるのだった。母は事態を直感的に察知したらしく、めずらしくしきりに「ゴメンね」を繰り返した。

そこから少しだけ時の流れを下ってみる。すると、ふたつめの情景が、群青色のトーンに染め上げられて浮かび上がってくる。

小学校一年生のときのことである。そのころ私は、玄界灘に浮かぶ対馬(つしま)の竹敷村という寒村に住んでいた。当時はいまと違って電力事情が悪く、しょっちゅう停電があった。その日は、夕方から停電になったと記憶している。いつものように、母が火をつけたろうそくを持ってきた。急に激しい雨が降りはじめ、雷が怒り狂ったように鳴り出した。母といっしょにしんみりとろうそくのゆれる炎をみつめているうちに、それまで一度も考えてみたことのない思いが湧いてきた。それを胸のうちにしまっておくことがどうにもできなくて、私はたどたどしい言葉で、それを母に伝えようとするのだった。

ゆらめくろうそくの炎の向こう側にいる母の姿は、いつの日かこの世から確実に消える。まだ仕事から帰ってこない父の姿も同じ運命にあり、隣の村に住んでいる「勝(まさる)じいさん」(母方の祖父)も同様である。つまり、自分は自分を思ってくれる人々を見送った後たったひとりでこの世に取り残される運命にある。それは到底受け入れがたいことであるが、どうやら逃れがたい絶対の真実でもあるようだ。そのどうしようもなさを、私はどうすればいいのだろうか。

そういう内容のことを子どもなりにぽつりぽつりと物語るうちになんだか無性に悲しくなってきた。そうして、次から次に涙があふれてきてどめどがなくなった。それを見るに見かねて、母がなんとか事態を収拾しようとするのではあるが、私はそれを振り払うかのように自分が感じたものに固執する物言いをするのだった。思えば、その前の年に、私をかわいがってくれた「お伝ばあちゃん」(母方の祖母)が亡くなっていて、子どもながらにそれをえらく切ながったことが、そのときの振る舞いに影を落としていたような気がする。

「私」意識のはじまりはいつのことだったのかと自問してみると、そういうふたつの情景がおのずと浮びあがってくる。それをふまえたうえで、「私」という意識にまつわって、次のようなことがどうやら言えそうである。

いずれの情景にも、「母の喪失」という事態がおおきく関わっているのである。

母の存在によって、世界は秩序を与えられ生きたコスモスを形成している。そこには、はっきりとした生の意味が満ち溢れているのである。ところが、「母の喪失」という抜き差しならない事態の観念が生じると、世界から生きた秩序が見る間に消滅し、それは一転してうそ寒くてよそよそしいものになり、むき出しのカオスが渦を巻いて生意識の根底をおびやかしはじめるのである。

そういう、世界の変貌が抜き差しならないものとしてわが身に迫ってきたとき、やむをえず、「私」という、世界に対する反射的な構えが生じることになったのではないだろうか。いいかえれば、「私」という意識の構え方は、母のあたたかいまなざしの届かないうすら寒いところで、孤独にふるえ、涙をにじませながら芽吹くことになったのではないかと思われる。

死の影の、唐突で圧倒的な押し寄せにかろうじて対峙しようとする身体性のただ中において、「私」は誕生したのではあるまいか。少なくとも、わが身を虚心にふりかえるならば、そういう基調において「私」があるというよりほかはあるまい。またそこに、死はいつも不条理な姿で到来するよりほかはない、という死をめぐる普遍性な契機がいささかながらでも織り込まれていることを認めていただけるとするならば、わが身に引き寄せた「私」意識の誕生の物語は、ほかのひとびとにとっても、いかほどかの意味がある、といいうるのかもしれない。

「私」は、生の秩序感覚をおびやかす死のイメージの押し寄せのただなかから、それに対する抵抗・違和の表出のプロセスにおいて生まれたのではあるが、生まれた姿のままで不可避的に死に向かい、やがてあらがう余地もなくそれに呑みこまれる。それと結局は同じことであるが、私は、「私」意識の誕生の瞬間に向かってゆるやかに成熟していく。あるいは、衰退してゆく。そういうふうに考えてみると、生の営みとはなんといじらしいことであるか、という感慨を私は禁じえない。私は実は、一生水槽のなかを泳いでいる金魚となんら変わるところがないのではなかろうか、とも思えてくる。

思えば、先に述べたふたつ目の情景から今日まで、四十年あまりの歳月が流れたことになる。そのときに第二の産声をあげた「私」に、四十年という歳月は何を新たに付け加えたのであろうか。あるいは、付け加えられたものなどなにもなかったのだろうか。その自問には、絶句という名の沈黙をもって答えとするよりほかにすべがないようにも思う。しかし、あえてその沈黙を言葉にするのならば、私は、次の詩句よりほかに思い浮かべうるものがない。

