タイトルから、私をへそ曲がりと判断しないでください。私はある意味でへそ曲がりですが、今回はどうやら曲がってはいないようです。心の底から「村上春樹さん、ノーベル文学賞を取れなくて、本当に良かったですね」と思っているのです。
なぜそう思うのか。それは、村上春樹さんがいまの状態でノーベル賞を取ってしまうと、決定的に「第二の大江健三郎」になりさがってしまうのではないかと思うからです。私にとって、それはいささか残念なことなのです。
ここで「第二の大江健三郎になること」とは、高い知名度ゆえに柄にも合わない知識人の役割を引き受けることで、具にもつかない政治的発言を垂れ流し、文学者としての自分の価値・名声を台無しにしてしまう間抜けな小説家の二番煎じを演じることを指しています。違った言い方をすれば、本人は、ドロドロとした国際政治状況から一定の距離をとった、地球市民的な麗しい人類愛に満ちた立場を保持しているつもりでいるが、政治状況の全体的な構図にその発言を置いてみると一定の生臭い政治的役割を果たしてしまっている、という政治の不可避的な力学に対して致命的に無知な知的愚者の二の舞を演じることを指しています。
という言い方に、村上春樹ファンは不快感を抱くのかもしれません。「村上春樹さんは、そんな愚か者ではない」というふうに。しかし私は、村上春樹さんを愚弄するつもりなど毛頭ありません。「春樹さん、自分の文学者としての名を惜しみなさい」と申し上げたいだけなのです。というより、「神の見えざる手」が、彼を誤った道から救い出すために、今回あえて彼にノーベル文学賞を与えなかったのではないか、と言いたいくらいなのです。「ちょっと頭を冷やして、お前の仕事はもっと良い小説を書くことだけなのだという厳粛な事実に気づきなさい。バカ新聞にバカ発言を載せている場合ではないのだよ」というふうに。
私の念頭にあるのは、9月28日(金)の朝日新聞朝刊に載った彼の「魂の行き来する道筋」という文章です。この文章を読んで、こんな(どんななのかは後ほど具体的に触れます)、タイトルを裏切るような「魂」のない文章を書くようでは村上春樹も焼きが回ったものだと、私は思いました。
彼は、稀代の文章家として名を馳せ続けてきた文学者です。私は伊達や酔狂でそう言っているのではないのです。以前親しくおつきあいいただいていた、ある大手名門出版社のかつての名編集長が一緒に酒を飲みながら次のようなことをしみじみと語ったことがあります。「編集者というのは、自分が関わっている文章にちょっとでも変なところがあると、無性に赤を入れたくなるものなんだよね。だから、私はほとんどの書き手の文章に赤を入れてきたよ。でも、村上春樹の文章にだけは一度も赤を入れたことがないんだ」私は、それを聞いて心のなかで唸りました。そのときに自分が文章家村上春樹の凄味に触れる思いがして絶句したことを、いまでも鮮やかに覚えています。
そんな名人芸の域に達した文章書きの村上春樹さんが、今回まったく読み手の心に響かない死んだ文章を長々と書いているのは、彼が文学者としていま危機的状況にあることのなによりの証拠です。歌心に溢れた歌手が突然変調をきたしたら、聞き手は「あ、こいつヤバい」と思うでしょう。要するにそういうことですね。
新聞に載るにしてはけっこう長めのこの文章の核心的なメッセージは二か所あります。まずは一か所目を転載します。ちょっと長くなりますが、ご勘弁を。
国境線というものが存在する以上、残念ながら(というべきだろう)領土問題は避けて通れないイシューである。しかしそれは実務的に解決可能な案件であるはずだし、また実務的に解決可能な案件でなくてはならないと考えている。領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし、賑やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。そのような安酒を気前よく振る舞い、騒ぎを煽るタイプの政治家や論客に対して、我々は注意深くならなくてはならない。
彼が政治問題に対して一定の見識を披露し、そこから具体的な提案を導き出している以上、それは、社会性を帯びた責任ある政治論として遇されなければならないでしょう。私はこれから、村上領土問題論を根のところから否定する言説を展開するつもりですが、そこに文学者の素人くさい政治論をシバキ上げる加虐趣味を読み取ってもらっては困る、と申し上げたいのです。
「領土問題は実務的に解決可能な案件であるはずだし、そうでなければならいない」という村上領土問題論は、近代国民国家の本質への洞察を致命的なまでに欠いた愚論中の愚論です。
まず、国境とは何でしょう。それは、二か国以上の主権の及ぶ範囲の境目を示すものです。その範囲についての認識が行き違うとき「領土問題」が生じます。
だから、「領土問題」の本質は「主権と主権とのぶつかり合い」なのです。そうして、主権の本質は、それが独占的で排他的であるところに存します。そのことへの共通了解が成立することによって、独立国家の集まりとしての近代国際政治の世界が生まれるのです。
だから「領土問題」が生じた場合、当事国はお互いに譲るわけにはいきません。なぜなら、「領土問題」について譲ることは、近代国家成立の根本要件としての主権の毀損・喪失の甘受を意味するからです。それは、独立した近代国家としてはあり得ないことなのです。しかし、そこをなんとかしなければなりません。そこで国際政治は、経済力や軍事力を背景にした外交によって、その都度解決しがたい領土問題を暫定的に解決してきたのです。その「解決」の中には、クラウゼビッツのいうような、戦争という名の「別の形をとった外交」も含まれます。そうやって、大きく言えば第一次大戦までは勢力均衡方式で、その後は集団安全保障方式によって、国家間の「領土」をめぐる激突を避けようとしてきたのです。
ところで、近代国民国家において、主権者は国民自身です。だから、主権問題は国民自身の問題なのです。とするならば、領土問題はその当事者としての国民の最大の関心事であらねばならないし、現実的にもそうなっているものと思われます。でなければ、マスコミが連日のように尖閣問題を報じるはずがありませんものね。とするならば、領土問題に深甚な国民感情が伴うのは、人性のしからしむるところとなります。それを拒否する言辞を弄するのは、「人性の専門家」である文学者として失格であると断じざるをえません。とても関心があることに強い感情がまったく伴わないなんて状態は、ごく普通の感性の持ち主には想像しがたいでしょうから。
国民主権の代理人としての外交担当者は、領土問題が主権者としての国民の「最大の関心事」であり、深甚なる国民感情がそこに込められているという認識を胸の奥に深く叩き込んで、ぎりぎりの交渉をしなければならないのです。それが、外交担当者の、ノーブレス・オブリージュ(高貴なるがゆえの責任)を果たそうとする政治的に高度な構えを生むことにもなります。そういう国民的な思いの裏付けのない単なる「実務」として外交をとらえる場合、そこにノーブレス・オブリージュは生まれようがないのです。
村上領土問題論が、近代国民国家の本質への洞察を致命的なまでに欠いた愚論中の愚論であることの説明は、これで十分なのではありませんか。
ここまで述べてきたことから、村上春樹さんがなぜ「魂」のこもらない死んだ文章を書いてしまったのか、もうお分かりいただけるのではないでしょうか。彼には、領土問題について論じながらそれについての当事者感覚がないのです。つまり、この文章には村上春樹という文学的存在が投企されていないのです。だから、この文章が状況との関連においてたとえ正しいものであろうとあるいは仮に間違ったものであろうと、村上春樹さん自身はまったく傷つかないのです。その意味で、これは血の通っていない文章なのです。だから、この文章には魂がまったく感じられないし、読み手はこれに対して死んだ文章の印象しか抱かないのです。「魂の行き来する道筋」、なんと馬鹿げた恥知らずなタイトルをつけたものでしょう。この文章を書いた段階では、村上春樹さんは最低の文学者なのです。誤字脱字がないことと文法的に誤りのないことだけが取り柄の文章を垂れ流してしまったのですから。
この文章の核心的なメッセージの二つ目を転載しましょう。
最初にも述べたように、中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない。それはあくまで中国国内の問題である。一人の著者としてきわめて残念には思うが、それについてはどうすることもできない。僕に今ここではっきり言えるのは、そのような中国側の行動に対して、どうか報復的な行動をとらないでいただきたいということだけだ。もしそんなことをすれば、それは我々の問題となって、我々自身に跳ね返ってくるだろう。逆に「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。それはまさに安酒の酔いの対極に位置するものとなるだろう。安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない。
これ、おかしな文章だとは思いませんか。「中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない」と言いながらも、ちゃっかりとすぐその後に「一人の著者としてきわめて残念には思う」と言っているのですよ。十分に「はっきり言」っているではありませんか。そのうえで、さらに日本政府に対して「そのような中国側の行動に対して、どうか報復的な行動をとらないでいただきたいということだけだ」と重ねて「はっきり言」っているのです。日本政府に、日本の書店で中国人著者の書物を引き揚げるようなマネは絶対にするなと言っているわけですね。それが、「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示す文化的に立派な態度なのだと、春樹さんはどうやら言っているようです。主権問題はそっちのけで、売文業者としてずいぶんと手前勝手な格調の低い議論をけっこう「はっきり」と繰り広げていますよね。
私は、これを読んで苦笑するよりほかありません。なぜなら、日本がそんな文化的に野蛮な振る舞いをすることは万に一つもありえないからです。それは、この国に住んでいればごく普通に分かることです。つまり、日本政府のそういう粗暴な振る舞いを日本国民は支持しないし、もっと強く言えばそれを拒絶するのではないでしょうか。ごく普通の日本人のそういうことがらについての標準的な考え方は「中国は確かに馬鹿なことをしている。だからと言って、日本はそれと同じ振る舞いをすべきではない。そんなことをしたなら、世界から中国と同じ文化的に低レベルの国と思われる。それは嫌だ、損だ」というものではないかと私は考えます。だから、もしも日本政府がそういう振る舞いに出たならば、国民の拒否反応がてきめんに内閣支持率の劇的な低下として政府に突き付けられることになるでしょう。そうして、政府はそれを織り込み済みです。だから、外交的選択肢として、そういう振る舞いはあらかじめ排除されています。
つまり村上春樹さんのご心配は、いわゆる杞憂にほかならないのです。杞憂に過ぎないことを本気で心配して警鐘を鳴らすのは滑稽というよりほかありません。だから、私は苦笑を禁じ得ないのです。それとも春樹さんは、ごく些細な心配事にも過剰に気を病む貴族の上品さを演出したいのでしょうか。とするなら、どうぞご勝手にと申し上げるよりほかはありません。
平たく言えば、これらの言葉はすべて、あなた(と言いましょう)の個人的な勇気を奮って中国政府に対して断固として向けられるべきものでしょう。それを私たちにいうのは、お門違いだし、いたずらに中国政府を利するだけのものにほかならないのですよ。分かりますか、村上さん。
もう一つ指摘しておきたいのは、「領土」という名の主権をめぐる国民の憂慮とそれを背景にした政府の苦慮とを「安酒呑み」という言葉で愚弄しかねない、あなたの度し難いまでの政治音痴ぶりあるいは傲慢さです。あなたは、自分に政治を論じる資格と(あえていいましょう)文学的な感性とが決定的に欠如していることをはっきりと自覚すべきです。政治をきちんと論じるには、ある種の文学的な感性が必要なのです。そうしてそれは、自分のことばかりにこだわり続けることで自分の文学世界を構築した春樹さんにはないものです。その意味で、村上文学は倫理とは無縁な文学なのです。念のために言っておきますが、これは村上文学を否定しているのではありませんよ。
さらに言っておけば、尖閣問題には、中共の覇権主義の妥協なき追求という側面があります。つまり、日本にとってはこれだけでも主権を揺るがす大問題なのですが、西太平洋全体の制海権を確保しようと思っている中共にとっては、それはファーストステップの通過点的な問題に過ぎないのです。その視点がないと、いくら何を言っても尖閣問題の本質にはかすりもしないのです。
もう、これくらいでいいでしょう。春樹さん、今後絶対に不得手な政治分野には口出しをしないことです。それが、個人的なことについてこだわり抜く自分の文学的な資質・生命を保持することにも通じるのです。あなたにアタッチメントは似合わない。あなたが政治問題を語るのは無理です。人にはそれぞれ天が与えた持分があるのです。それを自覚することが成熟することなのではありませんか。
あなたは、日本近代文学の最高傑作として三遊亭円朝の『真景累ケ淵』を挙げているそうではありませんか。私は、それに心から同意する者です。近代文学の大胆なルール破りを敢行することなしに、近代文学の限界を超えて魂の奥底への冒険を繰り広げることがとても難しくなっている文化状況に私たちはさしかかりつつあるのではないかと私は感じています。そういう問題意識を持つ者にとって、『真景累ケ淵』の存在が大きく浮かび上がりつつあると私は考えているのです。村上春樹さんの文学者としての勘の良さ・嗅覚はまだまだ衰えていないと、私は再認識しました。さすがは、村上春樹と思います。春樹さんの文学的な勘の良さは昔から一級なのです。
今回、ノーベル文学賞を逃したことを天の声と受けとめて、自分本来の場所に心静かに戻って行って、そこからもう一度あなたにしか紡げない、心の底からの美しい言葉を紡いでほしいと私は心から願っています。あなたは若いファンも多いようですから、間違っても彼らをたぶらかすような馬鹿なマネはしないでくださいね。
ちなみに「元祖大江健三郎」は、死んだ、魂のない文章を取り巻きから褒められ続けて、ついに自分の文学的な天分を食いつぶし尽くしてしまいました。村上春樹さんには、その轍を踏まないようにしていただきたいものです。見ている人はちゃんと見ていますから、間違っても「裸の王様」にならないようにしてくださいね。
〔付記〕
当ブログに二度投稿していただいた小浜逸郎氏から、この文章にちなんで次のようなコメントをいただきました。朝日新聞掲載の村上春樹の文章に対する批評として傾聴に値するものです。
村上春樹は、この種の文化人のご多分に漏れず、異文化を最大限に尊重するようなことを言っていますが、「文化」人として力を注いでいるはずの自分の仕事が、北京独裁政府という「政治」によって蹂躙されている事実に対して、「残念だ」などと腑抜けた感慨を述べているだけで、文化の扼殺(焚書坑儒)に対する何の抵抗も表明していません。彼は自分の本が本屋さんから消されたことは、「政治の悪」の問題以外のなにものでもないのに、それを、「異文化」の問題として免罪するというとんでもないスリカエをやっています。腰抜けというほかありません。日本国民の健全なナショナリズムの反応を「安酒による悪酔い」とけなすなら、北京政府のどうしようもない政治的「泥酔・狼藉」に対してなぜ言及しないのか。中国国内で身柄を拘束されるわけではなし、いくらでも自由な発言が可能なはずなのに、文学者にとって命と同じくらい大切な自分の仕事に対する弾圧に、なんの対応もしないというこの態度は、彼がじつは自分自身の本丸であるはずの文学などもはや大事にしていないということの証明ではないかと思います。そう思いたくはありませんが、彼のノーテンキな言葉からは名利に溺れて初心を忘れた者の腐臭がどうしようもなく漂ってくるように私には感じられます。
小浜氏の、批評家としての慧眼を再認識しました。
なぜそう思うのか。それは、村上春樹さんがいまの状態でノーベル賞を取ってしまうと、決定的に「第二の大江健三郎」になりさがってしまうのではないかと思うからです。私にとって、それはいささか残念なことなのです。
ここで「第二の大江健三郎になること」とは、高い知名度ゆえに柄にも合わない知識人の役割を引き受けることで、具にもつかない政治的発言を垂れ流し、文学者としての自分の価値・名声を台無しにしてしまう間抜けな小説家の二番煎じを演じることを指しています。違った言い方をすれば、本人は、ドロドロとした国際政治状況から一定の距離をとった、地球市民的な麗しい人類愛に満ちた立場を保持しているつもりでいるが、政治状況の全体的な構図にその発言を置いてみると一定の生臭い政治的役割を果たしてしまっている、という政治の不可避的な力学に対して致命的に無知な知的愚者の二の舞を演じることを指しています。
という言い方に、村上春樹ファンは不快感を抱くのかもしれません。「村上春樹さんは、そんな愚か者ではない」というふうに。しかし私は、村上春樹さんを愚弄するつもりなど毛頭ありません。「春樹さん、自分の文学者としての名を惜しみなさい」と申し上げたいだけなのです。というより、「神の見えざる手」が、彼を誤った道から救い出すために、今回あえて彼にノーベル文学賞を与えなかったのではないか、と言いたいくらいなのです。「ちょっと頭を冷やして、お前の仕事はもっと良い小説を書くことだけなのだという厳粛な事実に気づきなさい。バカ新聞にバカ発言を載せている場合ではないのだよ」というふうに。
私の念頭にあるのは、9月28日(金)の朝日新聞朝刊に載った彼の「魂の行き来する道筋」という文章です。この文章を読んで、こんな(どんななのかは後ほど具体的に触れます)、タイトルを裏切るような「魂」のない文章を書くようでは村上春樹も焼きが回ったものだと、私は思いました。
彼は、稀代の文章家として名を馳せ続けてきた文学者です。私は伊達や酔狂でそう言っているのではないのです。以前親しくおつきあいいただいていた、ある大手名門出版社のかつての名編集長が一緒に酒を飲みながら次のようなことをしみじみと語ったことがあります。「編集者というのは、自分が関わっている文章にちょっとでも変なところがあると、無性に赤を入れたくなるものなんだよね。だから、私はほとんどの書き手の文章に赤を入れてきたよ。でも、村上春樹の文章にだけは一度も赤を入れたことがないんだ」私は、それを聞いて心のなかで唸りました。そのときに自分が文章家村上春樹の凄味に触れる思いがして絶句したことを、いまでも鮮やかに覚えています。
そんな名人芸の域に達した文章書きの村上春樹さんが、今回まったく読み手の心に響かない死んだ文章を長々と書いているのは、彼が文学者としていま危機的状況にあることのなによりの証拠です。歌心に溢れた歌手が突然変調をきたしたら、聞き手は「あ、こいつヤバい」と思うでしょう。要するにそういうことですね。
新聞に載るにしてはけっこう長めのこの文章の核心的なメッセージは二か所あります。まずは一か所目を転載します。ちょっと長くなりますが、ご勘弁を。
国境線というものが存在する以上、残念ながら(というべきだろう)領土問題は避けて通れないイシューである。しかしそれは実務的に解決可能な案件であるはずだし、また実務的に解決可能な案件でなくてはならないと考えている。領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし、賑やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。そのような安酒を気前よく振る舞い、騒ぎを煽るタイプの政治家や論客に対して、我々は注意深くならなくてはならない。
彼が政治問題に対して一定の見識を披露し、そこから具体的な提案を導き出している以上、それは、社会性を帯びた責任ある政治論として遇されなければならないでしょう。私はこれから、村上領土問題論を根のところから否定する言説を展開するつもりですが、そこに文学者の素人くさい政治論をシバキ上げる加虐趣味を読み取ってもらっては困る、と申し上げたいのです。
「領土問題は実務的に解決可能な案件であるはずだし、そうでなければならいない」という村上領土問題論は、近代国民国家の本質への洞察を致命的なまでに欠いた愚論中の愚論です。
まず、国境とは何でしょう。それは、二か国以上の主権の及ぶ範囲の境目を示すものです。その範囲についての認識が行き違うとき「領土問題」が生じます。
だから、「領土問題」の本質は「主権と主権とのぶつかり合い」なのです。そうして、主権の本質は、それが独占的で排他的であるところに存します。そのことへの共通了解が成立することによって、独立国家の集まりとしての近代国際政治の世界が生まれるのです。
だから「領土問題」が生じた場合、当事国はお互いに譲るわけにはいきません。なぜなら、「領土問題」について譲ることは、近代国家成立の根本要件としての主権の毀損・喪失の甘受を意味するからです。それは、独立した近代国家としてはあり得ないことなのです。しかし、そこをなんとかしなければなりません。そこで国際政治は、経済力や軍事力を背景にした外交によって、その都度解決しがたい領土問題を暫定的に解決してきたのです。その「解決」の中には、クラウゼビッツのいうような、戦争という名の「別の形をとった外交」も含まれます。そうやって、大きく言えば第一次大戦までは勢力均衡方式で、その後は集団安全保障方式によって、国家間の「領土」をめぐる激突を避けようとしてきたのです。
ところで、近代国民国家において、主権者は国民自身です。だから、主権問題は国民自身の問題なのです。とするならば、領土問題はその当事者としての国民の最大の関心事であらねばならないし、現実的にもそうなっているものと思われます。でなければ、マスコミが連日のように尖閣問題を報じるはずがありませんものね。とするならば、領土問題に深甚な国民感情が伴うのは、人性のしからしむるところとなります。それを拒否する言辞を弄するのは、「人性の専門家」である文学者として失格であると断じざるをえません。とても関心があることに強い感情がまったく伴わないなんて状態は、ごく普通の感性の持ち主には想像しがたいでしょうから。
国民主権の代理人としての外交担当者は、領土問題が主権者としての国民の「最大の関心事」であり、深甚なる国民感情がそこに込められているという認識を胸の奥に深く叩き込んで、ぎりぎりの交渉をしなければならないのです。それが、外交担当者の、ノーブレス・オブリージュ(高貴なるがゆえの責任)を果たそうとする政治的に高度な構えを生むことにもなります。そういう国民的な思いの裏付けのない単なる「実務」として外交をとらえる場合、そこにノーブレス・オブリージュは生まれようがないのです。
村上領土問題論が、近代国民国家の本質への洞察を致命的なまでに欠いた愚論中の愚論であることの説明は、これで十分なのではありませんか。
ここまで述べてきたことから、村上春樹さんがなぜ「魂」のこもらない死んだ文章を書いてしまったのか、もうお分かりいただけるのではないでしょうか。彼には、領土問題について論じながらそれについての当事者感覚がないのです。つまり、この文章には村上春樹という文学的存在が投企されていないのです。だから、この文章が状況との関連においてたとえ正しいものであろうとあるいは仮に間違ったものであろうと、村上春樹さん自身はまったく傷つかないのです。その意味で、これは血の通っていない文章なのです。だから、この文章には魂がまったく感じられないし、読み手はこれに対して死んだ文章の印象しか抱かないのです。「魂の行き来する道筋」、なんと馬鹿げた恥知らずなタイトルをつけたものでしょう。この文章を書いた段階では、村上春樹さんは最低の文学者なのです。誤字脱字がないことと文法的に誤りのないことだけが取り柄の文章を垂れ流してしまったのですから。
この文章の核心的なメッセージの二つ目を転載しましょう。
最初にも述べたように、中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない。それはあくまで中国国内の問題である。一人の著者としてきわめて残念には思うが、それについてはどうすることもできない。僕に今ここではっきり言えるのは、そのような中国側の行動に対して、どうか報復的な行動をとらないでいただきたいということだけだ。もしそんなことをすれば、それは我々の問題となって、我々自身に跳ね返ってくるだろう。逆に「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。それはまさに安酒の酔いの対極に位置するものとなるだろう。安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない。
これ、おかしな文章だとは思いませんか。「中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない」と言いながらも、ちゃっかりとすぐその後に「一人の著者としてきわめて残念には思う」と言っているのですよ。十分に「はっきり言」っているではありませんか。そのうえで、さらに日本政府に対して「そのような中国側の行動に対して、どうか報復的な行動をとらないでいただきたいということだけだ」と重ねて「はっきり言」っているのです。日本政府に、日本の書店で中国人著者の書物を引き揚げるようなマネは絶対にするなと言っているわけですね。それが、「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示す文化的に立派な態度なのだと、春樹さんはどうやら言っているようです。主権問題はそっちのけで、売文業者としてずいぶんと手前勝手な格調の低い議論をけっこう「はっきり」と繰り広げていますよね。
私は、これを読んで苦笑するよりほかありません。なぜなら、日本がそんな文化的に野蛮な振る舞いをすることは万に一つもありえないからです。それは、この国に住んでいればごく普通に分かることです。つまり、日本政府のそういう粗暴な振る舞いを日本国民は支持しないし、もっと強く言えばそれを拒絶するのではないでしょうか。ごく普通の日本人のそういうことがらについての標準的な考え方は「中国は確かに馬鹿なことをしている。だからと言って、日本はそれと同じ振る舞いをすべきではない。そんなことをしたなら、世界から中国と同じ文化的に低レベルの国と思われる。それは嫌だ、損だ」というものではないかと私は考えます。だから、もしも日本政府がそういう振る舞いに出たならば、国民の拒否反応がてきめんに内閣支持率の劇的な低下として政府に突き付けられることになるでしょう。そうして、政府はそれを織り込み済みです。だから、外交的選択肢として、そういう振る舞いはあらかじめ排除されています。
つまり村上春樹さんのご心配は、いわゆる杞憂にほかならないのです。杞憂に過ぎないことを本気で心配して警鐘を鳴らすのは滑稽というよりほかありません。だから、私は苦笑を禁じ得ないのです。それとも春樹さんは、ごく些細な心配事にも過剰に気を病む貴族の上品さを演出したいのでしょうか。とするなら、どうぞご勝手にと申し上げるよりほかはありません。
平たく言えば、これらの言葉はすべて、あなた(と言いましょう)の個人的な勇気を奮って中国政府に対して断固として向けられるべきものでしょう。それを私たちにいうのは、お門違いだし、いたずらに中国政府を利するだけのものにほかならないのですよ。分かりますか、村上さん。
もう一つ指摘しておきたいのは、「領土」という名の主権をめぐる国民の憂慮とそれを背景にした政府の苦慮とを「安酒呑み」という言葉で愚弄しかねない、あなたの度し難いまでの政治音痴ぶりあるいは傲慢さです。あなたは、自分に政治を論じる資格と(あえていいましょう)文学的な感性とが決定的に欠如していることをはっきりと自覚すべきです。政治をきちんと論じるには、ある種の文学的な感性が必要なのです。そうしてそれは、自分のことばかりにこだわり続けることで自分の文学世界を構築した春樹さんにはないものです。その意味で、村上文学は倫理とは無縁な文学なのです。念のために言っておきますが、これは村上文学を否定しているのではありませんよ。
さらに言っておけば、尖閣問題には、中共の覇権主義の妥協なき追求という側面があります。つまり、日本にとってはこれだけでも主権を揺るがす大問題なのですが、西太平洋全体の制海権を確保しようと思っている中共にとっては、それはファーストステップの通過点的な問題に過ぎないのです。その視点がないと、いくら何を言っても尖閣問題の本質にはかすりもしないのです。
もう、これくらいでいいでしょう。春樹さん、今後絶対に不得手な政治分野には口出しをしないことです。それが、個人的なことについてこだわり抜く自分の文学的な資質・生命を保持することにも通じるのです。あなたにアタッチメントは似合わない。あなたが政治問題を語るのは無理です。人にはそれぞれ天が与えた持分があるのです。それを自覚することが成熟することなのではありませんか。
あなたは、日本近代文学の最高傑作として三遊亭円朝の『真景累ケ淵』を挙げているそうではありませんか。私は、それに心から同意する者です。近代文学の大胆なルール破りを敢行することなしに、近代文学の限界を超えて魂の奥底への冒険を繰り広げることがとても難しくなっている文化状況に私たちはさしかかりつつあるのではないかと私は感じています。そういう問題意識を持つ者にとって、『真景累ケ淵』の存在が大きく浮かび上がりつつあると私は考えているのです。村上春樹さんの文学者としての勘の良さ・嗅覚はまだまだ衰えていないと、私は再認識しました。さすがは、村上春樹と思います。春樹さんの文学的な勘の良さは昔から一級なのです。
今回、ノーベル文学賞を逃したことを天の声と受けとめて、自分本来の場所に心静かに戻って行って、そこからもう一度あなたにしか紡げない、心の底からの美しい言葉を紡いでほしいと私は心から願っています。あなたは若いファンも多いようですから、間違っても彼らをたぶらかすような馬鹿なマネはしないでくださいね。
ちなみに「元祖大江健三郎」は、死んだ、魂のない文章を取り巻きから褒められ続けて、ついに自分の文学的な天分を食いつぶし尽くしてしまいました。村上春樹さんには、その轍を踏まないようにしていただきたいものです。見ている人はちゃんと見ていますから、間違っても「裸の王様」にならないようにしてくださいね。
〔付記〕
当ブログに二度投稿していただいた小浜逸郎氏から、この文章にちなんで次のようなコメントをいただきました。朝日新聞掲載の村上春樹の文章に対する批評として傾聴に値するものです。
村上春樹は、この種の文化人のご多分に漏れず、異文化を最大限に尊重するようなことを言っていますが、「文化」人として力を注いでいるはずの自分の仕事が、北京独裁政府という「政治」によって蹂躙されている事実に対して、「残念だ」などと腑抜けた感慨を述べているだけで、文化の扼殺(焚書坑儒)に対する何の抵抗も表明していません。彼は自分の本が本屋さんから消されたことは、「政治の悪」の問題以外のなにものでもないのに、それを、「異文化」の問題として免罪するというとんでもないスリカエをやっています。腰抜けというほかありません。日本国民の健全なナショナリズムの反応を「安酒による悪酔い」とけなすなら、北京政府のどうしようもない政治的「泥酔・狼藉」に対してなぜ言及しないのか。中国国内で身柄を拘束されるわけではなし、いくらでも自由な発言が可能なはずなのに、文学者にとって命と同じくらい大切な自分の仕事に対する弾圧に、なんの対応もしないというこの態度は、彼がじつは自分自身の本丸であるはずの文学などもはや大事にしていないということの証明ではないかと思います。そう思いたくはありませんが、彼のノーテンキな言葉からは名利に溺れて初心を忘れた者の腐臭がどうしようもなく漂ってくるように私には感じられます。
小浜氏の、批評家としての慧眼を再認識しました。