美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

長州藩士・長井雅楽(うた)の悲劇

2014年02月12日 03時07分23秒 | 文学


君がため 捨つる命は 惜しからで ただ思わるる 国のゆく末

二月八日の「夕刊フジ」に幕末の長州藩士・長井雅楽(うた)の記事が出ていました。歌人・田中彰義さんの紹介記事です。心に残ったので、その肖像を書きとどめておきましょう。

その人となりについて、記事から引きながら、おりにふれつけ加えます。

1819年に生まれた長州藩士・長井雅楽。4歳で父を失ってからは藩校の明倫館で学び、萩城下一の英才と言われた。藩主・毛利敬親(たかちか)からも信頼され、息子である定広(さだひろ)の後見人にもなっている。


付け加えれば、明倫館で学んでいるとき、雅楽は敬親の小姓となっています。これは、将来の出世を約束されたのも同然の待遇でした。また、定広はいわゆる若殿で、その後見人になったことは、敬親の雅楽に対する信頼の厚さを物語っています。

1858年には直目付(じきめつけ)に任命された。これは藩主直属の仕事で、藩政全般を監査し、藩主に上申をする役割だった。

世に出た雅楽は、順風満帆の滑り出しだったのです。ところで、世は幕末。世論は、開国か攘夷かで喧々囂々(けんけんごうごう)の状態でゆれていました。長州藩も、何かしらの形で、藩論を天下に示さねばなりませんでした。おそらく、藩主・敬親の求めがあったのでしょうが、雅楽は、1861年「航海遠略策」を藩に献上します。一言でいえば、それは公武合体・開国進取を主張する内容でした。具体的には、次のような内容です。

「朝廷は諸外国と結んだ条約を破棄して鎖国に戻せというけれど、今、条約を破棄すれば戦争になる。そのとき、長い平和に慣れた武士団は敗れ去るだろう。今はむしろ積極的に外国と貿易をし、国力を高めるべきときだ。それを朝廷が幕府に命じることで、君臣の関係も正されていく」


藩主はこの雅楽の建白を認め、これが長州藩の藩論となります。そこで藩主は、雅楽を伴って、朝廷・幕府双方をめぐりました。朝廷側の当時の重鎮・正親町(おおぎまち)三条実愛(さねなる)は雅楽の建白書を一読、大いに賛意を表し、それを孝明天皇に上奏しました。すると、天皇も大いに満足し、これを支持しました。のみならず天皇は、次の歌を藩主・慶親(敬親)に下賜しています。

国の風 ふき起こしても 天津火の 本の光に かへすをぞまつ


ちなみに、仲介役の三条実愛は、長井に対してじきじきに次の歌を与えています。

雲居にも 高く聞こえて すめみ国 長井の浦に うたふ田鶴(たず)の音(ね)
*「すめみ国」は、「すめらみ国」(皇御国)と同じで、天皇が治(し)らす国という意味。


これらの歌から、長井の策を目にした天皇や実愛が、それに深く心を動かされ喜んでいる様子を感じ取るのは、私ばかりではないでしょう。

次に江戸に上り、老中の安藤信正に建白書を見せたところ、彼もこの策に賛同したのでした。つまり、当時の朝廷と幕府の両方から、雅楽の策は賛同され受け入れられたのです。

長井の策が正論であり、後の明治維新政府の基本路線の先駆けとなるものであることは、後世の私たちからすれば、よく分かりますね。長井の論は、翌1862年の春頃まで確かに我が世の春を謳歌したのです。

けれども、時代は尊皇攘夷の方向へと傾いていた。藩内でもこうした機運が高まり、次第に尊皇攘夷派の攻撃の矛先は雅楽へと向かった。反幕派の公卿たちも動き、雅楽の建白書には朝廷を誹謗する文言があると指摘しはじめた。押し寄せてくる時代の激流の中で、朝廷は結局、雅楽の策を不採用とした。



ここには詳細を記しませんが、「雅楽の建白書には朝廷を誹謗する文言がある」というのは、むろん「言いがかり」の類です。しかしその「言いがかり」は、雅楽を追い詰めるための智謀としてのそれでした。論者によっては、その首謀者は長州藩の尊王攘夷派の急先鋒・久坂玄瑞としているようです。結局長井は、久坂ら尊王攘夷派との政治闘争に負けることになります。

1863年、雅楽は潘の責任をすべてとらされるかたちで、切腹を命じられる。藩の進路を見誤らせた、というものだった。藩を思い、国を思って生きてきた雅楽はさぞ無念だっただろう。藩の中には雅楽を支持する藩士も多くいた。

けれども、このままでは藩論が真っ二つに分かれ、内乱となってしまう。それを見越し、案じた雅楽は、あえて過酷な運命を受け容れ、自ら身を引く道を選択したのだった。濡れ衣であることは誰の目にも明らかだ。それでも雅楽は藩命に従った。

掲出歌はこの時、詠まれたものだ。最後まで国の行く末を案じ続けた思いが素直に伝わってくる。雅楽は、「今さらに何をか言はむ代々を経し君の恵みにむくふ身なれば」という歌も残している。


文久三年(一八六三年)の二月六日、萩城下土原(ひじはら)の自宅において、長井の切腹は実行されました。そのとき長井は、掲載歌とともに、次の漢詩も作りました。

君恩に報ぜんと欲して業、未だ央(なか)ば
自ら四十五年の狂を愧(は)づ
即今の成仏は吾が意に非ず
願くは天魔と作(な)りて国光を輔(たす)けん


気にかかるのは、「狂」と「天魔」です。四十五年の人生は、「狂」に貫かれていて、自分はそれを愧じるというのです。およそアポロ的な知性の持ち主というイメージが強い雅楽にふさわしくないような言葉です。おそらく雅楽は、余人からはうかがい知れないような激情を内に秘めていて、強力な知性でそれをどうにかこうにか押さえ込んできたのではないでしょうか。そういう「狂」を自覚するがゆえに「成仏など自分には似合わない。仏教の修行を妨げる天魔になってこの世にとどまり国の行く末を見守りたい」という言葉が自ずと浮かんできたのではないかと思われます。自らの血で書かれた鬼気迫る詩とは、こういうものを指していうのではないでしょうか。

雅楽の激情の所在は、彼の切腹の様子をつぶさに描写したものを読むと如実に知ることができます。雅楽の切腹の一部始終を見届けて藩主に報告する正使は国司信濃(くにししなの)、副使は目付上席糸賀外衛(とのえ)でした。また、介錯は親戚の福原又四郎という二一歳の青年で、前日に雅楽が選びました。又四郎は古田松陰の門をくぐったことのある青年で、松陰から、「外見はやさしく見えるけれども、才知があってこれを補っている。そして一度正しいと思ったことは絶対にゆずらない」と評されました。以下は、井沢元彦氏の文章から引きました。http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki/nagai.htm許しを得て、雅楽が世阿弥の謡曲『弓八幡』(ゆみやわた)を歌い終えたその直後の場面です。

その謡曲の一くぎりがすむと、長井は静かに肩衣を脱ぎ、(切腹刀を載せた――引用者補)三方を引きよせ、白紙を指先に巻いで首と腹をぬぐったという。そして、残りの白紙で短刀をつつむようにして持ち、刃先一寸を余して右手にかまえ、左の手で三方を背後にまわした。こうした儀式の進行と型は、長州藩において後の模範になったようである。

それから、長井は帯を下げて腹部をくつろげ、ゆっくりとそれを撫でおろすようにして左の脇腹をさぐり、その手を右手の拳の上に置くと、一気にそこに突き立てた。そして右の方に向ってきりりと一直線に刃を走らせたのである。そこで、切先をかえして上方に抜き、そのまま頚動脈に持ってゆくのだ。

ところが、長井は、あまりにも深く刃を突き立て過ぎたようだ。気性の激しい人物には、往々にしてこのことがあるようである。そのために、思いもかけないほど多量の血液がながれ出てきた。長井は、その腹部を左手でかばったまま、右手だけで咽喉をはねようとしたのだ。

しかし、腹部の重傷が彼の右手を狂わせた。刃は急所をはずれたようである。介錯なしに自決したいという一念は、それほどの痛手にも屈せず左手を腹部から右の拳に戻すと、いま一度と血糊のふき出している咽喉首に突き立てた。そして、その刃をはねるようにして抜くと、その短刀を畳の上に突き、ゆらりとゆるいで前方に伏せた。型の通りにいったのである。

ところが、このときも急所を外れていたようだ。長井は、ぐっと首をあげ、最後の力をふりしぼるようにして身体を起した。正坐にかえったのである。そしてじっと局囲を見廻したという。

また目が正使から副使の糸賀に向けられたとき、糸賀は背筋を走るような悪寒におそわれて、頭をあげることができなかったという話も残っている。

又四郎は、ここで介錯の役目を果すときがきたと思った。彼はすぐにその側に進みよった。そして左の小脇に長井の身体を抱き、右手にその短刀を持たせて、これを助けながら一気に咽喉をはねさせようとしたのである。

しかし、長井は左の手を振った。一人で死ねる、まだよいという意志表示なのだ。又四郎は手を放した。長井の意志とは反対に、もう身体が動かないのである。手が徒らに宙に舞っている。又四郎は、長井から渡された刀を抜こうとした。

しかし、あくまでも自分の手で死のうと最後の力をふりしぼっている叔父の心を思うと、ここで首を打ち落すことがためらわれた。彼はもう一度、叔父の身体にかぶさるようにして坐り、そしてその短刀を咽喉首に向けてあてがってやった。

そのとき、長井はまだそれだけの力が残っていたかと思われるほどの勢で、自分の気管を絶ち切ったのである。彼の呼吸はそこで絶えた。しかし、身体はまだ坐ったままであったという。又四郎が、その身体を静かに横にして、両手を合掌させた。切腹の作法が型の通りに終ったのである。


これを読んで、私は、その生々しい描写に圧倒されるとともに、「もののふ」の最期とはこういうものではないかという感慨を抱きました。「もののふ」としてじつにあっぱれな最期であり、ここまで剛毅な姿をとどめた切腹はきっとまれなものなのではないかと感じたのです。最後の力をふりしぼり、介錯の助けを拒み、自分だけで切腹を完遂させようとしたところに、「この死は、敵の勢力の奸計に陥れられたことによるのではなくて、あくまでも自分が選びとったものなのだ」という一念を命を賭けた振る舞いによって貫き通そうとする雅楽の強靭な意志を感じるのは、おそらく私だけではないでしょう。

このように、武士としていろいろな意味で傑出していて、また尽きせぬ人間的な魅力にあふれてもいる長井雅楽は、激動の幕末史のなかのまごうことなき敗者です。そうして敗者は、勝者によって歴史の表舞台から片隅に追いやられ、やがて闇から闇に葬り去られるのが常です。雅楽もまたそういう憂き目に遭い続けてきた人物のひとりであることは間違いないでしょう。私はそのことを惜しむ者のひとりです。と言っているうちに思いついたのですが、雅楽は、又四郎に介錯の役柄を期待したのではなくて、自分の死に様の一部始終を後世に伝えることを期待したのではないでしょうか。とするならば、雅楽は、いま私が述べた歴史の冷徹な「鉄則」を知悉していたことになります。その意味で、最期の雅楽は、歴史の神に渾身の力で抗おうとしたのではないかと、私は考えます。
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金子兜太という俳人 ―――荒凡夫(あらぼんぷ)と「生きもの感覚」

2014年01月05日 13時30分03秒 | 文学
金子兜太という俳人 ―――荒凡夫(あらぼんぷ)と「生きもの感覚」

昨年末、新宿のジャズバー・サムライに行ったときのこと。たまたま店主の宮崎二健さんと俳人のY・M女史と私の三人で俳句談義になりました。といっても、こちらは俳句に関してはずぶの素人同然。それに対して、お二人は俳句道に深く入り込んでいらっしゃる方々。で、私としては、俳句に関して自分がかねがね気になっていたことが、専門家から見て変ではないか、的外れではないかを確認するという形になりました。

私は、だいぶ酒量がかさんでいたので、勢いに任せて、おおむね次のようなことを言い放ちました。「芭蕉、蕪村よりも一茶の方が芸術表現としてレベルが低いという一般的なイメージは間違っているんじゃないか。もともと俳句は、和歌に反発して、それが使おうとしなかった漢語や卑俗な言葉をあえて大胆にその表現に取り入れることによって、言語芸術の一ジャンルとして出発したはず。その、雅に対してあえて俗を対置しようとする『俳の精神』を一茶なりに突き詰めたところに、あの一見平明な、ほとんど散文のような俳句があったのではないか。その意味では、一茶の俳業は、もっともっと評価されてしかるべきなのではないか…」。

私の素人くさい話を真摯に聴いてくれていた二人は、異口同音に「金子兜太(かねこ・とうた)」の名を挙げました。お前の言っているようなことをもっとちゃんと筋道立ててきちんと言っているから、彼をちょっと読んでみろ、というわけです。

それでインターネットでいろいろと調べてみたところ、次のような、彼の動画がありました。


総会記念講演 金子兜太さん(俳人) 2010.5.28


この動画は、2010年日本記者クラブ・第76回総会記念講演の模様を記録したものです。そのシャキシャキとした話しっぷりは、とても九〇歳の老人のそれとは思えないもので、それ自体驚異的と申し上げても過言ではありません。しかも、物腰に格式張ったところがまったくなくて、自由闊達で、しかも内容が面白いときています。

氏のスピーチでとくに感心した点をいくつか挙げておきましょう。

一つ目は、一茶の有名な句「やれ打つな蠅が手をすり足をする」についての氏の解釈です。この句は、通常、一茶の小動物に対する優しい心を強調して、「ハエを叩き殺したりしてはいけないよ。ほら、手をすり足をすって命乞いをしているじゃないか」という解釈がなされます。ところが氏の解釈は、それとはまったく異なります。

蠅というやつは、どっちが手で、どっちが足ということもないんでしょうけれども、四本足があるわけですね。この足の先端で全部のものを識別するんだそうでございます。ですから、ブーンと飛んでいって、私の頭にとまると、あ、これはハゲだとわかる。それから、ブーンと行って、あ、これは刺身だ、こういうふうにわかる。ブーンと行って、あ、これはクソだとわかる。そういうふうに四本の足の先端部でいつも識別している。

そのために、彼は暇があれば、ここを磨くのだそうでございます。ですから、一茶はそういう害を加えない男だというふうに蠅にもわかっていたらしいんでございまして、一茶の前でブーンと―――あのころはあたくさんおりますから―――きて止まった。一茶がそれをボーと眺めていると、蠅は安心してここを磨いている。つまり、先端の感度をよくしているわけでございますね。磨いてやってる。それをみて、ああ、やっているな、やっているなと、一句つくっているわけです。


ここで金子氏は、とても重要なことを言っています。氏によれば、人間の心の中には、自分たちがもともと棲んでいた森の中というふるさと、すなわち原郷があって、それを指向する本能の動きがある。それを氏は「生きもの感覚」と形容します。その「生きもの感覚」が、一茶の場合、生きものをそのままにみる視線になります。いいかえれば、一茶にとって、人間としての自分の命とそのほかの生きものの命とはどこかで等価なものであるという感覚がごく自然にある。そのことが、一茶に優れた生物学者の観察眼をおのずから授けることになった、というわけなのでしょう。

私は、自然科学の知見に著しく反するような芸術表現を高く評価しかねるところがあります。もう少し強く言えば、感情過多・感性オンリーの芸術表現を一流とは認めないのです。たとえば、ダリの諸作品を一級品として認めることを、私は躊躇します。あれは、一種のキッチュ感覚の産物にほかならないのではないでしょうか。同じことになりますが、(やや言い過ぎかもしれませんけれど)自然科学の知見をおのずから(無意識のうちに)踏まえていることは、ある芸術作品が一流のものであることの必要条件である、と考えるのですね。その点、金子氏の「蠅」の句についての解釈は、当句が一級品であることをおのずから指し示しています。別言すれば、当句についての先に述べた俗流の解釈は、当句を二級品扱いしてその価値を貶めるものである、とも申せましょう。

感心した点のふたつ目。それは、「娑婆(しゃば)遊び」と「荒凡夫」(あらぼんぷ)という言葉の魅力にまつわることです。一茶は、五〇歳のとき故郷に帰り二七歳のきくという女性と結婚します。そうして彼女との間に四人の子どもをもうけるのですが、四人とも死んでしまいます。そのなかの二番目のさとが疱瘡で死んだことに、一茶は大きなショックを受けて中風(脳出血のようなもの)になってしまい、半身不随となり言語障害を起こします。それで、温泉の主人をしていたお弟子さんが、彼を温泉に連れて行って、いまでいうところの温泉療法をするのです。そのおかげで、それらの症状が一年ほどして治ります。五九歳のときのことです。

その五九になったときに、正月のはじめに書いた句があります。「ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び」という句を書いています。これは『ホトトギス」の俳人にいわせると、季語がないといって怒るでしょうけれども、そんなことは一茶にとっては問題じゃない。季語なんていうものも、生活に役立たない季語はいらないと、彼ははっきり書いています。平気で「ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び」と。娑婆遊びというのは、この世の中を遊んで暮らしたい、丸儲けだから、そういうことでございますね。

この句を虚心に読んでいると、治らないと思っていた憂うつな症状が嘘のようになくなって、心から素直に喜んでいる一茶の姿が、くっきりと誰の目にも浮びあがってきます。そこにたくまざるユーモアさえも感じられるのは、彼の「生きもの感覚」のなせる技なのでしょう。「娑婆遊び」、この言葉の心底朗らかな表情を、私はとても好ましいものと感じます。

翌年の正月、一茶は六〇歳になりました。心中なにかしら期するところがあったのでしょうか、メモ魔の一茶は、阿弥陀如来に対して「自分は荒凡夫として生きたい、ぜひ生かしてくれ」と祈願し、そういう意味のことを書きつけているそうです。

その荒凡夫とのはどんなことなんだろうと思いましたら、彼はこんなふうなことを言っている。自分は長年、ずうっといままで六〇年の間、煩悩具足、五欲兼備で生きてきた。つまり、欲の塊で生きてきた。こういう生き方をする人間のことを、彼は愚だという。自分は愚の上に愚を重ねてきた。「愚」という言葉を使っています。愚の上に愚を重ねて生きてきた。これ以上の生き方がない。とても心美しくとか、そんなことはとても無理だから、とにかくこの欲のままで生かしてください。それが「荒凡夫として生かしてください」ということだったんですね。

ごく平凡なことを言っているようですが、私は、一茶のこの無類の率直さを美しいと感じます。「荒凡夫」、良い言葉じゃありませんか。できうることならば、私もそうありたいと心底思います。無駄な知識をそれなりに身につけてしまったので、かなわぬ夢なのかもしれませんが。

まだまだ話したいことが出てきそうではありますが、さかしらな説明はいいかげんにして、そろそろここいらでひっこみましょう。よろしかったら、金子氏の小気味の良い話しっぷりに接してみてください。
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幸田文『流れる』(一九五六年)について  (イザ!ブログ 2013・10・1 掲載)

2013年12月22日 06時38分35秒 | 文学
幸田文『流れる』(一九五六年)について



私は、当作品を読むずっと前に、成瀬巳喜男監督の『流れる』を観ています。もちろん、幸田文の当作品を映画化したものです。私は、小説は小説、映画は映画と分けるようにしているので、その優劣にはあまり頭が行きません。しかしながら、映画のほうを何度も観ているので、当作品を読み進みながら、そのなかの登場人物を演じた俳優の面影が浮かんでしょうがない、という経験を何度もしました。

特に、五〇歳を過ぎた落ち目の老芸者である染香を演じた杉村春子の面影が何度も浮かんできました。そういう意味での杉村春子の演技の呪縛力には凄まじいものがあって、成瀬の『流れる』を観た者は、小説の中の染香の言動に接するたびに否応なく杉村春子の演技が浮かんでくるようになっているのではないかと思われます。いま私は、それがあたかも普遍的な法則であるかのようなもの言いをしてしまいましたが、そう言いたくなるほどに、杉村春子は、小説のなかの染香を完璧に演じているのです。杉村春子がいかに優れた女優であるのかを今回あらためて思い知ることになりました。DVDになっていますから、それを確認するためだけにでも、ぜひみなさんにもこの映画を見て欲しいと思います。「観て損をした」とはおそらく思われないのではないでしょうか。きっと日本映画の豊かさを満喫なさることでしょう。

面影が浮かんでくると言えば、小説中でも染香とコンビを組んでいるなな子を演じた若き日の岡田茉莉子もそうです。なな子は、二〇代前半の売れっ子芸者でありながら、そのことに浮かれ切っているわけではなくて、自分が身を置く芸者屋にごまかされないように現金出納帳にちゃっかりとまめに記帳するほどの現代感覚の持ち主です。いわばクール・ビューティの走りのような存在なのですが、岡田茉莉子は、どこか杉村春子の名演技に釣られるようにして、それをなかば以上無意識の勢いで好演しています(その好演を引き出した功績の半ば以上は杉村春子に帰せられるものと思われます)。その匂い立つようなシュミーズ姿と、杉村演じる染香と酔っ払って「それジャジャンカジャン、それジャジャンカジャン」と浮かれ騒ぐシーンは、おそらく日本映画史に残る名場面なのではないかと思われます。もったいぶってシュミーズ姿になるのではなくて、すんなりとなるところになな子のクールな持ち味がよく表現されており、そのことでかえって強烈な印象を残すのです。後の岡田茉莉子は、そのときの杉村と組んでのお芝居がとても楽しいものであったことを懐かしそうに回想しています。

名演技といえば、この小説の中心人物である柳橋の置屋「蔦の屋」の女主人を演じた山田五十鈴を外すわけにはいかないでしょう。この女主人は、三〇代後半から四〇代はじめ(推定)の花街・柳橋の名花として描かれています。冒頭に近い場面で、当作品の主人公である梨花に「この土地じゃもう三十になると誰でもみんなばばあって云われるんでね」と言っていることから、自分は芸者としての盛りがすでに過ぎた存在であることを曇りなく自覚しています。しかしながら、ここ一発の勝負どころでのその色香には瞠目すべきものがあることは、例えば次の描写からうかがうことができます。これは、かつて「蔦の屋」に身を置いた田舎者のなみ江の父「鋸山」(のこぎりやま。もちろんニックネーム)が、娘は女主人から売春を強要されたと因縁をつけてお金をせしめようとしつこく何度も脅迫を繰り返しているのを女主人がなんとかしのごうとしている場面で、それを梨花の目を通して描写しています。

(鋸山は――引用者補)主人の花やかに修飾多く話す話しかたをどう捌いていいかわからないらしい。自分にまったく無縁な話しかたをされるので困っているのである。床の間のまえにすわって、いかにも鋸山(これは、なみ江親子の出身地・千葉県房総半島の鋸山のこと――引用者注)の石工(いしく)を剥きだしに、ころんとおっころがっているというかたちである。

一方主人のほうは、はっきりと座敷を勤めているというものだった。芸妓の座敷というものを梨花は見たことがないけれど、一見してこれがそうだとわかった。ふだん茶の間にいる主人とまるで違って、一トかさも二タかさも大きく拡がっていた。からだのまわりに虹がかかっているような感じである。思いあたるのは梨花がはじめてここへ目見えに来たときの、初対面の印象だった。牡丹だとか朴(ほお)だとかいう大きな花が花弁を閉じたりひらいたりするような表情だとおもって感歎して見たのだったが、いま花弁はまさにみごとにひらくだけひらいて香っているのである。上品であり艶であり、そして才気が部屋の空気を引き緊(し)めていた。自然に備わった美貌と長年の修練で身につけた伎(ぎ)としての技術が、惜しみなく拡げられていた。豪勢な料亭の座敷に客という対手(あいて)がいてはじめて座敷なのだと思いこんでいたのに、こんなちゃちな自分のうちの二階に客でもない鋸山に対(むか)っていても、こちらの腹一ツでいかようにも座敷たり得るのに、しろうと女中
(梨花のこと――引用者注)が感心したのである。

辛口の批評眼の持ち主である梨花から、ここまで褒めあげられる女主人を演じ切ることのできる女優は、当時では山田五十鈴よりほかにだれもいなかっただろうと思います。また、いまではもはや誰も演じることができないのではないかとも思われます。事実、山田五十鈴は、当作品でその芸歴において特筆されるべき名演技をしました。身につけている着物の柄は決して派手ではないし映画は白黒なのですが、その奥行のある演技によって、上品な色香が画面いっぱいに匂い立つのですね。観ているときはそれほどのことがないような気がするのですが、顧みると、そこに絶対感を帯びた姿が浮びあがってきます。山田五十鈴はやはり正真正銘の大女優なのです。

では、何度か名前が出てきた梨花を演じたのは誰なのかといえば、それは田中絹代です。原作では、梨花が主人公で、彼女は作中においてものごとの本質を直観的に掴み取る鋭敏な感性を伴ったカメラ・アイの役割を果たしています。映画の場合、姿が映ってしまいますから、純粋なカメラ・アイに徹することはできません。また原作では、その鋭敏な感性は、モノローグ的な地の文で十分に表現されていますが、映画では彼女のナレーションがあるわけでもないので、眼差しや仕草などの身体表現で示すほかはありません。つまり、映画の梨花はとても難しい役どころなのです。そうして、山田五十鈴や杉村春子や岡田茉莉子が圧倒的な存在を示す演技をしているところに、田中絹代までおっぱじめてしまったら、作風が不必要に暑苦しくアンバランスなものになってしまいます。やろうと思えば、田中絹代は共演者を食ってしまうことのできる底力を持った女優です。しかしこの映画で、彼女はその底力をぐいっと封印しました。当作品を上出来のものにするために、彼女はそうすることに決めたのではないかと思われます。そのことが、当作品に美しい均衡をもたらしています。

田中絹代と同じことを意識したのが、女主人の一九歳の一人娘の勝代を演じた高峰秀子です。原作では、勝代は母とは対照的に無器量で芸事の身につかない能なしとして描かれています。高峰秀子は、みなさんご存知の通り普通にしていれば美貌の持ち主なので、無器量な娘を演じるのはちょっと難しい。そこで高峰秀子は、自分の存在を薄消しすることで、その美貌を無化してしまいました。そうすることが、田中絹代のスタンスと同様に、当作品に美しい均衡をもたらすことを彼女はよく分かっていたのです。

映画への言及はこれくらいにしましょう。そろそろ小説の中身に入っていかないと、タイトルに偽りあり、というそしりを免れない雰囲気になってきたようなので。

さて、当作品の冒頭を少し掲げてみましょう。梨花が女中として雇ってもらおうと「蔦の屋」をはじめて訪う場面です。彼女は、神田川が隅田川と合流する手前の柳橋を渡って花街・柳橋の「蔦の屋」にたどり着いたはずです。「しろうと」として「くろうと」の世界に迷い込むときの戸惑いやためらいがよくあらわれています。

 このうちに相違ないが、どこからはいっていいか、勝手口がなかった。

 往来が狭いし、たえず人通りがあってそのたびに見とがめられているような急(せ)いた気がするし、しようがない、切餅のみかげ石二枚分うちへひっこんでいる玄関へ立った。すぐそこが部屋らしい。云いあいでもないらしいが、ざわざわきんきん、調子を張ったいろんな声が筒抜けてくる。待っていてもとめどがなかった。いきなりなかを見ない用心のために身を斜(はす)によけておいて、一尺ばかり格子を引いた。と、うちじゅうがぴたっとみごとに鎮まった。


これを書き写しながら、なにかとても懐かしい感触が身体の芯から湧き出てくるような感じに襲われました。それは、幸田文がこの文章を身体の芯から紡ぎ出していることのなによりの証しではないかと思います。それは、まあ私の単なる思い込みと一笑に付されても構わないのですが、そのことよりもここで考えてみたいのは、当作品の人称についてなのです

当作品をまだ通読したことのない方が、先に掲げた冒頭を虚心にお読みになり、そのうえで、「この作品が実は三人称小説なのだ」と聞かされたら、少なからず戸惑うのではないでしょうか。というのは、先の冒頭部分には主語が明示されていませんね。で、この調子が延々と続くのですから、普通は「私は」という主語をおのずと補って読み進めることになります。つまり、「この小説は一人称小説である」と判断するのが自然である、となります。

ところが、文庫本で最初から七ページ先にさしかかったところで、不意に次のような叙述が目に飛び込んできます。

手のひらの薄い美人は雪丸さんというのだそうだ。主人のかさにかかった云いかたにもおとなしい挨拶をして起(た)ちあがった。うろうろしている梨花に、「お折角お勤めなさい。あたしまた寄せていただきますが、そのときに又ね。」

最初から読み進めてきた読み手は、この箇所を目にすることではじめて、一人称小説だと思いこんでいた当作品が実は三人称小説なのだと知ります。しかし、それは「ああ、そうだったんだ」という程度のことです。そこで、ひとつ疑問が湧いてきます。この小説の「梨花」をすべて「私」と書きかえてなにか支障を来す点があるのだろうか、という疑問がです。つまり当作品は、「梨花」を「私」と書きかえることで、三人称小説から容易に一人称小説に変換しうるかどうかということです。

結論を言えば、形式的な意味でなら、答えはYESです。なぜなら、当作品の内容に、梨花の知りえないことは書かれていないからです。言いかえれば、当作品の叙述内容は、すべて梨花の知覚を通したものになっているからです。

「梨花」と「私」とが、形式的な意味でならスムーズな変換を許すということは、当作品が、「主語がない」という日本語の特色をよく生かした小説である、ということです。ちなみにこれが、英語の作品ならそうはいきません。先ほど取り上げた冒頭部分から、全面的に書きかえる必要が生じます。そうすると、作品の印象はガラッと変わってしまうことになるのです。英語が、日本語と比べた場合、「主語がなにか」をいかに強く意識した言語であるのかがこの一事からもお分かりいただけるものと思われます。

では当作品の「梨花」を「私」に変えてしまったとしても、本当に何の違いもないのでしょうか。人称の単なる形式的な違いとして処理すればいいのでしょうか。

それをきちんと考えるには、次のような考察が必要となるでしょう。一般に形式的なものの相違は、それだけにとどまらず内容的な相違をもたらします。ここで、「作品の構造」という言葉を使うならば、作品の形式的な相違は、「作品の構造」に根本的な変更をもたらす、ということです。『流れる』に即すならば、「梨花」を「私」に書きかえることは、当作品に構造的な変更をもたらすはずである、ということです。

これだけでははっきりしませんね。もっと言葉を尽くしましょう。

どのような文学作品においても、メタレベルでの「私」は常に同じです。それは、当作品を書いている作者です。すべての文学作品が、表現主体としての作者の産物である以上、それは自明です(連歌なんかはどうなんだという問いかけが聞こえてきそうですが、それは表現主体論の応用編ということで、話が妙に複雑になってここでの論旨とずれることになるのでとりあえずここでは措きます)。

三人称小説において、作者としての「私」は構造的に明示されます。それに対して、一人称小説においては、それは構造的に作中の「私」の陰に隠れることになります。

それゆえ、三人称小説において、作者としての「私」は、自分の作品のなかのすべての登場人物から一定の距離を置くことができます。つまり、作者は自分の作品からの自由を構造的に獲得することになるのです。『流れる』に即するならば、作家幸田文は、作中の「梨花」と一定の距離を間にはさんだ明示的な「私」としてゆるぎなく存在することが許されます。たとえ、幸田文がどれほど濃厚に自画像を「梨花」に投影しているとしても、この構造は微動だにしません。このことを読み手の側に立って述べるならば、読み手は、強烈な主観を伴ったカメラ・アイとしての作中の「梨花」に作家幸田文の自画像を読み込むのも自由ですし、読み込まないのも自由なのです。また、作中のどの人物に肩入れをするのかもまったく自由となります。作品の構造が、読み手の読みのそういう自由を許すのです。書き手の立場からすれば、「どうぞ、お好きなように読んでください」と胸を張って言えるのですね。そのことは、作品におおらかな虚構の可能性をもたらすことになります。いいかえれば、作品世界の3D化をうながします。事実『流れる』は、失われた「昨日の世界」としての花街・柳橋の超一級のルポルタージュとしても読むことが可能です。同じことですが、その作品世界には入口があり出口もあるのです。『流れる』は、「昨日の世界」として「生きた世界」なのです。そこでは相変わらず、染香は身過ぎ世過ぎにしのぎを削り続けていますし、女主人は憂いを帯びた表情で芸妓としての最後の華を咲かせ続けています。また、みんなからろくに面倒を見てもらえない哀れな瀕死の老犬は、「蔦の屋」の玄関に回虫まじりの糞を垂れながら梨花に面倒を見てもらおうとして必死に尻尾を振って媚を売ろうとしますし、飼い猫のポンコは相変わらずのおすまし顔で梨花の布団の半分を占領します。そんな生きた作品世界、自立した虚構の生活世界の描写の実現を支えている根本的構造こそは、この作品の三人称性なのです。

もしも、「梨花」を「私」に書きかえたならば、どうなるでしょうか。先ほど述べた通り、作中の「私」の陰に作者としての幸田文の「私」は隠れてしまいます。それは、良いとか悪いとかいったことではなくて、作品の構造の不可避性としてそういうことになってしまう。そうすると作者は、作品の外部から作品を構築する自由を失うことになります。作品の虚構性は、作中の「私」の語りの間隙を縫って構築されるよりほかはなくなるのですね。そのかわり、作中の「私」の語りは、読み手にとって作者のそれと等号で結ばれることになりますから(読み手のそういう決めつけを書き手は構造的に拒めなくなるということです)、強度の高められたリアリティを獲得することになります。「この話は本当のことであるにちがいない」という錯覚が、一人称小説の場合、不可避的に高まってしまうのです。その場合の虚構性の追求は、読み手のそういう錯覚の裏をかくことでなされるよりほかなくなるということです。

一人称小説の場合、作中の「私」の語りは、リアリティの強度の高まりを獲得するかわりに、読み手の「なぜそう語るのか」という厳しい追求から逃れ難くなります。なぜなら、その厳しい追求を無視してしまうと、せっかく獲得した「語り」のリアリティの強度の高まりがいちじるしく毀損されてしまうからです。「なるほどね、それでそういう『語り』をするわけね」という納得のしかたが深ければ深いほどに、一人称小説の「語り」のリアリティは高まり、ウソ話としての「語り」のなかの虚構性の説得力もそれに応じて強くなるので、読み手の「なぜそう語るのか」という問いかけにきちんと応えることは、一人称小説の生命線と形容しても過言ではないでしょう。たとえば太宰治の場合、その問いかけに応えるために死んで見せたとさえ言いうる側面があるほどです。

『流れる』に即するならば、「梨花」を「私」に変えた途端に、その厳しい問いかけにさらされて、ほのめかされる程度だった「梨花」の過去の生活をもっときちんと述べて、読み手の「なるほどどういうわけでこういう言い方や感じ方をするわけだな」という納得を得る必要が高まるものと思われます。もっと具体的に言えば、死んだ子どもは男の子だったのかそれとも女の子だったのか、何歳のときにどんな原因で死んだのかとか、これも亡くなったものと思われる夫は、どんな仕事をしてどんな家庭をふたりで築いていたのか、どんな死に方をしたのか、そのとき「私」はどう思ったのか、などという読み手の好奇心に一定程度きちんと応えるべき契機が高まるのではないかと思われます。そうしないと、読み手の無意識の欲求不満がうっすらと高まるばかりで、作品のもたらす感動をその高まりの程度に応じて損なうことになってしまうのではないでしょうか。

そうすると当作品は、まったくとは言いませんが、その内容の様相を変えることになるのではないかと思われます。少なくとも、「私」ではなく「梨花」をカメラ・アイにした場合のように、作品世界としての柳橋が自立したものとして鮮やかに浮かび上がる度合いは弱まるものと思われます。その意味で、幸田文が「くろうとの別世界」としての柳橋をイメージ鮮やかに描くことを眼目に筆を進めたのであるとすれば(おそらくそうだとは思われます)、当作品を三人称小説にしたことは成功だったと評することができるものと思われます。その意味で、この小説を成功に導いた根本原因は、三人称構造であると申し上げたい。幸田文が描き出した柳橋の世界は、そこでいまだに人や動物が生活し関わり合い生き死にしているリアリティを獲得しているという意味で永遠不滅なのです。

この結論は、実のところ私一人で得たものではありません。ある読書会で、当作品をめぐって、ごく少人数で腹を割ったやり取りをするうちに、おのずと浮かび上がってきたものを、私なりにすくい取っただけのことなのです。

このことの意味は、とても大きいと思います。読みの対象としての作品が優れたものであるほどに、「読みの多様性」などという猪口才なものは通用しなくなると申し上げたいのです。私にとって、それは理論というよりむしろ生々しい実体験と言うべきものです。真摯な読みをお互いに腹を割って虚栄心を超えたところで交換し合っているうちに、その作品の本質を射抜く読みの在り処がおのずと浮びあがってくるのです。私は、こういう読みのリアリティを解さぬ文学論を、(そうしてそのような思想・哲学も)ほとんど信用していません。その意味で読みの共同性は、いまの私にとってテキストを読むうえでの必須のプロセスとなっています。

最後に、無骨な話をひとつ付け加えます。『流れる』が書かれたのは一九五六年です。高度経済成長の起点はふつう一九五五年に求められますから、ほぼそのスタート地点で、幸田文はこの作品を書いたことになります。優れた作家の感性は、時代の「流れ」を鋭敏に掴み、今後消えてなくなるものが、見えすぎる目にはくっきりと映っていたものと思われます。今日の私たちが、豊かな経済力と引き換えに失ったものがいったい何だったのかについて、当作品は問わず語りにはっきりと指し示しているのではないでしょうか。
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究極の文章 ーーー特攻隊員の遺書について (イザ!ブログ 2013・9・19 掲載)

2013年12月21日 23時33分38秒 | 文学
究極の文章 ーーー特攻隊員の遺書について



私は数年前の夏に、四泊五日の鹿児島旅行をしました。日米開戦終戦時の外相・東郷茂徳(しげのり)のふるさと美山をこの目で確かめてくるのが主な目的でした。ところが、ひょんなことから、二日目に知覧に行くことになりました。初日に美山の「茂徳スポット」を案内してくれた東郷茂徳記念館の女館長さんが、「鹿児島まで来たら、知覧に行きなさい」とおっしゃって、自家用車で美山から知覧まで私を運んでくれたのでした。旅先でよくしてくれた方の申し出を断ることができるほどに、私は神経が太くないのです。

美山を出発してから数時間後、私は何の予備知識もないまま、知覧にひとり取り残されました。「まっすぐに『知覧特攻平和会館』に行きなさい」という館長さんの言葉に従うよりほかはありませんでした。そうしてそこに、けっこう長い時間いたような記憶があります。私は、その間ずっと特攻隊員たちの生々しい遺書を読んでいました。目に触れたすべてが言葉にできぬほどに貴重なものに思われたのではありますが、それらすべてを脳裏に刻み込むのは到底無理でした。せめてもと思い、千円を払って当施設の売店で『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿 』(高岡修 編)を手に入れました。会館を出て、両側に石灯ろうがどこまでも続くなだからな下り坂を、とても長い時間をかけてとぼとぼ歩き続けたことを覚えています。地元のオカッパ頭の女子学生がすれ違いざまにぺこりと頭を下げたのを覚えています。空が澄み切っていて光の美しい町・知覧は、町全体で特攻隊員への慰霊の念を静かにいつまでも捧げ続けているのでしょう。図らずも、私は知覧にいわば「ハマって」しまったのでした。




入手した冊子に収録されている遺書のなかから、三人のものをご紹介します。

相花信夫 少尉 第七七振武隊 宮城県 昭和二〇年五月四日出撃戦死 18歳


遺書
母を慕いて

母上お元気ですか
永い間本当に有難うございました
我六歳の時より育て下されし母
継母とは言え世の此の種の女にある如き
不祥事は一度たりとてなく
慈しみ育て下されし母
有難い母 尊い母

遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺
幾度か思い切って呼ばんとしたが
何と意志薄弱な俺だったろう
母上お許し下さい
さぞ淋しかったでしょう
今こそ大声で呼ばして頂きます
お母さん お母さん お母さんと


   (注:ノート二頁に楷書でペン書き)

ここに吐露された一八歳の青年の裸の心は、六八年後の私たちの胸に生々しく迫ってきます。死に臨んで、青年はやっと自分の気持ちに心から素直になれたのです。その含羞のたたずまいがなんともいじらしいではありませんか。これを目にした母親がどう感じたのか、そこには余人のうかがいしれないものがあります。

枝幹二 大尉 第一六五振武隊 富山県 昭和二〇年六月六日出撃戦死 22歳



遺書
(前略)
あんまり緑が美しい
今日これから
死にに行く事すら
忘れてしまいそうだ。
真青な空
ぽかんと浮かぶ白い雲
六月の知覧は
もうセミの声がして
夏を思わせる。
  作戦命令を待っている間に

小鳥の声がたのしそう
「俺もこんどは
 小鳥になるよ」
日のあたる草の上に
ねころんで
杉本がこんなことを云っている
  笑わせるな
本日一三時三五分
いよいよ知ランを離陸する
なつかしの
祖国よ
 さらば
使いなれた
万年筆を″かたみ″に
   送ります
      
(注:四百字詰原稿用紙三枚半にペン書き)

情景や状況をありありと思い浮かべると、この心象スケッチの異様なほどの美しさが浮びあがってきます。特に、

俺もこんどは
小鳥になるよ」
日のあたる草の上に
ねころんで
杉本がこんなことを云っている
     笑わせるな


の箇所の美しさはまるで魔法のようです。迫り来る死との対比において、青春の最後の一瞬の輝きが私たちの目に鮮烈に焼き付きます。枝幹二大尉は、早稲田大学から学徒出陣し、第165振武隊長として指揮をとりました。第165振武隊は団結力の強い隊でした。枝大尉は隊長として見事に隊をまとめていたとのことです。それにしても、若い命を失ってしまうには、この世はあまりにも美しすぎたのではないでしょうか。そういう思いが、行間におのずから込められているように感じます。枝大尉と詩中の「杉本」との一瞬のそうしてどこまでも深い心の交流は、永遠の友情として、この詩を読む者の心に刻み込まれます。彼の″かたみ″としての「万年筆」の受け手は明示されていませんが、私は、彼が愛惜してやまなかった「祖国」、すなわち、この詩に心を動かされる後世の私たち日本人なのではないかと感じます。

久野(くの)正信中佐 第三独立飛行隊 愛知県 昭和二〇年五月二四日出撃戦死 29歳



遺書
正憲、紀代子ヘ

父ハスガタコソミエザルモイツデモオマエタチヲ見テイル。ヨクオカアサンノ
イイツケヲマモッテ、オカアサンニシンパイヲカケナイヨウニシナサイ。ソシ
テオオキクナッタナレバ、ヂブンノスキナミチニススミ、リッパナニッポンジ
ンニナルコトデス。ヒトノオトウサンヲウラヤンデハイケマセンヨ。
「マサノリ」「キヨコ」ノオトウサンハカミサマニナッテ、フタリヲジット見テ
イマス。フタリナカヨクベンキョウシテ、オカアサンノシゴトヲテツダイナサ
イ。
オトウサンハ「マサノリ」「キヨコ」ノオウマニハナレマセンケレドモ、フタ
リナカヨクシナサイヨ。オトウサンハオオキナジュウバクニノッテ、テキヲゼ
ンブヤッツケタゲンキナヒトデス。オトウサンニマケナイヒトニナッテ、オト
ウサンノカタキヲウッテクダサイ。

                                父ヨリ
マサノリ
キヨコ   フタリヘ


              (注:五歳と三歳の幼児への遺書)

「オトウサンハ『マサノリ』『キヨコ』ノオウマニハナレマセンケレドモ」のところで、父の子を思う深い心がどっと噴き出しているのが分かります。その愛情の深さ、温かさが直に読み手に伝わってきます。久野正信中佐は、わが子へ宛てて遺書をしたためていますが、どこか日本人全体に宛てたような響きを、私は感じてしまいます。それは、父性なるもののしからしむるところなのかもしれません。ところで、久野中佐はなにゆえ妻に宛てた遺書を書かなかったのでしょうか。これは私の勘に過ぎませんが、彼は書かなかったのではなくて書けなかったのではないでしょうか。では、彼はなぜ書けなかったのか。その疑問にさしかかると、私は彼の底知れない悲しみに突き当たる思いがします。それを胸の奥底にしまいこんで、彼は、敵艦をめがけ突き進んで行ったのです。

これらの遺書には共通して、逃れようのない死に臨むという極限状況において、無意識のうちにあくまでも人間らしさを守ろうとする精神のみが帯びる、不可思議としか言いようのない美しさが感じられます。いずれも、生身の人間が書きうるもののなかでの究極の文章と形容するよりほかはありません。ほかに、どういう言葉で表せばいいのでしょうか。

〔付記〕
三島由紀夫は『文化防衛論』の中で、文化について次のように述べています。「文化とは、能の一つの型から、月明かりの夜ニューギニアの海上に浮上した人間魚雷から日本刀をふりかざして躍り出て戦死した一海軍士官の行動をも包括し、又、特攻隊の幾多の遺書をも包含する」。私は、この文化観に深い感銘を受ける者です。なぜなら三島の文化観には、一般兵士の、死と隣り合わせの極限状況における喜びや胸の奥に秘めた哀しみが愛惜の念をこめて織りこまれているからです。

ちなみに、引用文中の「一海軍士官」とは、靖国神社の宮司であった大野俊康氏によれば、「殉忠菊池一族の流れをくむ熊本県山鹿市出身の軍神・松尾敬宇中佐」であることが判明しています。




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 詩人・谷川俊太郎を見かけました (イザ!ブログ 2013・9・17 掲載)

2013年12月21日 23時26分21秒 | 文学
詩人・谷川俊太郎を見かけました



私は最近、なんとなく何かとても大事なことを忘れているような気がしていました。胸になにかちいさなものがつっかえているような、知人たちになにか伝え忘れているような、そんな感じがあったのですね。むろん、振り返ってみれば、の話ですよ。昨日の午後、人のまばらな電車の中で、幸運なことに、それが心にぽっかりと浮かんできました。私は、ひと月ほど前に高名な詩人・谷川俊太郎を見かけたのです。そのことをなぜかすっかり忘れていたのです。

それは猛暑と言っても大袈裟ではないほどに暑い日のことでした。新宿の人ごみにもまれているうちに、私は涼を取りたくなってきたので、銀座ルノアール小滝橋通り店に入りました。なぜそんなに詳しく店名を知っているのかと言えば、十年ほど前からなにかとよくそこを利用しているからです。読書会はいつも銀座ルノアール四谷店で催しています。どうやらルノアールとは浅からぬ縁があるようです。

エアコンのよく効いた店内に入り、ボディペーパーで、暑さのためにすっかり火照ってしまった身体を拭いて、しばらくぼおっとしたまま、まとわりつく熱気が鎮まるのを待っていました。すると目の前数メートルくらいのところに、ジーンズと白いTシャツ姿の小柄な老人が店の奥から歩いてきたのです。そうしておもむろに振り返って、後続の取り巻きの男女二人とちょっと言葉を交わしました。二、三度うなずいた後、その老人はひとりですっと外に出ていきました。「とてもよく似ているが、そんなはずはないだろう」。私は自分の考えを思い過ごしと決めこんだのです。

すると、その取り巻きの男女のうちの男のほうが、私の隣りでノート・パソコンのキーを叩いていた男にすっと近づいてきて、やや上気したような表情で「詩人だよ、谷川俊太郎。」という小声の言葉を残して、店を出て行きました。

そうか、あれはやっぱり谷川俊太郎だったのか。私は、視界を横切って行った彼の姿かたちを心のなかでいとおしむように反芻しました。

腰に巻く小物入れのほかに、彼は何も持っていませんでした。年のせいか、やや猫背気味だった気もしますが、それにしてもずいぶんすっきりとした立ち姿でした。そうして、ぜい肉がまったくない。動きや表情に老いぼれたところがまったく見受けられなかったのです。若々しいというのとはちょっと違っていて、彼の思考経路には「年齢」という因子がないにちがいない、という言い方の方が合っているような気がします。つまり、彼には無駄なものがなにもない、という印象が残ったのです。その印象は、どうやら彼の感性や生き方に深く関わっているようなのです。彼は一九三一年生まれですから、いま八一歳です。それを考えると、彼のすっきりとした印象は驚異的なことのように感じられてきます。

その、時の経過とともに私の心のなかで鮮やかになっていく彼の立ち姿を反芻するうちに、次の詩がおのずと浮かんできました。

芝生   

          谷川俊太郎 

そして私はいつか
どこかから来て
不意にこの芝生の上に立っていた
なすべきことはすべて
私の細胞が記憶していた
だから私は人間の形をし
幸せについて語りさえしたのだ

  (『夜中に台所でぼくはきみに話かけたかった』(青土社1975)所収)

彼の心には、おそらくいつも宇宙の風のようなものがそよいでいるのでしょう。その姿を見かけたときのことを思い浮かべると、年甲斐もなくそういうロマンティックな思いに襲われます。谷川俊太郎は、人間のなかで、風の又三郎にいちばん似ている人なのではないでしょうか。風の又三郎が、自分の通じにくい思いをごくふつうの人にも分かるように、なるべくかみくだいて言葉を紡ぎ出そうとする。その気の遠くなるような努力を積み重ねているうち、あっという間に半世紀が過ぎてしまった。そういうところに、谷川俊太郎の詩人としての偉大さがあるような気がします。
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