「ああおまえは何をして来たのだと・・・・
吹き来る風が私に云ふ」

             (中原中也『帰郷』より)


(初出『SSK REPORT』2006年12月号 今回改稿)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

喫茶店、いまむかし (美津島明)

2015年02月11日 13時39分33秒 | 文学

「珈琲専門店 TOM」のカウンター席
http://blog.livedoor.jp/tabearuki_tokyo/archives/4434325.html(三十路サラリーマンが食ったり飲んだりするブログ)より引用させていただきました。

喫茶店、いまむかし

先日、若い人と飲んだ。彼とは、久しぶりといえば久しぶりだった。彼は二十五歳である。私の年齢のちょうど半分だ。そういう歳の差を気にしないで楽しくお酒が飲める、私にとって貴重な存在である。飲み友達の定義が「いっしょに飲むと酒がおいしくなる人」であるならば、彼は間違いなく飲み友達だ。

いつものように文学ばなしを肴に酒を(われわれは日本酒党だ)酌み交していたところ、彼がいうには、最近村上春樹の『羊をめぐる冒険』を読んでいるとのこと。以前、『ノルウェイの森』と『ダークサイド』を読んでちっとも面白くなかったので村上春樹には興味がないという彼に、では初期のものを読んでみてはどうか、特に『羊をめぐる冒険』はいいよ、と私が勧めたのを覚えていて読んでみたというのである。だまされたつもりで読みはじめてみると、これがなかなか面白くて、村上春樹の良さが初めてわかったという。「ところで」と彼がいう。「喫茶店に入って本を読んで、などというシーンには違和感を抱いてしまう。そういう行動パターンが自分らにはないので、どうもピンとこない。」彼の率直な言葉に、私は、いささか不意打ちをくらったような思いを抱きかけた。でも、思い返してみると、それは時代の流れからすれば自然な成り行きなのだった。

 大学生のころ、私は近代文学会(略して近文会)という文芸サークルに入っていた。年に四・五回メンバーが創作した詩と小説の、それぞれの謄写版の機関紙を発行していた。そして、発行するたびに合評会を開いた。夏合宿もやった。思えば、けっこう真面目に活動していたのだった。
近文会には部室がなかった。では、毎日どうやって集まったのか。大学のラウンジの片隅に設置された木製の粗末な棚を板で細かく平べったい直方体の形に区切ったスペースのそれぞれに、各サークルの連絡ノートが置かれていた。近文会のノートもそのなかの一角にあった。それをめくって、今、他のメンバーがどこにいるのか確認した。たいてい、大学の西門を出て数分のところにある『檸檬屋』という喫茶店にいた。そこが、わが近文会のメンバーたちの事実上の「部室」だった。

私の場合、たいてい後ろの一コマか二コマか授業を残して(さぼって)、『檸檬屋』に向かった。

木材でたてながの格子状に細工され、長方形の小さなガラスがそれらのグリッドにはめ込まれたドアを引く。すると、ウナギの寝床のような薄暗い空間の右側に木製の四人がけテーブルが四つ続いているのが見える。左側はカウンターで、椅子が四、五脚あった。カウンターのなかには、サイトウさんという二〇代後半の色白で華奢なカーリーヘアの美人ウェイトレスがいつもいて、われわれが店のドアを開けて顔をのぞかせるたびに、にこっとほほ笑みながら「いらっしゃい」と声をかけてくれるのだった。店のいちばん奥に、壁掛けライトでぼんやりと照らし出された、詰めれば八人ぐらい座れる長方形のテーブルがあった。そこが、近文会の事実上の「指定席」だった。というより、そこをわれわれが傍若無人に「占拠」することを店が寛大にも許してくれ続けたというべきだ。

そこで、私はサークルのメンバーとともに、はたから見ればガキのたわごととしか思われないような「言葉の宴」をほぼ四年間飽きもせずに繰り広げた。話しの相手の言葉の背後に見え隠れするあれこれの書物をこちらが読んでいなくて、たわいなく言い負かされてしまったときの悔しさを噛み締めて、家に帰ってその書物を読む。大学の授業で習ったことは今ではすっかり忘れてしまったけれど、そうやって読んだ書物の中身は、今でも覚えている。
そんな学生時代を過ごしたせいなのだろう。私は、家でよりも喫茶店でのほうが読書に集中できる。
そういう習慣が身についてしまったのだ。

 異変を感じ出したのは、1980年代末のバブル崩壊から数年たったころだろうか。

 落ち着いて本を読める喫茶店がひとつまたひとつとその姿を消しはじめたのだ。そして、それと入れ替わるようにして、百数十円で「おいしい」コーヒーが飲める格安の喫茶店が跋扈しはじめた。(『檸檬屋』は私が大学を卒業した二年後に店じまいした)私だって、そういう類の喫茶店をたびたび利用するし、そこで本を読むことだってある。でも、自分が慣れ親しんできた喫茶店の雰囲気と、跋扈しはじめたそれらの店のそれとはどこかが決定的に違うのだ。神経に障るなにかをどこかで我慢しながら、あるいは敏感なところに部分麻酔をかけながら、その場にいるような感じがつきまとう、といえばいいのだろうか。

 考えてみれば、ぽつんとひとりで本を読んでいるような「ぜいたく」を許容しない、客の回転効率的な発想を露骨に全面に押し出したような空間で、まともな若者が本を読もうとしないのは、当たり前である。そういうところであえて本を読もうとするのは、私の悲しい習い性なのだろう。

 若い友の話を聞いて、そういう記憶と想念が私の脳裏をかけめぐった。私は、ちょっと言葉をさがしあぐねながら、「そういう経験はないかもしれないけれど、そういう描写に接するとどこかしらなつかしい感じがするんじゃないの?ジュークボックスとか」と言ってみた。彼は、「それはそうですね」といってくれた。「だったら、それでね、村上の作品を味わううえでは問題ないんじゃないの」

 その二、三日後だっただろうか。午前中仕事で代々木に立ち寄った。先方との待ち合わせの時刻までには、まだ間があった。なんだかコーヒーが飲みたくなってきた。そういえば、まだ朝飯も食べていなかった。それで、手ごろな喫茶店を探すことにした。真っ先に、『ドトール』の黄色い看板が目に飛び込んできた。どうしようかと迷ったがほかを探すことにした。ここは学生街だろう。『ドトール』以外に喫茶店の一軒や二軒くらいあるだろう。そういえば、予備校生だった昔、何軒もあったような気がするのだが。と心のなかでぶつぶついいながら新宿駅南口方面に向かって歩きながら探してみるが、どうも昔と勝手が違う。やはりないのか、とあきらめかけたとき、『珈琲専門店 TOM』という白抜きの文字の浮かぶ茶色い木製の看板が左手に見えた。一度来たことがあるような気がすると思いながら、ドアを開けてみた。

店内は薄暗かった。カウンターの席に着いてしばらくすると身体の芯がほぐれていくような感じがした。店員は三名いたが、マスターらしき人をふくめて皆物静かである。店内には、外とは明らかに異なる空気が漂っていた。一時代前の空気、そう、そこには「昭和の空気」とでも形容するほかはないものが流れていた。丹精をこめてつくられたコーヒーとトーストを、私はゆっくりと味わった。よくこんな店が、バブル以降のハードな高速資本主義の荒波に呑みこまれないで生き残ったものだと思った。手元のレシートの裏側にあったお店のメッセージが印象的だったので、メモをしておいた。

毎度ありがとうございます。
携帯電話での通話はご遠願います。

コーヒーの何と美味しいことよ
千のキスより尚甘く
ムスカート酒より尚柔らかい
コーヒーはやめられない
私に何か下さるというのなら
どうかコーヒーを贈って下さいな

 1732 コーヒーカンタータ より
作詞 ビカンダー
 曲  J.S.バッハ


私は、レトロで都会的な気取りを好む。今度気心の知れた仲間と再訪したいものだと思っている。

(埼玉県私塾協同組合機関紙『SSK REPORT』掲載 掲載号未詳)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ベビー・フェイス (美津島明)

2014年12月25日 00時08分28秒 | 文学
ベビー・フェイス



新宿から小田急線の急行に乗って小一時間、C駅に着く。かつてその界隈に古久屋という中華料理屋があった。メニューはいたってシンプルで、しょう油ラーメン、チャーシューメン、タンメン、餃子、チャーハンほかはなし、といった塩梅で、エビチリソースなんてしゃれたものはなかった。それらが例外なく美味しくて量もたっぷり、ときたものだから、古久屋はいつも千客万来の大賑わいだった。私もまたそんな客のひとりとして、しばしばその店に出入りした。餃子とチャーハン、それが私のお気に入りだった。タンメンも捨てがたい味わい深さであった。
 えび茶色ののれんをくぐると、向かって右手に、調理場を囲む紅色のカウンター席が手前から細長い逆L字型に伸びていた。左手から奥にかけては、四人がけの白っぽいテーブル席が三つ四つあっただろうか。また、テーブル席に沿ってガラス窓が続いていたようにも記憶している。だから、昼間なら自然光だけでも十分に店内が明るく感じられるほどだった。三十人の客が収容できるくらいの広さだったのではなかろうか。
 調理場にはいつも(そう、私の記憶においては、いつも)ベビー・フェイスに満面の笑顔を浮かべた六十歳手前くらいのころんとした小太りのご主人が、右手に中華鍋を左手にお玉をかちっと握って、こちらが見とれるほどのリズミカルな早業で客の矢継ぎ早の注文に応じ続けていた。調理場にはいつもほかほかの湯煙が立ち昇っていたような印象が残っている。
 客のまばらな昼下がりにお店に入ったときのことである。出来上がったチャーハンと餃子を、それらを注文した私の目の前のカウンターに置きながら、ご主人が初めて話しかけてきたのである。
―学生さん?
 えびす様のような目を心持ち見開いて、ご主人は少しだけ語尾を上げながら私にそう尋ねた。世慣れぬぎこちなさを多分に抱え、常連としてのそつのない振る舞いをすることなどは考えてみただけで気が遠くなってしまう私は、せめてそっけない返事だけはするまいと心がけて、こっくりとうなずきながら答えたのだった。
―はい、そうです。
 ご主人は、さすがにどこの大学だとまでは重ねて尋ねようとせず、会話はそれで終わった。また、私たちが言葉を交わしたのは後にも先にもそのときが最初で最後だった。思えば、そのときまでに、私が注文してカウンターに置かれるチャーハンの量は以前よりもけっこう多くなっていたのだった。つまり、ご主人は私に対してなぜかしら好感のようなものを抱くようになった。そうして、客のまばらなときに、ふと声をかけてみた。そういうことだったのだろうと思う。そんな事情をうすうす察しながら、気の利いた文句のひとつもひねり出せなかった当時のにきび面の自分をいまさらながらにじれったく思う。

 妻と二人で江ノ島まで遠出したときの新宿方面への帰りの小田急電車のなかで、そうしたことが、疲れでいささかぼおっとした頭に古びた絵のように浮かんできた。つい昨日のことのようにも感じられるが、思い出すまでに実は三十年あまりの歳月が流れたことになる。《古久屋はいったいどうなっているのだろう》。私は、そういう疑問から逃れられなくなってしまった。いささかうろたえながら、横で船を漕いでいる妻を肘で小突いて起こし、手短に事情を話した。私たちはC駅で途中下車をした。

 夕暮れのC駅界隈は、すっかり様変わりしていた。路地のあちらこちらに漂っていた昭和のころのうら悲しさや貧乏臭さを拭い去って、それなりの小ぎれいな小都会に姿を変えていたのである。それは、いまの日本のどこにでもころがっている、ありふれた退屈なドラマである。私は悪い予感を抱いた。そうして、その予感は的中した。古久屋があるはずの場所には、今風の洒落た洋食料理屋があり、瀟洒な作りの窓から若い女性たちの華やいだ顔がいくつか見えたのである。
 「まさか」という思いと「やはり」という判断が整理のつかないまま水と油のように混在する。私はどうにもあきらめ切れずに、ぶつぶつとこぼす妻をなだめすかしながら、駅界隈をなおも主人を見失った飼い犬のようにうろついた。目がどうしても「古久屋」の看板を探してしまうのである。むろん、あるはずがないことは頭では分かっているのである、と思いかけたそのとき、「古久屋」の白地に赤文字の看板が目に飛び込んできたのだった。しかも、駅出口正面の、この辺りでは選りすぐりの一等地という立地条件なのであった。私は、《あのじいさんはいないはずなのだから、糠喜びをするには及ばないぞ》と自分に言い聞かせ、それでも足取りだけは(おそらく)軽ろやかに二階に上がっていった。
 店内はかなり広かった。五・六十人くらいを余裕で収容できそうだった。洗練されたデザインの室内に老舗を感じさせるものは何もなかった。ベビー・フェイスのご主人はもちろんいなかった。存命ならば九十歳くらいになっているから、楽隠居の身に落ち着いているはずである。エビチリソースなど、品数はいろいろと増えているのだが、私はかつてと同じようにチャーハンと餃子を注文した。食事どきであるのにもかかわらず、店内に客はまばらだった。しばらくして、茶髪のどこかしら不機嫌そうなウェイトレスが注文の品を運んできた。清潔な白いテーブルに置かれた注文の品を目にしただけで、私の期待はなぜか半分しぼんだ。次に、口にしてみて、それはシャボン玉のように消え果てた。かつて私にこの店に通い続けさせた美味さのかけらさえもそこには感じられなかった。チャーハンの、味の沁みこんだ温かいご飯ひと粒ひと粒の、それを含んだ口中に広がるほっこほっこした感じ。餃子の肉汁たっぷりの具を包んだ半透明な薄皮が舌を楽しませてくれるビロビロした感じ。それらの感触がまるで感じられなかったのだ。私の舌は、この新店舗にご主人の味が伝授されなかったことを告げていた。事実かどうかは定かでないけれど、私の脳裏におのずと「冷凍食品」の文字が浮かんだのは確かなことだ。妻が味の感想を言うように私に催促するのだけれど、私はあいまいに押し黙るよりほかはなかった。先代はどうしているのかと店に尋ねる気など、当然のことながら失せてしまった。悪い予感はやはり当たったのだ。

 ここからは私の妄想である。賢明な読者には、苦笑しながら見逃していただきたいと思う。
 八〇年代後半のバブル経済の最中に、この繁盛している店をめぐって、大きな金が動いたような気がするのである。古久屋という中華料理屋のなんたるかを本当のところはよく分からないおっちょこちょいな連中が、その中で浮かれ騒ぎ小踊りした。あるいは、金融機関から踊らされた。そんな、足が地につかないような状態で、彼らは入れ知恵されたチェーン店のノウハウを頼りに、駅の真正面に規模を拡大して移転した。
 そうやって調子づいているうちに、彼らはかけがえのないものを台無しにしてしまったのである。

 先代は無心の人だったのだ。その不思議な笑顔は、中華鍋を回し続けるうちに培われた心根からおのずと浮かんできたものであることを、いまさらながらに理解できるのである。料理に込められた先代の、あえて言葉にすればまごごろとでも称するよりほかにないものが古久屋に私たちを導いていたのだった。
 店員たちの、マニュアル臭のする「ありがとうございました」のかけ声を背に受けながら店を出た。晩秋の夜のとばりが降りてからの薄ら寒い外気が身に沁みた。私はジャンパーの襟を立てて、駅のやや急な階段をえいっと腹の底にかすかな怒気を込めながら昇り始めた。妻は、私の歩き方が早すぎると文句を言った。


(『ひつじ通信』掲載 掲載年月未詳)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

萩原葉子『父・萩原朔太郎』について

2014年08月19日 23時17分29秒 | 文学


萩原葉子は、詩人萩原朔太郎の長女である。そんな彼女が本書において描き出す朔太郎像は、一度読んだら忘れられないほどに鮮烈である。その意味で、本書は朔太郎に関心を抱くすべての人々にとって貴重な書物であると言えよう。

萩原朔太郎が日本近代詩人の最高峰であることは、贅言を要すまい。また、その詩群は、いまだに生々しいほどの生命を保っている。言葉がまったく死んでいないのだ。例えば個人的な経験を述べると、気心の知れた少人数でしんみりと酒を呑んでいるとき、不意に記憶の闇の底から、「夜の酒場の壁に穴がある」という『夜の酒場』の一節が生々しく浮かんできたりするのである。

高校時代の現代国語の授業ではじめて彼の名とその詩風を知ったという方がけっこういらっしゃるのではなかろうか。かくいう私もそのひとりである。高校二年生のときの授業で、彼の処女詩集『月に吠える』所収の「竹とその哀傷」に触れて衝撃を受けた。そうして、その詩世界に強い興味を抱き、彼の詩集を紐解くことになった。のみならず、その後も折に触れその詩世界を顧みてきた。どうやら、朔太郎のポエジーは、私の、世界に対する構え方に少なからず影を落としているようなのだ。いささか気障な言い草に響くのかもしれないが、私の身体の奥底にある、厭世観としか名づけようのない心性の種子は、半ば以上、朔太郎の詩を読み込むことで植えつけられたような気がする。坂口安吾が、「文学は毒である」と言ったのは本当のことだといまさらながらに思う。

本書において萩原葉子は、いろいろな意味で特異な存在である朔太郎の娘として生育した自らの宿命と真摯に向き合おうとしている。そうして、その姿勢の底には、父朔太郎への切ない愛情の泉が人知れずこんこんと湧き出しているのが感じられる。その愛情が哀しいのは、普通の意味での父の愛を、彼女がどうやら十分に感じた経験がないからである。彼女は、母の穏やかな愛さえも知らない。父の孤独と同じくらいに娘の孤独は深い。

小見出しを掲載順に挙げておこう。「晩年の父」、「幼いころの日々」、「父の再婚」、「再会」、「折にふれての思い出(一)」、「折りにふれての思い出(二)」。発行は、昭和三四年十一月十五日。私が生まれたのはその前年だから、いまから五四年前のこと。私が購入したのは、紙がすっかり日焼けしてしまったボロボロの初版本なのである。

印象深かったところをいくつか記しておこう。

まずは、「晩年の父」所収の「手品」から。朔太郎の、若い頃からの手品好きは有名である。その片鱗は、次の詩からもうかがわれる。

みよわが賽(さい)は空にあり、
賽は純銀、
はあと(原文、傍点あり)の「A」は指にはじかれ、
緑卓のうへ、
同志の瞳は愛にもゆ。

みよわが光は空にあり、
空は白金、
ふきあげのみづちりこぼれて、
わが賽は魚となり、
卓上の手はみどりをくむ。

             (「純銀の賽」より)

本書によれば朔太郎は、晩年の五十二、三歳の頃、阿部徳蔵氏主催の「アマチュア・マジシャン・クラブ」に入会した。そのことがとても嬉しかったようで、その会への出席の日は、祖母(朔太郎にとっては母)が出してくれる真っ白いハンカチをポケットに入れ、威厳を帯びた表情で出かけて行ったという。酔ったときのだらしない姿とは大違いとの由。その会で手に入れた手品の道具は、二階の書斎のいくつも引き出しのある小物入れに鍵をかけて入れてあった。朔太郎の死後、それらの引き出しの鍵が開けられることになった。手品の道具は、どれもこれも安っぽくて、まるで幼児の喜ぶ玩具のようなものばかりだった。

 私は父の亡きあと、まもなくひとりで二階にいって、それらの入った引き出しを見た時、唖然として立ちすくんでしまった。私は、そこに父の姿を目の当たり見たように思い、もう父はこの世のどこにもいないのだという激しい悲しみが改めて全身を襲ってきて、泣いた。
 なんてことだろうと思った。こんなものが、こんなに大切だった父の心を思うと、しばらくは悲しみのため、そこを動くことができなかった。


ここを目にして、なんの鎧(よろい)も着けないままの、詩人朔太郎の魂の生地を目の当たりにする思いがするのは、私だけではないだろう。

晩年の朔太郎は、同居する母の支配から逃れるようにして、連日のように飲みに出かけたそうだ。身なりに無頓着で、赤い鼻緒の下駄だろうとなんだろうと目に触れたものを履いて外出しようとするので、家の者たちは気が気でなかったという(若いころは、蝶ネクタイにトルコ帽を身につけるような伊達男だった)。その飲み方は度を越した深酒で、深夜心配して父を捜しに外へ出て、その姿をやっと見つけて言葉をかけようとする筆者の存在にさえ気がつかないほどであったらしい。ぼんやり灯っている街灯の下、筆者の方に近づいてくるのでも佇んでいるのでもなく、また歩いているようにも見えない不思議な影として朔太郎の姿は描かれている。ちなみにしらふのときでも、朔太郎の歩き方はとても奇妙で、ふわふわと身体が宙に浮くような早足で歩いたという。そのぎこちなさや非現実感は、まるであやつり人形のようであったらしい。

このくだりを目にしながら、私は、中沢新一『チベットのモーツァルト』のなかの「風の行者」を思い浮かべた。「風の行者」とは、神秘的な風(ルン)の力によって深い瞑想状態のまま石だらけの荒野をすっすっと駆け抜ける、チベット仏教の修行僧である。そのイメージが、不思議な歩き方をする朔太郎の姿とダブるのだ。少なくとも、歩いているときの朔太郎が、しばしば深い瞑想状態に陥ったことは間違いないような気がする。私見によれば、朔太郎の詩は本質的にリアリズムである。リアリズムであることにおいて、それがすっぽりと夢に浸潤されているのである。彼は、幻想的な詩を作ろうなどと意図して詩を作ったことなど、おそらく一度もないのではないかと私は思う。幻想的であることは、彼の宿命であり、本能なのである。その幻想の衣が襤褸(らんる)と成り果てたとき、彼は『氷島』という無残で痛切なスワン・ソングを歌うよりほかはなかった。そのことについては、のちに触れよう。

朔太郎が娘の葉子を喫茶店に誘ったエピソードも忘れがたい。朔太郎がちょっと笑いながら娘に「お前は喫茶店に行ったことがあるか」と尋ねたのである。むろん、葉子にはそんな経験はなかった。そして、新宿に繰り出してある喫茶店に入りすぐにそこを出た後、通りに面した「大衆酒場のような店」の前にさしかかったとき、朔太郎が振り返って「ちょっと寄ってもいいだろう?」と許しを請うように言った(朔太郎は、最初からそういう魂胆だったのだろう。母のお咎めを避けるために娘を誘い出したにちがいない)。扉を開けると女たちが朔太郎のところに近寄ってきて「しばらくね!先生」と声をかけた。

汚いテーブルにはお酒が運ばれ、和服を着た女の人達は、かわるがわる馴れたしなやかな手さばきで、父にぐいぐいお酒を注いだ。父はソフトをかぶったまま、お酒を受けて飲んだ。女の人達も飲んで、瞬くまに空になったお銚子は、テーブルの上に並んでしまった。(中略)父はそのとき顔を挙げると、急に思い出したように、たもとに手をつっこんで大きな口金付の皮のガマ口を出して勘定を払った。それからざらざらとテーブルの上に、残りのお金をみんな空けてしまうように落とした。五十銭銀貨や十銭銅貨が重なり合ってガマ口から落ちた。「みんなで分けてくれ」と父がいうと、まわりに集まった女の人達の「ありがとうございます」という声と一緒に、たちまち白い手がそこに集まり、お金は一瞬にして、テーブルの上から消えてしまった。

朔太郎の愛読者がここを目にするならば、『氷島』所収の「喫茶店 酔月」のなかの

我まさに年老いて家郷なく
妻子離散して孤独なり
いかんぞまた漂泊の悔(くい)を知らむ。
女達群がりて卓を囲み
我れの酔態を見て憫(あわれ)みしが
たちまち罵りて財布を奪い
残りなく銭を数えて盗み去れり


という一節をありありと思い浮かべるにちがいない。端的にいえば晩年の朔太郎は、『氷島』の世界を日々生きていたのである。朔太郎自身、その自序に「この詩集の正しい批判は、おそらく芸術品であるよりも、著者の実生活の記録であり、切実に書かれた心の日記であるのだろう」と書き記している。ここから、例の「氷島問題」が惹起することになった。つまり、日本語で書かれた口語自由詩における前人未到の領域を力強く切り開いた萩原朔太郎が、晩年に到って文語定型詩に「後退」したことを否定的に評価すべきかどうかの是非問題である。ここでその詳細に触れるつもりはないが、この問題は、『氷島』の、作品としての是非という芸術評価的な観点を超えて、日本における近代の本質に触れるものをはらんでいる、とだけは言っておきたい気がする。

と言っただけでは、「なにを思わせぶりな。『日本における近代の本質に触れるもの』とは何か、はっきり言ってみろ」とお叱りを受けても致し方がないとも思われるので、端的に申し上げておこう。「日本における近代の本質」とは、日本近代には中国問題をめぐってアメリカと衝突せざるをえないという文明論的な意味での不可避性が存したこと、である。日本近代は、その不可避性が次第に癌細胞のように肥大化する過程としてイメージすることが可能であると私は考える。言いかえれば、日本近代は二〇世紀の覇権国家としてのアメリカによって完膚無きまでに叩きのめされる宿命にあった。そういう悲痛極まりない帰結を、朔太郎は詩的本能としか名付けようのないものによって、自分自身の私生活の破綻に重ね合わせるようにして、『氷島』における無残なリリシズムとして鋭敏にも先取りしていたのではなかろうか、と私は考えるのである。言語表現の近代化の最前線に長らく独りでぽつんと位置していたからこそ、朔太郎は、いわば身体まるごとで、日本近代の宿命を感知することになってしまったのではないだろうか。ちなみに、『氷島』が刊行されたのは昭和九年、大東亜戦争が火ぶたを切る七年前である。本物の詩人の感性は、それくらいには鋭いのだ。

その「無残なリリシズム」は、『氷島』全編に鳴り響いているともいえるが、とりわけ、次の詩句にいちじるしい。

日は断崖の上に登り
憂いは陸橋の下を低く歩めり。
無限に遠き空の彼方
続ける鉄路の柵の背後(うしろ)に
一つの寂しき影は漂ふ。
(中略)
ああ汝 寂寥の人
悲しき落日の坂を登りて
意志なき断崖を漂泊(さまよ)ひ行けど
いづこに家郷はあらざるべし。
汝の家郷は有らざるべし!

           (「漂白者の歌」より)

作中の「漂白者」は、帰るべき家郷をすでに失い、あてもなく彷徨う。そうしてどこへ行くのか。この詩の寒々とした敗残の響きは、彼には破滅よりほかに待ち受けるものがないことを暗示する。私は、作中の「漂泊者」が晩年の朔太郎の自画像であることにおいて、日本近代の帰するところを象徴し、その暗い行く末を詩の響きとその巌のような肌ざわりそれ自体で表現していると感じる。それは、朔太郎が意識していたのかどうかとは、まったく関わりのないことである(誤解を恐れて付け加えるのだが、私はここで、詩人という存在はかけがえのないものである、と言いたいのである)。

最後に、朔太郎の死の場面に触れておこう。

朔太郎が亡くなる前の晩に筆者は悪夢とも幻覚ともつかないものを見る。血の気がなくすでに死んでいる朔太郎が二階の書斎に横たわっている。筆者は危うくその場に倒れてしまいそうなほどに不吉なものを感じて驚き、確かに生きているはずの父を捜しに階下へ逃げるように降りてくる。するとこんどは居間にも同じ姿となった朔太郎が横たわっているのである。筆者は、それをふり払うようにして、急いで自分の部屋に入るとまた同じ姿の朔太郎が横たわっているのだ。筆者は夢のなかで、″これはたしかに夢なのだ″と念じて、必死に目覚めようとあせる。むし暑い夜半、首筋にべっとりと汗がにじみ、夜中の二時を打つ柱時計の音をどこかにぼんやり聞き、また眠りに落ちていく。すると、二階にさっきとまったく同じ姿の朔太郎が今度は二体も横たわっている。筆者が、重い足をひきずりながら急いで階下に下りてくると、そこにも死んだ朔太郎が二体横たわっている。筆者は必死に目覚めようともがき、ふと目が覚めると、暗い部屋の壁にも同じ姿の朔太郎が映っているのである。そうして、そんな状態が明け方まで続く。錯乱状態と隣合わせの精神状態にかろうじて踏みとどまりながら、間近に迫った父の死を全身全霊で受けとめようとする筆者のなまなましい姿が読み手を圧倒する。いよいよ臨終の場面である。

その夜は祖母(朔太郎の母――引用者注)と私と妹の三人が附添っていたが、十二時を過ぎたころまではいくらか呼吸も楽に落ち着いたように思われたが、急に荒いいきづかいになってきて大きく胸を不規則に波立たせ、顔は透きとおるように白く、手足のむくみは激しくなっていた。Y医に急いで電話をかけようとした時だった。ふいに瞳孔の定まらないおそろしいほど大きな目を一瞬見開いてあたりを見たかと思うと、次の瞬間には深く目を閉じ、同時に深い呼吸を一つつき、ふいにそれっきり呼吸が止まったのである。その時私と妹は同時に「お父さま!」と大きな声を挙げて呼んだ。しかし父はもう何も答えてはくれなかった。
 昭和十七年五月十一日、かぞえ年で五十七歳だった。


ここで本書は終わっている。上の引用でうまく伝わるかどうか心もとないのではあるが、私はここを目にして、しばし絶句状態に陥り、肉親の最期をこのように書き切った筆者の作家魂に感服するとともに、本書を読み終えたバスの中で不意にこみあげてくるものがあり、それをこらえるのに一苦労したものだった。

インターネットで検索してみてはじめて知ったのだが、映像作家の萩原朔美氏は、著者のご子息であるとの由。骨がらみの表現者の業(ごう)は深い。
コメント (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

昼下がりの古風な喫茶店にて

2014年06月21日 02時41分39秒 | 文学


年季の入った木製カウンターの向こうで、品の良いロマンスグレーのマスターが静かに珈琲を淹れている。客は、ほかにぽつんと一人だけ。昔のアメリカ映画のストリングスミュージックがゆるやかに流れている。私は窓際の席にいる。視野と死角の境でゆらめくものがある。よく見ると猫じゃらしである。店内の、清涼飲料水や珈琲ゼリーを収納した、硝子張りの三段の冷蔵庫の側面に映っている。光の角度の加減で、道端に生えているのがそのように見えるのだ。本体は、私の席からはよく見えない。茎がか細いので、その穂だけが、まるで宙に浮いているようである。六月中旬のやわらかい風になぶられて、硝子の透明なスクリーン上で、穂のまわりを黄緑色にぼおっと光らせながら、あたかも重力から限りなく自由になったかのように、心ゆくまで戯れている。それをぼんやりと見ているうち、脳裏に、昔読んだ詩の断片が浮かんできた。

空には風がながれている、
おれは小石をひろつて口にあてながら、
どこといふあてもなしに、
ぼうぼうとした山の頂上をあるいてゐた。

おれはいまでも、お前のことを思つてゐるのだ。
(萩原朔太郎「山に登る」)

枯野のような私の心にも、どうやらまだ死に切らない夢が残っているようだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする