美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

中共は、歴史問題についてなぜ堂々とウソをつくのか(その4)南京事件Ⅲ (美津島明)

2015年11月01日 03時13分32秒 | 政治
中共は、歴史問題についてなぜ堂々とウソをつくのか(その4)南京事件3 (美津島明)



前回は、北村稔氏『「南京事件」の探求』のポイント10項目のうち五つまでを終えました。今回は、残りの五項目を扱います。話を分かりやすくするために、残りの五項目をもう一度掲げておきます。

(6)当時の欧米人や中国は盛んに日本兵による南京占領後の放火を非難・告発した。だが、放火は占領政策の妨げになるだけなので、その動機が希薄であるといえる。だから、そういう非難や告発は再検討を要する。

(7)「大虐殺」が敢行されているはずの占領下の南京市が意外に平穏であったことを示す有力な資料がある。凄惨な状況とのつじつまがあわない。

(8)事件当時において犠牲者の人数を検討した『スマイス報告』を徹底検証すると、市内の民間人殺害者数・約2400人という推計はおおむね妥当であるが、市外近郊六県における民間人殺害者数・約30000人という推計には合理的根拠が見出しがたい。

(9)当事件関連の遺体埋葬数について。紅卍会は処理数四万体あまりを、崇善堂は十一万体を報告した。紅卍会の報告数は信用できるが、崇善堂の報告数は過大である疑いが濃厚である。

(10)「南京大虐殺30万人」説のルーツを探し求めると、ティンパーリーの脚色という線が浮かんでくる。


では、まず(6)について。郭岐の『陥都血涙録』は、「大虐殺」の決定的証拠として一九四六年の南京の戦犯裁判の判決文に特筆された資料です。彼は国民党軍の士官で、南京陥落後三ヶ月間市内に留まり、いわゆる「大虐殺」の全期間を経験した人物です。『陥都血涙録』第六節「空前の大火災」について、北村氏は次のように述べています。

第六節の構成は以下のとおりである。

第(一)項:空気も変色した。第(二)項:中華門から内橋まで焼き尽くされた。第(三)項:交通部の消失。第(四)項:下関が燃え尽きた。

郭岐は火災を全て日本兵のしわざだと記述するが、同時代の中国語資料に基づけば、第(三)項:「交通部の消失」と第(四)項:「下関の全焼」は、中国軍が南京撤退に際して火をはなった結果であることが明瞭である。


焦土作戦は、堅壁清野(けんぺきせいや)と言って、中国における伝統的な戦法です。「城壁に囲まれた市街地内に人員を集中させ(堅壁)、城外は徹底して焦土化する(清野)」という意味です。そうすることで、進攻してきた敵軍が何も接収できないようにして疲弊させ、持久戦を有利に運ぶ狙いで行われます。

Wikipediaの「堅壁清野」の項には、次のような、重要な指摘があります。

日中戦争時には、国民党軍は日本軍・中国共産党軍の双方に対しこの作戦を取った。焦土化の対象は、軍事施設や食糧倉庫のみならず田畑や民家にまで及んだ。南京攻略戦の際、国民党軍により南京城外の周囲15マイル(およそ24km)が焦土化された。

交戦中の放火や、占領後における南京市街での放火のすべてを日本軍の仕業にされてしまったのでは日本軍としてもたまったものではありませんね。北村氏が指摘しているように、特に占領後の南京市街での放火は、日本軍にとって占領統治の妨げにこそなっても、益することはなにもありません。日本側は三八年の一月初めに南京市自治委員会を組織し、安全区に居住する市民の原住所への復帰を促しています。一方で帰宅を命じ他方ではその住居に火を付けるという矛盾した振る舞いをするほどに日本軍がおろかであったとはどうも考えにくい気がします。

ちなみに「安全区」とは、南京攻略戦に際し、戦災で家を失い南京に流入してきた難民や、南京から避難できない貧しい市民などを救済するために市の一部に設定されたものです。それを設定した組織を南京安全区国際委員会といい、アメリカ人宣教師を中心とする十五名ほどによって構成されています。その委員長が、かの有名なラーベです。

次に、(7)について。郭岐の『陥都血涙録』には郭岐自身の日常生活の描写があり、それを通じて、同時進行中であるはずの大虐殺状況とはうらはらの、意外に平穏な南京市内の日常が浮かび上がります。




郭岐は当初、安全区の南端に位置した五台山のイタリア領事館に他の人々と住んでいた。そして互いに金を出し合い、生活物資の買い入れのために外出していた。外出すれば拉夫(軍用の人夫として連れさられること)を含む危険が存在したことが記述されるが、午前中は館内に存在した書籍に読み耽り、時には諸子百家の書物を購入したことも記されている。この書籍購入の部分は生活物資の買い入れの記述とは別に記述されており、書物だけを買うために外出していたことが想像される。そして次のように続く、「正午になると雎(日本語の音読みでは「ショ」――引用者注)さん(同僚の軍人)の家へ行き昼食を食べ、同時に日本の情報を探るか、あるいは碁を打つかした。いずれにしても平々凡々と過ごした(略)」と。

ここには、銃声が終日絶えることのない日々が三ヶ月続いた大虐殺の影がまったくといっていいほどに認められません。じつにのんびりとした生活ぶりです(よね?)。

郭岐には、五百人ほどの部下がいました。彼らは南京市内に潜伏していましたが、生活資金を求めて頻繁に郭岐を訪ねてきています。部下の兵士たちの来訪に関する記述を、北村氏は、「彼らが飢えと寒さに迫られて命の危険があるのをまのあたりにしても、自分には少しの金のすべも無く」と訳したうえで、次のように述べています。

言うまでもなく「生命危険」は、生活資金の欠乏による「飢えと寒さで死亡する危険」であり、日本兵により「虐殺される」危険ではない。以上のとおり、『陥都血涙録』の文章には、兵士達の来訪が大虐殺進行中の出来事であり命懸けで訪ねてきているという認識は全く示されていない。

北村氏は、これを裏付ける歴史的事実を提示しています。それは、日本軍が一九三八年一月初旬に発行した安居之証です。これを所持するものは、生存の保証をされました。安居之証の表面には所持する人間の性別・年齢・体格・容貌の特徴が記され、日本軍に対し害意を持たないことを証すると記されていたそうです。郭岐もイタリア大使館に同居中の住人もそれを所得しており、「郭岐を訪ねた元兵士らも同様であったと思われる」と北村氏は述べています。この証明書を持っていれば、要するに、町を歩けたということのようなのです。

では、この証明書は、どれくらい発行されたのでしょうか。インターネットで調べてみたところ、「特務機関資料では12月22日より1月5日までに、概数として15万人登録」されている、とありました。また、同じ資料によれば、「二月の末で登録数が25万」だそうです(これらは、城外区域も含む数字のようです。)http://nankin.digi2.jp/nankinrein.hp.infoseek.co.jp.page007.html

私のいまの力量では、ここまでしかお話しできませんが、これは、「大虐殺」時の南京市の様子をうかがううえで、極めて重要な指摘であると思われます。

このことに関連して、強く印象に残った箇所をひとつ引いておきます。カタカナ表記の部分は、国民政府側が一九四六年二月に完成させた「敵人罪行調査報告」です(この報告について、本当はいろいろと補足すべきことがらがあるのですが、それは略します)。文中に登場する人々は、一九三八年に実施された調査の対象となった南京市民です。

