美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

由紀草一・長谷川三千子『神やぶれたまはず』(イザ!ブログ 2013・10・17,18 ,19 掲載)

2013年12月25日 02時18分21秒 | 由紀草一
由紀草一・長谷川三千子『神やぶれたまはず』(中央公論新社平成二十五年)
(その1) ――戦後の神学に向けて――




明治維新から大東亜戦争まで、日本といふ国は過酷で巨大な悲劇を演じたやうに観じられる。

悲劇のヒーローとは世界と戦ふ者である。この劇は、世界のはうが四艘の黒い船の姿をした使者を寄越したところから開幕となる。「地球は狭くなつちやつたの。あなたにいつまでも引き籠つてゐられると迷惑なのよね」。さう言はれて外へ出て行つてみると、そこは「帝国主義」と呼ばれるマナー(作法・様式)で動いてゐる場所のやうだつた。そこで生きるためには、否応なくこのマナーに従はなければならない、と感じられた。そこで非常に努力して、幸運にも恵まれ、日本は勝ち残つたが、それは同時に、世界(正確には世界を支配してゐた欧米諸国)を敵に回した戦ひへ通じる道でもあつた。

この戦ひには敗れた。その事実はどうしようもないとして、問題は、この後我々日本人にはいかなる物語が残されたか、といふことである。決定的な敗北をした以上、日本のそれまでの歩みは失敗だつたのであり、そんな国・民族にはもういかなる物語も許されない。我々はさう思ひ込んだかのやうである。それでも特に差し支えはない。国はどうでも、仕事や家庭の日常はあり、我々庶民とはもともと、それを第一の関心事にして生きる者だから。

半年のうちに世相は変つた。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散つたが、同じ彼等が生き残つて闇屋となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送つた女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかづくことも事務的になるばかりであらうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変つたのではない。人間は元来さういふものであり、変つたのは世相の上皮だけのことだ。(坂口安吾「堕落論」昭和二十一年)

人間はいかにも、「元来さういふ者」であらう。さうであればこそ、うはつつらの下にある世間、人間同士の世界を保つために、何かが必要なのである。「何か」のうち最大のものは、今のところ国家である。普通の人とは商売に忙殺されたり、色恋にうつつをぬかして、大部分の時を過ごす者ではあるが、一割でも、一パーセント以下の時間でも、「自分は国民だ」といふ意識を持たねば、近代国家は成立しない。

成立しなくてもかまはない、といふ人もゐるが、それはごく一部に止まる。ならば、我々はどういふ国の、どういふ国民か、最小限の了解がなくてはすまぬはずである。その了解をもたらすものを、私は上で「物語」と呼んだ。ならば、その喪失は、やはり問題にならずにはすまない。

いや、物語も、了解もあるよ、と言ふ人もゐる。「平和国家日本」といふのがそれだ、と。戦後の日本は自国の交戦権の放棄を謳つた憲法九条を抱き、世界のどの国にも先駆けて、戦争の廃絶といふ人類の理想に足を踏み出した、のだと。これはこれでまた、凄い物語である。あまりにも凄過ぎて、どうも実感がない、といふのが、大方の心持ではないだらうか。

それはこの物語を、我々が「自ら選んだ」といふのが嘘だからではない。物語は、必ず幾分かは、事実ではないといふ意味の、嘘を含む。問題は、我々自身が、この物語を(言ひ方は難しいが)「真実」として生かしてゐるか、少なくとも、生かさうとしてゐるか、にかかつてゐる。

自民党の議員などが、「戦後、自衛隊は、一人も殺してゐないし、また一人も殺されてゐない。これはたいへんなことだ」と言ふのを、TVで何度か聞いた。本気で言つてゐるのかな、と思つた。それが望ましいことだつたとして、日本はさうなるためにどういふ努力をしてきたのか、考へたことがあるのだらうか。

例へば、平成二~三(1990~91)年の湾岸戦争に際して、結果として自衛隊を送らず、合計百三十億ドルを「経済援助」として出しただけに止つたことがその「努力」だつたのだらうか。

これについて私は、TVで見た、田原総一郎氏が当時のアメリカの、アマコスト駐日大使にインタヴューした映像を今でも鮮明に覚えてゐる。田原氏が、「日本の拠出した金が、非軍事物資にのみ使はれるのかどうか、心配する人もゐるのですが」云々と問ふと、大使は急に激高して、次のやうに反問したのだつた。

「非軍事物資だつて? それはいつたいどういふ意味なんだ?」

これ以上は言はなかつたと思ふが、私は彼の言ひたいことがすぐにわかつた。「同じぢやないか」つてことだらう。「武器弾薬を買はうが、食料や医薬品を買はうが、要するに戦争の遂行のために使ふんだから。日本はそんなことにこだはつて、何を示さうとしてるんだ?」と、言はれてしまつたら、まさにその通り。抗弁はできない、とも感じた。

以上は拙著『軟弱者の戦争論』に書いた。この本はこのやうに、戦後日本の「平和主義」を問ひ直すのが主眼だつたのだが、どうも驚いたのは、「お前はアメリカの基準に合はせろと言ひたいのだな」といふ批判に何度か出会つたことである。私はむしろ、「アメリカにどう思はれたつてかまはないぢやないか」といふはうに賛成する。ついでに、「中韓からどう思はれてもかまはない」とも言つてくれるなら、ますます賛成する。自らのプリンシプル(原理・原則)を貫いた結果さうなるのだとしたら、けつかう至極。

本当に身に付いたプリンシプルならば、だ。「平和主義」は、我々にとって、さう言へるものかどうか、一度じつくり考へていただきたい。それが私の一番言ひたいことだつた。

いや、そんな御大層な「げんりげんそく」なんてものこそ、我々日本人には身に合はぬもの、現状に合はせた変はり身の速さこそ身上、といふ人もゐるが、それなら、平和主義も、今後の国際情勢次第でどうにでもなる、といふことだ。そんなものでよいものか。

ついでに言つておかう。戦後の日本にも戦死者はゐる。昭和二十年以後、日本軍は解体されたが、掃海艇の乗組員だけは「日本掃海部隊」の名で再編成され、日本近海の、日米両軍によつてばらまかれた機雷の除去に従事した。これは現在でも非常に危険な仕事で、二十五年までの五年間で殉職者は七十七名に達した。それだけではない。二十五年に朝鮮戦争が勃発すると、この部隊はアメリカ占領軍の命令で、朝鮮半島の元山・仁川方面に送られて、掃海作業をしてゐる。作業中、一隻が機雷に触れて沈没、乗組員のうち炊事係の中谷坂太郎が死亡した。当時は占領中であり、自衛隊の名前すらなかつた時代だから、「自衛隊は戦争で一人も殺してゐないし、殺されてもゐない」は、まあ嘘ではないけれど。

この事件は当時は秘密とされ、政府がようやく中谷などの功績を認めて勲章を贈つたのは昭和五十四年になつてからだつた。それでも、現在でもよく知られた事実とは言ひ難いだらう。

そればかりではない。湾岸戦争のとき金を出したことも、平成十三年にはアメリカ軍の後方支援のためにイージス艦をインド洋に派遣したことも、それより先、ヴェトナム戦争時には、日本の基地から米軍爆撃機が飛び立つて行つたことも(すべて広義の戦争協力と見られる)、当初こそ賑やかに議論されるが、すぐに忘れられ、なにごとも無かつたかのやうに時が流れる。大東亜戦争時の悲惨は、八月になる度に繰り返し語られるのに、それ以後の戦争関連事はあまり注目しないことが、戦後といふ時代が成り立つ要件ででもあるかのやうだ。

冒頭に掲げた坂口安吾のやうに、戦後の日本人のあり方を「堕落」と見、しかし堕落こそが人間本来のあり方だからよいのだ、とする立場もあり得るだらう。しかし、我々はいつから堕落したといふのか。その記憶すらないなら、人間にとつて、時間はないのと同じ。即ち、歴史がなくなる。歴史のない民族には、顔がない。戦後の日本は、何か得体の知れない、薄気味の悪い国になつた。他国の人がどう思ふかではなく、我々自身がさう感じはしないだらうか。この不安は、オリンピックを招致したぐらゐで根本的に解消されるやうなものではないのだ。

前置きが長くなつたが、長谷川三千子『神やぶれたまはず』は、昭和二十年八月十五日、日本民族が体験した稀有の感情を忘却の底から掘り起こし、もつて日本人の歴史を、顔を取り戻す第一歩としようとした試みである。その志をまづ壮としたい。

八月十五日が日本人にとつて特別な日であることを否定する人はゐないだらう。ただし、大東亜戦争が終つた日といふなら、重光葵と梅津美治郎が降伏文書にサインした九月二日とか、サンフランシスコ講和条約が発効して日本が独立した昭和二十七年四月二十八日とかのはうが相応しいと言ふ人はゐる。本書で取り上げられてゐる佐藤卓己氏は、八月十五日を「終戦記念日」とするのはマスコミによる刷り込みであると言つてゐるさうだ(P.51)。八月十五日は新暦では全国的にお盆の日にもなつたので、戦死者の慰霊の日としても相応しいやうに感じられるし、といふわけだ。

さういふ主張は法的にはいかにも正しい。しかし、日本人のこころ、あるいは精神、の問題として考へたときには、八月十五日、玉音放送が流れたことには、誰もが無視できない重さがある。

重さとは、具体的にはどういふものだつたか。著者はまづ、書き残されたいくつかの体験を検討して、この日の意味に迫らうとする。

例へば折口信夫は、玉音放送を聞いて悲嘆にくれる。彼の愛弟子で、養子で、おそらく愛人でもあつた春洋は、硫黄島で戦死した。もちろん日本人の多くが、この戦争でかけがへのない人を亡くしたのだ。その多大な犠牲にもかかはらず、日本はつひに勝利することはなかつた。なぜか。日本を守るはずの神々は、どこへ行つてしまはれたのか。否むしろ、我々が神助に相応しくない者に成り果てたことを思ひ知るべきなのだらうか。

このやうに問ふとき、戦争はのつぴきならない絶対の相を帯びる。悲嘆がないところでは、戦争に格別の意味はない。これを長谷川氏は「すべての戦争は「普通の戦争」なのだと言つてもよい」(P.29)といふ言葉にしてゐる。

普通の戦争としての大東亜戦争で日本はなぜ負けたのかと言へば、アメリカに比べて経済力軍事力すべてひつくるめた物理的な国力が劣つてゐたからだ。それ以外にはない。そんなことは最初からわかつてゐたはずなのに戦争を始め、大きな犠牲を出すまで止められなかつた愚かさ、即ち日本の首脳陣の無能、これに、多くの人と同様、折口も怒つた。怒りに対応する形での、日本及び日本軍の作戦行動の批判的な分析は、現在まで数多い。「歴史から学ぶ」とは、普通にはさういふことであり、それは今後のために必要である。

問題は、悲嘆と怒り、本書で取り上げられた河上徹太郎の言葉では「絶望と憤怒」(P.53)だけが戦後の、大東亜戦争に対するいはば公的な感情とされたところにある。特攻隊員の遺書にしばしば見られる、絶望も気負ひもない清澄な感情などは、無視されるか、せいぜい、軍国主義教育による「刷り込み」の結果とされるぐらゐだつた。

折口信夫の目は、さすがに深いところまで届いてゐたらう。しかし、おそらく、「絶望と憤怒」が大きすぎたせゐだらう、翌二十一年には「神こゝに 敗れたまひぬ―」と歌ひ、せつかく志した「新しい神学」の樹立、「神道の宗教化」も見るべき形を取る前に雲散霧消してしまふ。

いつたい、絶望と憤怒の向かう側に、「八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬」(河上徹太郎「ジャーナリズムと国民の心」、本書P.50の引用文より)をもう一度みることはできないものだらうか。それができれば、「新しい神学」の立ち上げも可能であらう。「イエスの死がたんに歴史的事実過程であるのではなく、同時に、超越的原理過程を意味したと同じ意味で、太平洋戦争は、たんに年表上の歴史過程ではなく、われわれにとっての啓示の過程として把握」(橋川文三「『戦争体験』論の意味」、本書P.35の引用文より)できるのであれば。

河上や橋川の言葉に垣間見える、「あの戦争の、とりわけ敗戦の、本当の意味」の探求を根底に置いた数少ない文業の一つに、桶谷秀昭『昭和精神史』がある。これに触発された著者が、改めて、「啓示」とはなんだつたのか、正面から取り組んだ姿が本書『神やぶれたまはず』には刻まれてゐる。桶谷氏の大著は、むしろこれを語ることの絶望的な困難に呻吟してゐる部分が多いのだが、ここで長谷川氏は、驚くほど闊達で真率である。

ただ、これに単純に「共感する」と言ふにしては、現代に生きる我々は、残念ながら余分なものを抱へ過ぎてゐるやうに思ふ。本書の読後感は、「すつきりし過ぎてゐる」ところがあるのだ。

たぶん、これまで述べたこと以外にも、小さな躓きの石はある。それを無視しては、一歩以上を進める障碍になるのではないかと案じられる石が。私が本書を読みながら抱いた小さな違和感が、その在り処を指摘できるものであればよいと願つて、この一文を草する。



(その2) ――吉本隆明の「転向」――



例へば、「戦後の吉本隆明氏が熱心な反天皇主義者となつた」(P.233)といふ言ひ方にはちよつと違和感がある。私は吉本にさほど深く親炙した者ではないので、もし知らないことがあつたらご教示願ひたいのだが、彼が、この言葉からすぐに連想されるやうな、天皇制打倒を声高に叫んだといふやうなことは、なかつたと思ふ。もつとも、天皇及び天皇制の擁護者や賛美者には、なほさらならなかつたけれど。

戦時中の吉本は、混じりつけなし、純度百パーセントの皇国少年で、天皇のために死ぬのは全く当然だと思つてゐた。玉音放送を聞いたときには「名状できない悲しみ」(吉本隆明「高村光太郎」、本書P.138の引用文より)を感じ、「生きることも死ぬこともできない精神状態に堕ちこんだ」(P.141)と言ふ。これを著者は次のやうに解釈する。

戦中の吉本は、彼の有名な著作『マチウ書私論』中の言葉を借りれば、「神と己れとの直接性の意識」で生きてゐたのだらう。特攻隊員と同様の、「自分の命を喜んで捧げる」といふ心境は、そこからしか出て来ない。しかし、あの日、この「捧げ物」は、当の神によつて拒否された。これ以上残酷なやり方はない。「喜んで死にます」と言つてゐる者に、「生きよ」と言はれても、「すでにいつたん投げ出した命を、もう一度拾ひなほして、いはば廃棄物となつた生を生きること」(P.142)しかできはしないのだから。青年吉本隆明からすると、高村光太郎のやうな、戦争中は天皇のための美しい死を称揚し、終戦となると同じく天皇の名のもとに強く生きることを訴へる詩人は、倫理的といふより感覚的に理解し難い者だつた。

それでも、敗戦後の吉本から、生き神さん=天皇への呪詛の言葉は聞かれなかつた。「神に憤る人間は、その憤怒によつて神にそむくと同時に、その憤怒によつて神へとしばりつけられてゐる…」(P.147)。たぶんこれ以上神に縛り付けられることは耐へ難かつたのだらう、吉本の憤怒は、戦争を引き起こした権力へと向かふ。もつともそれは、戦後の一般的な大東亜戦争論のあり方だつたのだが。長谷川氏はそれを、〈神学〉から「戦争のモラル」へと問題をずらし、後者に戦争犯罪のレッテルを貼ることで、詔勅の衝撃から逃れ、信仰を捨て去ることができたのだらう、と評する(P.157)。

それはさうかな、とも思ふが、吉本についてはもう少し詳細を見ておく必要があるやうに感じる。

昭和三十四年、今上天皇の御成婚時の、いはゆる「ミッチーブーム」に触れて書かれた「天皇制をどうみるか」といふ短文がある。冒頭で吉本は、「戦後、奇妙なノイローゼが、われわれ一部の年代に流行したことがある」と書く。「天皇とか皇室とかいうコトバを眼にしたり耳にしたりすると、肋間神経のあたりが痛くなってくる」から始まり、もう少し症状がすすむと、君が代を聞いたり日の丸を目にしただけで逃げ出したくなつたり、みぞおちのあたりが冷たくなつてくる、のださうだ。今では減つたやうだが、私も同種のノイローゼを患つてゐさうな人には何度か出会つた覚えがある。

吉本自身がこのノイローゼに罹り、治療法を医者に聞いたところ(それはウソでせう…)、「積極療法がいちばんだ、ひとつ天皇とか天皇制とかいうのを、徹頭徹尾、論理的に追及してみろ、ということだったので、早速、実行にうつし、どうやら快癒することができた」。

これが、〈神学〉を「戦争のモラル」へとずらして、根底的な憤怒・苦悶から逃れたことになるだらうか。さうだとしても、吉本隆明を特長づけるのは、この場合の「論理的追求」の徹底性のはうにある。それは戦後すぐに彼が陥つた「ノイローゼ状態」の深刻さの裏返しではあるだらうが。

「天皇制をどうみるか」が発表された『夕刊読売新聞』は、吉本以前に井上清と肥後和男の意見を載せてゐて、この文章は彼らへの批判を骨子としてゐる。御成婚パレードを見送る庶民の熱狂を、井上清のやうに危険視する学者もゐて、「事実、天皇がその歴史的本質に帰って平和と文化の祈とう者として立ってもらいたいなどという肥後和男の空おそろしい発言を読むと、そう考えたくもなる。/しかし、憲法が改悪されず、憲法を超越する法制が存在しないかぎり、天皇制は墓場から復活できないとおもう」。

このやうに天皇制存否の問題は政治的に「大したことではない」、それは今ではもう墓場に入つてゐるのだから、とする態度を、「生き神様」への感情の残滓から、と見るのは、穿ち過ぎといふものであらう。戦後の吉本が、天皇にある種の神性を、たとへ悪しき神性であつても、認めてゐたといふ証拠はまづ見つからないのである。

せつかくだからもう少し。戦争責任といふことになれば、吉本も天皇・天皇制に責任なし、とはしてゐない。御成婚が大騒ぎされたことは「天皇の戦争責任がいまも問われていることのアイロニカルな証拠」だ、などと言つてゐて、これは私には理解し難い。

吉本隆明の戦後の天皇論の要諦を一番短く述べたものとしては、赤坂憲雄氏との対談本『天皇制の基層』(平成二年)中の次の発言になりさうだ。「僕にとっては象徴天皇制は無意識の基盤としては肯定的だ、ということなんです。けれども、理念としていったら全面的に否定します、ということになります」(講談社学術文庫版P.39)。これまた理解し難いところがあるが、たぶんかういふことらしい。天皇および天皇制そのものについては、象徴天皇制を含めて、どこまでも反対の立場である。しかし、それを無意識の地盤の一つとして成立してゐる現代日本の市民社会を認める以上、その限りでは現在の天皇制も認めざるを得ない、と。

確かなことは、吉本は天皇制打倒を喫緊の政治的な課題だとは考へてゐないことで、天皇制は日本の農耕社会の文化がなくなれば自然に消滅するし、産業化が進んだ現在だつて、さほど恐るべき威力を持つてゐるわけではない、といふ見解は、上記二つの文献にも、他にも、記されてゐる。

ただしそれで終はりかといふとさうでもなくて、『天皇制の基層』では、天皇制で本当に問題にすべきなのは、明治国家によつて作り上げられた近代的なイデオロギー及び社会システムとしてのそれだ、とする赤坂氏にはつきり反対してゐる。あのとき、自分を含めて多くの日本人がそのために死なう、死ぬのが当然だ、と感じた「天皇」といふ存在は、もつと広く深い視点から考究されねばならぬのだ、と。

吉本隆明の天皇論にこれ以上つきあふことは、本稿が課題とする範囲をはるかに超える。ここではもう一つ、昭和三十五年に書かれた「日本ファシストの原像」といふ一文を瞥見して終はりにしたい。この文の中ほどで吉本は、女性の戦争体験文集である鶴見和子・牧瀬菊枝編『母たちの戦争体験―ひき裂かれて』(昭和三十四年)を取り上げ、庶民にとつての、戦争に関するイデオロギーはどういふものであつたか、考察してゐる。この記録中から抜き書きされてゐる部分は、吉本自身の文より興味深いし、『神やぶれたまはず』の内容とも関連してゐるので、二つばかり孫引きする。

(1)津村しの「無智の責任」

戦争中人間魚雷に乗って死ぬことを夢としていた弟が、戦後あるとき「たとえ、自分に偽りが全然なくとも、おれたち(わたしをも含めて)の取った態度、また思ったことは、悪いことであった。エゴイズムからでも、戦争に協力しなかったほうが正しかったのだ」という。主婦はこれにたいして、「いや、わたしはそうは思わない。戦争をはじめから否定し、知性ある節操で消極的にでも反対の姿勢を取り続けた人々に対しては、もちろん心の底から頭を下げるけれども、それとは別の人々の中でも責任をとって自決した軍人のあり方はどうしても立派に見え、戦争悪をはっきりと認識しておりながら、時の政府の前に影をひそめて生きていて、戦後になってからわたしは弱い人間ですなんてひとりごとを言って、傷のつかない程度に自分をあばいて見せるインテリのあり方のほうが不潔でいやだわ」と主張する。(後略)

さらに、この主婦の記録は、弟の死を決定的なものとする出征を、悲しみもせず平然と見送った母親が、死の病床で「いろいろのことがあったけれども、どうしてもいちばん大きなことは、八月十五日のことだったよ、一億玉砕しないで生きているということが不思議でね。幾日も幾日も、ご飯がどうしてものどに通らなくてね。廃人というのだろうね。あんな状態を―」と述懐するのを記録している。


(2)田村ゆき子「学徒出陣」

学徒出陣をひかえた息子と陸軍中将で司令官である叔父とが、この記録の主婦の家で談合し、たまたま戦争観について激しく対立する。天皇に御苦労であったと言われて、ありがたがっている叔父に、息子がいう。「(前略)こんな意味のないくだらない戦争に、ぼくは大事な命を投げ出そうとは思いませんよ。まるで、どぶに捨てるようなものだ。」叔父の軍人的庶民はこたえる。「いや、この光輝ある歴史と伝統のある日本に生まれたわれわれは、幸福だよ。国家あっての国民だからな。国の危急存亡の時、一命を捧げることのできるのは、無上の光栄というものだ。」息子はいう。「それじゃおじさん、その国を危急存亡の中へ追いやったのはだれですか。(後略)」叔父「(前略)わが国の御歴代の天皇は、国民の上に御仁慈をたれ給うて、われわれを赤子と仰せられる。恐れ多いことではないか。(中略)民のかまどの仁徳天皇のお話もよく習ったろう。明治の御代からこのかた、国運は隆々たるものだ。みな御稜威のいたすところだ。」息子「おじさんは『日本書紀』もお読みになったでしょう。武烈天皇はどんなことをしましたか。人民の妊婦の腹をさいて胎児を引きずり出したり、人民を木に登らせて下から弓で射させたり、その他天皇たちの非行はたくさん挙げられているではありませんか。これが御仁慈というものですか。それで『大君の辺にこそ死なめ』か。」

このような叔父と息子の対立には、後日譚がついている。やがて、敗戦となり帰京した息子は、家が焼失して、主婦は疎開、夫は近所に間借りの状態で真夜中に帰京し、仕方なくさきの叔父の家の戸を叩いたが、先の大口論にもかかわらず、ずぶぬれの軍服姿の息子をみて、「おお、帰ってきたか。さあさあ、お入り、御苦労だったな」と、温かく迎えたというのである。

このうち(2)の弟と叔父については、また吉本特有のわかりづらい言ひ方で、要するに彼らはインテリの口真似をしてゐるに過ぎない、と言はれてゐる。どんなに激しく言ひ争はうと、そこには人を決定的に、根底から動かすやうな力はない。だから時代が変はるにつれて簡単に変はる。それくらゐだから、「理屈」よりは肉親の情のはうがたいていは大きいのであり、庶民にとつてはそれでよい、否むしろそのはうがよい。しかし、言葉を使ふこと、理屈をこねることが仕事であり存在理由であるはずのインテリまで似たやうなものであり、言葉が羽よりも軽いのだとしたら、それは問題とされずにはすまないだらう。

これに対して(1)については、「残念なことに、わたしたちの戦争責任論は、心情的な基礎として、ここに記録された主婦と弟と母親の準位を超えることができていない」と吉本は言ふ。ここの理路がまた非常にわかりづらいのだが、つまり、「戦争中人間魚雷に乗って死ぬことを夢としていた弟」にしても、「弟の死を決定的なものとする出征を、悲しみもせず平然と見送った母親」も、戦争に対する観念が生活意識のレベルにまで達してをり、その意味でイデオローグたちの言説から「自立」してゐる。戦争で死ぬのは全く当然、それについて彼是の理屈を必要としない程度に。そして吉本(たち?)には、そのレベルで「戦争」を論理的に扱ふことはまだできない、といふことらしい。

果たしてさう言へるのかどうか、疑問はある。この話の中の母は、(2)の叔父の話を聞けば一も二もなく同意したのではないか。こんな知識やら理屈付けはいらないらしいところは、なるほど強さに見えるが、それこそ吉本たち左翼的なインテリが「ナロード(民衆)」に対して過剰に抱いたロマンチズムにすぎないのではないだらうか。

ただ、戦後まで生き延びた主婦と弟には、「無智であることそれ自体に責任はあるか」といふ問ひが生まれる。究極的な問ひの一つではあるが、この問ひもまた、庶民の生活の場で追及されなければならない、と吉本は言ふ。さうでなければ、理屈が一見どんなに精緻になつても、本当に人を動かす力は持たないから、「無智ゆゑの間違ひ」は何度でも繰り返されるであらう、と。これは説得力が感じられる。

以上がざつと、戦後の吉本隆明の立脚点であり、それは戦中の皇国少年の立場からすれば「転向」と呼ばれてもよいのではないかと思ふ。なぜこんな神を信じたか、と悔やまれたとしても「すぐに自分の神学的思考を切り換へて、もつと別の神をさがしたり、無神論を選択したりすることができるといふものではない」(P.146~147)と長谷川氏は言ふのだが、「たやすく」ではなかつたにしろ、戦後の吉本は天皇とは別の神を探し出した。その御名を尋ねれば、たぶん「科学的社会主義」といふのが一番近いであらう。

もちろん旧来の社会主義者とは一味違ふ。吉本は、庶民の生活意識の根底(大衆の原像)から軸足を離さず、一方で目は世界全体を鳥瞰する普遍性をあくまで希求する、理念上の巨人であらうとした。これはこれで一種の神学と呼んでもよい。吉本隆明のカリスマ性は、そこで何が成し遂げられたか、よりは、そこでの彼の意欲の激しさと逞しさに因る。これまた、宗教指導者の持つカリスマ性に似通つてゐると言へる。

そしてかういふのもまた、八月十五日の衝撃が生み出したものなのである。


(その3) ――三島由紀夫の「忠義」――



戦前に生まれ、天皇を神とし、戦後になつても「神へとしばりつけられ」てゐる徴である憤怒を持ち続けた数少ない人物の一人として、長谷川氏が挙げたのは三島由紀夫である。ただし三島は、八月十五日にはあまり衝撃を受けなかつた、と何度も、自ら言つてゐる。例外はただ一つ。

たしかに、二・二六事件の挫折によつて、何か偉大な神が死んだのだつた。当時十一歳の少年であつた私には、それはおぼろげに感じられただけだつたが、二十歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死の怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直観したものと、どこかで密接につながつてゐるらしいのを感じた。(「二・二六事件と私」、本書P.163の引用より)

このエッセイは、「二・二六三部作」として、「英霊の聲」「憂國」と戯曲「十日の菊」をまとめて『英霊の聲』の総タイトルで出版された(昭和四十一年)ときの、あとがきとして付されたものである。「神の死の怖ろしい残酷な実感」こそ、吉本隆明や桶谷秀昭氏が八月十五日に感じたものであらう。「これまでいつもはぐらかすやうな仕方でしか語らなかつた自らの敗戦体験を、三島由紀夫はここではじめて、小説の形をかりて語り出さうとしてゐるらしい」との期待を長谷川氏は抱く。ところが小説「英霊の聲」には、八月十五日のことなどほとんど何も書かれてゐない。二・二六事件に際して感じられた「神の死」は、終戦の翌年の「人間宣言」に結びつけられる。

三島にとつては、敗戦は実際に痛恨事ではなく、上の文中の「敗戦に際会したとき」云々は、「筆のすべり」に過ぎなかつたのか、とさへ思へるが、さうではなく、「告白するやうな顔をしてかくし、かくしながらひそかに告白する」といふ彼の習性に則つて八月十五日が描かれてゐるのだらう、と長谷川氏は考へ、そこから「英霊の聲」の分析に向かつてゐる。

私はこれに関しては、「筆のすべり」のはうが正解に近いやうに感じてゐる。むろん「真実」はわからない。今も三島が生きてゐて、尋ねることができたとしても、彼が「正解」を言ふかどうか、いや、彼自身が「正解」を覚えてゐるかどうかも確実ではないだらう。だいたい、三島といふ多作で多弁な作家の遺した大量の言葉のうちから、彼が積極的に示さうとしたぺルソナ(仮面)を見て、とりあえずそこの「真実」に基づいて考察を進めるより他に、彼とつきあふ道はないと思ふ。

三島が敗戦前後を語つた文書のうち、一番詳細なものとしては小説「仮面の告白」がある。そこでは例へばかう言はれてゐる。「戦争が勝たうと負けようと、そんなことは私にはどうでもよかつたのだ。私はただ生れ変りたかつたのだ」。

「生れ変」るとは、この場合は死ぬことを言ふ。この主人公は、普通の、平凡な生活を何よりも嫌悪し、また恐れてゐた。文学の世界でこそ、天才の声名を一部からは受けてゐたものの、それ以外の彼は、虚弱で、また男色の性癖を隠し持つた青年だつた。この時代では、今よりずつと生きづらさを感じざるを得なかつたらう。殊に、彼のやうに自意識もプライドも異常なまでに強い者は。空襲時の火に捲かれて夭折する、そちらのはうが、退屈で無意味な日常に埋没し、そこからの侮辱を絶えず感じながら生きるよりずつとよい。

と、思つてゐてもその時は来る。それは八月十五日の少し前だつた。彼は父親から、「確かな筋からきいたといふ原文の英文の写し」(ポツダム宣言かしら?)を見せられる。

私はその写しを自分の手にうけとつて、目を走らせる暇もなく事実を了解した。それは敗戦といふ事実ではなかつた。私にとつて、ただ私にとつて、怖ろしい日々がはじまるといふ事実だつた。その名をきくだけで私を身ぶるひさせる、しかもそれが決して訪れないといふ風に私自身をだましつづけてきた、あの人間の「日常生活」が、もはや否応なしに私の上にも明日からはじまるといふ事実だつた。

敗戦の衝撃がなかつたわけではない。しかしそれは、「私にとつて、ただ私にとつて」とわざわざ繰り返して、天皇も日本民族の運命も、全く念頭にない主人公の身勝手さが強調されるていのものだ。これが三島由紀夫の文学の出発点だつたのである。

それでも、三島が、二・二六事件の青年将校たちに憧憬を抱いてゐたことは本当だらう。「二・二六事件と私」の、先程の引用文の後は次のやうになつてゐる。

それがどうつながつてゐるのか、私には久しくわからなかつたが、「十日の菊」や「憂國」を私に書かせた衝動のうちに、その黒い影はちらりと姿を現し、又、定かならぬ形のままに消えて行つた。

 それを二・二六事件の陰画とすれば、少年時代から私のうちに育まれた陽画は、蹶起将校たちの英雄的形姿であつた。その純一無垢、その果敢、その若さ、その死、すべてが神話的英雄の原型に叶つてをり、かれらの挫折と死とが、かれらを言葉の真の意味におけるヒーローにしてゐた。

三部作のうち最初に書かれた「憂國」(昭和三十五年)は、正にその陽画を描いたものだ。主人公の青年将校は美男であり、彼が半年近く前に娶つた妻は美女である。夫は蹶起将校たちと親しく、当然誘はれたはずだが、たぶん新婚であることを慮つてのことだらう、相談も受けなかつた。蹶起の二日後、即ち二十八日の夜、彼は警備の任を一時解かれて帰宅する。もはや蹶起部隊は叛乱軍と決まつた。明日は自分も討伐に加はるやう命じられるであらう。それはできない。と言つて軍人として勅令にも逆へない、とすれば、残された道は、今晩のうちに死ぬしかない。

「俺は今夜腹を切る」と夫が告げると、妻は少しもたぢろがず、「覚悟はしてをりました。お供をさせていただきたうございます」。夫「よし。一緒に行かう。但し、俺の切腹を見届けてもらひたいんだ。いいな」

これでこの小説の物語は終はる。後は、死を前にした若夫婦の交合と、切腹の詳細な描写が続く。至高の死に密着した至高のエロスが描かれてゐる、といふことなのだらうが、臆病で凡庸な私にはその味はひはわからない。ただ、三島にとつて、死の必然性が最も重大なのだな、とはわかる。必然的な死こそ、生を必然的なものとする。それを得た者が英雄なのであつて、偶然の死によつて終はるしかない人生など、なんの意味も値打ちもない。「仮面の告白」中の二十歳の青年が抱く日常性への嫌悪を辿ると、かういふところへ行き着くのは見易いだらう。

同様に、直ちに気がつくことだらうが、ここでは天皇はほとんど関係ない。「憂國」には、その題名とはうらはらに、国家への思ひも微塵もない。ただ至高の死を導く条件として、討伐の勅令が予想されてゐるだけだ。ここでも三島は、恐ろしく身勝手なままなのである。

さてしかし、三島が創造した青年将校はそれでよいとして、実在の蹶起将校たちの死はどうなるのか。この時「偉大な神が死んだ」とは、どういふ意味になるのか。ここで初めて、神としての天皇が問題になつてくる。これを最も直截に伝へたのが「英霊の聲」であつた。

あらかじめ言ふと、ここには「神への奉献としての死が、当の神によつて拒まれる」事態が描かれてゐる。これこそ『神やぶれたまはず』のテーマであるが、長谷川氏が八月十五日のこととして提出する「神学」とは大きく隔たつてゐる。土台がまるで違ふのである。

「英霊の聲」が雑誌と単行本の両方に発表された昭和四十一年の三月初旬、伊澤甲子磨と、蹶起将校のうちただ一人自決した河野壽大尉の兄で、二・二六事件研究家の河野司が来訪したときの談話の「要約」が、安藤武『三島由紀夫「日録」』に収録されてゐる(P.315)。

三島「二・二六の挫折の原因は何でしょう」河野「三〇年に亘る私の研究の結果は、口にすることは憚るものがありますが、最終的には天皇との関係の解明につきると思います」三島「やはりあなたもそうですか」河野「蹶起将校一同は全員自決を決意し、自決に際しては、せめて勅使を仰ぎたい旨の懇願を、本庄侍従武官長を通じて奏上した。陛下のお言葉は、陛下には非常なる御不満にて、自殺するならば勝手に為すべく此の如きものに勅使など以ての外なりと仰せられたと本庄日記にある」三島「人間の怒り、憎しみですね。日本の天皇の姿ではありません。悲しいことです」河野「三島さん、彼等が若し獄中で陛下のこのような言動を知っていたら、果たして『天皇陛下万才』を絶叫して死んだでしょうか」三島「君、君たらずとも、ですよ。あの人達はきっと臣道を踏まえて神と信ずる天皇の万才を唱えたと信じます。でも日本の悲劇ですね」

これが三島の天皇神学のエッセンスである。蹶起将校に勅使を送らず、その死に栄光を与へなかつたことこそ最大の過ち、神としての天皇にはあるまじきふるまひであつた、と。将校たちのテロル(近代政治の文脈ではさうとしか言ひやうがない)は政治的にはどのやうな正しさが認められるのか、その次元のことは関心の外であるかのやうだ。たぶんさうなのだらう。敗戦が重大事ではなかつたやうに。

しかしいつたいそのやうなことがどうして可能であつたらう。賜死とは、支那に由来する制で、身分の高い者が罪を得たとき、公然と追求して縄目の恥に晒すことを避け、潔く自裁した形を取ることで、ぎりぎりの面目を立ててやらうとするものだ。それが日本で、「御馬前の死」=「戦場での討死」となんとなく混同され、栄光ある死だと考えられたのは、ある種の転倒があつたやうに感じられる。

それに第一、臣下に死を賜はることは「日本の天皇の姿」として正しいと言へるのだらうか。支那では多くの場合、毒を贈ることがその作法だつたやうだが、日本では上記の「美意識」の結果、切腹といふ独特の形式に昇華したことは御存知の通り。しかし言ふまでもなく、これは武家の習はしであり、死を命じる主君もまた武士である。長谷川氏も指摘する如く、天皇がさうしたといふ記録は、記紀にはない。

では、変革の原理としての天皇はどうだらう。三島は「英霊の聲」の翌年に書いた「『道義的革命』の論理」で、「国体思想そのものの裡にたえず変革を誘発する契機があつて」「国体論自体が永遠のザインであり、天皇信仰自体が永遠の現実否定なのである」と述べてゐる。

それは国体の中心核としての天皇が、日本の「道義」そのものであるからだ。古来、天皇かそれに近いところで企てられたクーデターから皇族内部のいざこざを除いて数へると、大化の改新、承久の変、建武の中興、といふことにならう。これらはいづれも、「我が国の本来の姿である皇道に戻る」ことを中心理念として掲げてゐた。明治維新も然り、徳川幕府の治世は、あるいは幕府の存在そのものが、国体に悖るとされて、葬られた。倒幕のために天皇信仰が利用されたと言つたはうが現実的には正確であるとしても、理念としてまたタテマエとしてそれは有効、といふより、日本では唯一無二の革命理念であつた事実は揺がない。

しかし、かういふのが野放しにされるのは危険極りない。現実のどんな政治体制も、完全に道義的になどなり得ない。「神の王国」から見たら、この世は常に汚れてゐる。そもそも、人間は道義的に完全にはなれないからこそ、政治が必要とされたのではないか。それを忘れて、「永遠の現実否定」、当時流行つてゐた言葉だと永久革命、をあくまで指向したりしたら、理の当然として、国家・社会は滅ぶ。その危険ぐらゐ、三島もよく弁へてゐた。そのうへでしかし、二・二六の青年将校たちが目指した完全なる道義による変革に、己を託さうとしたのである。

ところで、この時の天皇は国家元首として、また大日本帝国陸海軍の大元帥として、現実の国家の統治者であつた。現体制を守らうとするのが当然であり、軍の統制を最大規模で乱した者たちは、叛乱軍として処罰せねばならぬ。昭和天皇が迷はずさうしたのは、そこに「人間の怒り」があつたことは否定できないにしろ、やはりご英断であつたと評するしかない。

もちろんそれは、蹶起将校たちが求めた、「絶えず変革を誘発する契機としての国体」、その体現者としての天皇像から見れば逸脱であつた。しかしその逸脱がいつ起きたかと言へば、昭和十一年ではなく、遅くとも、帝国憲法によつて天皇が立憲君主となつた明治二十三年まで遡らなければならない。つまり、昭和維新を志した者たちにとつて、「神の死」はもう起きてしまつてゐたのである。

私は先ほど「(終戦の折の)神の死の怖ろしい残酷な実感」は「筆のすべり」としたほうが正解に近い、と推測した。どこがすべつたのかと言ふと、たぶん、「神の死」ではなく、「神の不在」と書くべきだつたのではないか。戦争で多くの者が死んだが、その死を嘉すべき神は最初からゐなかつたのだ(もちろん三島が求めてゐるやうな神は、だが)。さうであれば、三島が戦中に思ひ描いてゐたやうに、戦火に焼かれて死んだとしても、それは偶然の死の一つに過ぎないことになつてしまふ。さらには、特攻隊員の死ですらもが。

天皇の「人間宣言」は、その内容に関はらず、さう呼ばれることによつて、この恐るべき事実を明らかにした。そこが呪はしいのである。

これは当然、「神風はつひに吹かなかつた/何故だらう」の答へになる。三島はそれを、特攻隊員の霊の口を借りて、次のやうに言つてゐる。



陛下の御誠実は疑ひがない。陛下御自身が、実は人間であつたと仰せ出される以上、そのお言葉にいつはりのあらう筈はない。高御座にのぼりましてこのかた、陛下はずつと人間であらされた。あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たつたお孤りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらされた。清らかに、小さく光る人間であらされた。

それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。

だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらされるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらされるべきだつた。この二度だけは、陛下は人間であらされるその深度のきわみに於いて、正に、神であらされるべきだつた。それを二度とも陛下は逸したまふた。(下略)


「何と云はうか」と言ひ澱んでゐることからも察せられやうに、ここで英霊は非常に困難な、いや、明白な不可能事を要求してゐるのである。ある決定的な瞬間において神であること、それが人間である天皇の最高の義務だ、などと言はれ、具体的にはどうすればよいのか、わかる人がゐるだらうか。蹶起将校たちの志を嘉納すること?

しかしそのためには、幾分かは、彼らの行ひを認めなくてはならない。蹶起将校が生前思ひ描いてゐた理想としての「絵図」第二の中で、天皇は彼らに死を命じるのだが、その前には、「今日よりは朕の親政によつて民草を安からしめ、必ずその方たちの赤心を生かすであらう」などと言ふ。天皇の親政? 北一輝だつて実質的にさうなることなど求めてゐなかつた。また、ただそれだけで、蹶起将校たちが政治の貧困・悪徳の証としてゐた、当時の「民の貧しさ、民の苦しみ」まで自動的に救ふことができたらうか。それなら、政府はいらない。憲法もいらない。つまりは、天皇が国家元首、などといふ体制もいらなかつたといふことになる。

これを逆に見れば、天皇が江戸時代まで続いた武家政権で概ねさうであつたやうに、政事や軍事の実権から離れてゐたとしたら、彼らのために一掬の涙をお流しになるぐらゐはおできになつたかも知れない(なさつたかどうかはわからないが)。思へば、そのやうな存在のみが、「絶えざる変革の原理」となり得るであらう。

しかし、陛下が大元帥であり、軍の統帥権を総攬するのだから、自分たちは真直ぐに陛下とつながつてゐる、との思ひが、青年将校たちの第一の行動原理だつたのだから、ここには、この世にあつては、いや、いかなる神をもつてしても、絶対に解き難いアポリアがあるとしか言ひやうがない。

と、いふこともまた、三島は私などよりずつとよくわかつてゐたに違いない。コウルリッジはシェイクスピアは万の心を持つと言つたが、優れた劇作家でもあつた三島にも、百ぐらゐの心はあつたらう。蹶起将校の霊に憑依されてゐない時の彼は、次のやうに昭和天皇の大御心を思ひやることもできたのである。

ああ、お上、尊いお上、けだかい、あらたかな、神さびてましますお上、今やお上も異人の泥靴に瀆されようとしておいでになる。民のため、甘んじてその忍びがたい恥を忍ばうとしておいでになる。(中略)かつて瑞穂の国、日出る国であつたこの国は、今や涙の国になつた。お上こそはこの国の涙の泉だ。遠く苔むした山の頂で、限りもなくあふれるおん涙の泉を、私ははるか山裾にゐて川へ伝へる一本の筧だつたのだ。

これは「英霊の聲」の翌年に書かれた戯曲「朱雀家の滅亡」の一節である。この作を私は、現代日本語で書かれた最も美しい戯曲の一つだと考へてゐる。

主人公は、古くから琵琶をもつて宮廷に仕へてきた朱雀家の当主で、戦争中、この国に仇なすと思へた首相(東條英機がモデルだとすれば、彼が気の毒に思へる)を退陣させるために一役買つたが、それを奏上した時の陛下の目に「何もするな。何もせずにをれ」との詔を読み取る。さうであるならば、ただ黙つて滅びるしかない。

陛下のお考への中にさういうものが実際にあつたかどうかはわからない。が、二・二六事件や三島事件のやうなことをしでかすくらゐなら、何もしないでゐてくれたはうがよい、とはされたであらう。そして、それが大御心に叶ふことだとして、「生きることも死ぬこともできない精神状態」に敢へて留まり続ける者に、不思議な至福が訪れる。承詔必謹の極みだからである。これはこれで、「神人対晤」のある形かも知れない。ただし、よそ眼にはそれは「静かな狂気」と映る。

かういふ境地もあり得ることを示した三島だが、自分自身は最終的にはもつと激しい狂気に身を委ねた。一つには年齢の問題もある。「お上の御学友」だつた朱雀家の当主は終戦時で四十五歳だらうが、昭和といふ年代と生まれを同じくしてゐた三島は二十歳。黙つて滅びを受け入れたまま生きて行くにしては死までの道のりが遠すぎる。もつとも、戯曲では当主の息子は、朱雀家の最後を飾るべく「南の島」で戦死するのだが、三島は、徴兵逃れに近い形で、その機会を自ら逸してゐた。

ここからは私は長谷川氏の論にほぼ完全に同意する。三島に残されたのは、「行動学入門」(昭和四十四年~四十五年)に言ふ、最も純粋な行為としての死である。政治的な有効性はもとより、究極的な必然性を与へてくれる神の有無さへ問はない、心情において徹底的に純粋であることによつてのみ、「道義性」が保証されてゐるやうな行為。三島はこれを、「豊饒の海」第二巻「奔馬」(昭和四十二年~四十三年)の主人公にかう言はせてゐる。

忠義とは、私には、自分の手が火傷するほどの熱い飯を握つて、ただ陛下に差し上げたい一心で握り飯を作つて、御前にささげることだと思ひます。その結果、もし陛下が空腹でなく、すげなくお返しになつたり、あるいは、『こんな不味いものを喰へるか』と仰言つて、こちらの顔へ握り飯をぶつけられるやうなことがあつた場合も、顔に飯粒をつけたまま退下して、ありがたくただちに腹を切らねばなりません。又もし、陛下が御空腹であつて、よろこんでその握り飯を召し上つても、直ちに退つて、ありがたく腹を切らねばなりません。何故なら、草莽の手を以て直に握つた飯を、大御食として奉つた罪は万死に値ひするからです。では、握り飯を作つて献上せずに、そのまま自分の手もとに置いたらどうなりませうか。飯はやがて腐るに決つてゐます。これも忠義ではありませうが、私はこれを勇なき忠義と呼びます。勇気ある忠義とは、死をかえりみず、その一心に作つた握り飯を献上することであります。

かくして昭和四十五年十一月二十五日のあの蹶起となる。これによつて三島由紀夫は、戦後日本の伝説となつた。しかし、最後に「天皇陛下万歳」が叫ばれた、その時の「天皇」とはいつたいなんだつたのか、それは私などの理解を絶する領域である。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

由紀草一氏・闘論!倒論!討論! 今更ながら場外から乱入編 (イザ!ブログ 2013・5・25掲載)

2013年12月16日 06時07分05秒 | 由紀草一
*由紀草一氏の以下の論考は次のふたつの文章をふまえてのものです:編集者

「小浜逸郎氏・宮里立士氏、「チャンネル桜」出演!」
http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/4254e48d7a655767879822dbc2d824ea
「チャンネル桜・闘論!倒論!討論!場外乱闘編」
http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=a27592ea88617a2e3813e72e92c9b473

*****

生業が異様に忙しくて、間が空いてしまいましたが、小浜逸郎さんや宮里立士さんが出席なさった桜チャンネルの討論会(4月20日)を見て、自分でも言いたくなったことを書きます。ポイントは4月27日の当ブログの記事で、美津島明さんが言及なさっているところです。

きかっけを与えたのは浜崎洋介氏でした。3時間目の29分あたりで、氏は大略こう言いました(以下、発言の引用の文責は由紀)。

自分には西洋的な神の実感はない。おそらく、日本人ではある人のほうが少ないだろう。では、日本人の超越性はどこに求められるか。それはむしろ、身近な「かけがえのなさ」にある。例えば、あるペンがあり、それが既製品ならば同じ種類のものは何十万本とあるわけだが、そのうちの一本を十年も使ううちには馴染んでくるだろう。それは自分がペンを馴染ませたのか、ペンに自分が馴染んだのか、どちらとも言えない、「間柄」こそ問題である。即ち、間柄は自分を超えており、そこに「馴染み」があり、「かけがえのない」ものがある。自分はそのかけがえのないものを守るためだったら、死ねる、かも知れない。ヨメさんが泣いている、守らなくちゃいけない、というふうに。これを基礎として、この日本では、超越性も絶対も、ナショナリズムも、ある。

ここで宮里さんが発言します。折口信夫によれば、日本文学の本質とは、手に握った雪が消えていく、そのときの痛切な喪失感である。現在、そんなものが一般には感じられなくなった社会状況で、どうやってそれを取り戻すか。宮里さんはそういうつもりで言ったのではないかも知れませんが、浜崎氏の言う「かけがえのなさ」は、いつかはそれも失われてしまうという痛切な哀惜感(=無常感)を含んでいるものでしょう。これは非常に重要な要素です。

次に小浜さんの発言になります。浜崎氏が言うように、カミさんが泣いているから、というのが原点だというのは全くその通りだ。しかし、それが、そのままの延長線上でナショナリズムと繋がるかと言えば異論がある。例えば家族というような身近な繋がりは、そのままでは国家の利害に直結しない。早い話が、国のために命を捧げれば、女房子を泣かせなければならない場合もある。

ここから、水島総氏と小浜さんの、特攻隊を題材にした議論になり、私が外から乱入したいのもそこなのですが、その前に、浜崎氏への異論を述べておきたいと思います。「間柄」については、もっとよく考えるべきではないでしょうか。

このへんは非常に微妙なので、浜崎氏も本当はわかっていながら、話の流れでああいう言い方になってしまったのかも知れません。それはわかりませんので、表面に出たことにだけ反応すると、「間柄」が、西洋的な、超越的な絶対者の位置を占めるはずはありません。間柄は時間が経つにつれて変化しますから。

なるほど、私と他のもの(それが事物であっても人間であっても)との関係は、私一個の都合によってどうにでもできるわけではなく、その意味では私を超えている、と言ってもいいでしょう。それ以前に、「私」は、ある国のある地域の、ある家族の中に生まれ育って初めて「私」になるのであって、間柄は「私」に先んじていると言ってよい。いや、字面からしても、人間とは「人と人の間」ですから、人間の本質は間柄にこそあり、日本人は昔からそう感じてきたのだ、とも考えられます(和辻哲郎による)。そういう意味では、一種の絶対性を帯びているかも知れません。これは、浜崎氏が名を挙げた福田恆存より、吉本隆明の「関係の絶対性」(「マチウ書試論」)という概念に近い、ですかね。

しかし、「私」の意思は、部分的になら間柄を変えることができます。ものなら捨てられるし、カミさんとは離婚できます。絶対者と言えば、そのような変更もきかず、時間の影響も受けない、相対的なこの世を完全に超越したもののことでしょう。唯一絶対神の伝統のないわが国人には、それは結局わからない、とはよく言われますが、そうでもないんじゃないかな、と最近私は思っています。「現代人には、鎌倉時代の何處かのなま女房ほどにも、無常といふ事がわかつてゐない。常なるものを見失つたからである」(「無常といふ事」)と小林秀雄の言う、「常なるもの」があるのだとすれば。

これを導くのは、この世はすべて無常、そう観ずる心を含めてすべて移ろいゆく、という思いであり、その思い自体に名を付けようとすると、反面に、永遠、恒常(無常はその否定語ですね)、絶対とかいう概念が立ち現われる、ということになると思います。その事情は、西洋でも東洋でも、日本でもそんなに違いはないのではないか、とも。

違いは、例えば、浜崎氏が討論会の前のほうで言っていた、デカルトが「方法叙説」でしたような、「超越者(神)を語ろうとする試み」にある。周知のようにデカルトは、この世のすべては疑える、として、ところで「すべてが疑える」こと自体は確かだとすれば、疑っている「私」は確かに存在しなければならない、そこからさらに、その「私」を支える絶対に正しい者としての神の存在証明を始めます。よくやるなあ、とここは私も感心します。西洋人だって多くの場合そうらしく、同時代人のパスカルには、デカルトは自分の都合に合わせて神を利用したかっただけだと批判されましたし、後世のカントによっては、こんな証明はインチキだと証明されてしまいます。私は愚鈍なのでそんなふうに頭は働きませんが、直観的に、自分より高次元な「存在」を証明するなんて、無理に決まってるだろ、とは思います。

ただし、こんなふうに無理をしてでも神を見据えようとする指向自体は、何ものかでありましょう。神と対話できるのは、ある種の絶対性を帯びた「私」ではないだろうか。そのような「私」=個人を、我々日本人はいかにも、知りません。善し悪しが言えるようなことではありあませんが、日本の近代(西洋化)を考える場合には、逸することができないポイントではあるでしょう。

ここで小浜さんの論にもどります。人は必ずある共同体(人間=じんかん)に生まれ育って初めて人間になる。そうであれば、その共同体内部の他の成員に対する責務が生じる。というか、「個々人の責任」と言えば、具体的にはこれ以外にありようがない。ところが問題は、この共同体にはいろいろなレベルがあり、家族、地域共同体のさらに上に、近代では近代国家(国民国家)というものがかぶさり、それぞれのレベルから要請される責務が違っていて、対立する場合すらある、ということです。

これは倫理ということを考える場合の一大問題です。恥ずかしながら私も以前に、自分のブログで、大ベストセラーになったマイケル・サンデル『これからの正義の話をしよう』にことよせて、愚考の一端を示したことがあります。

「正しい道はあるのか? その3」
blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/e/8c2d4a1fa3afb5ae3b6ef0f8af7afb3c

水島氏にはこういうことを考える感度が不足しているのでしょうか? たぶん、「私」を去って、国のために命を捧げる者の偉大さ、その身近でじっと耐える者達のけなげさ、という物語に頭からすっぽり入ってしまい、それ以外のすべてを、不純な莢雑物、少なくとも二義的な価値しかもたないものと見る、純粋主義の立場にいるのでしょう。西部邁氏がおっしゃったように、こういうのは歴史的に、右翼にも左翼にもあり、人間性を扼殺する危険きわまる思想傾向として働きます。

しかし、ここにはまた、以前浜崎さんについて述べた、非常に微妙な問題があり、それに触れずにはすまないような気がします。お前(由紀)の文章にありがちな、あっちへ行ったりこっちへ行ったりが、今回は特にひどいな、と言われるかも知れませんが、しかたありませんね。

それというのも、私も自分なりに、知覧特攻平和会館や靖國神社の遊就館を訪れ、展示・刊行されている遺書を読んで、感銘を受けた体験があるからです。明日は死ぬ、絶望感もなく、といって気負いがあるわけでもなく、全く晴朗な気持ちで、という主旨のものは特に印象に残っています。こういう人は、私が論っているようなこととは別の次元で、本当に神の領域にまで達してしまったのだな、と納得せざるを得ません。その心境は、私などには永遠にわからないことの一つであるようです。

私にもわかって、こだわっているのは、あくまで平凡な人間の領域なのです。

水島氏は日本的な美意識の一例として平敦盛の例を出されました。もっとも、それがどういう意味で、だったのかはちょっとわかりかねるところがあったのですが。こちらに引きつけて言うと、敦盛物語の主人公は、敦盛を討った熊谷次郎直実です。もののふとして、いくさで、敵の武将の首を取った。当たり前すぎるほど当たり前なことだが、その討った相手は自分の息子と同年輩の、青年と言うよりは少年と言ったほうがふさわしいような者だった。「それを殺すことは本当に正義なのか」という形の疑問は、近代以前の日本には出てこないのですが、それでも、「武士のならひ」「いくさの定め」だけで割り切ることができない悲しみは残ります。

悲しみとは、「私心」に属するものであり、そんなものに拘泥していたんでは、いくさはできませんから、武士失格になる。さはさりながら…という形の劇は古来から日本人にはおなじみで、おかげで、敦盛の、というよりは直実の物語は、「平家物語」に採られて以来、能の「敦盛」、幸若舞の「敦盛」(織田信長が好んだという「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」の詞で有名)、浄瑠璃・歌舞伎の「熊谷陣屋」(「一谷嫩軍記」三段目の切)などになって、親しまれてきたのです。こういうのは日本的美意識の、少なくとも重要な一部であり、外国人にもある程度は理解されるでしょう。

この後は、いくらか近代的な観点の混じる話になります。

近世までの日本の文芸では、公(おおやけ)と私(わたくし)の価値では、必ず前者の方が高く、対立が生じたら、私は公のために犠牲にしなければならない。滅私奉公ですな。その上での「さはさりながら」なのです。実際にはいろいろあったでしょうが、表面的には、つまりタテマエとしてはそうでした。その通俗版が例えば、「義理と人情を秤にかけりゃ/義理が重たい男の世界」(「唐獅子牡丹」)でして。これはこれで、三島由紀夫がグロテスクなまでに巨細に描き出したように、エロティックなものではありあます。つまり、「美学」ですね。

小浜さんがおっしゃられたように、美学で国家を語るのは非常に危険です。だからこそ魅力的なんだ、と言われるかも知れませんが…。だいたい、それは「私」が美しいと感じるからこそ存在する、という意味で、「わたくしごと」に属するものですし。

美学を離れたところで、公は必ず私に優先する、は「正しい」のでしょうか? 本当にそう信じますか? または、感じますか?

水島氏はもちろんご存じでしょうが、小林よしのり『戦争論』に採り上げられた話の一つに、藤井一少佐の事績があります。熊谷飛行学校で少年飛行兵の精神教育を担当していた人で、特攻兵士を育てながら、常日頃「お前たちだけを死なせはしない」とおっしゃっていたそうです。しかし、自分自身は操縦士ではないので、特攻を志願しても許されなかった。やがて奥さんは、「後顧の憂いなく、お国のために尽くしてください」と、二人の幼子とともに、玉川上水に身を投げて死ぬ。その後藤井少佐は、改めて血書で嘆願すると、特別に許されて、亡き家族に宛てて、「すぐにお前たちの許へ行く」という遺書を認めて、敵艦に体当たりしたのだそうです。

当時にしてもあまりに壮絶すぎる話だからでしょう、奥さんと子どもさんの死の真相については、報道管制されて、当時は明らかにならなかったらしい。小林氏がとりあげてから、ある新聞社が調査したら、この奥さんは、死ぬ少し前までは、夫に、「どうぞ死なないでください」と懇願していたとのことです。人間にはそういう矛盾したところがある。少しも不思議ではないし、この事実があったからと言って、藤井夫妻に対する畏敬の念が減る、などということはありません。

その上で申し上げたい。奥さんが、最後の最後まで、夫に、「死なないでくれ」と言い続けたとしたら? 私だったら、感動はしませんし、近くで見たとしたら、「未練がましいな」なんて感想は持ったかも知れない。しかし、「それはいけない」などと言う権利が、傍で見ているだけの第三者にあるでしょうか? ない、と私は思います。そして、国は、第三者の中に含まれるのです。

妻が夫に、「死なないでください」と言うのも、「立派に死んでください」と言うのも、個別具体的な、それまでの夫婦の過ごした、それこそかけがえのない「時間」から出てきたものです。その時間を共有していない者に、その言葉の、その感情の、価値がわかるはずはありません。いや、他人にとっては価値などないのだ、と言いきってもいいでしょう。それが「かけがえがない(欠けた場合には替えはない)」ということの本当の意味です。他人にはせいぜい、自分の中の「時間」に基づいて、彼らにもきっと大切な「時間」はあるのだろう、と思いやることができるだけです。

(水島氏も西部氏も、そろって「時間が…(大切だ)」とおっしゃっていましたが、そこに込められた思いは御両人でけっこう違っていたようです。ただ、確かなことはわかりません。)

明らかに、こんな感情だけでは人間社会を作って維持することはできませんので、最終的には国家という機関が必要とされました。だからそれは、必ず幾分かは非人間的なところを含みます。そうでなければ、意味がないのです。例えば、国家は愛し合っている家族を引き離したりすることもあります。家族に言われて、徴兵忌避をするような者(日本全体なら、必ずいます)を見つけたら、罰しなければならない。それは法的なことで、その限りで正当です。

倫理は、おのずからまた別にあります。普通の人間が普通に生きる場に。いつかは失われてしまう、はかなく、広がりもないものですから、それが何かを、例えば国家を、超えることはありません。けれども逆に、何者も、それを超えることはできないのです。



戦後の人間は、自分のことにだけかまけて公を顧みることがなくなった、いわば「滅公奉私」だ、などと、保守派の人がよく言います。そんなこともないんじゃないかなあ、と私は感じます。ありようは、「公」も、具体的な「間柄」に立つ「私」も関係なく、わがままが通ると思えれば通そうとする、それが目につく、ということではないでしょうか。戦前でも戦後でも、人間にはそういう面があります。ただ、いかにも、わがままが通りそうな場面は、戦前よりは増えたかも知れない。それは絶望したり怒ったりすべきことでしょうか?

現代でも、自分を超えた大きなもののために命を懸ける人や、それを見守る人がいなくなったわけではありません。平成16年5月27日、報道写真家の橋田信介がバグダット付近で襲撃されて亡くなりました。このとき遺体を受け取って帰国した奥様が、記者会見で、「夫は自分の信念に殉じたので、本望だったと思う」「夫を誇りに思う」(大意)とおっしゃいまして、その凜とした姿勢に、私も久々に感動しました。

知人の一人に、「なんだかヘンだ。あの奥さんは旦那を愛していなかったんじゃないか」などと言った者がいましたが、これはいかにも戦後的な、つまらない見方だなあ、とは思いました。けれどまた、これだけを、橋田夫婦がともに過ごしたかけがえのない時間から抜き出して、「日本女性はすべからくかくあるべし」などと、「道徳」のお手本にするとしたら、全く馬鹿げている、とも思います。そういうことはしづらくなったのは、むしろ戦後のよいところだ、とも。

それにしても、国家を守ろうとする姿勢などなくなったのも同様ではないか、と言われるかも知れませんが、これまたそうでもないんではないでしょうか。福島原発事故の時、自衛隊員や消防隊員の方々が、注水作業に行ったではありませんか。この事故そのものについても、その後の措置についても、私などにとってはとても難しいことが多く、現在当ブログの美津島さんや小浜さんの記事など読んで、勉強中ではありますが、今はそれは関係ない。ともかく、また爆発するかも知れない、大量の放射能を浴びるかも知れない、と言われているところへ、命令一つで赴く人は、確かにいるのです。

確かテレビで、その中のお一人が、奥さんに「英雄になってこい、と言われた」とおっしゃっておられたのを覚えています。それが励ましになったのかどうか、家族でない限りは決してわからない。原理的にわからないことについては黙っているのが、最低の「道徳」(倫理と道徳の違いについては棚上げにします)なのだと私は思っています。

いずれにしろ、国民のために、死を賭して働く人はいる、その方々への深甚な敬意だけは忘れてはならない。これは「倫理」として、維持されるように努めるべきでしょう。誰かに対するお説教としてではなく(そういうのは、だいたいにおいて、反発しか呼びません)、自分自身が真摯な感情を持ち続けることによって。

また、次のようにも考えています。ある切迫した危機(西部氏の口真似をしてみると、英語ではcrisisで、この原義は「分かれ道」)のとき、家族を取るか国を取るか、そこには普遍的な一定の「正解」など決してあり得ない。人はそのようなとき、いつも悩んで、自分なりの答えを見つけなければならない。しかし正にそのように悩むところにこそ、人間が倫理的な存在であり得る、そして偉大であり得る根拠があるのだ、と。

以上です。また長々と失礼いたしました。



〈コメント〉

Commented by kohamaitsuo さん

人間の機微をよく嗅ぎ分けた筆致に感銘を受けました。「ああでもない、こうでもない」の文体の魅力は、こういうところに現われるのだと思います。
しかも、最後の文章がすごく決まっていますね。
しかし、私は野暮な質で、理屈っぽく整理するのが好きなので、ここで扱われている問題を、以下の四つくらいに整理してみました。自分勝手な判断が混入しています。ご参考になればさいわい。

①「美学」(精神主義)で戦争が肯定的に語られるときには、すでにその語り手共同態は戦争に負けているのである。

②戦後社会の風潮をもっぱら「義の喪失とエゴイズムの蔓延」(その逆に「戦前はそうではなかった」)と決めつける言説は、実態に鑑みて間違いである。

③これからも「公」のために「私」を捨てなくてはならない局面はいくらでも生じるが、そこに生じる「決断」の潔さやエロスの「悲しみ」は、文学や芸術や宗教(鎮魂と祈り)のテーマとして、後追いのかたちで永遠に追求されていく。そういうものでしかなく、またそれでこそ一人ひとりの「生」に意味が与えられる。

④「自分を超えたなにものかの価値に己を託す」というヒロイックな「言葉づかい」は、その抽象性のゆえに、根本的な欺瞞を含んでいる(これはオトコが作ったホモセクシャルな言葉づかいだとオトコの一人である私は思っております。オトコってダメねえ)。「愛する具体的なだれか」のために命を捨てることと、「国家のような共同幻想」に殉ずることとは、どちらが崇高か否かの議論の前に、そもそもけっして抽象化・同一視できない命題である。まず両者を区別する具体性のレベルに降りるのでなければ、はじめから議論にならない。


Commented by soichi2011 さん
To kohamaitsuoさん
 わざわざのコメント、ありがとうございます。
 私の「あーでもない、こーでもない」文体は苛立たしい、とはけっこうよく言われます。小浜さんなど、よく読んでくださるなあと、感心するぐらいです。それは、思い切りの悪い性格の然らしめるものですが、半分は意識的にやっています。
 ペンディング状態を保ち続けるのが思想的な力量ではないか、などといつの頃からか勝手に思い込むようになりましたので。
 それで、小浜さんのすっきりしたまとめにつなげて、もう一段階、私の「どっちつかず」を御目にかけましょう。「美学」ということに関連しまして。

(1)戦争という、最も危険な事業こそ、最も理性的にやらなくてはならない。でも、これは矛盾した言い方。人間が完全に理性的になれるとしたら、たぶん戦争など起きない。
 拙著『軟弱者の戦争論』の最後でこれを論じ、戦争に勝つ、というよりは、あんまりひどいことになる前にやめるような方策を立案、実行することこそ軍隊の役割だ、と申しました。その思いには変わりませんが、この世で最も難しいことの一つでしょう。

(2)「己を超えたもののために己を捧げる」には、欺瞞があるのは本当でしょう。でも、具体的な誰かや、何かとともに暮らす時間の中に、全く欺瞞はないかと言えば、そうでもない。一般論として、人はウソをつかないで生きてはいけない。
 この点でも、両者に別に価値の高下はない。ただ、前者は、人を、特に男性を酔っぱらわせて、例えば戦争というようなとんでもないことに駆り立てる力があるので、剣呑だ、とは言える。
 「酔った状態」と権力との関係は、とても興味深いテーマだと思いまして、例えば以下のような形で考えております。
「権力はどんな味がするか その2」
http://blog.goo.ne.jp/y-soichi_2011/c/721c153451fdfecf59d7cfdc1a68f323
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

由紀草一氏 「レ・ミゼラブル」雑感 (イザ!ブログ 2013・3・23 掲載)

2013年12月11日 23時42分21秒 | 由紀草一
ブログ開設1周年おめでとうございます。花束、にもなりませんけど、題材は華やかですから、てな言い訳で、まことに自分勝手な趣味に走った文章を送ります。

全くの偶然にだが、私は昭和62(1987)年3月、ブロードウェイで、ミュージカル「レ・ミゼラブル」のニューヨーク初演を見た(2年前のロンドン初演時とほぼ同じキャスト)。その瞬間、これが最高のミュージカルだ、と私の中では決まってしまった。その後、日本では帝国劇場で一度見た。「そんなもんか」と、世界中に数多いと言われる「レ・ミズ(レ・ミゼ、だっけ?)ファン」には鼻で笑われそうだが、正に「そんなもん」ですので、まあ相手にしないでおいてください。暇があるからとか何かの理由で、相手にしてやるよ、という方々に向けて申し述べます。

「そんなもん」が漠然と感じたことを生意気に解説風に述べる。一口にミュージカルと言っても多種多様だが、「レ・ミゼラブル」はグランドオペラに近い。朗々と歌い上げられるナンバーが第一にそうだが、パフォーマンスが完全に歌中心なのだ。ストーリーはもちろんあるけれど、それは各ナンバーの背景、及びナンバー間をつなぐ役目を果たしている。

このナンバーが凄い。作曲はクロード・ミシェル・シェーンベルク、十二音技法で有名なアルノルト・シェーンベルクは大叔父に当たるそうで。はあ、通常のメロディの超克を目指した人の血縁が、ごく普通の意味できれいなメロディをこんなにたくさん作ったわけか、なんて感心してしまう。それだけに、どっかで聞いたような曲ばかりじゃないか、って声もあるが、そんなら簡単にできると言うなら、やってみればいいだけの話。要するに、すべてのナンバーに心を揺さぶられた。そんな体験は私の、映画を含めたミュージカル観劇史上初めてであった。歌、歌、歌、同じ旋律が何度か繰り返して出てくるが、その構成も含めて、200パーセントの満足、というのは。

何よりの証拠には、1995年10月8日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開かれた10周年記念コンサートがある。コンサート形式なので、舞台中央にはオーケストラが占め、演者はその前の椅子に座って、出番が来ると最前列のマイクの前まで歩いて行って歌う(ただし扮装はしているし、ホール天井から吊り下げられたスクリーンに、バリケードが組まれる場など芝居の一部は映るから、劇の視覚部分が完全に無視されたわけではない)。これで充分感動できる。と言うか、ここで歌っているのは、キャメロン・マッキントッシュ(フランスで上演された「レ・ミゼラブル」を拡充した英語版を作らせ、ロンドン・シェークスピア・カンパニーで上演し、このミュージカルを世界的なものにした大物プロデューサー)が厳選したドリーム・キャストなので、過去10年間の上演すべての集大成となっている。同じ趣旨・形式のコンサートは現在までいろんな国で開催されているようだ。

10周年記念コンサートは、DVD化されたものが、すべてyou tubeで見ることができる。最後のアトラクションで、世界各国のジャン・ヴァルジャン役者17人が、リレー式でフィナーレのナンバー’people’s song’を歌い、また第1幕最後の’One day more’を合唱する、日本からは鹿賀丈史が参加した、それをも含めて。いいのかなあ、と思いながらも、私はよく視聴しては涙を流している。


LES MISERABLES 10th Anniversary Dream Cast (with Lyrics)

特に、ルーシー・ヘンシャルの歌う’I dreamed a dream’は、時々声がかすれるところも含めて絶品。そう、数年前スーザン・ボイルというおばさんを一躍有名にしたあの曲だ。

日本初演時には岩崎宏美がファンチーヌを演じて、歌っているが、これはヘンシャルやボイルに劣らない歌唱力と表現力だと思う。岩崎はこの歌を紅白歌合戦で披露したこともあるので、かなりよく知られているだろうが、よかったらまた聞いてみてください(日本語題名は「夢やぶれて」になっているが、これはやっぱり「夢を夢見た」じゃないですか、岩谷時子さん)。


I DREAMED A DREAM   Hiromi Iwasaki


以下、昨年末に封切られたトム・フーバー監督の映画について。

安倍首相も就任直後のお正月早々に夫人といっしょに見たそうだが、疲れたんじゃないかなあ。なにしろ、スピード感は舞台以上だ。ミュージカルをほぼ忠実に踏まえた構成だから、もちろん全編ほとんどが歌。同じような例だと、ジャック・ドゥミ監督の名画「シェルブールの雨傘」が思い浮かぶが、こちらは画面に登場している俳優は口パクしているだけで、歌は別人によるアフレコ。他のミュージカル映画でも、俳優と歌い手は同一人物であっても、歌はアフレコが普通であるらしい。

これに対して「レ・ミゼラブル」は、俳優にその場で、演技しながら歌わせるのをウリにしていた。おかげで、いかにも、臨場感はあり、そのうえ人物のバストアップの映像が多く、観客は思い入れたっぷりの表情と歌とを、切れ目なしに見聞きしなければならない。舞台ではほとんど同じ上演時間でも、そんなに目まぐるしさは感じないのは、役者の生身の肉体がそこにあるおかげで、人間的・日常的な時間を感じ取れるからなのか。

ファンチーヌのアン・ハサウェイは、これによってアカデミー助演女優賞を得たそうだが、’I dreamed …’をあんなふうに、泣き叫ぶように歌わなくてもいいのではないか、というのが率直な感想である。これも、舞台の、オペラやミュージカルは完結したフォルムとしての歌が大事、映画はよりリアルに近い感じを与えるもの、というジャンルの違いによるのかも知れない。

しかし映画独自の優れた効果もある。あのバリケード。ルイ・フィリップ王の政府に対して叛乱を起こした学生たちが、狭い街路に椅子やテーブルや敷石を積み上げてバリケードを組む。日本でも1960年代に、いろんな大学で見られたアレだ。

(因みに、19世紀のフランスというと、革命や動乱がしょっちゅう起き、政体が目まぐるしく変わったことはよく知られているが、その中で、「レ・ミゼラブル」で最大の山場となる1832年6月5日のは、一晩で鎮圧された、比較的小さなものである。とはいえ、数百人の死者は出しているが。

さらに註もどきに。フランス史で「6月暴動」というと、普通、1848年、ルイ・フィリップが2月革命で失脚して共和制になった後、ナポレオン三世ことルイ・ボナパルトが大統領になる直前に起きて、3日間続いたものを指す。カール・マルクスも「ルイ・ボナパルトのブリュメール18日」で取り上げている。こちらも32年のも事前に充分に計画されてはおらず、自然発火的な蜂起であったところは共通するが、前のは王制打倒を目指し、後はその王制を打倒した共和制への反発が動機という違いがあり、ヴィクトル・ユゴーはマルクス同様、後者には批判的だった。)

映画では市民たちがバリケードの材料となる家具を放り投げて、叛徒となった学生たちを応援する光景が描かれる。これも舞台にはない情景だが、問題はその先だ。学生たちは自分たちに呼応して市民が立ち上がると期待している。が、一夜明けても誰も救援には来ず、彼らの孤立がはっきりする。やがて政府軍の総攻撃。バリケードは破壊され、逃げまどう学生の一人が民家に避難所を求めて、「入れてくれ!」と叫ぶその目の前で、今度は関わり合いを畏れるようになった市民の女房が、窓をピシャリと閉ざす。ほんの短いシーンながら、歴史そのものの非情さを象徴したものとして、心に残る。

このように、映画は「レ・ミゼラブル」の世界に新たな要素を付け加えた。ただ、ミュージカルからの最も大きな変更点は別にある。エポニーヌの扱いだ。

ミュージカルでは、前半のヒロインがファンチーヌならば、後半はエポニーヌ。明らかにそう構成されている。第一幕開幕近くに歌われる’I dreamed …’と、第二幕開幕近くの’On my own’とは、このミュージカルの二大アリアと称すべきものである。後者をソロで歌い上げたエポニーヌは、次に登場した時には、パリの動乱で傷を負い、バリケード内部にいる叛乱学生の一人で、彼女が片思いしているマリユスの腕に抱かれつつ、息を引き取る。この時のデュエット曲’A little fall of rain’も泣けますよ。

で、終幕、ファンチーヌとエポニーヌの霊が、ジャン・ヴァルジャンを天国へと迎えに来るのだ。それが映画では、迎えに来るのはファンチーヌだけ。エポニーヌは他の、バリケードでの死者たちといっしょに教会の屋根の上で’People’s song’を歌っている。彼女はファンチーヌと違って、生前ヴァルジャンとはほとんど関わりはなかったのだから、これが自然というか、リアルというか(死人が歌っているのにリアルはないか…)、ではあるけれど。

それ以前に、フーバー監督は、エポニーヌに関するミュージカルの筋を、原作に沿う形で変更している。それはどういうものか。改めてユゴーの小説から詳しく見ておこう。

いくら二義的な意味しかないと言っても、ミュージカルの、特に第一幕のストーリー展開は早すぎて、まるでダイジェストを見ているようだ、という声もよくある。それでもなんとか話についていけるのは、キャラクターの輪郭がはっきりとした、強い個性の持ち主ばかり登場してくるからで、これを悪く言えば類型的、となる。

もちろん原作が、そうできているのだ。典型的な人物のための典型的な筋の小説ではある。ただし、その筋が単一ではなく、人物もエピソードもやたらに多様。古今東西の娯楽小説とかメロドラマと呼ばれるもののパターンは、すべて出そろっているんじゃないかとさえ思えるほどに。元囚人(途中から脱獄囚になる)ジャン・ヴァルジャンの偉大な贖罪の生涯を中心に、追う者と追われる者のサスペンスあり、人間離れしたタフなヒーローの冒険譚あり、悲運に泣く女がいて、理想に燃える青年の挫折があって、甘い恋物語があって、バイタリティーあふれるストリート・チルドレンがいる。いかにも、みんなどこかで読んだか見たりした話ばかりのようだが、そんなら簡単に作れると言うなら、やってみればいいだけの話。

それから、シンデレラ物語も仕込まれている。本作中のシンデレラの名はコゼットという。ファンチーヌの娘。私生児なので、安宿を営むテナルディエ夫婦の元へ里子に出された。このテナルディエというのが、「レ・ミゼラブル」の裏の主人公とも言えそうな悪役で、最初から最後まで出てきて、狂言回しとしても重要な役割を果たす。ただ、小悪党なので、ミュージカルでは女房ともどもお笑い部門を一手に引き受けている感じにもなっている。その五人いる子どもの長女がエポニーヌ。テナルディエ夫妻は、ファンチーヌには法外な養育費を請求して苦しめながら、幼いコゼットを女中代わりにこき使う。その一方で、自分の二人の娘は猫かわいがりして、できるだけ贅沢をさせた。

しかし八年立つと、娘たちの立場は逆転する。ファンチーヌの死後、彼女の悲惨な生死に間接的な責任があると感じたジャン・ヴァルジャンがコゼットを引き取り、我が子として慈しみ育てる。テナルディエのほうは、悪行の報いで故郷を追われ、パリの犯罪者の群れに加わり、エポニーヌもその片棒をかつがされる。二人の娘は同じ青年、マリユスに恋するが、彼の愛を得るのはコゼットのほうである。

というか、マリユスのほうがコゼットを見初めるのだが、そこはこんなふうに描かれている。マリユスは、裕福な祖父に育てられたが、父親のことや政治上の思想信条の違いから対立が生じ、家を飛び出して自活するようになった青年である。時々気晴らしにリュクサンブール公園を散歩して、六十歳ぐらいの老人と十三、四の不器量な娘がベンチに座って仲良く話をしているのをよく見かけた。最初は気にもとめなかったのだが、あるとき気がつけば、娘はたいへんな美女になっていた。それから彼はできるだけ身なりに気をつけ、毎日のように公園へ出かけるようになった。

シンデレラの名の原義は「灰をかぶった娘」であって、後で灰を拭い落として美しく変身しなければならない。それもちゃんと書き込まれているのだ。

エポニーヌのほうが先にマリユスに恋するのだが、みすぼらしい身なりの彼女は、マリユスからいっこうに気にかけてもらえない。ところが彼女は、イジワルな義理の姉のままでは終わらず、このへんから大活躍を始める。まるで、「男と美貌はあんたにあげるわ。でも、物語はあたしのものよ」とでも言っているかのようだ。あるいは、おとぎ話の端役が突然自己主張を初めて、文学へと突入していったような感じになる。

以下に、順を追って原作でエポニーヌがやったことを列挙する。そのうち舞台に取り上げられたものはSで、映画にあることはFで、それぞれ最後に示す。

(1)マリユスに頼まれて、ジャン・ヴァルジャンの、つまりはコゼットの住居を教える。礼として金を差し出すマリユスに、「お金がほしか   ったんじゃないわ」と言う。(S・F双方にあり)

(2)テナルディエの一味がジャン・ヴァルジャン宅を襲撃しそうになると、体を張って阻止する。(S・F双方にあり)

(3)ジャン・ヴァルジャンは(2)の騒ぎから、追っ手が迫っているのかと疑う。その彼に「引っ越しな」とだけ書いたメモを渡す。これで   ヴァルジャンは、コゼットといっしょにロンドンへ渡る決心をする。(双方になし)

(4)コゼットがマリユスに書いた別れの手紙を手に入れる。が、最後の時までマリユスには見せずにおく。(Fのみ)

(5)コゼットとの恋に生きるか、バリケードで同志とともに戦うか迷うマリユスに、男の声を装い、「友だちが待ってるよ」と物陰から呼び   かけて、彼をバリケードへ誘う。(双方になし)

(6)バリケードでは、マリユスを狙った銃の前に飛び出して、自分が撃たれる。(Fのみ)

こうしてみると、報われることのない愛に身を捧げる女性像としてのエポニーヌは、Fのほうが細かく描き込まれているようだ。とは言え、小説「レ・ミゼラブル」の読者に、エポニーヌをコゼット以上に忘れがたくしている要素、つまり彼女の複雑な心理を最もよく示す(3)と(5)のエピソードは、やっぱり省かれている。エポニーヌは、マリユスとコゼットを引き合わせながら引き離そうとし、マリユスを死地に導きながら彼の身代わりになって死ぬ。悪女と聖女を一身に兼ね備えたような、その後の小説や映画中でもおいそれとはお目にかかれないキャラクターだろう。

舞台や映画で描くのが不可能というわけではない。ただ、うまくやればやるほど、類型的どころではなくなるので、「レ・ミゼラブル」の登場人物の一人としては浮いてしまう感じになるのではないか。もっとも、他の映画化・ドラマ化された作品ではどうなっているか、見ていないから知らないが、このミュージカルは最初に述べたような作品ではあるし、何より、愛する男に愛されない女の孤独を切々と歌う’On my own’(訳せば「私一人で」でしょうね)があったのでは、その歌い手に悪の要素は加えづらい。

だからそれはなくなったのだが、筋の省略の結果、ミュージカルには他の問題が生じた。コゼットからマリユスへの手紙はなくてもすむが、バリケードの中でマリユスがコゼットに宛てて書いた別れの手紙のほうは必要。これを読んだジャン・ヴァルジャンは、初めてコゼットの恋人について具体的に知り、最初は「花嫁の父」の嫉妬心で、見殺しにしようかと思うのだが、結局は救援に向かう。そして最後の、パリの下水道の逃避行になるのだから、これがなくては文字通りお話にならない。

それで、誰がこれを届けるか。ミュージカルの脚色だと、第二幕の冒頭でごく手短に処理されている。マリユスはバリケードに男姿で現れたエポニーヌに、この手紙を託す。エポニーヌは言われた通りにヴァルジャンの家に行くが、コゼットには会えず、ヴァルジャンに手紙を渡す。後は前述の通り、夜のパリを彷徨いながら’On my own’を歌い、政府軍の最初の攻撃の後、バリケードへもどって、’A little fall of rain’の死に至る。

なんでもないようだが、ミュージカルが有名になって、「レ・ミズおたく」とでも言うべき人も出てくると、こういう細かいところにもツッコミが入れられるものだ。一心に自分を慕っている女にその恋敵への手紙を頼むなんて、いくらなんでもマリユスにデリカシーがなさすぎだろう、とか、エポニーヌはマリユスの言うことならなんでも聞くというなら、コゼットではなくヴァルジャンに手紙を渡す小さな背信行為はどう考えたらいいんだ、とか。

で、映画ではこれまた原作通り、エポニーヌの死後に、ガヴロッシュによって届けられる。パリの下層民を象徴しているようなこの浮浪児は、マリユスとコゼットのことなど知らないのだから、見つからなかったコゼットの代りに、彼女の父だと名乗る人物に軽い気持ちで仲介を頼んでも、さほど不自然ではない(ガヴロッシュはテナルディエの息子で、エポニーヌの弟なのだが、SでもFでもそれには触れられていない。まあ確かに、必要な情報ではない)。

しかし、どうもフーバー監督には、そういう辻褄合わせ以上の意図があったように思える。上記(6)の、自己犠牲があるにもかかわらず、エポニーヌの印象はミュージカルより薄くなっているようなのだ。構成的には、主に二つの理由が考えられる。

Ⅰ.ミュージカルでは、もう死んでしまったファンチーヌを除く主要登場人物全員が、もちろんエポニーヌを含めて、それぞれの明日の運命を思って歌うド派手な’One day more’が第一幕の締めくくりになり、休憩をはさんでほぼすぐに’On my own’が聞かれる。映画では、エポニーヌがバリケードを一度離れる理由がなくなった結果(かな?)、このナンバーの順序が逆になった。’On my own’→’One day more’だと、後者の悲壮感で、前者がややかすむ。それに、ミュージカルの緊密な二幕構成を崩したこと自体が、第二幕冒頭をリードするというエポニーヌの役割を軽くする。

Ⅱ.エポニーヌが死の間際にコゼットの手紙をマリユスに渡すので、マリユスはエポニーヌの死体の前で手紙を読み、すぐにこちらからも別れの手紙を書いて、封もせずにガヴロッシュに託す。次にはガヴロッシュはバルジャンと会い、バリケードに戻り、勇敢と言うよりは無謀な働きをして、政府軍の銃に撃たれて死ぬ。すべて原作通りの筋の運びだが、このため、エポニーヌは死んだらすぐに忘れ去られる感じになっている。

しかしこういうことより以上に、映画は「映し方」の問題が大きい。それを文字で伝えるのは困難だが、一応言うと。

映画版でエポニーヌを演じたのはサマンサ・バークス。イギリスの25周年記念コンサートでもこの役をやった実力派で、歌は文句なくうまい。顔は、もちろん好みにもよるが、アン・ハサウェイやアマンダ・サイフリッド(コゼット役)に比べると、パッと見のキレイさはやや劣るようだ。でも、ウソ! と言いたくなるぐらい腰がくびれていて、なんでも、映画のためにものすごいダイエットを敢行したらしい。それはハサウェイもやったが、こちらは全体が痩せて、悲惨な境遇を強調していた。バークスは胸は歌声に劣らずとても立派で、この映画のセクシー部門担当という感じだ。それもまた、こういう(まじめな)作品のヒロインには相応しくないような。

ただしもちろん、フーバーの前作「英国王のスピーチ」では、聡明で優しいエリザベス王妃を演じたヘレナ・ボナム=カーターが、ここでは俗悪なテナルディエのカミさんになっているのだから、こういうのもメイクと映し方次第でずいぶん変わる。それこそ映画の特権というものであろう。そしてまた映し方によって、ヴァルジャンとコゼットの父娘愛が強調されている。

そう言えば、映画にはミュージカルにはない新しいナンバーがごく少しあり、その一つは、テナルディエからコゼットを奪った直後に、馬車の中で、安心しきって眠っているコゼットを抱きながらヴァルジャンの歌う、「俺はずっと孤独だったが、今、愛する者ができた」という意味の歌である。

かくして、シンデレラが、お伽噺には出てこない父との関係で、新たな愛らしさを発揮し、再び姉を凌ぐヒロインの座を獲得した。こういうのもなかなかスリリングじゃないですか?

イギリスの古い「レ・ミズファン」の中には、エポニーヌ役は初演時のフランシス・ラッフェルと、10周年コンサート時のレア・サロンガのどちらがよいか、論争があったようだ。私は、自分が舞台で見たこともあって、前者のほうが、風情といい少し鼻にかかる声といい、「これがエポニーヌだなあ」の感じが強い。

www.youtube.com/watch (これだけはyou tube 画面をここに立ち上げることができませんでした。ご覧になるには、URLをクリックしていただき、立ち上がった画面の該当URLをさらにクリックしてください)

日本ではこの4月から帝劇でまたやるようで、新演出、というのにはそんなに興味はないが、涼宮ハルヒの、またコキンちゃん(「アンパンマン」のキャラ)の平野綾がエポニーヌをやる、というのは、どんなものか、見てもいいかな、どうしようかな、などと迷っているうちに席がなくなる、なんてことは私にはよくある。

しかし、「ファンの集い~新たなキャストを迎えて~」という催しで平野が歌った’On my own’は、もうyou tubeにアップされている。


『レ・ミゼラブル』♪オン・マイ・オウン/平野綾


これはどうも…。ピアノの伴奏と合っていないようなのは、彼女のせいかピアニストのせいかわからないが…。まあ、1月の催しだったらしいから、それから充分な練習を積んだのであろう、と期待しております。ミュージカルの最後の言葉通り’Tomorrow comes!’になるだろうと。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

由紀草一氏 小浜逸郎『日本の七大思想家』(幻冬社新書2012年) (イザ!ブログ 2013・2・27、28 掲載)

2013年12月09日 07時28分17秒 | 由紀草一


近代とは何か。この大きすぎる問いは、日本の場合にはまた一段と深い陰影を帯びている。

アジアの東端(ヨーロッパで世界地図を見たとき、日本は一番右に描かれていて、なるほどfar eastだな、と納得したものだ)にある小さな島国が、およそ他に例を見ない急速な近代化を成し遂げた。文明の表層を見れば、確かにそう言える。嘉永二(一八五三)年、ペリーが来航するまでは、国民の大多数が鉄製の船など見たこともなかった(それ以前に、「国民」という概念そのものが一般にはなかった)のが、半世紀経って、世界最強と噂されたロシアの艦隊を撃滅するほどの造船及び軍事の技術を身に付けたのだから、凄いとしか言いようがない。

この巨大な成功はまた、それ以前にも以後にも、日本に身に過ぎた背伸びを強い、ついに大東亜戦争(本書の著者はこの呼称を使っていない)の悲劇を招いた。そのために、そこまでの日本の歩みを全否定するかのような言論(いわゆる「自虐史観」)が一時は支配的だったし、現在の我々もその呪縛から自由になったとは言えない。とりあえず、不健康な状況ではある。処方箋はいくつか考えられるのだが、本書の著者は、この時代の思想的な営みのうち、最良と考えられるものを提出してそれに充てようとする。


「(前略)後から西洋の模倣に明け暮れるのでもなく、負け惜しみ的に日本の特殊性を美質として強調するのでもなく、むしろ彼我の文化的違いをよく見極めて、その違いの自覚を通して西洋近代の思考そのものを相対化しようとした思想家、あるいは逆に、西洋の合理主義的思考を自家薬籠中のものとしながら、日本が克服すべき問題点を巧みにて剔抉(てつけつ)してみせた思想家は、戦前にも戦後にも、確実にいた」(P..15)のだから、彼らが成し遂げたことの評価を通じて、「文明開化」以後のこの国の現実、及び顕在化はせずとも底流を流れていたもの、さらには可能性としてはあったもの、まで描き出すことができるのではないか。

私には、この試みの成否を云々するにしては、教養も能力も欠けていることは告白しなければならない。つまり、この本をちゃんと評価できるだけの力量はない。ただ、本書を通読して時々引っかかった印象を手がかりにして、「日本の近代」に関する自分なりの考えを述べたいという欲求に駆られている。「批評というものは、どんな体裁をとろうが、じつは他人の作品をダシにして自分の自意識を表出する行為に他ならない」P.288)なら、こういうのもアリではないかと思うので。それにしても、著者や、本書ともっと本質的なところで向き合える頭脳に恵まれた読者にはただ迷惑なだけかも知れないが、世の中にはこういう読者もいます、ということは知っておいても、そんなに悪くないんじゃないかな、とだけ期待している。

本書に選ばれた七人の思想家は、著者の問題意識に従って配列されているのだが、ここでは敢えて、一人の例外を除いて、時代順に見ていきたい。

福澤諭吉(1835~1901)は、最も偉大な啓蒙家だった。日本近代の黎明期に生きて、拝外主義にも排外主義にも陥らず、新生日本の進むべき道を現実的に示し得たからである。西洋化とは痲疹のようなものであって、それ自体は好ましいものではないが、一度はこれに罹って抵抗力を身に付けなければ、今後の国際社会では生きていけないのだ、と言う。こういう冷静さは確かに好ましい。

ところで、これに関連して、著者は私の目からは少々奇妙に思えることを言っている(P.419~421)。「私たちは、この『近代』なるものが政治的にも文化的にも西洋から襲ってきたという感覚からなかなか自由になれないために、ともすれば『近代』概念と『西洋』概念とを同一視がちである。しかし、そういう考え方はもう古いと思う」。はて、世界のどこでも、「近代化」するとは幾分か「西洋化」することであって、それ以外に道はなかったのではないかと思うが? この点ではすぐ先を読めば著者の真意は明らかになる。「西洋においてたまたま…いち早く訪れた」近代には普遍性があり、「いずれどの国をも席捲すべき性格のもの」であることは認めつつ、現実の西洋をモデルとして近代化をよりすすめようなどというのはもう古い、と言うのだ。

「(前略)現在の日本はすでに完全に『近代化』を遂げており、戦後しばらくの間、日本の国民的課題と考えられていた『古い封建的遺制から脱して、西洋近代に追いつくこと(たとえば個人主義的自我の確立)』イコール『近代化』であるという理解は、もはや通用しない」

私のこだわりは結局、「たとえば」の、「個人主義的自我」の領域にある。ここでは、我々は「完全に近代化を遂げた」とは言い難いような気がするので。それがすばらしいから一刻も早く身に付けよ、と言うのではない。どちらかと言えば、それこそ疾病であり、無縁でいたほうが幸せなのかも。しかし、近代化が必然であるなら、どうしても避けて通ることはできない基本概念であることはまちがいない。とすれば、その本当の恐さも知らず、言葉だけがなんとなく流通しているような状況が、一番恐いように思える。

とりあえず、「ポストだもん」とかなんとかいうのが流行ったとき、「近代的自我とか主体なんてもう古い」などと言われたのは、軽薄でしかなかったと思う。本書の著者にしろ、挙げられている七人の思想家にしろ、そういう軽薄な輩だというわけではもちろんないけれど。

さてしかし、「確立した個人」は現にあるものだとして、それに基づいて倫理(人間はいかに生きるのが正しいか)を考えれば、必ず壁にぶつかってしまう。和辻哲郎(1889~1960)の業績がそのことを明らかにした。彼は、人間の本質とは人と人との間の「実践的行為的連関」にあるとした。支那語の「人間(じんかん)」は、人と人との間=世間という意味なのに、日本では人そのものを示す意味になったのはたいへん示唆的である。ごく常識的に考えても、他人がいなかったら、倫理なんて、どんな意味にもせよ、生じるはずはない。それ以前に、人と人とが関わり合って生きる、小は家族から大は国家にまで至る共同体こそ、人が現実にも理念的にも生きる場であって、「個人の本源」でもある。

さればとて和辻は、個人は必ず一定の共同態(和辻独特の用語で、「共同性」と考えて大過ない)に埋もれて生きろと要請したわけではない。それでは全体主義になってしまう。個人も社会も絶えず流動する。人間が必ず個人意識を持つ以上、必ず共同態からそれていく。それは人間の本源からそれることでもあるから、通常「悪」と呼ばれる。反面、一度それた個人が共同態へと復帰することは「善」と呼ばれる。「人生の真相」は、この往還以外のところにはない。してみると、前述の「悪」こそ「善」が生じるための前提だと言える。だからそれは、「そう見える」というだけで、本当の悪ではない。往還の道が停滞し、個人と共同態が離間したまま固定するような事態こそ、真の悪である、と。

以上は和辻倫理学の根本を著者が要約しているところを私がさらに祖述したものだが、人間を固定した視点から捉えず、往還の、運動の相の下に見ることから来るダイナミズムには、確かに魅力がある。しかし反面、共同態の予定調和が当然あるもののように言われるのはどうか、と思う。その紐帯を作るのは「信頼」だとされる。それだけで共同態が保たれる、などということがあるのだろうか。この点では筆者も、和辻は人間の暗黒面に目を塞いでいる、とちゃんと批判している。

共同体ならば必ず、信頼を裏切ったとされる者、つまり普通「悪」と呼ばれることをなした者には大小の罰が与えられる。信頼関係からの/への、往還が必然だというなら、どうして罰などの必要があるのか? そして、罰は常に正当だと言えるのか? 大小の共同体それぞれから要請されるものが矛盾する場合だってあるのだ。国家を守るために戦地で、敵と戦わねばならぬが、そのためには年老いたおっかさんを見捨てて行かねばならぬ、というような場合が。おっかさんの面倒を見るために国の命令に背いた者が罰を受けたとして、必ずまた国の、信頼関係の中に回帰するなどと期待できるだろうか? そうだとすると、家族中の信頼関係のほうはどうなってしまうのか?

つまり、人間は完全ではないのだから、その人間たちが形成する共同体も完全であるはずはない。だから、罪と罰の対応が常にうまくいくわけはない。個人の側から見たら、不当でしかない罰も必ずある。そうなれば、もう信頼関係を信頼することはできない。そのものが個人を圧迫する軛としか見えないであろう。

西洋世界が倫理の根源に唯一絶対神(元はユダヤ民族が発明したもの)を置くのは、「本来『ヨコ』であったものを『タテ』に」(P.401)したようなものだ、と著者は言う。その面もあるには違いないが、人間の世界を飛び越えた別次元に究極の価値あり、としたことの意義は、もっと別にあると私は思う。

絶対の存在=神の前では、個人はもとより相対的なものでしかない。とは言え、共同体もまた、国家といえども、やっぱり相対的である。多少とも神の「正義」を知ることができるなら、人間は、理念的には、たった一人で国家とも対峙できるのである。そういうのは迷妄と呼ばれたほうがいいかも知れないが、それなら共同体もまた「共同幻想」によって支えられるしかないのだから、その点でも遜色はない。

かくして、個人的自我が立つ。少なくともその可能性は見出される。人間を一番根底から規定し束縛するはずのものが、また最もラディカルな解放の原理ともなるのである。いかにも、日本人には馴染みづらい思考のようだ。しかしもちろん、結論めいたものを言うのはまだ早すぎる。

時枝誠記(1900~1967)の言語本質論には、和辻倫理学に共通するダイナミックな魅力がある。「言語過程説」として知られるそれは、言語を一定の社会的実体とみなさず、話し手の表現行為が聞き手によって受け取られる、その全過程を「言語」とする。

ここで少し私見を差し挟ませてもらうと、この説の真価は、「聞き手」を発見したところにあると思う。言表行為(言葉を発すること)が話し手の主体的な行為であることはごく普通に納得されるところだが、それだけで完結するはずはなく、発せられた言葉が他者に受け取られることではじめて「言語」は成立する。つまり、話す側と聞く側双方の主体の相互作用こそが重要であって、それを欠いた言語なるものは本来存在し得ないのである(独語とは、自分の中の他者へと向けられた言葉である、とこれは著者によって言われている)。

時枝言語学の批判的な検討は、本書の白眉と言えるほどに優れていると思う、とだけ言って、また自分勝手なことを述べる。

「述語格」論というものが好意的に紹介されている。文構造の本質は主語―述語の対応関係にあるのではなく、「文の基本はまず述語にあり、主語、客語、補語などは、述語の中に潜在していたものが必要に応じて後から表出されてきたものであるという説」(P.195)。それはそうだな、と思う。

述語になる代表的なものは形容詞及び形容詞的なものである。それが結局「一番言いたいこと」になる。他の要素は、例えば以下のような「必要」から「表出」される。

A:きれいだな。(述語のみ)
B:何が?
A:あの花が。(主語の登場)
B;あんなのちっともきれいじゃねえよ。
A:そうか? 俺にはきれいに見えるぜ。

最後の文を省略なしで書くと「私にはあの花がきれいに見える」、英語だとさしずめIt seems to me that the flower is beautiful./I find the flower beautiful.で、おそらく、日本語でも英語でも、その他何語でも、わざわざこんなふうに(ちゃんと?)言われる場合のほうが例外だろう。すると、「私」が登場するのはかなり後のほうであることがわかる。「花が・きれいだ」The flower ( is ) beautiful.という主語と述語のある文を外側から風呂敷で包むように、あるいは、この文全体を述語のようにして、「私には見える」という文が加わるのである。最初の「きれいだ」という形容動詞(橋本文法の用語で、時枝はこれを認めていない)は、花の叙述なのか、そう感じる「私」の情緒を現したものか、どちらとも決め難いし、日常生活の場面の多くで、人はそんなことを考えもしない。著者は、それこそが人間のプリミティブな世界把握の姿だ、と言っている。

「(前略)形容詞という品詞または形容詞的な表現は、もともとどちらかに分類可能なものではなく、『客体』とその知覚に不可分につきまとう『主体の情』とを二つながらに表現するに適した言い回しなのであって、そこにまさに『物心一如』の世界が出現していることを語ろうとした言葉(群)なのだということである」(P.199)

言わんとするところはわかるが、「物心一如」は少し大げさではなかろうか。上の例の最初の「きれいだ」では、「私にはそう見える/私はそう思う」はあまりにも当然の前提であって、わざわざ言う必要がないから言われないのだ、という理解もある。というか、(西洋化された見方では?)そちらのほうが普通ではないだろうか。動物にも「意識」があるのかどうか、詳しく知らないけれど、人間ほどには「こころ」を問題にすることはないという意味で「物心一如」に近い者たちは、そもそも「きれいだ」とも言わない。

つまり、「意味」のある言葉がある以上、それが伝達されるべき他者は、「自分の中の他者」も含めれば、必ずある。他者があるなら、後づけではあっても、自分もある。この事実こそ、言語過程説が定立したものだったのである。

時枝も、著者も、それを認めないわけではない。ただ、「自己=主観」も「他者・他物=客観」も、言語以前から実体としてあるもののように考える世界観に、危うさを感じているのである。

大森荘蔵(1921~1983)は戦後に、物心二元論、あるいは主客二元論を超克しようとする意欲を示した哲学者である。

二元論を定型化したとされるデカルトが言っていることを、できるだけ単純に言うとたぶんこうなる。「私」はよく間違える。しかしその時でも、間違える「私」はおり、一方には「間違いではない、正しいこと」もある。そうであれば、「私」は正しい方法を用いて「正しいこと」を知ることはできる。ここでもう既に「正しいこと(客観)」とそれを知ろうとする「私(主観)」が分離されていることがわかる。

それは常識的なことではないか、とも思えるだろう。日本でも、主観的・客観的という言葉は、日常語と言っていいくらいにありふれているし。すごいのは、デカルトの立場を受け継いだ人々が、こう分けたその上で、「正しいこと」とは何か、それを「知る」とはどういうことか、とどこまでも考えを推し進めて、「人間には結局絶対に『正しいこと』はわからない」までいってしまったところだ。西洋だって、日本と同じように、そこまで考える人はごく稀だろう。ただ、日本よりは多いらしく、「考えたってむだだと思えるところまで考える」土壌はあるように見える。

ひるがえって、このような二分法そのものがまちがっているか、あるいは不要なのではないか、と考える人は西洋にもいた。しかし、大森ほどの徹底ぶりを示した例はたぶんそんなにはいない。

「立ち現れ一元論」と呼ばれる彼のアイディアはおおよそこんなものであるらしい。風景があり、その一部として「私」がある。それがすべてであって、その背後または別次元に「正しいこと/本当のこと」などない。ある花がある人にはきれいに見え、他の人にはそう見えないというようなことがあるにしても、一方にある一定のもの(客観)があって、他方にそれを眺める「私」(主観)がある、などと考えるには及ばない。そのもの(この例の場合は花)はもともといろいろな感慨をもたらすようなものとしてそこにある、と考えればすむことだ。

これによって大森が成し遂げたことの一つは、外界・広い意味での自然を、生き生きとした活物として捉える視点を提出したことにある。西洋において、「正しいこと」を知ろうとする意欲には、自然を一定不変のものとして見ようとする指向がもともと備わっている。すべては生々流転することは事実だとしても、その生々流転には「一定の」法則あるいは構造があり、それをつきとめて記述する(言葉や数式などの記号を使って「書き留める」)ことが、ものを「正しく知る」ことだ、ということは、当然の前提になっているのである。これは結局、自分の身体までを含めた自然を、「死物」として扱うことに他ならない。それは倫理的に「良くない」ではなく、世界認識の方法として根本的に「正しくない」と大森はしたのだった。

と、言うわけで、大森哲学においても、「正しく知ること」への情熱が失われているわけではない。そしてそれはほとんど必然的に独我論的な論理(本当に存在するのは自分だけ)に結びつく。著者はそこを最も強く批判する。大森も、デカルトも、そう言っているわけではない(だいたい、本当にそう思っている人がわざわざ「言う」なんておかしい。上で見たように、「言う」とは必ず、「誰か(他者)」に向かって言うことなのだから)。ただ、普遍妥当な「正しいこと」は、主観、という名の人々の思いとは別にある、つまり、誰がどう思おうとも、知らなくても、やっぱり正しいと考えられる。ならば、それを「自分」が知ることは「自分」にとって重大だとしても、他人がどうかは結局問題ではなくなる。

この事情は、デカルトでも、彼のものの見方を批判した大森でも、同じことである。上の立場を推し進めた場合、自分と同じように他人もまた何かを感じて、考えて、生きているだということ、つまり他人にも主観=内面はあるのだということは、どうやって「客観的に」証明されるのか、という「他我問題」が起きてくる。が、そもそも内面なんてないんだ、とする大森哲学では、それ自体も大した問題になりようがない、という違いはあるにしても。

人間の共同性と、それがもたらす「内面」を重視する著者には、これはとうてい容認し難いことだ。「大森のように(もちろんデカルトのように)『心』という言葉を『物』との関係においてしか使用しないと、いくら『自然そのものが有情であり、心的なのである』として狭く押し込められた『心』を解放した気になったとしても、『普通人』は必ずその論理的枠組みそのものの自閉性、偏頗性を見破るであろう」(P.277~278、下線部は原文では傍点)と。これを踏まえて、「人と人との間」に人間の根源を見た和辻倫理学が称揚される(本書の配列順では、和辻は大森の次の次に取り挙げられている)。私はその論の正当性は認めつつ、その共同性から浮かび上がってくる「個人」について、著者よりもう少しこだわりたいと思っている者だ。

小林秀雄(1902~1983)に、「すでにこの時代(引用者註、昭和7年)の日本においてラディカルな『実存思想』の誕生」(P.297)を見る、と著者は言う。「歴史や社会を客観的な構造として把握する見方、人間をそのようなものによって規定されていると見る見方を根底から退けなければ、その日その日を取り返しがつかずに生きている実存者の内的感覚をけっして保存できないという確信を貫いた」(P.345)からである。

小林の批評の方法は、例えば「モオツアルトの悲しみは疾走する」という評言に端的に現れている。この言葉自体が詩であって、モーツアルトの音楽に触れて感動した心の文学的な表現である。論理はないので、反論できない。「モーツァルトは好きだけど、いくら聞いても『悲しみが疾走している』感じなんてしないよ」という人は、だから俺は小林より鑑賞力が劣っているんだ、などと思う必要はないが、小林との議論は成り立たたず、彼とは無縁でいるしかない。

つまり、ここでは論理的な、客観的な正しさは問題とはされない。それでもものが言えるのは、次のような事情からだ。人間は「正しさ」を全く気にかけないで生きることはできないが、それは結局人生の一部でしかない。我々は「正しい」から、飯を食ったり、恋愛をしたり、芸術に触れて感動したりするわけではないだろう。だがどうやってそこのところを把握して、紙の上に文字で書き記すことができるのか。共感によって。それで全部、でよいのだが、あんまり簡単にすませるのもなんなので、もう少し言ってみよう。

「解釈を拒絶して動かないものだけが美しい」(「無常といふこと」)と言われる場合の「動かないもの」とは、前述した不動の客観物ということとはもちろんまるで違う。ある人があるときに、こうであった、その他ではあり得なかった、そのぎりぎりの核のようなもので、しばしば「宿命」などとも言われる。モーツアルトが天才なのは、音楽についてあれこれ学んだ結果などではなく、ああいうふうに生きてああいうふうに表現せざるを得ない必然性を彼が持っていたからだ。その事実を、できるだけ深く感じ取ること。

では、相手になるのは天才だけなのか、と言うと、そうでもない。著者はその例として、小林の晩年に書かれた短いエッセイ「人形」の全文を挙げている。六十ほどの老夫婦が、大きな人形といっしょに食事のテーブルにつき、まるでそれが生きた子どもであるように扱う。この人形はその夫婦の、死んだ息子の代用なのかも知れない、とまでは見当がつくが、ここで何が行われているのか、その本当の内実は当事者にしかわからない。これを目撃した者は、人間にとってかけがえのない何かがここにあることを諒解し、無用な好奇心でそれを毀さないように配慮するしかない。とはいえそのような配慮は、この老夫婦の現状や彼らにかつて起こったことを「知る」・「理解する」ことより大切なのである。

小林秀雄を評価するか、無価値とみなすかは一にかかってこの点に、それこそ共感できるか否かにかかっている。「国民は黙つて事変(引用者註、大東亜戦争のこと)に処した」(「疑惑Ⅱ」)というような言葉から、彼はまるで戦争という人事をも自然災害のようにみなし、ためにこれを批判することを忘れさせ、結果として戦争を肯定してしまっている、とか、黙って処した人以外にも、この戦争の不条理さに怒りを覚えながら、その正当な怒りを圧殺された人もいるのに、それを無視している、とかいうような批判はよくあるが、そういうのは無効なのである。

なるほど、この戦争の無謀さを見抜いた人も、それに怒りを感じた人もいたろう。後述するように、それが無意味だとは決して言わない。だが大多数の国民にとって、戦争はあまりに大きすぎて、なぜそれが起きたか、などと問ういとまもなく、耐えて、要請される目前のこと(召集されて戦地へ行く、避難訓練を行う、など)に対処するしかないものである。そういうふうに生きたことを、事後に批判したところで、仮に本当に今後無謀な戦争が起こらなくするための役には立つとしても、当事者たちになんの意味があるだろう。そう生きた時間は、もはや取り返しがつかないのに。

さてしかし、特に戦後、このような立場から批評活動を展開した小林には、その限界を指摘できるのではないかとも思う。著者は他の六人に比べても小林にはたいへん好意的だし、私のような凡庸な文学青年だった者が小林秀雄にイカれたポイントはほぼ完全に言い尽くされており、そういう意味で懐かしささえ感じた。ほとんど唯一の批判が、「私の疑いは、小林の日本近代批判の道具が、意外とスノビッシュでステレオタイプな『昔日を惜しむ』心のパターンによって取り揃えられたものではないか、という点にある」(P.336)云々の部分のみである。

それは直接には、小林による西行評で、「歌の世界に、人間孤独の観念を、新たに導き入れ」た、などとしているところについて言われている。「孤独の観念」なんぞと言えば、日本の近代文学者がさんざん唱えたお題目であり、若き日の小林自身もそれとは無縁ではなかった。しかし彼は、「私小説論」(昭和十年)の段階では、その輸入元であった西洋の文芸事情からしたら、「孤独」という漢語が気楽に使えるようになってから以後の日本で(西行はもちろんこんな言葉は使っていない。「ひとり」と言ったのだ)、それが乙女チックなセンチメンタリズム以上のものになることはめったにないと、弁えていたはずなのである。

以下は勝手なこと、というより完全に「文責は由紀」になり、小林や著者が述べているところをひどく誤解している可能性もあることはお断りしたうえで、できるだけ手短に述べる。

西洋文芸上の「私」とは、絶対者(神)の前で「私とは何か」と執拗に問いかけるルソー「告白」(「私小説論」では「懺悔録」)の「気違ひ染みた言葉」から始まる。やがてルソーもその始祖の一人とする革命思想と、客観的な正しさを専一に追求する科学的合理主義が、宗教的厳格や身分制の桎梏からかなりの程度個人を自由にした社会を実現する。が、そこでも「気違ひじみた私」は、合理的なものとは言えないから、生きる場所を見つけるのは難しい。これを痛感したフロベールらが、問いを「では社会とは何か」という形に変換して、リアリズム文学の中に、かろうじて「私」の生き延びる場所を見出した。

日本にはこのような、切迫した「私」へのこだわりはもともとなかった。輸入された西洋文芸は「個我の解放」を教え、青年(戦前で大学教育まで受けられる、かなり裕福な家の青年たちだが)に自意識は与えたが、そんなのは一般社会では相手にされないことはいずこも同じ。しかし彼ら自身にとってそれはどこまで深刻な問題だったのか? 自意識なんて、青年期を過ぎれば自然に消えるそれこそ麻疹のようなものだった場合が大部分ではなかったか。

そういう意地悪な目で小林の業績を振り返ると、彼が主に取り上げたランボー、モーツァルト、ドストエフスキー、ゴッホらは、詩・クラシック音楽・小説・絵画の分野で、日本で最も人気のある西洋人だということに改めて気付かされる。スノビズム(高尚ぶりたい趣味)の種にされることも多く、そのために小林の批評文が役立ったところも小さくはなかったろう。それは別にかまわないとしても、彼らの実存の核として小林が取り出してみせたものには、社会や他者との葛藤にかかわる部分はかなり脱色されていることは否めない。

そういうわけで、「社会化された私(=日本では「私」はなぜ社会化されないか)」についても、指摘しただけで、自らのテーマにすることはなかった。日本で成熟しようとすれば、そうあらねばならないのかも知れない。

丸山眞男(1914~1996)は、近代以前の日本思想について、綿密で独創的な研究を成し遂げながら、小林秀雄のような方向で成熟しようとはしなかった。大東亜戦争について、彼は諦めと悲しさより、怒りを抱き、またその怒りは正当であって、今後の日本にとって必要なものだとさえ信じていた。

戦争を起こした日本人が邪悪だったと言うのではない。むしろ、「邪悪ですらなかった」ことが一番の問題とされる。即ち、大東亜戦争は、誰かが、「よし、やろう」と決断して始まったのではなかった。昭和天皇も、東條英樹も、みんなどちらかと言うといやだったのに、情勢が勝手にそちらへ動いていって、誰にもどうすることもできず、やらざるを得なくなってしまったのだ。その下には、「戦争中はただ命令に従っただけ」の政府や軍部の中間層がおり、さらに最下層には、「黙って事変に処した」一般国民がいる。自らの判断で事を行い、事後には責任を取る「自由で主体的な個人」はどこにもいない。丸山はそのことに心から苛立っている。

この見方に対する批判は既に様々に出ており、著者はそれをまとめている。今上に略述した部分に関することだけ挙げると、第一に、丸山はだらしなく矮小な日本の指導者たちに比べて、ナチスの高官たちは確信犯であり、悪の魅力を備えている、と言いたげである。しかし仔細に見れば、ドイツの戦犯たちも、嘘や言い逃れを使って、できるだけ罪を免れようとする者のほうが多かった。「潔く責任を取った」と言えるのは、日本と同様、ドイツでも少数だったのである。第二に、これも日本にもドイツにもあった(あるに決まっている)「命令に従っただけ」が事実である場合、それを道徳的に咎められるだろうか? 不当な命令なら断固拒絶する「強い個人」を、いつでもどこでも求めるのは、非現実的であり、それ自体が人間性を無視していると言えるのではないか。

そして第三に、自分の意思と決断でのみ行動する「強い個人」は、必ず好ましいと言えるのか。ヒトラーによるユダヤ人粛清は、誰かに強制されたわけでも情勢の然らしめたところでもない、完全に彼一個の「主体」による行為(もっとも、ヒトラーによるこれに関する命令書の類は見つかっておらず、「最終責任」はどこにあったか、ドイツでも必ずしも明らかではないようだ)である。だからすばらしいとは、まさか丸山先生も言わないだろう。

これらの批判はすべて正しい。第一と第二をまとめると、「自立した個人」は、西洋においても理念としてあると考えたほうがよく、その理念で現実を裁断するのは、知識人のお家芸とされてきたものではあるが、アンフェアとすべきだろう。ここから天皇制国家の「無責任構造」をいくら論じても、分析そのものはどれほど精緻であろうと、現実を動かす力にはなり得ないし、現になっていない。

それでも私は、『現代政治の思想と行動』所収のいくつかの論文を読んだときの衝撃を忘れることはできない。大東亜戦争の敗北に至る日本近代の歩みは、巨大な悲劇である、とは最初に書いた。しかしこの悲劇にはヒーローが、「人間の顔」が欠けている。邪悪であれ思い違いであれ、この戦いに意味を見出そうとする意欲が、ほとんど見当たらない。「大東亜共栄圏構想」や「アジアの解放」の理念は、後付けであったことはいいとしても(どこの国でもたいていはそんなものだろう)、何人がこれを本気で信じようとしたのか。

いくら巨大でも、戦争とは人事であり、この世に意味を作り出すのは人間である。日本人に一番欠けている感覚はこれだと思う。それでも、我々はぎりぎりのところで、自分たちの生死には意味があると思いたがっているのではないか。ならば、日本だけで二百万人にものぼる大東亜戦争の戦死者は、なんのために戦い、なんのために死んだのか。答えなんかない、という「真実」ほど、恐ろしいものはないのではないか。それは直ちに、人間が生きていることに意味などない、という真黒なニヒリズムを招来しそうだから。

丸山の苛立ちの根底はここにあり、だからこそ、上に述べたようないくつもの弱点はありながら、彼の一連の文章にはまだ人を惹きつける力があるのだと私は思う。「日本ファシズム」の図式的な批判が、「当時のインテリの倫理感覚をうまく刺激した」(P.27)ようなところにのみ、丸山の力を認めるべきではないだろう。また後年の「歴史意識の『古層』」などの論文で、日本人の変わり身の早さ(つまり、無原則、ということだ)を、「つぎつぎになりゆくいきほひ」という言葉で肯定的に描いたことは、いわば上の図式を裏返したようなもので、「まあ、そうも言えるな」以上の感慨を私にはもたらさない。彼が大東亜戦争中の日本人に感じた苛立ちには、民族に関するこのような図式を超えるものがあると信ずる。

吉本隆明(1924~2012)の戦争責任論にも、私は丸山と同種の怒りと苛立ちを感じる。大東亜戦争をまたいで活躍した多くの文化人が、戦前の左翼的・自由主義的な傾向から、戦中の軍国主義追従に移り、戦後はまた口を拭って民主主義を謳歌する。その変わり身の早さ、こだわりのなさは何事であろうか。

「注意しなくてはならないのは、吉本は転向それ自体を倫理的に非難しているのではないということである。ただそのような変節を重ねながらそのことに無自覚で、『自分は内心では終始、この戦争には反対だった』といったように自己欺瞞的な免罪符を得ようとする知識人の態度に、同胞たちの死に一番近い場所から憤怒を投げつけているのである」(P.92)

いやむしろ、自己欺瞞さえも特に必要としないかのような言葉の軽さこそ問題ではないだろうか。自由主義も軍国主義も民主主義も、時々の風潮によって現れては消えるだけ。ファッションの流行以上の意味はない。一般民衆にとっては、特に「~主義」と呼ばれるような事々しい言葉は、そんなものだろう。

しかし、広い意味での言葉の専門家であるはずの知識人までそうだとすると、もう言葉とそこに表象されているはずの人間の智慧によって世界を動かすなんて、一片の妄想に過ぎないことになる。またもちろん、知識人が依って立つ基盤も雲散霧消し、彼らは芸のない芸人のような惨めな者になるしかない。よくそれで平気でいられるな!

というところからだろうと思うが、吉本は言説者となった最初から、二つの原則を自らに課していた。一つは、戦争中は軍国少年だったことを恥じる思いから、誤ったイデオロギーに再び騙されることがないように、「客観的で正しい」世界認識の方法を身につけること。ただしそれは、ただ知ればいいという以上の、実践的な課題にまでならねばならない。そのためにも二つ目に、一般民衆から遊離した認識は無意味で、有害でさえあるので、「大衆の原像」は絶えず認識に繰り入れるようにすること。

前者の原則から、独力で言語や国家の本質論を打ち立てようとした試みは、その志は壮とすべきだが、著者によるとあまりうまくはいっていない。後者は、普通に生活している人の意識を忘れまいとする姿勢は、著者から高く評価されているが、どうも内容が無限定で、吉本の時々の都合によって勝手に使いまわされている感じは否めない。そのためもあって、晩年になってからの彼は、麻原彰晃を「世界有数の宗教家」と持ち上げたり、親鸞を全く誤読するなどの、迷走ぶりを示した。

私は、吉本から積極的に何かを学ぼうと思ったことはない。ただ彼が、「自分なんてないし、あっても意味はない。だいたい、そんなものはないほうが生きやすいんだし」が一般のように思えるこの日本の中で、絶えず「何者か」であろうとした歩みには、ある感銘を覚えずにはいられない。彼の人気の秘密はそこらにあるのではないかと思う。ただ、全共闘世代を中心に教祖様のように持ち上げられたのは、かえって不幸だったのではないかと思うが。

さて、いくらなんでも、もう長広舌をひっこめるべき時だろうと私の中でも声がしているが、小林秀雄を経由して最後のところまで来たおかげで、もう一つ弁解じみたことを言っておく必要があるようにも感じられる。と、言うのは、自分を意味あらしめようとする意欲は、必然を後から拵えようとすることであって、神を畏れぬ願望かも知れぬ。ならば、日本人がそういうところではあまり熱心ではなかったのは、身の程を弁えた賢明さだと称するも可。ただ、人間は既に、近代国家という、バベルの塔をも凌ぎかねない不遜の装置を作り出し、どうやら日本もまたその一つに数えられているとの由。ならば我らもこのことに頬被りはできまいと愚考して、云爾。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

由紀草一氏  「がんばれ、ハッシー!」 (イザ!ブログ 2013・1・22 掲載)

2013年12月09日 05時44分35秒 | 由紀草一
今の大阪市長はTV番組『行列のできる法律相談所』にレギュラー出演していた頃、ハッシーと呼ばれていた、と思う。司会の島田紳助が言っていたような。あんまりハッキリしないけど、家では家内と私は今もそう言ってるんで、この呼称を使わせていただく。

それというのも、私は今、生まれて初めてハッシーを応援したくなっているから。大阪市立桜宮高等学校の体罰自殺事件をめぐるやり口、いいねえ。「校長以下の教職員をすべて入れ替えろ、それができないなら入試を中止しろ」だと。それは、市政から相対的に独立した教育委員会の管轄なので、市長の意向だけではできない。そう言えば、教育委員会も完全に行政に従属させよう、というのもハッシーの主張の一つだったな。でも、今はそうではない。それなら、「よし、じゃあ市長の権限内である予算措置を使うぞ」と、つまり、「言うことを聞かないなら、桜宮高には来年度から予算を付けないぞ」ということで、本当にこれをやられたら廃校になるしかない。

で、とうとう桜宮高体育系二科の入試は中止になったな(1月21日現在)。いや、凄い。最近表面的にハッシーの仲間になった太陽がなんたらのオジさんも、イケイケのようだけど、こんなことはしなかったんじゃないか。

権力のある人なら、教員を苛めるなんて、赤子の手を捻るようなもんだ。しかし、子どもをタテにされたんでは、なかなかたいへんだろう。いわゆる良識のある人に、「桜宮高を志望している中学生はどうなる? 入試は二月だってのに、もうどうしようもないじゃないか」などと言われるとね。「大人の不始末なのに子どもにまで累を及ぼすとは、まことにもってケシからん」てのはまあ正論ですからね。こんな良識・正論を一向に気にかけないようなのが、我らのハッシーのおバカなところ、もとい、偉大なところなんだな。

でも、ハッシーの言い分は詳しくは何? あんまり報道されていないようで、私もよく知らんけど、たぶんこんなことなんじゃないかな。

「体罰はいかん? 何人の人が本気でそう思ってるの? 教師は、いかなる理由があっても生徒に有形力を行使してはいけないって? アメリカのいくつかの州ではそうなってるみたいね。そうするの? そうしたら、この禁を破った教師はすぐにクビにしなかったら、示しがつかないよ。今までそうじゃなかったから、体罰は絶えることなく、とうとうこんな事件まで起きたんじゃないか。

しばらく前には、『行き過ぎない体罰』なら、八割方の人が認めてたんだよ。最近では、モンスター・ペアレンツと呼ばれる人々の活躍で、『言うことをきかんガキには、げんこつでも食らわせろよ』なんてこと言う人は減ったみたいだが、考え方の部分ではどうかな。そりゃ、自分の子どもが殴られるのはイヤでしょ。でも、他人の子どもが、自分の子及び自分に迷惑をかけるとしたら? 『先生、なんとかしてよ』じゃないの? そのために一番手っ取り早い手段が体罰なら、それもアリだと思うんじゃない? いざとなったら責任を取るのは教員だけなんだし。

運動系の部活での、指導中の体罰はどうかな。コーチ=部活の顧問教師にどやされたり殴られたりしながら練習するのって、強い部活では当たり前になってるよね? そうしなかったら本当に強くなれないのかどうか、よく知らんけど、現状はそうだよね? (実は、自分自身が高校生の頃ラグビーで全国大会出場を経験しているハッシーも、当初は、『運動部でビンタは当たり前』などと言ってたようだが、それは不問に付す)。それで、顧問がそうしてるのを、同じ学校の教師や生徒は、それから親も、知っていても、黙ってるんだよね? 体罰で、桜宮高校ほどじゃなくても、問題になるか、なりかかった場合には、校長から注意されるだろうが、そうでなけりゃ野放しだ。それは桜宮でも、よそでも、同じだ。

要するにさ、体罰は容認されてるんだよ。『行き過ぎない体罰ならいい』とか、『生徒の気持ちをわかったうえでやるなら、こんな問題にはならない』とか、およそ無責任な言葉だ。そんな線引きがいつもちゃんとできるなら、誰も苦労しない。てか、それってあからさまな体罰容認の言葉だわな。

とりあえず、現実に、行き過ぎた体罰が起きてしまったんだから、責任をとってもらうしかない。教師はもちろんだけど、消極的に容認していた生徒も保護者も、それからこんな学校を目指していた中学生も、多少の不利益を被っても、しかたないでしょ。その程度のリスクでも冒すつもりはさらさらなく、口先だけで『体罰はいかん』とのたまわっても、現状がどうなるわけでもないんだから」

とハッシーが思っているかどうか、実際はわからんけど、そうだとして、私は無責任に応援している。いいでしょ? あなたの支持者には、そういう人が多いみたいだから。そういう者の一人が言う言葉として受け取って欲しいが、できるだけ頑張ってね。



〔編集責任者より〕

当原稿は、私美津島より、由紀草一氏に執筆依頼をした文章です。彼には、校門圧死事件をめぐる優れた論考があります。そういう書き手が、今回の体罰自殺事件をどう見ているのか、とても興味があったからです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする