美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

村上春樹のノーベル文学賞受賞逃しを祝す 小浜逸郎氏のコメント付き  (イザ!ブログ 2012・10・17 掲載)

2013年12月01日 18時19分45秒 | 文学
タイトルから、私をへそ曲がりと判断しないでください。私はある意味でへそ曲がりですが、今回はどうやら曲がってはいないようです。心の底から「村上春樹さん、ノーベル文学賞を取れなくて、本当に良かったですね」と思っているのです。

なぜそう思うのか。それは、村上春樹さんがいまの状態でノーベル賞を取ってしまうと、決定的に「第二の大江健三郎」になりさがってしまうのではないかと思うからです。私にとって、それはいささか残念なことなのです。

ここで「第二の大江健三郎になること」とは、高い知名度ゆえに柄にも合わない知識人の役割を引き受けることで、具にもつかない政治的発言を垂れ流し、文学者としての自分の価値・名声を台無しにしてしまう間抜けな小説家の二番煎じを演じることを指しています。違った言い方をすれば、本人は、ドロドロとした国際政治状況から一定の距離をとった、地球市民的な麗しい人類愛に満ちた立場を保持しているつもりでいるが、政治状況の全体的な構図にその発言を置いてみると一定の生臭い政治的役割を果たしてしまっている、という政治の不可避的な力学に対して致命的に無知な知的愚者の二の舞を演じることを指しています。

という言い方に、村上春樹ファンは不快感を抱くのかもしれません。「村上春樹さんは、そんな愚か者ではない」というふうに。しかし私は、村上春樹さんを愚弄するつもりなど毛頭ありません。「春樹さん、自分の文学者としての名を惜しみなさい」と申し上げたいだけなのです。というより、「神の見えざる手」が、彼を誤った道から救い出すために、今回あえて彼にノーベル文学賞を与えなかったのではないか、と言いたいくらいなのです。「ちょっと頭を冷やして、お前の仕事はもっと良い小説を書くことだけなのだという厳粛な事実に気づきなさい。バカ新聞にバカ発言を載せている場合ではないのだよ」というふうに。

私の念頭にあるのは、9月28日(金)の朝日新聞朝刊に載った彼の「魂の行き来する道筋」という文章です。この文章を読んで、こんな(どんななのかは後ほど具体的に触れます)、タイトルを裏切るような「魂」のない文章を書くようでは村上春樹も焼きが回ったものだと、私は思いました。

彼は、稀代の文章家として名を馳せ続けてきた文学者です。私は伊達や酔狂でそう言っているのではないのです。以前親しくおつきあいいただいていた、ある大手名門出版社のかつての名編集長が一緒に酒を飲みながら次のようなことをしみじみと語ったことがあります。「編集者というのは、自分が関わっている文章にちょっとでも変なところがあると、無性に赤を入れたくなるものなんだよね。だから、私はほとんどの書き手の文章に赤を入れてきたよ。でも、村上春樹の文章にだけは一度も赤を入れたことがないんだ」私は、それを聞いて心のなかで唸りました。そのときに自分が文章家村上春樹の凄味に触れる思いがして絶句したことを、いまでも鮮やかに覚えています。

そんな名人芸の域に達した文章書きの村上春樹さんが、今回まったく読み手の心に響かない死んだ文章を長々と書いているのは、彼が文学者としていま危機的状況にあることのなによりの証拠です。歌心に溢れた歌手が突然変調をきたしたら、聞き手は「あ、こいつヤバい」と思うでしょう。要するにそういうことですね。

新聞に載るにしてはけっこう長めのこの文章の核心的なメッセージは二か所あります。まずは一か所目を転載します。ちょっと長くなりますが、ご勘弁を。

国境線というものが存在する以上、残念ながら(というべきだろう)領土問題は避けて通れないイシューである。しかしそれは実務的に解決可能な案件であるはずだし、また実務的に解決可能な案件でなくてはならないと考えている。領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる。それは安酒の酔いに似ている。安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。論理は単純化され、自己反復的になる。しかし、賑やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。そのような安酒を気前よく振る舞い、騒ぎを煽るタイプの政治家や論客に対して、我々は注意深くならなくてはならない。

彼が政治問題に対して一定の見識を披露し、そこから具体的な提案を導き出している以上、それは、社会性を帯びた責任ある政治論として遇されなければならないでしょう。私はこれから、村上領土問題論を根のところから否定する言説を展開するつもりですが、そこに文学者の素人くさい政治論をシバキ上げる加虐趣味を読み取ってもらっては困る、と申し上げたいのです。

「領土問題は実務的に解決可能な案件であるはずだし、そうでなければならいない」という村上領土問題論は、近代国民国家の本質への洞察を致命的なまでに欠いた愚論中の愚論です。

まず、国境とは何でしょう。それは、二か国以上の主権の及ぶ範囲の境目を示すものです。その範囲についての認識が行き違うとき「領土問題」が生じます。

だから、「領土問題」の本質は「主権と主権とのぶつかり合い」なのです。そうして、主権の本質は、それが独占的で排他的であるところに存します。そのことへの共通了解が成立することによって、独立国家の集まりとしての近代国際政治の世界が生まれるのです。

だから「領土問題」が生じた場合、当事国はお互いに譲るわけにはいきません。なぜなら、「領土問題」について譲ることは、近代国家成立の根本要件としての主権の毀損・喪失の甘受を意味するからです。それは、独立した近代国家としてはあり得ないことなのです。しかし、そこをなんとかしなければなりません。そこで国際政治は、経済力や軍事力を背景にした外交によって、その都度解決しがたい領土問題を暫定的に解決してきたのです。その「解決」の中には、クラウゼビッツのいうような、戦争という名の「別の形をとった外交」も含まれます。そうやって、大きく言えば第一次大戦までは勢力均衡方式で、その後は集団安全保障方式によって、国家間の「領土」をめぐる激突を避けようとしてきたのです。

ところで、近代国民国家において、主権者は国民自身です。だから、主権問題は国民自身の問題なのです。とするならば、領土問題はその当事者としての国民の最大の関心事であらねばならないし、現実的にもそうなっているものと思われます。でなければ、マスコミが連日のように尖閣問題を報じるはずがありませんものね。とするならば、領土問題に深甚な国民感情が伴うのは、人性のしからしむるところとなります。それを拒否する言辞を弄するのは、「人性の専門家」である文学者として失格であると断じざるをえません。とても関心があることに強い感情がまったく伴わないなんて状態は、ごく普通の感性の持ち主には想像しがたいでしょうから。

国民主権の代理人としての外交担当者は、領土問題が主権者としての国民の「最大の関心事」であり、深甚なる国民感情がそこに込められているという認識を胸の奥に深く叩き込んで、ぎりぎりの交渉をしなければならないのです。それが、外交担当者の、ノーブレス・オブリージュ(高貴なるがゆえの責任)を果たそうとする政治的に高度な構えを生むことにもなります。そういう国民的な思いの裏付けのない単なる「実務」として外交をとらえる場合、そこにノーブレス・オブリージュは生まれようがないのです。

村上領土問題論が、近代国民国家の本質への洞察を致命的なまでに欠いた愚論中の愚論であることの説明は、これで十分なのではありませんか。

ここまで述べてきたことから、村上春樹さんがなぜ「魂」のこもらない死んだ文章を書いてしまったのか、もうお分かりいただけるのではないでしょうか。彼には、領土問題について論じながらそれについての当事者感覚がないのです。つまり、この文章には村上春樹という文学的存在が投企されていないのです。だから、この文章が状況との関連においてたとえ正しいものであろうとあるいは仮に間違ったものであろうと、村上春樹さん自身はまったく傷つかないのです。その意味で、これは血の通っていない文章なのです。だから、この文章には魂がまったく感じられないし、読み手はこれに対して死んだ文章の印象しか抱かないのです。「魂の行き来する道筋」、なんと馬鹿げた恥知らずなタイトルをつけたものでしょう。この文章を書いた段階では、村上春樹さんは最低の文学者なのです。誤字脱字がないことと文法的に誤りのないことだけが取り柄の文章を垂れ流してしまったのですから。

この文章の核心的なメッセージの二つ目を転載しましょう。

最初にも述べたように、中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない。それはあくまで中国国内の問題である。一人の著者としてきわめて残念には思うが、それについてはどうすることもできない。僕に今ここではっきり言えるのは、そのような中国側の行動に対して、どうか報復的な行動をとらないでいただきたいということだけだ。もしそんなことをすれば、それは我々の問題となって、我々自身に跳ね返ってくるだろう。逆に「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。それはまさに安酒の酔いの対極に位置するものとなるだろう。安酒の酔いはいつか覚める。しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない。

これ、おかしな文章だとは思いませんか。「中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない」と言いながらも、ちゃっかりとすぐその後に「一人の著者としてきわめて残念には思う」と言っているのですよ。十分に「はっきり言」っているではありませんか。そのうえで、さらに日本政府に対して「そのような中国側の行動に対して、どうか報復的な行動をとらないでいただきたいということだけだ」と重ねて「はっきり言」っているのです。日本政府に、日本の書店で中国人著者の書物を引き揚げるようなマネは絶対にするなと言っているわけですね。それが、「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示す文化的に立派な態度なのだと、春樹さんはどうやら言っているようです。主権問題はそっちのけで、売文業者としてずいぶんと手前勝手な格調の低い議論をけっこう「はっきり」と繰り広げていますよね。

私は、これを読んで苦笑するよりほかありません。なぜなら、日本がそんな文化的に野蛮な振る舞いをすることは万に一つもありえないからです。それは、この国に住んでいればごく普通に分かることです。つまり、日本政府のそういう粗暴な振る舞いを日本国民は支持しないし、もっと強く言えばそれを拒絶するのではないでしょうか。ごく普通の日本人のそういうことがらについての標準的な考え方は「中国は確かに馬鹿なことをしている。だからと言って、日本はそれと同じ振る舞いをすべきではない。そんなことをしたなら、世界から中国と同じ文化的に低レベルの国と思われる。それは嫌だ、損だ」というものではないかと私は考えます。だから、もしも日本政府がそういう振る舞いに出たならば、国民の拒否反応がてきめんに内閣支持率の劇的な低下として政府に突き付けられることになるでしょう。そうして、政府はそれを織り込み済みです。だから、外交的選択肢として、そういう振る舞いはあらかじめ排除されています。

つまり村上春樹さんのご心配は、いわゆる杞憂にほかならないのです。杞憂に過ぎないことを本気で心配して警鐘を鳴らすのは滑稽というよりほかありません。だから、私は苦笑を禁じ得ないのです。それとも春樹さんは、ごく些細な心配事にも過剰に気を病む貴族の上品さを演出したいのでしょうか。とするなら、どうぞご勝手にと申し上げるよりほかはありません。

平たく言えば、これらの言葉はすべて、あなた(と言いましょう)の個人的な勇気を奮って中国政府に対して断固として向けられるべきものでしょう。それを私たちにいうのは、お門違いだし、いたずらに中国政府を利するだけのものにほかならないのですよ。分かりますか、村上さん。

もう一つ指摘しておきたいのは、「領土」という名の主権をめぐる国民の憂慮とそれを背景にした政府の苦慮とを「安酒呑み」という言葉で愚弄しかねない、あなたの度し難いまでの政治音痴ぶりあるいは傲慢さです。あなたは、自分に政治を論じる資格と(あえていいましょう)文学的な感性とが決定的に欠如していることをはっきりと自覚すべきです。政治をきちんと論じるには、ある種の文学的な感性が必要なのです。そうしてそれは、自分のことばかりにこだわり続けることで自分の文学世界を構築した春樹さんにはないものです。その意味で、村上文学は倫理とは無縁な文学なのです。念のために言っておきますが、これは村上文学を否定しているのではありませんよ。

さらに言っておけば、尖閣問題には、中共の覇権主義の妥協なき追求という側面があります。つまり、日本にとってはこれだけでも主権を揺るがす大問題なのですが、西太平洋全体の制海権を確保しようと思っている中共にとっては、それはファーストステップの通過点的な問題に過ぎないのです。その視点がないと、いくら何を言っても尖閣問題の本質にはかすりもしないのです。

もう、これくらいでいいでしょう。春樹さん、今後絶対に不得手な政治分野には口出しをしないことです。それが、個人的なことについてこだわり抜く自分の文学的な資質・生命を保持することにも通じるのです。あなたにアタッチメントは似合わない。あなたが政治問題を語るのは無理です。人にはそれぞれ天が与えた持分があるのです。それを自覚することが成熟することなのではありませんか。

あなたは、日本近代文学の最高傑作として三遊亭円朝の『真景累ケ淵』を挙げているそうではありませんか。私は、それに心から同意する者です。近代文学の大胆なルール破りを敢行することなしに、近代文学の限界を超えて魂の奥底への冒険を繰り広げることがとても難しくなっている文化状況に私たちはさしかかりつつあるのではないかと私は感じています。そういう問題意識を持つ者にとって、『真景累ケ淵』の存在が大きく浮かび上がりつつあると私は考えているのです。村上春樹さんの文学者としての勘の良さ・嗅覚はまだまだ衰えていないと、私は再認識しました。さすがは、村上春樹と思います。春樹さんの文学的な勘の良さは昔から一級なのです。

今回、ノーベル文学賞を逃したことを天の声と受けとめて、自分本来の場所に心静かに戻って行って、そこからもう一度あなたにしか紡げない、心の底からの美しい言葉を紡いでほしいと私は心から願っています。あなたは若いファンも多いようですから、間違っても彼らをたぶらかすような馬鹿なマネはしないでくださいね。

ちなみに「元祖大江健三郎」は、死んだ、魂のない文章を取り巻きから褒められ続けて、ついに自分の文学的な天分を食いつぶし尽くしてしまいました。村上春樹さんには、その轍を踏まないようにしていただきたいものです。見ている人はちゃんと見ていますから、間違っても「裸の王様」にならないようにしてくださいね。

〔付記〕

当ブログに二度投稿していただいた小浜逸郎氏から、この文章にちなんで次のようなコメントをいただきました。朝日新聞掲載の村上春樹の文章に対する批評として傾聴に値するものです。

村上春樹は、この種の文化人のご多分に漏れず、異文化を最大限に尊重するようなことを言っていますが、「文化」人として力を注いでいるはずの自分の仕事が、北京独裁政府という「政治」によって蹂躙されている事実に対して、「残念だ」などと腑抜けた感慨を述べているだけで、文化の扼殺(焚書坑儒)に対する何の抵抗も表明していません。彼は自分の本が本屋さんから消されたことは、「政治の悪」の問題以外のなにものでもないのに、それを、「異文化」の問題として免罪するというとんでもないスリカエをやっています。腰抜けというほかありません。日本国民の健全なナショナリズムの反応を「安酒による悪酔い」とけなすなら、北京政府のどうしようもない政治的「泥酔・狼藉」に対してなぜ言及しないのか。中国国内で身柄を拘束されるわけではなし、いくらでも自由な発言が可能なはずなのに、文学者にとって命と同じくらい大切な自分の仕事に対する弾圧に、なんの対応もしないというこの態度は、彼がじつは自分自身の本丸であるはずの文学などもはや大事にしていないということの証明ではないかと思います。そう思いたくはありませんが、彼のノーテンキな言葉からは名利に溺れて初心を忘れた者の腐臭がどうしようもなく漂ってくるように私には感じられます。

小浜氏の、批評家としての慧眼を再認識しました。
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小説『お澄さんの思い出 私という小窓から見えるもの』(イザ!ブログ 2012・8・7 掲載)

2013年11月25日 08時06分40秒 | 文学


お澄さんは、父の姉である。本名を澄江という。今年、八十歳になるのではないだろうか。生まれは北海道の小樽で、若いころ家族と札幌に移り住み、そのまま同市内に住みついた。

お澄さんは、私が幼少のころからバター飴などの北海道の物産をまめに送ってくれた。会ったこともない甥を喜ばせようとしてくれたのだろうと思う。また、それは二十年以上会っていない弟(つまり父)との再会の願いをこめた振る舞いでもあったのだろう。バター飴の、サイロの形をした缶に描かれた、ホルスタインの点在する牧場の風景の写実的なイラストを飽きずに眺めては、まだ見ぬ北海道への憧れをふくらませたものだった。私は南国に生まれ育った者なのである。私の北海道をめぐる子どもじみた妄想に、しびれをきらさずにゆったりと付き合ってくれた父のことを、私は今でも覚えている。父は父でそうしながら、望郷の思いに心がさらわれていくのにわが身をまかせるひとときがあったはずである。

お澄さんに初めて会ったのは、小学校四年生の夏休みのことだった。初めての札幌の夏は、空気がさらさらしていて気分が爽快だった。そのころのお澄さんは、市内の狸公路という繁華なアーケード街にある「ひかり寿司」という老舗の寿司屋に勤めていて、そこに私と母を連れて行ってくれたのを覚えている。確か、太巻き寿司をごちそうになったと記憶している。それは生まれて初めて口にするメニューであった。

長崎県の対馬というとんでもない田舎から出てきたばかりの私にとって、小柄で底抜けに明るくて、清らかな光を帯びた瞳のお澄さんがとても都会的に感じられてまぶしかった。飾り気がなくて、けらけらと本当によく笑う人だった。確か三十代半ば過ぎだったのではないかと思う。お澄さんは、合わない入れ歯のせいでいつも口をもぐもぐさせている祖母と、色恋沙汰で家庭を引っ掻きまわした妻とすったもんだの末に離婚をしたばかりの伯父と、そして不安定な家庭環境のせいでちょっとすね気味で目の底に暗い影を宿した、伯父の一人娘、つまり私の従妹の一家四人で札幌市郊外の団地に住んでいた。私たち一家三人が夏休みの間過ごしたのもそこだった。かなり手狭に感じられはしたが、家庭用の水洗トイレなるものに始めてお目にかかった私としては、それもまた都会住まいの特徴なのだろうと一人で納得したのだった。伯父は、もちろん父の兄であり、本家筋に当たる。当時は札幌市役所に勤めていた。四人のうちいまでも生きているのは、胃癌を患っている七六歳の伯父とお澄さんだけである。祖母は一二年前に亡くなった。眠るように意識を失くしていったという。享年八八歳である。また、伯父の娘は私のただ一人の父方の従妹だったのだが、数年前に四七歳で一人娘を残して亡くなった。死因は乳癌である。彼女は、苦しみながら死んだという。

伯父の再婚相手である義理の伯母から後に聞いたことなのだが、お澄さんは、一度だけー変な言い方になるがー結婚の真似事みたいなのをしたことがあるそうだ。見合い結婚のような形だったらしいのだが、詳しいことはわからない。籍を入れたのかどうかさえもわからない。彼女が四十歳前後のことと思われる。相手は年を食った板前さんだったそうで、新婚生活は一週間と続かなかったらしい。数日で実家に逃げ帰ってきたとのことだ。愛情のまったくない結婚だったことだけは想像がつく。おそらく相手が「変なこと」をしようとするので怖くて逃げてきたのではないだろうか。あるいは、むりやり「変なこと」をされたのがショックで逃げ帰って来たのかもしれない。そのあたりの真相は闇のなかである。いずれにしても、自分の結婚なのに、そこには自分の意志の所在が感じられない。お前もそろそろ、という伯父を中心とする周りの無言の圧力に抗し切れなくなった、といったところが事実なのではなかろうか。寒々とした話である。

そういう一連の出来事を境に、お澄さんは変になった。いま流行りの言葉で言えば、鬱状態になった。いつも笑っていた人が、うつろな目で四六時中しょんぼりとしている人になったのである。

そんなお澄さんが、当時函館に住んでいた私たちの元に伯父の意向で送られてきた。伯母といっしょに過ごしてみろ、そうして自分たちがどれだけ苦労してきたか少しは思い知れ、というわけだ。伯父は、確か「お前たちに試練を与える」という言い方をしたと記憶している。母は、その口ぶりに憤りを感じたようだった。事あるごとに、その言い方はないだろうという愚痴を子どもの私にこぼしたのを覚えている。まあ、ずいぶんと乱暴な話ではある。

詳しい事情をなにも知らされなかった当時の私たちは、お澄さんのあまりの変貌ぶりに面食らってしまった。とはいうものの、昔の明るかったころの彼女を知る父も母もそして中学一年生の不肖私も、なんとかしてあげたいと心から思った。しかし、なんともならないのだった。いまだったら、精神科に通院したり、あるいは入院したりすることになるのだろうが、そういうことがまだ庶民レベルでは常識にはなっていない時代だったのだ。精神病院は当時「キチガイ病院」 と蔑称されていたのである。素人考えで、お澄さんにあれこれとアプローチを試みるのだが、それが功を奏するはずもなかった。われわれは、結局のところ鬱病の人に「がんばれ、がんばれ」 と言い続けたのも同然だったのだから。

お澄さんが我が家に来てから数ヶ月経ったころだっただろうか。私が坂の上にある木造のおんぼろ中学校から帰ってくると、彼女は奥の部屋にいて、いつものように正座の姿勢で両手を片ひざの上に重ねてしょんぼりとしていた。彼女の我が家での役目は、母がパートに出て夕方まで帰らない留守宅を預かることだったのだ。薄暗い部屋のなかで、その、風船がしぼんだような姿はいまさらながらあまりにも哀れだった。猫背気味の背に、初秋の午後の薄日が差している。私は、なんとはなしに、これまでよりも深く彼女に関与して、事態をいまここで少しでも打開したいという、子どもらしい不器用な欲求のせりあがりに抗しきれなくなってしまった。

「お澄おばちゃん、このままでいいと思うとっとね!」

当時の私は興奮すると生まれ故郷の対馬弁が飛び出すくせがあった。普段は北海道弁と青森弁とのチャンポンである。それは、函館に引っ越してくる前に長く青森県にいたせいである。青森県にいたころ、私はなまりの強烈な地元の子どもたちを相手に、対馬弁と青森弁とのどちらの方言が変なのかをめぐっての、こちらに分の悪い多勢に無勢の口げんかを延々と繰り広げたものだった。彼らは、私の南国なまりを嘲笑った。自分としては、彼らよりは標準語に近い言葉で話しているつもりでいたので、頑として引き下がろうとしなかったのである。正真正銘の田舎者である私が、彼らのことを「この分からず屋の田舎者どもが」と我を忘れて憤っていたことになる。

「ちゃんとせんね。お澄おばちゃんだって、女やろうが。」

そのあまりの化粧っ気の無さがお澄さんの情けない現状を象徴しているようで、そういうことの改善が、残念としか形容のしようのない現状の突破口になるかもしれないという思いに、私の青臭い頭は支配されてしまったのである。善は急げといわんばかりに、母の鏡台からアイ・ラインと口紅とを取り出してきて、まずはアイ・ラインを彼女のまつげに細心の注意を払って塗り始めた。なかなか思ったようにはうまくいかないのだが、それなりになんとかなったようにも感じた。次は、口紅である。これがけっこうむずかしい。母が口紅を塗っているときの様子を思い浮かべて、彼女に唇に力を入れるように指示をする。私の命令に従って、そのしぼんだ唇のたて皺がのばされると、それなりに艶を帯びる。そこに潤いのある口紅を塗る。そういえば、目の上に塗る青いのもあった。アイ・シャドーの存在を思い出したので、鏡台の引き出しからそれを探し出してきて、最後の仕上げにそのまぶたを丹念に青で染めた。

お澄さんはいやいやをせずになされるがままなので、私は自分の振る舞いに対してほとんど抵抗を感じなかった。自分が甥としての一線を超えた振る舞いをしているという自覚が希薄だったのである。むしろ、初めての行為に我を忘れて没頭していたと言ったほうがよいように思う。もちろん、せっかくだから少しでもきれいにしたいという欲はあったので、払いうるかぎりの注意を子どもなりに払ってほどこしてはいた。出来具合をチェックするために、彼女の睫毛や唇を至近距離で目を皿のようにしてしげしげと見つめるのだった。女性特有の体臭が少しだけ気になった。

一応なんとか形がついたように感じたところで、ようやく手を止めて、お澄さんに言った。

「ほらあ、ちゃんときれいになったろうが。毎日きちんとせんばいかんよ。」

それに対してお澄さんはさしあたりこれといった反応は示さなかった。

ところが、しばらくすると、アイ・シャドーをほどこした彼女の、力が抜けて垂れ下がったようになっている目から、ぽろ、ぽろと涙のしずくがこぼれるのだった。そうして、なにも言わずに虚空のどこか一点を見つめているような塩梅なのである。

私は、そんなお澄さんの顔を見つめているうちに、それが泣きべそのピエロにとてもよく似ていることに気づいた。その気づきは、私が熱中した化粧の仕上がりが無残な失敗に終わったことを判然とさせることになってしまった。すこしでもきれいにしたいもなにもあったものではない。夢から急に覚めかけたような状態のなかで、自分の振る舞いに対して後ろめたさのようなものが湧き起こってくるのをうっすらと、しかしごまかしようもなく感じはじめるのだった。その思いが次第に強まってくると、私はおろおろしはじめた。 

しまった。伯母はこのことを母に告げ口するのではないか。どうしよう。口止めをしようか。しかし、それも変だ。困った。父にもひどく怒られるのだろうか、やはり。 

自分のお澄さんに対する振る舞いに、当時萌しつつあった、女性の身体なるものに対する好奇心を満たそうとする邪まな心がまったくまじっていないとは言い切れない揺らぎのようなものの存在をわが身に感じ取っていた、ということもあったのである。もちろん、そのときはそういうはっきりした言葉が浮かんできたわけではなかった。その分、いわく言いがたい不安が急にむら雲のように募ってきたのだろう。

その日は事の顛末を見定めるまで気が気ではなかったのだが、結局のところ、母が私になにかをきつく問い詰めるようなことはなかった。どうやらお澄さんは母に告げ口をしなかったらしい。ただし、さすがにその変な仕上がり具合の化粧は目に留まったようで、母がどうしたのと彼女に尋ねたので、私のほうからあっけらかんとした風を装って、お澄おばちゃんが女なのにあんまりにも身なりに気を使わないから僕が化粧をしてあげた、と打ち明けた。すると、母は、鈴を振ったように笑った。母が帰宅した父にそれを告げると、父も目を細めて笑った。「お澄ねえさん、なかなかの美人になったべさ。」私は、微妙な難局をどうやらしのげたようだと密かに胸をなでおろした。

両親は、しよう思えば、私を叱責することもできただろう。なぜ、そうしなかったのか。おそらく、二人もまた私と同じように、化粧っ気のまったくないお澄さんに対してもう少しなんとかならないものかという思いを常日頃いだいていたのだろう。そのもどかしさを子どもっぽく不器用にそうして性急に解消しようとした私の振る舞いに、自分たちの思いの戯画のようなものを感じて思わず笑ってしまったのではないだろうか。今でも、私は二人がお澄さんのことを笑い者にしたとは受けとめていない。

お澄さんとの同居をめぐる破局は意外な形で突然に訪れた。きっかけは、海上自衛官である父の昔の部下が、南国九州は博多からはるばる函館の我が家を訪ねて来たことだった。せっかくだからという流れで、函館の夜景を皆で見に行くことになった。それで、お澄さんに留守番を頼んで、私たちは函館山に出かけたのだった。

夜遅く帰宅してみると、家の中に異様な光景が展開されていた。玄関とその隣の部屋に大量の吐瀉物が点々と散らばっていて、奥の部屋にはお澄さんがくず折れそうな身体を両腕でかろうじて支えているのが見えた。苦しさのあまり這いずり回ったものと見える。充満する吐瀉物と日本酒の臭い。ほとんど正気を失いそうになりながら、われわれに挑みかかるようなお澄さんの不敵な目つき。そうして、「あんたたちぃ、覚えておきなさいよぉ」という、心の奥底から搾り出されるような呪詛。私たちは言葉を失ったのだった。子どもながらに、父の部下に対して申し訳なく思ったものだった。伯母は、なんということをしてくれたのだ、と。

札幌の伯父が駆けつけたのはその数日後だったと思う。お澄さんは伯父に連れられておとなしく我が家を去った。

結局のところ、伯父は我が家になにを求めたのだろう。

今から思えば、お澄さんは私たちと一緒に函館の夜景見物をしたかったのではなかったか。それがかなわず一人淋しく家に残ることになり、除け者にされたような気分に陥ったのだろう。要するに、いじけたのだ。それが引き金になって、周りの「がんばれ、がんばれ」攻撃で溜まっていたストレスを吐き出さざるを得ない心理的な臨界点に達したのではないか。また、周りから押されるようにしてしただけの非自発的で不本意な結婚で受けたまだ生々しい心の痛手を、誰にどう訴えたらいいのか、皆目見当がつかずに、心のやり場のない思いをかかえてもだえてもいたのではなかろうか。そこには、恥ずかしくて他言できないことがらもおそらくは含まれていたはずである。それで、飲めないお酒を大量に飲むという自暴自棄的な挙に出た。そういうことなのではなかったのか。鬱病患者に接するうえで、彼らを「がんばれ、がんばれ」と励まし続けるのが禁じ手であることは今では常識である。そんなこととは夢にも思わない当時のわれわれは、彼女に対して無自覚な暴力を行使し続けていたのだろう。

次にお澄さんに会ったのは、私が大学二年生の冬休みのころだった。冬の札幌の本家に十日間ほどお世話になったのである。お澄さんは、函館に来たころとは見違えるほど元気になっていた。彼女が「昭義ちゃん」と私に明るく声をかける姿は、初めて会ったころの「お澄おばちゃん」を彷彿とさせた。私はお澄さんの回復を心底喜んで、よかったね、よかったねと何度も声をかけた。その翳りのない明るい声のおかげで、私はお澄さんに対する中学生のときの不届きな振る舞いを思い出さずにすんだ。そのことに私は、身体のどこかで安堵の溜息をついていたような気がする。

伯父によれば、お澄さんが某教団の機関新聞を毎日配達しているのが回復の大きなきっかけになった、とのこと。世の中のお役に立つことを継続できているという自信のそれなりの深まりが功を奏したというわけだろう。ただし、同新聞の配達は無報酬に近い仕事である。某教団の信者にとっては、功徳を積んでご利益にあずかるための有難いお勤めなので報酬など基本的に不要、ということらしい。そのため、お澄さんがその仕事で自活するのはかなわなかった。というより、自活なるものは伯母の人生にとって行動目標になることはどうやらなかったようだし、いまでもそのようなのだ。そこのところはどう考えているのか、本人に聞いてみたことはない。聞けるはずもない。そういう人として伯父の家にずっといる。というより、いたというべきである。そのことについては後ほど話そう。

本家筋は全員が某教団の信者である。実は、そのことをめぐって、我が家と本家とがどうもしっくりといかない、という事態がこれまでずっと続いてきた。父も母も私も、そろって某教団を苦手にしている。血のつながりや友としての親密さより、同教団の教祖に対する崇拝を優先し、その存在を絶対視する彼らの感性への違和感が拭いがたいのだ。彼らは、そういうごく自然に湧いてくる、血のつながりのある者に対する温かい情を、布教活動に利用しているようにしか見えない。そこがカチンとくる。ほかのことでは意見を異にしても、そのことについてだけは三人の間で意見が一致しているのである。

しかるに、本家筋の四人は信者の中でも相当熱心に活動している人たちだったし、生きている二人はいまでもそうなのである。義理の伯母ももちろんそうである。お澄さんについて言えば、伯父が良しとすることをなんの疑いも持たずに素直に受け入れているだけなのではあるが。私は、彼女が某教団の教えについて理屈めいたことを口走るのを聞いた記憶がない。

だったら、こちらがなるべく関わりを持たないように気をつければよいだけのこと、と言えそうだ。ところが、父は昔の教育を受けた人なので、長幼の序の観念を、早死にした祖父から子供のころに徹底的に叩き込まれている。つまり、弟たるもの、常に兄を引き立てるべし、と鉄拳制裁を通じて性急に教え込まれたのである。祖母もそれを自明のこととしているとしか思えないような雰囲気を醸し出していたらしい。

だから、父は伯父から某教団のことをいろいろと吹き込まれるとなにやら過剰に反発して、ときには怒りの限度が過ぎると頭の調子がおかしくなってしまうのである。そうなると、自分は信者でもないのに、早朝から変な調子で某教団の呪文を怒声で唱え続けたりして、家中が振り回されることになる。そうして、おかしな頭のまま某教団が属する流派の他のグループと関わりを持ったりして、そこで吹き込まれた知識をもとに、真の宗教がいかなるものであるのかを伯父に諭そうとしたりする。兄を間違った道から救い出そうというわけである。兄から軽くあしらわれてそれがうまくいかないとなると、今度は大酒を喰らって世間中をのしまわる。暴れる。わめく。父は、幼いころとすっかり変わってしまった伯父の現実をそのまま受け入れることが、いまにいたるまでどうしてもできないらしいのだ。人は、ときとして、狂気という代償を払ってでも自分が自分たるゆえんと信じるものを守ろうとするものなのだろうか。

本家筋に某教団の教えを持ち込んだのは、祖母である。祖母が亡くなってひと昔あまりの歳月が流れたのではあるけれど、私はいまだに祖母に対して良い感じを持っていない。それは、祖母と血のつながりのある者として、とても残念なことではある。

率直に言ってしまえば、祖母はエゴイストなのである。それは、人間誰しもエゴイストである、という意味合いとはいささか異なる。実の娘であるお澄さんを自分に奉仕するためだけに存在する召使のようなものに育て上げてしまったところをそうと感じるのだ。だから、お澄さんは自分の利益になるように振る舞う、というごく普通の意味での計算高さを身につけ損なうことになった。処世に関して、それは致命的なことであったように思う。というのは、それは、彼女が世間の様々な形での暴力に対してほぼノー・ガードで生きざるを得ないことを意味するからである。お澄さんは、世間の打算的なものからわが身を守ったり、自分で打算的に物事を考えて、世間のそれと突き合わせたりするというごく普通の大人がやっていることがからっきしダメなのである。徹底的にダメなのである。私は、お澄さんほどに無垢な大人をほかに知らない。そんな人が本当にいるのか、と言われてもいるものはいるとしか言いようがない。お澄さんが俗世間にわが身をさらそうとすると、必ず大きな痛手を蒙ることになるので、血族という名の保護膜に包まるようにして生きているよりほかはないのだ。そういう生き方をせざるをえないのは、私の目からすれば、彼女のせいではない。ただし、血族が本当に保護膜の役割を果たしえたのかどうかについては、正直なところ、うまく言えないところがある。

どういう親に育てられようと、大人として、自分の弱点を自分のものとして引き受けるべきである、親のせいにするのは発展性がない、という正論をふまえるならば、彼女の場合、そういう不恰好な生き方そのものが、彼女なりの引き受け方なのである、というほかないのではないか。お澄さんは、一度たりとも祖母に対して陰湿な恨み言をこぼした形跡がないのだから。子どものような喧嘩は二人でしばしばしているようだったけれど。お澄さんは、誰のことについても陰口なるものをこれまでの人生において一度たりともたたいたことがない人なのである。

話を、大学二年生のときのことに戻そう。

お澄さんが毎日のように作ってくれた石狩鍋が、札幌の冬の厳しい寒さでかじかんだ身体を芯から温めてくれてとても美味しかった。特に、北海道のシャケは本場物だけに美味しかった。そのことを彼女に告げたせいだろうか、自宅に帰った私のところに、シャケをほぐしたものをベースに、北海道の海産物をふんだんにまぶした手作りのお茶漬けの具が大量に何度もお澄さんから送られてきたのだった。私が幼少のころと、彼女の振る舞いや心持ちはまったく変わっていなかったのだ。お澄さんは、新聞配達で得た雀の泪ほどの報酬を惜しげもなく甥への贈り物につぎ込んだはずである。

その次にお澄さんに会ったのは、祖母の葬式のときだった。私が四十歳のときである。いわば底なしの共棲関係にあった祖母を失くして、お澄さんはさぞかし悲しかっただろうと思われるのだが、葬儀のときの彼女の姿を、私はどうしても思い出せない。ひょっとして、長年の、祖母による精神的な支配をめぐる無意識の暗闘から解放されて虚脱状態に陥り、悲しみの表情を浮かべるまでに至らなかったので印象に残っていないのかもしれない、とも思う。覚えているのは、彼女を元気づけようと、三万円のお小遣いをあげたことだ。お澄さんは、自由に使えるお金を持っていなさそうに見えたのである。

自宅に戻った数日後、母から電話があった。母によれば、義理の伯母から電話があって、その内容は、私がお澄さんにお小遣いをあげたのを迷惑がっているという主旨のことをやんわりと告げるものだった、とのこと。お澄さんは、小金を手にすると興奮して変な使い方をするそうなのだ。例えば、味噌ラーメンを二十杯注文して近所の人たちに大盤振る舞いするとか、シャケを何十尾も買い込んで知人に配るとかいったことだ。そうして、今回は毛蟹を買えるだけ買って近所に配ったというのである。

それを聞いて、私は内心むっとした。それのどこがいけないんだ。うれしいことがあるときに、それをみんなで分かち合おうとする気持ちが、そういうちょっとだけズレた行動として現れるだけのことではないか。ラーメン二十杯や毛蟹の十匹で幸せな気分になれるのならば、それはそれでいいじゃないか。これまで嫌になるほど貧乏をしてきたのだから、そういうことで豊かな気持ちになれるのならば、だれを傷つけるわけでもなし、それはそれでけっこうなことじゃないか。第一毛蟹なんてずいぶんと奮発したものじゃあないか。もしかしたら、祖母が亡くなって精神が一時的に変調をきたした、ということも少しはあるかもしれないけれど。そう思ったのである。もっとも、世間体を気にかける義理の伯母の「普通の人」としての気持ちも分からないわけではなかったのだが。私はそのとき不届きにも「普通の人」を少しだけ憎んだ。年老いた母が気を揉むといけないから、心のもやもやは告げないで「分かった」とだけ言って受話器を置いた。

最後に伯母に会ったのは、数年前の、父方のたった一人の、私の従妹の葬式のときだった。

そのとき、お澄さんは葬儀に参加しなかった。周りが参加を控えさせたのだ。というのは、彼女は呆けの症状がかなり進行していて、葬儀のとき、場にそぐわない不適切な発言を唐突に大声で繰り出したり、奇声を発したりする危惧があるから、とのことだった。彼女と四方山話をしているときに、確かにそういう兆候が見うけられたのではあった。死者に対する悲しみの念がどういう形で表れるのか、だれにも、もちろん本人にも皆目見当がつかないので葬儀に出席させられない、あまりにもリスキー、ということなのである。

ただし、某教団の信者ではない私にしてみれば、葬儀の間四六時中、果ては従妹の骨が焼き出され納骨の儀が済むときまで一つの呪文を参列者全員で唱え続ける「法友葬」なるものの式次第のほうがよっぽど常軌を逸していたと思うのではあるが。この「法友葬」なるものの発端は、同教団の属する流派のトップと教団側とが一悶着を起こして、教団が流派のトップと袂を分かったことにあるらしい。その式次第は、部外者にしてみれば、呪文のけたたましさが耳底にこびりつくだけのとんでもない代物である。死者への哀悼の念など、どこかに吹っ飛んでしまうのだ。そのときのことを思い出すと、げんなりとした気分がそっくりそのまま甦ってくる。私がその葬式に参列することは、もう二度とないだろう。私は、とてもつらいことなのではあるが、伯父の葬式には出席しないつもりである。それほどに、その式次第には限度を超えたものがあった。

信者の中でも特別に信心深くて活動に熱心だった従妹は、一人娘を残して癌で若死にする、という教団の教えに反するような、身もふたもない不運に見舞われた。さらに言えば、逆縁の死である。どう言いつくろってみても、無残というよりほかはない。一生懸命に信心すればするほど御利益をたっぷりといただける、幸せになれる、という教団の教えから、従妹の、形容する言葉に困るような最期はどうにも導き出せないだろう(まさか、従妹に向かって「お前は信心が足りなかったからそういう無残な最期を迎えたのだ」と鞭打つ関係者はいまい)。彼らは、それらの不都合な一切を声高な呪文でもみ消すのに必死なのではないかとさえ私は勘繰った。棺を背にして、お前たち、もういいかげんにしろと彼らを叱責できない自分の、世間体を気にする小心さがもどかしかった。たとえ、私がそういう粗野なふるまいをしたとしても、私と信者たちとのどちらが死者を本当に悼み、どちらが死者を冒涜しているのか、断言するのはとてもむずかしいことだろう。仮に、あの世の従妹が彼らの側についてしまったとしてもー残念ながら、たぶんそういうことになるのだろうがー私は自分のまっとうさの感覚と信じるものをなにも言わずに守り抜くよりほかはないのかもしれない。かつて私にじかに語った従妹の「自分は血のつながりよりも友だちのほうが大事」という言葉が彼女の墓碑銘になってしまったことを、私は胸に刻み込もう。

今から一年ほど前だっただろうか、義理の伯母から母に電話があった。その内容は、自分たち老夫婦にとって、お澄さんをこれ以上養うのは正直きついし、癌を患っている伯父が亡くなれば、自分一人が彼女を養うのは不可能になる。また、その呆けの症状はさらにひどくなっていて、一ヶ月以上風呂に入ろうとしないのもざらだし、下着だってまともに着替えない。そのことで自分との間で言い争いが絶えない。だから、彼女が重度の認知症者の認定を受けてホームヘルパーの手厚い介護を受けられるようにし、生活保護の適用を受け、市の斡旋で一人暮らしのアパートを探してもらう手はずを整えたい、というものだった。

父はそれを聞いていささか気色ばんだのだが、よく考えてみれば、妥当な措置であるというほかはない。それをどこかで分かりつつも、父は、可哀想な状況の姉に対して自分が何もできないのを生々しく突きつけられることによって惹起された、身を切るような悲しみを唐突な怒りの形で表したのだろうが。

これまで、我が家に対して伯母の生活費を一銭たりとも要求したことがない伯父夫婦は、やれるだけのことはやってきたのである。部外者の我が家が、彼らの決断についてとやかくいう資格はない。結局、両親は、札幌市役所から送られてきた、実の姉を扶養できないほどに自分たちが貧乏であることを証明する、いわば屈辱的な文書におとなしく署名して返送したのだった。いろいろ考えてみると、そうするよりほかはなかった、ということだろう。

その後、お澄さんがホームヘルパーをはじめとする周りの人たちと良い関係を保ちながら、一人暮らしを大過なく続けているという知らせが義理の伯母からあった。居候という肩身の狭い境遇から解放されて、その天性の人の良さがのびやかに関係者に伝わり好感を持たれているのではないだろうか。

そのつつましい人生において図らずも味わうことになった様々な理不尽さを経たいまに至っても、彼女の心の核にあるものは損なわれていないのではないか。それは、一家の最年長の姉として、たとえほかのだれからも忘れ去られたとしても、それを全然気にすることなく泰然として一族のメンバーを平等に思いやる無償の姉御肌である、と私は感じている。この世では、ほんとうのまごころなるものは、どうやら、みじめったらしくて不恰好で無力な様相を呈するものであるらしい。長年にわたってぎくしゃくした関係にあり続けている我が血族を、我知らずそっと体温の温かみで包み込んできたのは、実は「役立たず」の伯母だったのである。そのことに私はいまさらながらに気づいたのである。

それにしても、私が中学生のころにしでかした悪戯をお澄さんはいまでも覚えているのだろうか。あのときの彼女は、いまから思えば、彼女なりに女盛りの季節の真っ只中だったのだ。泣きべそピエロの濡れた瞳は北海道の晩夏の空のように澄んでいた。
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不思議な話 ――輪廻転生に開かれた心 (イザ!ブログ 2012・5・17 掲載分)

2013年11月15日 06時07分20秒 | 文学

足利フラワー・パーク

年若い中国人の妻と結婚し、埼玉県の地方都市に住まいを移して間もないころのことだった。いまから十数年前である。

彼女が外国人登録証の事務手続きのために市役所に行ったとき、そこのカウンターの片隅においてあった、外国人に日本語を教えるボランティア団体の案内のチラシがたまたま目に入り、それを持ち帰ってきた。行ったものかどうか迷っている様子だったので、私は、とにかくまあ行ってみたらいいんじゃないの、タダだしね、とアドバイスしたのだった。それでは、ということでその数日後、彼女は、市役所内で実施されている日本語講座に参加した。それから三年間ほどまじめにそこに通い続けたのではなかったか。

その講座を主催していたボランティア団体の女性リーダーのNさんは、なぜだか妻とウマが合ったらしく、実の娘のように妻を可愛がってくれた。親身になっていろいろと相談に乗ってくれたのだ。その分、妻はNさんの厳しい忠告を受けたこともあったようだ。日本人の常識感覚からはずれた振る舞いを率直に指摘されたこともあったのである。外国人である妻が日本で生きていくことを心底おもいやっているからこそできることであると私はそのとき思ったし、今でもそう思っている。

一つだけ、例をあげておこう。

市会議員を交えたある公的な集まりで、妻は周りの人たちに私の個人営業者としての名刺を少なからず配った。中国では当たり前の振る舞いらしい。ところが日本でそうすることは、若干ニュアンスが違ってくる。個人的な営利のために、そのボランティア組織に参加している、という意味合いになってしまうのだ。そこを妻は、普段は優しいNさんからキツく指摘されたのである。妻は、そういう「仕打ち」に対して、通常であれば決して耐えられない。耐えられないところを我慢するので、家に帰ってきてから私にキツく当たる。ところが、その時だけは妙にしおらしかったのだ。よほど、妻はNさんを信頼していたのだろう。そう判断するよりほかにない。

Nさんは、当時齢六十をとうに越えていたのではなかったか。お年を召されてはいるものの、若いころはさぞかし美人であったことだろうと思われた。色白で品のよい銀ぷち眼鏡をかけた、高価な和服のよく似合いそうな、どう見ても上流階級の女性だった。事実、Nさんの旦那さんは日本大使館職員として長らく旧ソ連に赴任していたという。妻が日本語講座に参加したときには、すでに退官して久しかった。妻によれば、旦那さんが言葉を発することはまれで、Nさんに影のように寄り添っている人だったという。二人は子宝にはあまり恵まれず、四十代の独身の一人息子が京都大学で教鞭をとっているとのことだった。

妻が日本語講座に参加しなくなってからは、年賀状のやり取りだけの付き合いになったのではあるが、Nさんの年賀状の走り書きに妻の身を案じる心使いが傍目にも感じられた。

ある年の年末、Nさんの旦那さんの差出名で、年賀状を差し控える旨のはがきが舞い込んだ。Nさんが急死したのだ。死因は、胃癌だという。妻に心配をかけないよう長らく病名を伏せていたのだろう。妻は大粒の涙をこぼしながらご自宅に電話をかけて、弔問の約束をした。

隣町の住宅街の一角にある故Nさんの瀟洒な一軒家を訪ねて、仏壇のある部屋でご焼香を済ませた後、妻はリビングに案内された。Nさんの妹さんと旦那さんが同席したらしい。庭先につつじの花が緑の地のなかに白、赤、ピンクときれいに咲いた晩春の穏やかな午後だった。Nさんの、おっとりとした感じの妹さんがおもむろに口を開いた。

「これは私たちみんなの前で起こったことなのよ。」

妹さんは、Nさんの臨終の様子を妻に話してくれたのだ。

病室には、病院関係者以外に、妹さんとNさんの旦那さんと一人息子の三人がいたという。臨終という抜き差しならない事態に固唾を飲む彼らの目の前で、Nさんの顔に著しい変化が生じはじめた。

穏やかなその顔がいつの間にか老衰してNさんの、すでに他界した祖母そっくりになったのだ。居合わせた人たちはあまりのことに声が出なかった。心のなかではみな「おばあちゃん」とつぶやいた。それだけではない。次に、小刻みな皺(しわ)がみるみるとれて母親そっくりになり、さらに、肌の色艶が輝くほどによくなって新婚時代のNさんの若々しくて美しい顔になり、今度はその顔がどんどん若返って、生まれてくる孫の幼い顔になり、最後にいまのNさんの顔に戻ってそのまま絶命したというのだ。居合わせた三人は、目を瞠って腰を抜かさんばかりだったという。普段はおとなしいNさんの旦那さんにいたっては、事の展開に頭がついていかず、気が動天して、やおらおいおい泣き出した。百面相の最後から二番目の顔が「生まれてくる孫」だと、なぜか居合わせたみんなが分かったそうだ。妻の話しっぷりから察するに、彼らが特別迷信深い人であるという感じはしない。

その半年後、今度はNさんの息子さんの差出名で、Nさんの旦那さんの訃報を知らせるはがきが舞いこんだ。Nさんに影のように寄り添っている人、という妻の人物評は的を射ていたのだった。旦那さんは、Nさんなしにこの世に生き続けていられるような人ではなかったのだろう。あの世からしょぼくれた旦那さんの姿を見るに見かねて早くおいでとNさんが手招きしたのに、旦那さんは微笑みながら黙って応じたのではないだろうか。

それから何年たっただろう。風の便りに、Nさんの一人息子が、ご両親の住まいを二人が生きていたときのままにしているらしいという噂を妻は耳にした。息子さんは仕事の関係でいまも京都に住んでいるので、ご両親の住まいの維持管理はNさんの妹さんに依頼しているという。いまだに、息子さんはご両親の死をどうしても受け入れることができないのだろう。特にNさんの臨終における言葉なき鮮烈なメッセージは、息子さんの心の最深部に届いたはずである。生命は、生きている者のさかしらを超えてどうしようもなく連続しようとするものなのだ、人はそれを避けようもなく志向してしまうのだ、というそれこそ命を賭けたメッセージが、である。息子さんは、相変わらず独身であると、これも風の便りに、耳に入ってきたのだった。物事は思うようには進まないものらしい。

あるとき、Nさんの臨終のありさまの話を思い出して、私が「それにしてもほんとうに不思議な話だね。」 と妻に言うと、彼女は「別に不思議でも何でもない。そういうものだ。」 と平然とした顔で言った。そうして、なぜそんな当たり前のことを不思議がるのだといわんばかりの怪訝な表情で私の顔をのぞきこむのだった。その妙にすっきりと納得した表情に、私は女なるものが抱え持っている薄気味悪さのようなものを、半ば畏敬の念をこめて感じた。子を孕む可能性を身体に生々しく織り込んだ性の、理不尽なものでさえ平然と飲み込んでしまう計測不能の懐の深さの所在がそこに示されているように感じられたのである。女どうしの了解の仕方には、男の私からすればどうにもわからないところがある。

私とNさんとは知人と呼べるほどのものでさえないあわあわした関係ではあったのだが、女の、この世に生きる思いの独特な奥深さを物語るエピソードとして忘れ得なかったので書き記すことにした。
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「ガッパ」譚 対馬の記憶 (イザ!ブログ 2012・5・12 掲載分)

2013年11月14日 05時50分51秒 | 文学


今回は、私の生まれ故郷の対馬(つしま)についての話をしようと思う。

もしも対馬がどこにあるのか知らないならば、地図上の九州本土の博多あたりと朝鮮半島の釜山あたりとに交互に視線をくれてやればいい。その中間地点くらいのところにふた粒のへそのゴマのような島が玄界灘に浮かんでいるのがいやでも視野に入るだろう。それが対馬である。

対馬では、河童のことをなぜか「ガッパ」という。同じく対馬生まれの母の実家に、その「ガッパ」にまつわるけっこう生々しいエピソードがあるので紹介したい。

いまから六十年ほど前のことである。母には三人の兄がいた。そのなかの次兄のイタルが、あるとき四十二度の高熱を発した。イタルが十代なかばのころのことだ。父親のマサルじいさまが病院に連れて行って、お医者さまにいろいろと細かく診てもらったのだが、どうにも原因が分からないという。

とりあえず、解熱剤をもらって決められたとおりしばらくの間服用し続けてみたのだけれど、熱がちっとも下がらなかった。マサルじいさまは、仕方なくもう一度病院にイタルを連れて行ったのだが、やはり原因がわからなかった。そうして、別の種類の解熱剤を渡すときに、立派な髯の板垣退助によく似たお医者さまは眉を八の字に寄せながらマサルじいさまにこう告げた。「このまま熱が下がらんようじゃったら、脳に障害が残ることを覚悟してくだされぃ。」

残念なことに、別の種類の解熱剤も効き目がなかった。イタルは一週間続いた高熱でゆで蛸のようになってしまっている。マサルじいさまは、このままイタルがうんうん唸りながら低能児みたいなものになってしまうのを座視しているよりほかにないのかと思って、目の前が真っ暗になる思いを味わったという。イタルは、近所で評判の秀才であったのだ。いわゆる神童である。他の二人の兄たちも、長女だった母も、下の年端のいかないマチヨ、ユタカも心配そうに替わり番こに襖を開けてイタルが寝ている薄暗い寝室をのぞきこむのだった。にわかにアビル家に暗雲が立ち込めはじめたのである。

そのころ母親のおデンちゃん(私の母方の祖母に当たるのだが、みんなが彼女をそう呼んでいたので、それを踏襲する)は、たまたま金毘羅サマをご本尊とする新興宗教団体に入信していた。かねてから信仰心の篤かった人で、折に触れては八百万の神に両の手を合わせるのが習い性になっていた。普段は冷静に物事を処するマサルじいさまのきりきり舞いの様子を見るに見かね、そうしてもちろんお腹を痛めたわが子の窮状をなんとかして救いたいと思って、おデンちゃんは教団に駆け込んだ。そうして、そこの女の拝み屋さんに情況を説明して、神サマにお伺いを立ててもらった。

拝み屋さんが数珠の玉をしわくちゃの、老人特有のシミのある右手の親指の腹でひとつずつたぐりよせながら口のなかでぶつぶつわけの分からぬ呪文を唱えるうちに、その脇に控えていた依り代の、薄化粧をした別嬪さんで一重瞼の十代後半くらいの娘の形相がやおら変わり、目が狐のようにつりあがってきた。そうして、小刻みに体を震わしながら、おデンちゃんを高音のひしゃげたような変な声で唐突にののしった。

「おい、こら。こんちくしょうめ。お前んとこの悪ガキめが、オレの頭の皿に石をぶっつけやがった。オレが気持ちよく泳いどったら、あんちきしょうめ、橋の上から面白がって石を投げたんだ。おらぁ、痛くて悔しくて、悪ガキをうんとこらしめてやってるんだい。へん。お前の親父さんも、オレに失礼なことをしたんだぞ。州藻(すも)の坂んとこで、オレがアイサツしたのを無視して自転車で通りすぎようとしたんで、相撲をとって自転車ごとひっくりかえしてやったんだ。へんだ。」

金毘羅サマのご託宣によれば、ガッパへのイタルの心ない悪戯とマサルじいさまの悪気のない失礼がどうやらイタルの高熱の原因であるという。父親の過失の分だけ、息子はうんと苦しんでいるらしい。

家にすっとんで帰ったおデンちゃんは、まずは、うんうん唸っているイタルに尋ねた。「イタル、お前は、一週間前にガッパの皿に石をぶつけたのかい。」記憶の糸をそろりそろりとたぐり寄せるうちに、思い当たるところがあったらしく、イタルはうるんだ目を少しだけ開けてとぎれとぎれに、そういえば川で泥鰌すくいをした帰り道、川上から、周りを枯れた雑草のようなもので囲まれた丸くて平べったい灰色の変なものが流れてきたのを目にしたので、橋の上からそれに何の気なしに石を投げたらたまたま当った、といった。

今度は、庭で薪割りに精を出しているマサルじいさまのところへ駆けて行き、尋ねた。「お前さまは、一週間くらい前に、隣村の州藻のあたりで自転車ごと転びなさりましたでしょうか。」じいさまは、額の汗をぬぐいながら、州藻から帰ってくるとき下り坂のところで自転車ごと宙返りをするようにして確かに転んだといった。

それを聞くやいなや、おデンちゃんは、教団に折り返しすっとんで行き、拝み屋さんにどうすればイタルの熱が下がるのかお伺いを立てた。彼女から、「離れの便所の近くの柿の木の下に、夜明け前まだ村のみんなが寝静まっているときに、白い皿に稲荷寿司を三個載せたのをお供えしておけ。それを三日間続ければ息子の熱は下がる。ただし、それは誰にも見られてはならぬぞ。」と言われたので、おデンちゃんがその通りのことをしてみたところ、三日目の明け方にイタルはウソのように熱を下げたのだった。正気を取り戻したイタルの第一声は、「母ちゃん、腹減った。」であったという。

母の実家は、対馬のほぼ中央部に位置する雉(け)知(ち)にあったのだが、その周りの州藻や上里などという集落の特定の坂とか池とかに住み着いているガッパには、三太とか笠太郎とか三郎とかいった名前がつけられていて、彼らはちょくちょく人間様に悪戯をしかけたという。上里のだれそれになにか障りが生じたら、村人たちは、あれは三太の仕業やげな、とうわさしあったのである。ちなみに、対馬方言の「げな」は、伝聞の「そうだ」とほとんど同じ意味である。対馬には、「げなげな話は、嘘やげな」ということわざがある。なかなかのユーモアのセンスではなかろうか。

河童の悪戯については、柳田国男の『遠野物語』のなかのいくつかのエピソードが人口に膾炙しているのではあるが、どうやら対馬にも「ガッパ」話は豊富にあるようだ。もちろん全国いたるところにあるのだろう。昔の日本人は、とても素敵な精神空間に生きていたのだとつくづく思う。時間の流れが、いまとはくらべものにならないほどにゆるやかでやわらかいものであったようだ。幼少のころにかすかに触れたそういう時の流れを、私は、数年前に行ったタイのメコン川沿いのゲストハウスで数日間過ごしたときに、本当に久しぶりに思い出した。

母の実家の裏庭の柿の木のことで、ひとつ思い出した話があるので、付け加えておこう。それは、「ガッパ」騒動よりずっと昔のことである。

おデンちゃんには妹が二人いた。そのうち、末の妹の名をミツエという。彼女は、小学校を卒業してから働き詰めで、そうこうするうちに病を得た。それからは、おデンちゃんの嫁ぎ先、つまり母の実家の庭先に作られた粗末な小屋で養生を続けていた。おデンちゃんは、姑の厳しい監視の目を盗んでは、細やかに妹の面倒を見た。自分の食事を削ってでも、妹に食事を与えて、その養生に努めたという。しかし、そのかいもなく、ミツエは十八歳のときに亡くなった。幸薄い生涯であった。おデンちゃんは、妹の早すぎた死をとても切ながった。

ミツエの死から一週間くらい経ったころだった。マサルじいさまが、おデンちゃんにそっと告げた。実は、お前の妹が亡くなったときからずっと、真夜中、裏庭の柿の木の下に、生きていたときの姿のままの悲しそうな風情でうつむきかげんに立っているのだ、毎晩のことだから錯覚でもなんでもない、と。さらに、このことは子供たちに絶対に教えるな、またお前も決して彼女の姿を見てはならぬ、さもないと子供たちやお前によくないことが起こる、なぜかそのことが自分には分かる、という意味のことを言ったのである。マサルじいさまは世間で評判になるくらいに実直な性格の男であったから、大切に思っている妻や子供たちにまつわることで世迷言を垂れ流したとは到底考えられない。責任ある家長としての独特の勘が働いたのだろうと私は考える。それを聞いたおデンちゃんは、暇さえあれば仏壇に座り込み合掌して妹の成仏を祈ったという。

その後の顛末は、残念ながら聞き及んでいない。

ミツエは、この世によっぽど強い思いを残して亡くなったのだろう。私はこの話をいまにいたるまでそのままに受けとめ、ひそやかに信じているのである。それが、いささかなりとも回向になればと思う。
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斎藤茂吉の一首 (イザ!ブログ 2012・4・30 掲載分)

2013年11月13日 16時39分30秒 | 文学
のど赤き玄鳥(つばくらめ)ふたつ屋梁(はり)にゐて足乳(たらち)ねの母は死にたまふなり 斎藤茂吉

短歌との本当の出会いは、その歌の心にじかに触れえたと感じたときに訪れます。私は、おそらく中学生のときに国語の授業ではじめてこの歌の存在を知ったのでしょう。昔からこの歌は中学校の国語の教科書に載っていましたから。もう四十年くらい前のことです。そのときは、単に知っただけで本当に出会ったわけではなかったのでしょう。

でも、訳が分からなくてもとりあえず知っておくのはとても大切です。良い歌は、こちらにその心をまだ打ち明けていなくても、どこかしら、心惹かれる魅力を湛えているものなので、とりあえず覚えておき、あるとき不意に、ああそうだったのか、あの歌人はこういうことを言おうとしていたのか、と気づくことになるのです。その、知り始めてから分かるまでの時間の経過が大切なのです。その無言の時の流れこそは、生きることの味わいそのものであるからです。

私がこの歌にこめられた心についてああそうだったのかと腑に落ちたのは、先日、気の置けない年上の読書仲間とお酒を呑んでの帰り道、最寄りの駅を降りて人通りのほとんどない薄暗い夜道をぽつんとほろ酔い加減で歩いている真夜中のことでした。

私は、これからその「分かり感」を、言葉でなんとかお伝えしようと思います。うまくいけばいいのですけれど。

この歌は、茂吉の実母が亡くなったときのことを歌っています。実景としては、母が今まさに亡くなった瞬間があるだけです。そのとき自ずと歌人の目に、屋梁に燕が二羽並んでいるのが鮮やかに浮かんだのです。母を失った哀しみで我を忘れそうなときに、それが自ずから浮かんできた。だからそれをそのまま書いた。なんのはからいも、そこにはない。技巧のさかしらは、その痕跡をとどめていません。

ここには、茂吉のいわゆる「実相観入」の極限があると私は考えます。実相観入の要諦は、物の本質に迫るには、近代哲学における主観-客観の二項対立を表現の核心において、言いかえれば、身体性のど真ん中で超えなければならない、ということではないかと私は考えています。つまり、それほどに、われわれ近代人は、主観-客観の二分法に呪縛されてしまっているということです。

いわゆる客観的な描写として見れば、この歌は有りえない情景です。かといって、主観的な描写と呼ぶには、視覚的なリアリティがありありとし過ぎています。主観-客観の区分けの虚しい、彼我一如のあわいで垣間見た世界がそのまま三十一文字によって織り込まれているとしか言いようのないリアリティがここにはあります。

この世界像が表現として成立する上で、母を失った直後の茂吉の聴覚を燕の鳴き声が刺激していたことがきっかけになった可能性は否定できません。むしろ、大いにありえることでしょう。けれど、もし茂吉がそのことを表現しようと意識したのであったら、この母臨終の世界は、視覚と聴覚の交差したイメージで表出されたはずです。

ところが、冒頭の世界はそうではありません。あくまでも視覚的イメージの世界として表出されています。音はまったく聴こえてきません。そのことが、かえって茂吉の慟哭の念の深さを表現して余すところがありません。

先ほど「彼我一如のあわい」と申し上げたところを、視点の推移に着目して、作品に即しながら言い直してみましょう。

まず、上空のやや近距離の視点から「のど赤き玄鳥ふたつ屋梁にゐて」と述べ、そのなかの最後の「て」という助詞を境にしてその視点のまますうっと遠ざかり、目の前で最期を迎えた母を看取る茂吉の視点に瞬時に転換して「足乳ねの母は死にたまふなり」と述べています。「て」の絶妙な使い方によって、上空からの視点のもたらす情景と地上における視点が目の当たりにする情景とがつなぎ目が分からないほどに無理なく重ね描きされています。

私たちには、明晰な意識なるものは、主観-客観をくっきりと分けたところに成り立つ、という俗信があります。しかし、それを信じることで得られる認識など、実は便宜的なものにすぎません。肉親の死とか最愛の人との離別とかいった、生きていくうえで避けることのできない実存の危機に瀕したとき、言いかえれば、かけがえのない存在の喪失体験が到来したときに、人を心の底から支えるものは、主客の区別を超えたところに成り立つさらに鮮明な意識なのだよと、この歌は静かに私たちに語りかけているようでもあります。通常時においても、実は、その意識が生の実感の核心に潜在していると私は考えています。昔の人は、それをズバリ天地有情と言い当てています。

それでも、人は問うでしょう。「のど赤き玄鳥ふたつ」とは、何のたとえなのか、と。私も、実は折に触れ問い続けてきました。

しかし、それは虚しい所業なのではないかといまは思いはじめています。「のど赤き玄鳥ふたつ」とは、斎藤茂吉という個のどのような意識のたとえなのかと問うことは、それこそ、近代意識のさかしらなのではないかと。それを問うことを、茂吉本人が実は望んでいないように私は感じるのです。

では、この表現には、何の意味もないのかと問い詰められたら、私は仕方なしにこう答えます。これは、実存の危機に瀕した茂吉に、ユングが「集合的無意識」と名付けたものが救いの手を差し伸べているのである、その救いの手を茂吉は「のど赤き玄鳥ふたつ」という映像として直観したのだし、「している」のだ、と。つまり、この二羽の「玄鳥」は、元型的イメージなのです。だから、これ以外のものではありえないという、不思議な絶対性がそこに付与されることになるのです。われわれは、集合的無意識をイメージとしてしか認識できないようになっているのですね。

なぜ「している」というのか。それは、集合的無意識には、過去も現在も未来も、さらには人称もないからです。そのとき茂吉が救われたということは、いまも茂吉は救われているし、これからも救われ続けるし、茂吉のみならずほかのだれそれもそうだということに、集合的無意識の性質上なるのです。

つまり、茂吉は三十一文字で「永遠」を記したのです。ランボーは「太陽とつがった海」「海と溶けあふ太陽」に永遠を見ました。それに対して、茂吉は「のど赤き玄鳥ふたつ」に永遠を見ました。どちらかといえば、大袈裟な言葉ぶりのない茂吉の永遠に私は軍配を上げたい気がします。また、松尾芭蕉が「山路来てなにやらゆかしすみれ草」と詠んだときに、彼は「すみれ草」に永遠を見ています。このつつましい味わいのある永遠も、私は好ましく思います。

この事実に、私は心を動かされます。というのは、人が実存の危機に直面したとき、人には自分を救済しうる潜在力がある、ということになるからです。

その潜在力を顕在化するために、人は心を無類に率直な状態にしておく必要がどうやらありそうですね。近代的個に避けようもなくつきまとう、こだわり・こわばりからなるべく精神的に自由になっておくということでしょう。人類は、これまでそうやって耐え難い苦難を乗り超えてきたのですから。『古事記』や『新約聖書』の世界を念頭に置くと、ついそういう言葉が出てきてしまいます。これらの書物は、人間だれしもが直面する生の危機に真正面から取り組んでいます。その深みから湧き出た言葉の痕跡が、これらの書物には、確かにあるのです。だからこそ、時代を超えて人々に読み継がれることにもなったのでしょう。
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