「敵人罪行調査報告」の述べる調査時の状況には、理解に苦しむ文面が存在する。調査された人々の反応である。南京地方法院検察処の調査に対する市民の反応は、「敵側ノ欺瞞妨害工作激烈ニシテ民心消沈シ、進ンデ自発的二殺人ノ罪行ヲ申告スル者甚ダ少ナキノミナラズ、委員ヲ派遣シテ訪問セシムル際二於イテモ、冬ノ蠅ノ如ク口ヲ噤ミテ語ラザル者、或イハ事実ヲ否認スルモノ、或イハ又自己ノ体面ヲ憚リテ告知セザル者、他所二転居シテ不在ノ者、生死不明ニシテ探索ノ方法ナキ者等アリ」という状況であった。それ故に、事実の調査は「何レモ異常ナル困難ヲ経テ調査セルモノ」であったというのである。

人々の反応の不可解さは、かつての日本軍による大量虐殺の記憶が南京市民の間であまり鮮明ではなかったと考えると雲散霧消する、という意味のことを北村氏は指摘します。これは、かなりの説得力があります。

次は、(8)について。北村氏は、ティンパーリーの『WHAT WAR MEANS』とともに南京事件に関する初期の(というより南京事件の語り方を規定した、あるいは決定づけた)基礎文献として名高い『スマイス報告』を取り上げて、南京市内と近郊における民間人の被殺害数の徹底検証をしています。

著者のルイス・スマイスは、南京にあった著名なミッション系の金陵大学の社会学教授です。南京安全区国際委員会書記として委員長のドイツ人ラーベらと難民保護に当たりました。

彼は多数の中国人の助手を使って、南京攻防戦直後の一九三八年三月から六月にかけて南京市と郊外六県を調査の対象にして、戦争被害をサンプリング方式によって調査しました。その結果報告が、上記の『スマイス報告』です。

民間人の被殺害数は、おおむね次のように調査しました。

まず、家屋番号に従い五十戸から一戸を選び、居住する家族の人数・人的被害・収入・職業などが調査されました。次にその結果を五十倍した結果、南京市内における兵士の暴力による死亡二四〇〇人、南京市の人口約二十二万人という基本的数字が割り出されました。このほか別の方法で行われた南京近郊六県を対象とする調査では、民間人の被殺害数三万人という結果が出ました。

「虐殺派」は、この「南京市内における殺害二四〇〇人」という数字に対して「過少である」と難色を示しているようです。

しかし北村氏によれば、南京周辺地域の水害被害調査にも携わったことのある調査のプロであるスマイス氏の、南京市内の被殺害者数を割り出す方法はごく妥当なものです。また、彼の背景を考えれば、彼には「被害状況を過大に評価する動機は存在するが、過小に評価する動機は存在しない」という指摘は説得力があります。それゆえ、「南京市内における殺害二四〇〇人」はおおむね妥当である、と氏は評価します。

では、「南京近郊六県における民間人の被殺害数三万人」はどうでしょうか。氏は、この数字はきわめて疑わしいと言います。その理由は次のとおりです。

・調査対象となった南京近郊六県の総面積は、南京市内の面積のおよそ二〇〇倍である。またその調査地域は、日本軍の侵攻経路と必ずしも緊密に重なっているようには思えない。

・南京市内に関しては、五〇家族のなかから一家族を抽出して調査が行われ、その結果を五〇倍して全体状況が割り出された。これは誰にでも理解できる、合理的な集計方法である。それに対して郊外の調査では、三つに一つの村を選びその村の十家族から一家族を選んで調査したうえで、その結果に五つの県の総家族数一八万六千が掛けられているのである。ここは、合理的に考えるならば三〇が掛けられるべきところである

以上より北村氏は、ここには近郊六県の被殺害数を誇大に計上する意図があり、「巧みなトリックが施されている」と断じます。

このあたりの論の運びには、高い説得力があります。

同じような説得力は、次の(9)についても感じます。すなわち、南京事件関連の埋葬者数について、紅卍会は処理数四万体あまりを、崇善堂は十一万体を報告したことについて、北村氏が、〈紅卍会の報告数は信用できるが、崇善堂の報告数は過大である疑いが濃厚である〉と結論づける論の運び方がごく妥当なものに感じられるのです。

(8)で、かなり詳細なところにまで触れた(これでもかなり端折っています)ので、(9)で同じようなことをして、読み手のみなさまをさらに煩わせることは避けましょう。できうるならば、ご自身の目でお確かめいただければ幸いです。

ちょっと脱線します。北村氏のまともな考察に接していて思うのですが、犠牲者数が多ければ多いほど喜色満面の笑顔を浮かべていそうな「虐殺派」(のなかの過激分子?)は、どうもマトモな精神構造の持ち主たちではなさそうな気がします。不健全といいましょうか、なんといいましょうか。

閑話休題。やっと(10)にたどりつきました。「南京大虐殺30万人」説のルーツの話です。この論点については、北村稔氏の議論を踏まえて、それをより確実な資料を基に論じ直した秦郁彦氏『南京事件』(中公新書・2007年増補版初版)の議論を紹介するほうが妥当かと思われます。

南京の国際安全区委員会が犠牲者数を四万人と伝えていたのに対して、ティンパーリーは『WHAT WAR MEANS』英語版の冒頭で「華中の戦闘だけで中国軍の死傷者(casualties)は少なくとも三十万人を数え、ほぼ同数の民間人(civilians)の死傷者が出た」と書いています。

このうち軍人の死傷者については、南京陥落直後の一九三七年十二月十七日に蒋介石が漢口で発表した「我軍退出南京告国民書」で、〈抗日戦争開始以来の全軍の死傷者が三十万人に達した〉と述べているのを、ティンパーリーが、上海‐南京戦での死傷者数としてアレンジした(これ自体ひどい誇張ですね)のではないかと北村氏は推測しています。しかし「ほぼ同数の民間人」という記述には典拠が見当たらず、北村氏は、ティンパーリーの脚色ではないかと推測します。つまり、この段階では推測の域を出ていなかったのですね。

ところが秦氏は、外務省が広田弘毅大臣名で三八年一月十九日に欧米各地に打った暗号電二〇六号の存在を探り当てました。ちなみに、ティンパーリーの『WHAT WAR MEANS』が、その中国版『外人目賭中之日軍暴行』とともに出版されたのは、その約四ケ月後です。

それは十六日にティンパーリーが本社(英マンチェスター・ガーディアン紙――引用者注)あてに打とうとした電報を上海の日本検閲官が差し押さえ、英総領事館と係争になっている件を伝えていた(事を大きくするために、ティンパーリーは差し押さえられることを十分承知の上であえて電報を打ったようです――引用者注)。添付された十六日付のティンパーリー電には「私が数日前に上海へ帰っていらい、南京などの日本軍によるフン族の蛮行を思わせる残虐行為の詳細について、信頼できる目撃者の口頭および手紙によって調査を進め」たが、「三十万を下らない中国人シビリアンが虐殺された(Not less than three hundred thousand Chinese civilians slaughtered)」とあった。

つまり、「民間人三十万人虐殺」は、やはりティンパーリーが発信源である可能性が高い、ということです。秦氏は、「あるいは漢口の中央宣伝部との謀議に基づく意図的なプロパガンダなのかもしれない」とも言っています。いずれにしても、どうやらこのあたりが、「南京三十万」の発信源のようですね。

長々と北村氏の所説の祖述のようなことをしました。なんのためにそうしたのか。それは、南京事件に関して日本政府が国際社会にどう発信すべきかということについて、私が前々回に提示した内容の当否をあらためて吟味するためです。前々回、私はこう申し上げました。

日本政府は、人数のことばかりぐちゃぐちゃ言ってないで、「南京事件」を「南京大虐殺」と呼ぶことには根拠がない、とはっきり主張すべきです。そうして、同事件には、国家が計画的に関与する、ナチスのホロコーストのような「大虐殺」などなくて、戦闘員のやむをえざる処刑と、心得違いの日本兵による個別的偶発的な略奪・強姦・殺人だけがあった、と主張しなければなりません。それくらいに端的なことを言わなければ、部外者の耳には入りません。つまり、国際世論を動かす力を持つことにはなりません。そう私は考えます。政府には、腹を据えて臨んでいただきたい。

二点、訂正すべき文言があります。

三行目の「計画的」は「計画的組織的」と、同じ行の「やむをえざる」は「不幸としか言いようのない」と訂正すべきではないでしょうか。以上です。 

付記:北村氏の『「南京事件」の探求』についての、南京事件の研究のグローバルスタンダードをふまえたうえでの優れた論考が見つかったので、そのURLを掲げておきます。正確に言えば、論評の対象は本書それ自体ではなくて、その英訳です(加筆あり)。論者のアスキュー・ディヴィッドは、北村氏と立命館大学の同僚で、南京をめぐる共同研究プロジェクトに共に従事している方です。なれ合いに陥らず、言うべきことはきちんと言っている良心的な書評です。
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/rb/609/609PDF/david.pdf
(次回は、同シリーズ完結編の予定です)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中共は、歴史問題についてなぜ堂々とウソをつくのか(その3)南京事件Ⅱ (美津島明)

2015年10月29日 03時55分12秒 | 政治
中共は、歴史問題についてなぜ堂々とウソをつくのか(その3)南京事件Ⅱ (美津島明)



前回は、北村稔氏の『「南京事件」の探求』(文春新書)を取り上げていろいろと論じました。お断りしたとおり、その段階では当著未読の状態でした。お断りしたとはいえ、読んだことのない本についてあれこれと論じるのは、正直に言って、あまり気持ちの良いものではありませんでした。

で、その後本書を読んでみました。以下、感想を述べることにしますが、その前に、「虐殺」という言葉の定義についていささか触れておきたいと思います。

「虐殺」は、南京事件を論じるうえで最も重要な言葉です。だから、その言葉をどういう意味合いで使うのかを前もってなるべくはっきりさせておくことは、かなり重要な手続きであると思われます。「虐殺」という言葉を恣意的に使うことは、当テーマについての言説を読み手が誤解したり、無用の反発を招いたりする主たる原因になる。そう思うのです。

広辞苑には、「【虐殺】むごたらしい手段で殺すこと。『捕虜を――する』」とあります。これでは漠然とし過ぎていますね。新明解国語辞典には「〔人や動物を〕一度に大量に(残酷な方法で)殺すこと」とあります。こちらのほうが、広辞苑よりもましかとは思われます。

しかし、南京事件は、東京裁判において、犯罪国家の所業として裁かれたという経緯があります(そう考えなければ、上海派遣軍司令官・松井岩根に対する絞首刑という判決は説明しがたい。松井司令官は、「虐殺せよ」などという命令をしたことなどまったくなかったのです)。そのことを踏まえるならば、新明解国語辞典の意味も物足りないものがあります。

そのような観点からすれば、歴史学者・秦郁彦氏が、『南京事件』(中公新書)で、「″虐殺″は、殺された人数の、事件全体の性格、とくに組織性・計画性に関わる概念らしいと見当がつく」と述べているのが、大いに参考になります。

ということで、私は「虐殺」を、「一度に大量に残酷な方法で殺人を犯す行為のうち、組織性・計画性が認められるもの」という意味で使います。また、そう定義してはじめて、南京事件を犯罪国家の許しがたい所業として裁くことが可能になるものと思われます。松井司令官が、非組織的で無計画で場当たり的な偶発的殺人の責任を取って死刑に処されるのはどう考えても道理に合いませんからね。ちなみに、南京や東京における戦犯裁判の判決文では、まさにその定義にかなった形で「虐殺」という言葉が使われています。そのことについては、後ほどまた。

では、本書の内容に入りましょう。

北村氏が本書で目論んだのは、〈予断や希望的観測はなるべく慎み、歴史学の正当な手続きを踏むことによって、南京事件で何が起こり、それがどう語られてきたのかをあぶりだす〉ことであったと、とりあえずまとめることができるでしょう。氏が示した見解・所見に対して反対する立場の人々でも、氏が、学者の良心にもとるようなふるまいを自らに対して禁じようとしていることは、感じるのではなかろうかと思われます。

氏によれば、南京事件をめぐるこれまでの論争は、「虐殺派」と「まぼろし派」の対立軸を中心に展開されてきました。「虐殺派」にとって南京事件の実在ははじめから疑いの容れようのない自明の命題です。また、「まぼろし派」にとって南京事件は始めから否定すべきことが自明である命題です。それぞれ強い予断をもって当事件に臨んでいる点では共通していることになります。

これらを踏まえたうえで、氏は、「歴史研究の基本に立ち戻る研究」を提唱します。それは、「南京での大虐殺」が〈在った〉か〈無かった〉かを性急に議論することを自らに対して禁じ、「南京で大虐殺があった」という認識がどのような経緯で出現したのかを順序立てて確認しようとする姿勢です。もう少し具体的に言えば、次のようになります。

「南京事件」を確定したのは、南京と東京の戦犯裁判であった。したがってこれらの判決書の内容を分析し、どのような論理の積み重ねで「南京事件」の全体像が確認されたのかを跡付けるのである。すなわち、判決書が証拠として採用した欧米人や中国人の提出書類(書証)や証言の内容を検討し、判決書が断罪する「南京事件」像が整合的に組み立てられるか否かを検討するのである。

それで、どのような結果が得られたのか。主なポイントは、次の10項目です。それらについての私見は、折に触れ述べましょう。

(1)南京と東京の戦犯裁判の判決を確定するために採用された証拠資料の基礎にあたる『WHAT WAR MEANS』の著者ティンパーリーと、『スマイス報告』の著者・スマイスの背後には、国民党の宣伝戦略が存在した。つまり彼らは、国民党の宣伝戦略の一翼を担うという明確な目的意識を持って、これらの著作を書いた。のみならずティンパーリーは、国民党の立場からの外交工作を裏面から積極的に行った(この点については、ここで指摘するだけにとどめたい)。

(2)ティンパーリ―の『WHAT WAR MEANS』と国民政府による『南京安全区档案』の告発や報告を検討すれば、南京と東京の判決書が描き出すような、組織的計画的かつ六、七週間という長期間の「大虐殺」状況は見出しえない。

(3)事件当時の欧米人観察者・告発者たちは、兵士が集団で武器を棄てて軍服を脱ぎ民間に紛れ込むなどという戦史に例がない事態に直面し、必ずしも便衣兵としての中国兵の処刑を非難・告発しようとしていたのではない。

(4)軍服を着たまま戦闘現場で降伏した戦争捕虜のかなりの部分を一旦収容した数日後に処刑したのは事実である。南京市西北郊外の幕府山一帯で降伏した約二万人の戦争捕虜の処刑が当問題の焦点になる。そこに組織性・計画性が認められるとは、到底言い難い。

(5)「虐殺派」の日本人資料編纂者による英語原文への脚色や改変には目に余るものがある。

(6)当時の欧米人や中国は盛んに日本兵による南京占領後の放火を非難・告発した。だが、放火は占領政策の妨げになるだけなので、その動機が希薄であるといえる。だから、そういう非難や告発は再検討を要する。

(7)「大虐殺」が敢行されているはずの占領下の南京市が意外に平穏であったことを示す有力な資料がある。凄惨な状況とのつじつまがあわない。

(8)事件当時において犠牲者の人数を検討した『スマイス報告』を徹底検証すると、市内の民間人殺害者数・約2400人という推計はおおむね妥当であるが、市外近郊六県における民間人殺害者数・約30000人という推計には合理的根拠が見出しがたい。

(9)当事件関連の遺体埋葬数について。紅卍会は処理数四万体あまりを、崇善堂は11万体を報告した。紅卍会の報告数は信用できるが、崇善堂の報告数は過大である疑いが濃厚である。

(10)「南京大虐殺30万人」説のルーツを探し求めると、ティンパーリーの脚色という線が浮かんでくる。


これらについての話が詳細に及ぶと、読み手にとってつらいものがあると思われるので、要点をかいつまんで述べるにとどめましょう。

まず(1)について。ティンパーリーやスマイスが、当時の国民党の宣伝戦略の一翼を担うという明確な目的意識を持っていたことは、次の資料から明らかです。

ティンパーリーについては、『近代来華外国人名辞典』(中国社会科学出版・1981)に、
「Timperley,Hrold John1898-田伯烈、オーストラリア人、第一次大戦後来華、ロイター社駐北京記者、後マンチェスター・ガーディアン及びUP駐北京記者。一九三七年蘆溝橋事件後、国民党政府により欧米に派遣され宣伝工作に宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任」とあります。ティンパーリーが、国民党の事実上の諜報員であると、ご丁寧に中共が太鼓判を押してくれているのですね。むろん北村氏は、その裏付けとなる資料も提示しているのですが、煩雑になることを避けるためにそれは省略します。が、裏付けとなる資料に行きつくまでの経緯は、まるで推理小説を読んでいるかのような面白さです。ぜひご自身でお確かめください。

また、スマイスについては、当時の国民党国際宣伝処長・曾虚白の『自伝』(1988)に、次のような記述があります。

我々は(漢口でティンパーリーと――引用者補)秘密裏に長時間の協議を行い、国際宣伝処の初期の海外宣伝網計画を決定した。我々は目下の国際宣伝においては中国人は絶対に顔をだすべきではなく、我々の抗戦の真相と政策を理解する国際友人を捜して我々の代弁者になってもらわねばならないと決定した。ティンパーリーは理想的人選であった。かくて我々は手始めに、金を使ってティンパーリー本人とティンパーリー経由でスマイスに依頼して、日本軍の南京大虐殺の目撃記録として二冊の本を書いてもらい、印刷して発行することを決定した。

そのようないきさつを経て出版されたのが、ティンパーリーの『WHAT WAR MEANS』とスマイスの『スマイス報告』です。

以上を踏まえて、大高美貴さんは「南京大虐殺は、国民党の情報戦宣伝部による情報工作だった」と発言したのでしょう。これが、国民党(と南京・東京の戦犯裁判)の歴史ねつ造の尻馬に乗った中共の歴史ねつ造に対抗するうえで有効な切り口であることは間違いありません。

次に(2)について。ティンパーリーの『WHAT WAR MEANS』に登場する告発者たちによって告発された事例が示しているのは、略奪や強姦は四、五人の日本軍兵士による偶発的に発生したものであって、計画的組織的に行われたとは見なしえない、ということです。日本軍の士官や憲兵がこれらの行為を見咎め、逮捕している事例も告発者の報告に散見されます(煩雑になるので、個々の事例は取り上げません)。告発者たちは憲兵の数が不足し取り締まりが手ぬるいと批判しますが、略奪や強姦が軍当局により「計画的」に助長したものだという判断は示していないのです。ティンパーリー自身、日本軍の無秩序やそれ以上の酷さ(disorder, or worse)を告発していますが、決して計画的組織的massacre(大虐殺)を告発しているのではありません。ティンパーリーは、当著作中でmassacreという言葉は使っていない、と北村氏は指摘しています。

また、三八年二月一日付の『南京安全区档案』第五七号に収録されている報告からは、南京・東京の各裁判の判決文が告発するような「計画的で六、七週間も続く」大虐殺をうかがわせるような事例は見受けられません。報告は、一月下旬から実施された難民の原住所への復帰に関するものです(念のために申し上げますが、日本軍の南京入城は、三七年十二月十三日です)。帰宅した難民への強姦事件が報告されていますが、大虐殺の進行を彷彿させる報告とは到底言えません。九年後の戦犯裁判で、偶発的に起こった略奪・強姦・殺人を「計画的であり」「六、七週間も続いた」大虐殺に擬するのは、ねつ造というよりほかはないでしょう。

次に(3)について。いわゆる便衣兵の集団処刑が大量虐殺か否かの問題は、投降した戦争捕虜の集団処刑が大量虐殺であるか否かの問題とともに、日本における南京事件論争のハイライトです。ここでその論争の詳細にまで立ち入ることはしません。

便衣兵問題にまつわって、北村氏が指摘したことのなかで特筆したいのは、つぎの一点です。すなわち、当時の欧米人観察者・告発者たちにとって、「兵士が集団で武器を棄てて軍服を脱ぎ捨て、民間に紛れ込むなどという事態は戦史に例がなく、積極的な『判断』を示しようが無かった」というくだりです。それゆえ、「欧米人の告発者たちが、必ずしも便衣兵としての中国兵の処刑を非難しようとしたのではない」と氏は言います。彼らの告発は、一定の慎重な手続きを経ることなく大量の処刑が性急に敢行されたことに対してなされたのであって、その点を「人道にもとる」と非難したのです。すなわち、便衣兵の扱い方における手続き上の難点を非人道的と非難したのであって、それを大虐殺(massacre)であると非難したのではないのです。

次に(4)について。軍服を着たまま戦闘現場で降伏した戦争捕虜のかなりの部分を一旦収容した数日後に処刑したのは事実です。「虐殺派」は、これをとらえて、日本軍が大虐殺を実行したまぎれもない証拠である、と主張します。ということは、そこに組織性・計画性があったことになります(「虐殺」の定義を思い出していただきたい)。では、本当にそういうものがあったのでしょうか。北村氏は、次のよう言います。なお、引用中に「二万人近い捕虜」とあるのは、十二月十五日に南京市西北郊外の幕府山一帯で降伏した戦争捕虜を指しています。多数が処刑されたのは、その二日後のことのようです(幕府山事件)。
http://1st.geocities.jp/nmwgip/nanking/Bakufu.html

ここで、中国軍捕虜と日本軍のおかれていた状況を冷静に考えてみたい。まず第一に、食料を調達してきて二万人近い捕虜に食べさせるのは、捕虜を収容した日本軍の部隊ですら十分な食糧を確保していなかった状況では不可能であった。それでは、一部の日本軍部隊が行ったように、中国軍捕虜を釈放すべきであったのか。軍閥の兵士を寄せ集めた舞台であれば、兵士は故郷に帰り帰農したかもしれない。しかし捕虜の中には中央軍の精鋭も含まれており、戦争が続いている状況下での釈放は捕虜の戦線復帰を促し、日本軍には自分の首を締めるようなものである。要するに中国軍捕虜も日本軍も、期せずして抜き差しならぬ絶体絶命の状況に置かれてしまったのである。

ここには、物資の補給体制をおろそかにして戦線を延ばそうとしてきた日本陸軍の無謀かつ脆弱な体質が、無残なまでに露呈しています。それは、現場の小さな一部隊にどこうできる類のことではありません。であればこそ、ここに組織性や計画性を読み取ろうとするのは、日本陸軍に対してほめ過ぎというものでしょう。残念ながら、というべきか、そこに見られるのは、場当たり的な無計画性だけである、とするのが妥当ではないでしょうか。

次に(5)について。「虐殺派」の代表的な論客の洞(ほら)富雄編『英文資料編』の訳語について、北村氏は、次のような指摘をしています。

最も気になったのは、WHAT WAR MEANS の文書解題で使用されている″observe″を全て「目撃」と訳す点である。「目撃」に相当するのは″witness″や″eyewitness″であり、″observe″の訳語は「観察」あるいは「監視」が適切である。これを「目撃」と訳すと、欧米人告発者が告発する日本兵による事件はすべて「自分の目で見たものだ」と誤解させてしまう。『南京安全区档案』中の相当数の報告はその「文書解題」にあきらかなとおり、欧米人告発者たちが目撃したものではなく、匿名の中国人協力者の書面報告を英文に翻訳したものである。

もうひとつ。

「過度の意訳」と誤訳がミックスした例がある。WHAT WAR MEANS が付録として収録する『南京安全档案』からの文書群には「解題」が付され、その冒頭の原文は、″The following cases of disorder, or worse, were recorded by foreign observers″(以下に掲げる、無秩序の或いはそれにまさる酷い事例は、外国人により記録されたー筆者)である。ところが日本語訳では″worse″が敷衍され、「もっと悪質な暴行事件の事例」と翻訳される(洞富雄編『英文資料集編』、一〇三頁)。更にobserversが目撃者と翻訳された結果、訳文全体では「以下に掲げる、無秩序、というよりはもっと悪質な暴行事件の事例は、外国人の目撃者によって記録された」となる。提示された全ての事例は、欧米人第三者により目撃された疑う余地のない出来事なのだという決定がくだされている。

実例はこれだけにとどめておきます。この二例からだけでも、洞氏が〈「南京大虐殺」の実在を主張することは正義である。だから、それを日本人に定着させるためだったら、英文の原文の故意の誤訳さえ辞さない〉というかなり特異な信条の持ち主であることが見て取れます。学者としての良心もなにもあったものではありません。こういうのを曲学阿世というのじゃありませんか。だからといって「虐殺派」がみんなそうだと断言をしたいわけではありませんよ。

「要点をかいつまんで」と申し上げましたが、結局、(1)から(5)までの説明のためだけにでも、かなりの字数を費やしてしまいました。みなさま、さぞお疲れでしょう。このあたりで、コーヒー・ブレイクといたしましょう。 (この稿、つづく)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中共は、歴史問題についてなぜ堂々とウソをつくのか(その2)南京事件 (美津島明)

2015年10月14日 16時52分56秒 | 政治
中共は、歴史問題についてなぜ堂々とウソをつくのか(その2)南京事件 (美津島明)



当シリーズ「その1」では、中共による歴史問題に関するねつ造ついて、石平氏の『中国「歴史認識」の正体』をタネ本にして、いくつか実例を挙げました。そうして今回は、タイトルにあるとおり、「中共は、歴史問題についてなぜ堂々とウソをつくのか」について述べようと思っていました。

ところがそこへ、中共が申請していた「南京大虐殺」の世界記憶遺産文書が、ユネスコによって登録された、という記事が飛び込んできました。むろんこれは、到底容認しがたい措置です。私のよちよち歩きをよそに、中共は、日本に対して歴史戦を積極的に大胆に挑んできているのです。現実の目まぐるしい変化は、個人的な思惑を待ってはくれません。

そこで予定を変更して、今回はいわゆる「南京大虐殺」問題について、触れてみようと思います。前回、確かに「まだまだ、自分なりの『南京事件』観を確立したとは言い難い段階であり、それは私なりのささやかなライフワークのひとつであったりもする」と小声で申し上げました。だから、当事件について発言することには、少なからずためらいがあるのですが、どうしても指摘しておきたいことが生じてきたので、思い切って、予定を変更することにしました。

まずは、読売新聞の社説をごらんください。

世界記憶遺産 容認できない南京事件の登録
(2015年10月11日 03時05分)

 歴史問題を巡る中国の一方的な主張に、国際機関が「お墨付き」を与えたと誤解されないか。憂慮すべき事態である。

 国連教育・科学・文化機関(ユネスコ)の世界記憶遺産に、中国が申請した「南京大虐殺の文書」が登録された。

 ユネスコの国際諮問委員会の選考作業を踏まえ、イリナ・ボコバ事務局長が最終決定した。中国が同時に申請した「慰安婦に関する資料」は登録されなかった。

 世界記憶遺産は本来、歴史的に重要な文書などの保存や活用を目的にしたものだ。

 文化財保護の制度を「反日宣伝」に政治利用し、独善的な歴史認識を国際社会に定着させようとする中国の姿勢は容認できない。

 「南京大虐殺の文書」には、南京軍事法廷が戦後、日本人の戦犯を裁いた判決書などが含まれる。判決書は、南京事件の犠牲者を「30万人以上」としている。

 だが、日本では、当時の人口動態などから、実態とかけ離れているとの見方が支配的だ。日中歴史共同研究でも、日本は「20万人を上限に、4万人、2万人など様々な推計がある」と指摘した。

 登録について、外務省が文書の「完全性や真正性」に疑問を呈し、「中立・公平であるべき国際機関として問題」とユネスコを批判したのは、当然である。

 (中略)

 ユネスコの諮問委員会は14人の専門家で構成されている。図書館学の研究者や公文書館関係者が中心で、選考過程は公開されていない。余りにも不透明だ。

 日本はユネスコ予算の約1割にあたる年間37億円の分担金を支払い、その活動を実質的に支えている。記憶遺産の登録制度の改善を働きかけることが欠かせない。

(後略)


私たち心ある日本人が、この件に処するうえで必要なのは、あくまでも冷静な態度を失わずに、必要なことを着々と進めてゆくクールさである、と私は考えています(実はかなり頭にきているので、半ば以上、自分に言い聞かせているのです)。昨日(10月12日)の日本ラグビーチーム・ワールドカップ最終戦の対米戦を終えてのインタヴューで、五郎丸が堪え切れずに男泣きをした場面がありました。私たち日本人は、ここでもらい泣きをして満足するのですが、イギリスのインタヴュアーは、なおも「いまの感情を言葉にしてください」と催促しました。自分の感情の起伏はとりあえず措いておき、自分に対して感情移入をしてくれない相手でも分かるように理性的なコメントを発信することが肝要なのだと再認識した次第です。

で、私が問題にしたいのは、社説が、もっぱら虐殺された人数を問題にしている点です。外務省や菅官房長官のコメントも同じようなスタンスですね。彼らが言っているのは要するに「当時の日本軍が、南京で虐殺事件を起こしたのは確かだ。しかしその人数に関して、中国共産党政府の発表には誇張がある。いくらなんでも30万人は言い過ぎだ。実際は、それよりもかなり少ない。だから断固抗議する」ということです。

どうでしょうか。これを聞いて耳を傾けてくれる部外者がどれほどいるでしょうか。ざっくりと言ってしまえば、ほとんどいないと思います。あまりインパクトのある魅力的な抗議の仕方であるとは思えないからです。残念なことに、いじめられっ子が、泣きべそをかきながら被害を訴えているような印象を受けます。さらに分が悪いことには、この言い方に対して、

「人数が少なければ、許されるとでも思っているのか。お前たち日本人は、つねづね『人の命は地球よりも重い』と言ってきたではないか。とすれば、30万人であろうが300人であろうが虐殺したことに変わりはない、と言うのが筋ではないか」

という倫理的問い詰めがなされた場合、答えに窮してしまうという致命的な弱点を有しています。だから、部外者がほとんど耳を傾けてくれない、とも言えましょう。抗議としてどうも筋が悪いのです。

では、どうしたらいいのか。

ここで、次の動画を観ていただきたいと思います。

【魔都見聞録】南京大虐殺検証の絶好のチャンス![桜H27/10/21]


コメンテーター・大高未貴さんの、「南京大虐殺は、国民党の情報戦宣伝部による情報工作だった」という発言に注目したいと思います。彼女は、「南京事件は、虐殺した人数が何人なのかが問題なのではなくて、中国お得意の歴史のねつ造であることが最大の問題なのだ」と言っているのですね。

この発言の元ネタをインターネットで探していたら、北村稔氏の『「南京事件」の探求』(文藝春秋2001)に行きつきました。残念ながら、現在のところ未読なので、Wikipediaから、そのあらましについての記述を引きましょう。

『「南京事件」の探究』

本書では、南京裁判および東京裁判において南京事件を確定した「戦犯裁判」の判決書を歴史学の手法で検証するという立場で分析、従前から知られていた2万弱の中国軍捕虜の殺害を新たに発掘してきた資料で確認する一方で、判決書にみえる、南京攻略戦から占領初期にかけて一般市民に対する数十万単位の「大虐殺」が行われたという「認識」については、中国や連合国による各種の戦時宣伝の分析を通じ、1937年以降、徐々に形成されていったものとした。

南京および中国各地において日本軍が暴虐を行っていると告発した在中国ジャーナリストハロルド・J・ティンパーリは、日中戦争開始直後から中国国民党中央宣伝部の対外宣伝に従事、資金提供を受けて編著『戦争とは何か』(What War Means)を出版したと主張している。また、「南京で大虐殺があった」という認識がどのような経緯で出現したかという、歴史研究の基本に立ち戻った立場から、研究をはじめている。

北村は、中国社会科学院近代史研究所翻訳室編『近代来華外国人名辞典』(1981年)に、ティンパーリが「1937年盧溝橋事件後、中国国民党により欧米に派遣され宣伝工作に従事、続いて国民党中央宣伝部顧問に就任した」と記述されていることや、王凌霄による研究『中国国民党新聞政策之研究』(1996 年)および国際宣伝処処長曽虚白の回想記に「ティンパーリーとスマイスに宣伝刊行物の二冊の本を書いてもらった」と記されていることから、国際宣伝処が関与していた可能性を示唆している。

『「南京事件」の探究』 をはじめとする研究を経た、2007年4月2日の外国特派員協会での講演では「一般市民を対象とした虐殺はなかったとの結論に達する」と発表している。


(本書については、「毎日のできごとの反省」というタイトルのブログ主人が、秀逸な書評を書いていらっしゃいます。http://blog.goo.ne.jp/goozmakoto/e/c1ee404bfa548421da76c5e36d032825 

*上記のURLをクリックしても、なぜか当該ブログにたどりつけません。その論考のなかで、特に重要と思われる指摘を以下に引いておきます。

中国政府は、南京大虐殺を政治的に利用するために活動しているのであって、自国民が大量虐殺の犠牲にされたという、人道的観点から様々な研究資料を作成しているのではない。彼らの主張する南京大虐殺より、はるかに大量の殺人と身の毛もよだつ残虐行為を自国民にしているのは、彼ら指導者自身である。それを隠蔽して日本の戦争を批判しているのである。その嘘に引っかかった欧米人、自国によるホロコーストから眼を日本にそらしたい米国人やドイツ人が利用していて、いかに理性的に論じても欧米人にも通じがたい状況にある。

最悪なのは、その洗脳に引っかかった日本人が大量発生し、嘘までついて日本の戦争犯罪を告発することが正義だと確信していることである。日本は四面楚歌にある。このような状況で、一面では著者のような冷徹な議論が必要である。しかし、そればかりではなく、何としても日本の名誉を守るという信念から、国際法などは有利に解釈できるものは、利用する、などの手法も絶対に必要である。

著者は便衣兵の処刑に際して、後日非難されようが形式的にでも簡易な裁判をしておくべきだったと書いた。しかし、日本人の裏切り者は、そのようなものは裁判ではない、と否定するに違いない。本質的には彼らの狂った頭を正常にするしかないのである。日本は大陸での戦争を望んだのではなかった。それにも拘わらず、多くの兵士が非道なやり方で支那人に殺された。その無念を思うことも必要だと思うのである。頑健だった小生の叔父も満洲に派兵されて1カ月も経たずにコレラで戦病死した。だから大陸では七三一部隊のような防疫部隊が必要だったのに、今では人体実験をするための部隊だと宣伝されている。

そして空襲で計画的に何十万の民間人の大量殺戮をした米国が何も非難されず、南京大虐殺などという法螺話が世界に通用するのは、日本が軍事的に徹底的に負けたからに過ぎないことを脳裏に刻んでおく必要があると思うのである。また、筆者の冷徹な観察は、一方で大切であるが、維新以来戦前の日本人が、いかに支那人に悩まされていたかという事実をも没却したものである。支那大陸という場所は、平均的国民に平等な幸せをもたらす日本と異なり、常に一握りの支配者に恐ろしいまでの富裕をもたらす場所であることも忘れてはならない。


北村稔氏自身の、南京事件についての発言からも引きましょう。
http://www.history.gr.jp/nanking/books_sapio02227.html (「『南京大虐殺』という名の虚構は国民党による『対外情報戦』の産物だ」・「SAPIO」平成14(2002)年2月27日号より)

私には、「虐殺派」の人々は始めから「南京事件」の存在を疑うべきでないものとして捉え、虐殺を否定する「まぼろし派」の人々は逆に否定すべきものとして捉えているように思われる。

これは既に「神学論争」に近く、歴史事実を探求する歴史学の論争から外れているのではないだろうか。

そこで私は歴史研究の基本に立ち返り、「南京事件」を確定するに至った各種資料を検証することにした。


北村氏の、南京事件に関する問題意識がどういうものであるのかが、よく分かる一節です。氏は、「歴史事実を探求する歴史学」の基本に立ち返って、「南京事件」という歴史的テーマの基礎固めをしようとしたのです。

「南京事件」を確定したのは南京と東京の戦犯裁判の判決書である。それゆえ、判決書が証拠として採用した欧米人や中国人の書証や証言を検証し、判決書が「南京事件」として断罪した論理に整合性があるかを検討することで「大虐殺があった」とする認識がどのような経緯から出現したかを確認することにした。

歴史的主題を扱ううえでの、まっとうな方法論であると評するよりほかはありません。

氏によれば、そういう基礎的手続きを踏む過程で浮かび上がってきたのが、以下の事実です。

ひとつめ。南京と東京の軍事法廷において「南京事件」を「大虐殺」として断罪するうえで大きな役割を果たしたのが、日本軍の残虐行為を記録した「WHAT WAR MEANS」(1938)という書物である。

ふたつめ。「WHAT WAR MEANS」を書いたのは、日本軍の南京占領当時に中国に駐在していた「マンチェスター・ガーディアン」紙の特派員、H・J・ティンパーリーである。彼は、ティンパーリーは国民党の宣伝活動に従事する「広報活動員」だった。

みっつめ。結論。東京裁判において虐殺が行われた証拠とされた「WHAT WAR MEANS」は(そうして大量の死体が存在した証拠とされた「スマイス報告」も)、国民党の外交戦略に基づいて故意に歪められた情報であり、裁判において「大虐殺」行為を立証するに足るものではない。

これらを踏まえたうえで、端的に言うならば、大高美貴さんの「南京大虐殺は、国民党の情報戦宣伝部による情報工作だった」という発言になります。

むろん、学問上の見解は、どれほど説得力のあるものであっても、仮説という性格を脱することはかないません。しかし、だからといって、政府として何も言えない、さらには、言わないというのは、妥当ではありません。なぜなら相手は、歴史戦・情報戦を仕掛けてきているからです。虚言を吐くことでも歴史のねつ造でも、相手に打撃を与えることができそうなことはなんでもしてきているのです。南京「大虐殺」の登録申請はその一環なのです。つまり、ケンカなのです。むろん、売られたケンカは買わねばなりません。そうして、買ったかぎりは勝たねばなりません。勝つには、一定の良心的な手続きを踏んだうえでの有効な見解を使わない手はないのです。

日本政府は、人数のことばかりぐちゃぐちゃ言ってないで、 「南京事件」を「南京大虐殺」と呼ぶことには根拠がない、とはっきり主張すべき です。そうして、同事件には、国家が計画的に関与する、ナチスのホロコーストのような「大虐殺」などなくて、戦闘員のやむをえざる処刑と、心得違いの日本兵による個別的偶発的な略奪・強姦・殺人だけがあった、と主張しなければなりません。それくらいに端的なことを言わなければ、部外者の耳には入りません。つまり、国際世論を動かす力を持つことにはなりません。そう私は考えます。政府には、腹を据えて臨んでいただきたい。 (この稿、つづく)
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

TPPは、やはり売国条約だった!  (美津島明)

2015年10月10日 16時58分55秒 | 政治
TPPは、やはり売国条約だった!  (美津島明)


TPPに関して、私は、当ブログ・ツイッター・フェイスブックを通じ、一貫して反対の態度を表明してきました。その理由は、要するに、TPPに参加することによって、日本国家が日本人の幸福のために存在するのではなくて、グローバル企業の利益追求のための草刈り場になる、と思ったからです。言いかえれば、日本がごくふつうの日本人にとって安心して住める国ではなくなり、日米の強欲資本主義者たちによって、マネーのために、うかうかとしていると国民の安全・安心そして命までもが危険にさらされるような修羅場になる。そう考えたからです。それは、中野剛志・関岡英之・東谷暁・三橋貴明などの、心ある優れた論者たちの諸著作やお話しを読んだり聞いたりしているうちに、おのずと固まった見識でした。

で、今月の5日、TPPの大筋合意となりました。TPPは秘密交渉ですから、その全貌は私たち一般国民には知らされていないどころか、いまだに国会議員でさえも知りません(米豪の議員たちは知っています)。

そこで政府は、国会の条約承認を取り付けるために、その概要を政府諸機関のHPを通じて公開しはじめています。むろん、どこまで公開する腹づもりなのかは定かではありませんが。

言論ポータルサイト・ASREDで、TPP交渉の最新状況を報告し続けてきたまつだよしこ氏は、昨日アップされた「TPPで規制改革会議が外国人投資家の代弁者に大抜擢!」で、衝撃の事実を報告しました。
http://asread.info/archives/2511

氏は、TPP交渉参加国との交換文書一覧(TPP政府対策本部・2015年10月5日)のなかの次の一節に着目します。これは、日米間で取り交わされたものです。http://www.cas.go.jp/jp/tpp/pdf/2015/10/151005_tpp_koukan.pdf


○投資 両国政府は、コーポレート・ガバナンスについて、社外取締役に関する日本の会社 法改正等の内容を確認し、買収防衛策について日本政府が意見等を受け付けること としたほか規制改革について外国投資家等からの意見等を求め、これらを規制改革会議に付託することとした

規制改革会議は、その存在自体が、①法的権限が不明である民間議員によって構成され、②各省庁担当大臣の頭越しにどんどん首相に一般国民の利益に反するような内容の進言をし、規制緩和を推進しているという問題大いにありのいわくつきの代物です。

同会議は、国民皆保険制度を骨抜きにしかねない混合診療や、残業の際限がなくなり長時間労働を助長しかねない労働時間の規制の撤廃や、解雇が容易になり雇用が不安定になりかねない解雇規制の撤廃を目論む新自由主義の本丸的存在なのです。つまり、TPPを内側から支えることを旨とする集団といっても過言ではないでしょう。

それでも、これまで事は国内問題で収まっていました(だから問題なし、と言っているわけではありませんよ)。

しかし、今後はそうではなくなるのです。なぜから、日本政府は、米国政府に対して、規制改革会議を通じて、日本政府の中枢にアメリカのグローバル金融資本の意見が、それこそ洪水のように流れ込む太いルートを作ると約束してしまったのですから。グローバル金融資本というのは、要するに、ウォール街に棲息するゴールドマンサックスなどの強欲資本主義者とか「ハゲタカ」などと称されるろくでもない連中のことです(少なくとも、実体経済のなかで生き死にを繰り広げる日本の一般国民にとっては、そういう迷惑千万な存在です)。

これをそのまま許したら、いったいどういうことになってしまうのか。いまのところ、恐ろしすぎて私の想像をはるかに超えてしまいますが、日本政府がTPP秘密交渉を通じて、国家主権の少なくはない部分を米国政府に譲り渡そうとしたことだけははっきりと分かります(規制改革会議が国益を守るための防波堤になるとは到底信じられません。それを期待することは、泥棒が法律順守のために闘うことを期待するほどに無意味なことです)。

これを形容するのに、「売国」以外のいかなる言葉を使えばいいのか。私は分かりません。私は、好き好んで、右翼的言辞を弄するタイプの人間ではありませんから。思えば、あの甘利TPP担当大臣の、生気のない敗残兵のような表情は、実は、売国奴の役割を押し付けられてプライドの背骨をへし折られた者のそれだったのです。痛ましいといえば痛ましいし、自業自得といえば自業自得ともいえるでしょう。


大手マスコミは、知ってか知らずか、この事実をまったく報じようとはしません。左翼反日勢力は、「戦争法案反対!」を叫びはしましたが、TPPによって内側から安全保障体制が崩壊の危機に直面していることには、まったく気づこうとはしません。

私は、この短文を、ほんとうにやむにやまれず書きました。そうするよりほかに、なすすべがないからです。できましたら、一人でも多くの方にこの事実を知っていただいて、遅まきながら、TPP反対の渦が巻き起こることに希望を託したい。そう思います。絶望的とはいえ、まだ、国会承認の手続きが残っているのですから。

最後に、三橋貴明氏の、まつだよしこ氏のレポートを受けての「檄」とも呼ぶべき激しいコメント動画をアップしておきます。これも、ぜひご覧ください。

【TPP】内政干渉が制度化された「規制改革会議」の衝撃[桜H27/10/9]
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中共は、歴史問題についてなぜ堂々とウソをつくのか(その1) (美津島明)

2015年10月09日 13時03分13秒 | 政治
中共は、歴史問題についてなぜ堂々とウソをつくのか(その1) (美津島明)


青天白日の軍旗を持った八路軍

中共当局は、歴史に関するウソ八百を並べ立てても、まったく臆するところがない。平気の平左衛門なのである。それは、とても不思議なことだ。九月三日の抗日戦争勝利70年を記念する式典での、習近平の演説を聞いてみて、あらためて、そういう感想を抱いた。

なにゆえ彼らは、歴史の改ざんをためらわないのだろうか。そういう疑問を抱いたので、石平氏の『中国「歴史認識」の正体』(宝島社)を読んでみた。

氏は、まず二〇一四年九月三日の「中国人民抗日戦争勝利69年を記念する座談会」での習近平の講和を取り上げる。70年記念式典での演説とよく似た内容である。

8年間にわたる抗日戦争を通して、中国人民は日本侵略者を打ち破り、日本軍国主義の徹底した失敗を宣告し、中国人民抗日戦争と世界の反ファシズム戦争の徹底的勝利を宣告した。

このなかで習近平はどれだけのウソをついているのか。氏によれば、次のように列挙される。

ひとつめ。「中国人民は日本侵略者を打ち破り、日本軍国主義の徹底した失敗を宣告し」たという歴史的事実はない。日本は、アメリカに対して敗戦したのであって、中国に負けたのではない。当時の日本の支那派遣軍は依然として中国大陸の大半を支配下に置き、105万人の兵力はほとんど無傷のままだった。アメリカに負けた日本は、そのことによって連合国軍に「全面降伏」したことになるので、形式的な手続き上、当時の中華民国政府にも降伏したのであって、日本軍が戦闘において中国軍に負けたという歴史的事実はない。

ふたつめ。「中国人民」が「中国人民抗日戦争と世界の反ファシズム戦争の徹底的勝利を宣告した」というのもまっ赤なウソである。日中戦争の戦況は、ユーロッパ戦線に何の影響も与えなかった。逆に、連合国軍がヨーロッパ戦線で対ドイツ戦に勝利したことによって、ソ連軍に余裕が生まれ、シベリアから日本の関東軍を攻撃し、日本の敗戦を早めたのだった。「中国人民」が「抗日戦争」を戦うことによって、あたかも「世界の反ファシズム戦争」を勝利に導いたかのような物言いは、厚顔無恥としかいいようがない。

事実そのとおり、と評するよりほかはないだろう。反日の江沢民政権以前の中共は、まだしも正直なところがあって、ちゃんと「惨勝」という言葉で、日中戦争の結果を表現していた。それは、〈戦闘においては、惨敗としか言いようがないほどの被害をこうむったが、中国が連合国軍の一員だったので、政治的には勝利したことになった〉という認識を示した言葉である。

ここで耳障りなのは、何回も出てくる「中国人民」というイデオロギッシュな言葉である。
「中国人民」=「中国共産党」という刷り込みの圧力を感じるのだ。そのことに関連して、石平氏は、当講和における習近平の「中国人民の抗日戦争において、中国共産党の主導的な役割は戦争勝利の鍵であり、中国共産党は常に抗日戦争の中心的存在である」という言葉を引き、それをおおむね次のように徹底批判する。

当時の中国には、中華民国という合法的な政府がきちんと存在していて、日本軍が戦った主な相手は「国民革命軍」という中華民国の政府軍だった。共産党が率いていた部隊は「八路軍」と呼ばれ、それは、「国民革命軍第八路軍」という正式名称の略である。つまり、当時の「抗日統一戦線」の下で、共産党の軍隊は国民政府軍に吸収された一部隊に過ぎなかった。いうまでもなく、国民革命軍の最高司令官は国民政府トップの蒋介石である。これを要するに、当時の抗日戦争において「主導的な役割」や「中心的な役割」を果たしていたのは、中国共産党ではなくて、国民政府とその指導者・蒋介石であった、というよりほかはない。それゆえ、習近平の言葉は、中国共産党を自画自賛せんがための露骨な歴史のねつ造である。

これまた、歴史的事実そのままであって、文句の付けようがない。

さらに氏は、抗日戦争勝利70年を記念する式典での習近平の演説でも登場した「中国軍民死傷者3500万人」について、次のように言っている。

(習近平のことを指している――引用者注)自身はここでその根拠をいっさい示していないし、彼の率いる中国政府はいかなる公式文書においてもこの「3500万人」という数字を弾き出した根拠を示したことがない。中国国内でそれを確実に立証した論文や著書があるわけでもない。つまり、何の根拠もなく「3500万人」という数字が共産党政権によって一方的に言い出されただけである。

それだけではない。この数字は、次第に膨らんできたのである。

たとえば1950年共産党政権が樹立した直後に発表された数字は「1000万人」であったが、1985年には「2100万人」となった。そして反日教育が始まった江沢民政権下の1995年、この数字はいきなり現在の「3500万人」に膨れ上がってしまった。

まさに、「白髪三千丈」の世界である。詩の世界で数字を大袈裟に言うのはシャレになるが、生々しい政治の世界でそれをやられちゃたまったものではない。

誇張された数字といえば、どうしても「南京大虐殺30万人」に連想が及ぶ。個人的なことをいうと、私は、三十代の半ばに『南京への道』などの本多勝一氏の一連の中国物を読んで、日本人としてずいぶん心を痛めたことがある(本多氏はむろん30万人説派である)。はるばる南京市の南京大虐殺記念館を訪ねて行ったこともある(とにかく敷地がだだっ広かったのを覚えている)。

ところがその後、「どうやら自分は彼に騙されていたようだ」という気持ちが強くなってきた。その直接のきっかけは忘れてしまったが、小林よしのり氏の『戦争論』等の一連の作品が解毒剤の役割を果たしたような気がする。また、本多氏の、裏を取らずに当事者や関係者の証言をつなぎ合わせて話を進める、という杜撰な本の作り方に不信感を抱いたというのもある。とはいうものの、まだまだ、自分なりの「南京事件」観を確立したとは言い難い段階であり、それは私なりのささやかなライフワークのひとつであったりもする。

それはそれとして、石平氏は本書において、南京事件に関して、実証的ではないが、とても興味深くてリアリティにあふれた論じ方をしている。そうして、当事件が事実ではなくて実はほとんどフィクションなのではないかという意味のことを言っている。引用がいささか長くなるが、とても面白いのでご勘弁願いたい。

もちろん「南京大虐殺」はでっち上げられた、まったくのウソである。どう考えても当時の日本軍は南京という都市で30万人を殺せるわけはない。たとえ殺したとしても30万人の遺体はどこにあり、誰が数え、どう処理したか。その膨大な量の遺骨が埋葬されていれば必ず出てくるのだが、今までは何も出てきていない。

私は26歳まで中国で生きてきた。しかし、私自身が小中学校の頃、中国の教科書には南京の「な」の字も出ていなかった。一切そういう記述はなかった。私の大学時代のクラスメートの1人は先祖代々南京市民であったが、祖父の代より南京から一歩も出たことはないその友人は、自分の祖父母からも父母からも「南京大虐殺」の話を一度も聞かされていないと、本人が証言している。もし30万人を虐殺した事実があれば、彼の親戚が犠牲になったとしても不思議ではない。しかし、そのようなことはまったくなかったようである。

この話1つにしても、中国の主張する「南京大虐殺」は捏造であると私は思っている。


  (この稿、つづく)
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする