美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

三酔狂人テレビ倫理問答、「明日ママ」騒動をめぐりまして (その2) (由紀草一)

2014年03月09日 03時38分20秒 | 由紀草一
三酔狂人テレビ倫理問答、「明日ママ」騒動をめぐりまして (その2)

由紀草一




草一 前回に引き続きまして、「明日ママ」(正式タイトルは「明日、ママがいない」)騒動について、より掘り下げて、ただしあくまで自由闊達に語っていただきたいと思います。語り手は道学先生(以下、道学)と文芸書生君(以下、文芸)、それに私、草一めです。

道学 一番根本の問題はだ、重要な社会問題を扱うというのに、日本テレビが、きちんと実態を調査せず、従って非常にいいかげんな描き方しかできなかったところなんじゃ。

一応、慈恵病院や全養協に話は聞きに行ったようだがな。前者もまた、昨年の段階で1・2話目の台本を見せられ、すでに改善要求を出していたにもかかわらず、完全に無視された、とHPにある。また、児童養護施設の元施設長だった岡本忠之氏も「監修」を頼まれ、いろいろ実態に即した意見を言ったが、なんら反映されていない、とこれは『週刊文春』1月30日号の記事に出ている。

従って、エンドロールのクレジットに「児童養護施設監修」とあること自体が嘘であり、欺瞞なんじゃよ。これについては日本テレビも、「取材不足」は認めておるんじゃから、反論はなかろうな?

文芸 取材不足、ということに関しては反論はないよ。ただ、このドラマは、社会問題と取り組むことを第一の目的とはしていないからな。そこでは欺瞞、とまで言えるかどうかだな。

道学 往生際を悪くするとかえって自分の首を絞めることになるぞ。しかし、どうしても言いたいのじゃろうから、言ってみるがいい。社会問題に取り組むのでなかったら、「明日ママ」の眼目はなんじゃ?

文芸 どんな社会だろうと、制度だろうと、幼児期に親の愛を受けられなかった子どもは必ず一定数いる。そこを視点にして、親子の情愛とはなんなのか、それを知らずに育った子は何を支えに生きるのか、考えてみる。それが眼目というか、テーマだろ。
第一話の最後近くで主人公のポスト(芦田愛菜)が言う、「絶対幸せになってやる。けど、実の親に愛される以上の幸せって何だ?」、これは人類永遠の問の一つであり、社会制度で根本的に解消され得ない、それこそ書物から映像作品まで含めた、最広義の文芸が扱うべき問題なんだ。

道学 思いっきり大きく出おったな(笑)。
はっきり言わせてもらうが、近頃のテレビ屋に、そんな高い志なんてごく例外的にしか感じられんぞい。「明日ママ」もあれじゃないか、自分とこが育てたつもりの子役二人「芦田愛菜と鈴木梨央を使ってドラマを作れば評判になるんじゃないか、それに、日本テレビは昔、「家なき子」で大当たりを取ったんだから、あの路線でいこう」「じゃあ、孤児院が舞台では?」「おい、今は孤児院なんて言わない、じどうようごなんたら言うみたいだぞ」「そうか、それじゃ一応調べておくか」……ぐらいで始まったんじゃないか?

あとはもう、子役が泣いて見せれば視聴者も泣いてくれる、そういう場面をほとんど脈絡なく並べて、そこに、前回君たちが言ったユーモアも散りばめてせめてのサービス、これで視聴率が取れさえすれば万事めでたし、すべて終わり、のつもりじゃないか?

文芸 まず視聴率ということだが、高い視聴率を得ること、つまりはできるだけ多くの人に見てもらうことを目指して、工夫すること、それは、テレビマンに限らず、表現者なら当たり前のことでしかない。ここにいる草一つあんにしても、自分の文章が一人でも多くの人に読んでもらうことを念願しているだろ? なかなかそうならんのは、工夫が足りないか、工夫する能力が足りないからで、何も高尚だからではないよね?

道学 工夫、か。不思議なことに、また残念なことに、悲惨な境遇は多くの人の興味を呼ぶようじゃな。そこで、悲惨な境遇の登場人物を出す。

昔の縁日には、「因果者」というのがあって、特徴的な身体障害(扮装した、つまりインチキもあり)を見世物にしたようじゃな。「親の因果が子に報い、可哀想なのはこの子でござ~い」という口上で。こういう工夫かな?

文芸 そっちはそっちで、思い切って汚く言うねえ(笑)。

もちろん悲惨は、古来多くの文芸の題材になってきたよ。そこにはあなたの言うような、決して健全とは言えない好奇心もあることは、敢えて否定すまい。ゴシップや下ネタに関する興味もまた同じ。もちろんそれ自体では文芸の価値は決まらない。表現である以上、問題はその取り上げ方、描き方なのだよ。これは描かれた題材によって絵画の価値が決まらないのと同じことだ。

道学 だからさ、悲惨を世人に訴えて、できるだけ減らそうとする意欲があるなら、ワシも文芸とやらの価値を認めるに吝かではないんじゃ。それが、悲惨な実態への取り組みがこういい加減なんでは、取り上げ方というのも、いわゆる興味本位だとしか思いようがないではないか。

草一 そこでちょっと面白い話があります。「児童福祉 考察…児童養護施設で働く」というサイトhttp://kudohp.essay.jp/がありましてね。ここで児童養護施設の現場にいる人(なんでしょう)の立場から見た、一番詳細な「明日ママ」考察が読めます。施設長・魔王(三上博史)の舌打ちが耳障りで、無駄に威圧的だと言うんで、その回数を数えたりすり粘着ぶりで、実はこの人、批判的なことを言ってるけど、「明日ママ」ファンなんではないかと思えるぐらいなんですが。ともかくここで、ドラマ中で「コガモの家」と呼ばれる自称グループホームは、制度的に、とてもそう言える場所になっていないことは、よくわかるように書かれています。

それに対して、ではなく、一方で、養護施設出身者だという人々の書き込みもけっこうネット上にあって、これがけっこうドラマに対して好意的な意見が多いんです。代表的なのは、自身が出身者の漫画家りさり氏がツイッター上の書き込みをまとめた「「明日、ママがいない」施設出身者の方々の反応」http://togetter.com/li/617131でして、もっともこれ、ドラマの3話に関連するところまでで、あとはあきちゃったのか、更新されていないんですが、最初のほうのにこんなのがありました。

「「明日、ママがいない」について、「施設の実情はうんたら~」とか「施設というものが誤解される」とか言ってる大人ども! 施設育ちのわたしからしたら、そんな事どうだっていいんだよ!/そんなところに着目しているようじゃ、まだまだ子どもの気持ちなんてわかってないね」

なるほど、そうだな、と思いましたね。施設の子どもの定員とか、職員数とか、部屋の面積がどうたらとか、里親と養子縁組はうんたらとか、個人情報の保護がかんたらとか、そういう制度上のこと、子どもにとって第一の関心事であるわけはない。施設内での他の子や職員との人間関係、それから施設全体の雰囲気かな、これこそ大事なんで。そこからすると、主役の少女たちの気持ちは、けっこう自分が体験したものに近いように感じられる、という意見も見かけます。

道学 すると、その部分はきちんと描いている、と言いたいのかな?

草一 いえ、制度の描き方が不適当だからといって、直ちに、ドラマとして価値がない、とまでは言えないと申したかっただけでして。ではどの程度に価値があるのかということになると、ちょっと微妙です。

このドラマの登場人物たちへの共感は、どこから出てくるのか。それはやっぱり、生身の人間が出てきて、いわゆる真に迫った演技で、ある特定の境遇を示した場合には、ただそれだけでリアリティが感じられる、ということが大きいんじゃないかと思います。これが実写ドラマの特性であり、また半面、怖いところでもあるわけでして。

でも、ともかく、「明日ママ」に多くの人が共感し、感動している事実はありますし、どうやらネットでは、回を追うごとに、「明日ママ」否定派より、肯定派のほうが数と勢いを増しているようです。

道学 しかし、草一つあんにも少しはわかっておるようだが、その共感も感動も、非常に浅い、いわゆるお涙頂戴レベルのものだ。それだけならまだいい。問題は、テレビ屋が非常に重大かつデリケートな領域に安易に首を突っ込んだ結果、その共感とやらが新たな弊害を呼ぶことがある、わしはそこを言っとるんじゃよ。

子どもを離れて、親のほうを見てみようか。ドンキの母(酒井美紀)やオツボネ(大後寿々花)の母(西尾まり)の描き方の酷さはどうだ。典型的な悪役で、人間のクズだ。それ以外のなんでもない。視聴者のある者は、他の登場人物といっしょに、彼らを罵って、自分も正義漢になったつもりになれる。時代劇やメロドラマによくある構図じゃな。

では、こういうひどい親がいなくなれば、現実はよくなるのか? 

もちろん、よそ目にはひどいとしか見えない親は現実におる。が、実態はそう単純ではない。親が子を捨てる場合には、必ず、言うに言われぬ複雑な思いがあるじゃろう。全くよんどころない気の毒な理由で、泣く泣く子どもを施設に預ける親も少なくない。その人々が全部、ドラマに出てきたような鬼親だ、と思われるとしたら、全く気の毒だし、ここでも無用な差別と偏見を呼んでいる、と言えるのではないかな。

文芸 おいおい、ドラマの中心になる四人の少女(ポスト、ドンキ、ボンビ、ピア美)のうち、ボンビ(渡邉このみ)の両親は事故で亡くなった(どうやら東日本大震災の時、津波に飲まれた設定だったようだが、それはまた新たな抗議を呼びそうなので、ぼかされたようだ)んだし、ピア美(桜田ひより)の父親(別所哲也)は、二代目社長だったが会社が倒産し、食うのがやっとの状態になった。「そんなことでは、いっしょにいては、せっかくの娘のピアノの才能を伸ばす邪魔になるばかりだ」というので、敢えて彼女から離れた。しかし、最後には、娘からの必死の呼び掛けで、またいっしょに暮らすようになる。実親全部が、鬼に描かれているわけではないよ。

それに、あなたがさっき言った二人の母親にしろ、娘と決定的に別れるときには、複雑な表情をしている。文字通り、「言うに言われぬ」だから、文字ではなんとしても表現できない、実の娘を捨てた/捨てられた親の表現は、一瞬でも、あったんだよ。

道学  自分で言っていて恥ずかしくならないか?(笑) 一瞬の表情はまあいいとして、その、ピア美の父親の話が、よんどころない理由になるか? 会社が倒産して貧乏になって、娘にピアノを習わせることはできない。だから施設に預ける? そうしたらピアノを習えるようになるのかね? まるっきり辻褄が合わんじゃないか。

草一 ピアノのレッスン料ぐらいは出してくれるお金持ちの家に、里子あるいは養子としてもらわれることを期待して、ですかね。これも都合のよすぎる話で、そんなことを期待していたとすれば、この父親はやっぱりダメ親だ、ということになりますね。

文芸 それはもっとよく考えれば、辻褄の合う話は作れるかもしれん。が、結局は辻褄合わせでしかない。そんなの、退屈だし、誰も後まで覚えてやしないんだから、思い切って省略したほうがいい。それがTVドラマに限らず、最近の映画や演劇の常道なんだよ。

道学 文芸をこよなく愛する文芸書生君の言葉とも思えんな。人物の背景まできちんと描き出し、ただしそれが単なる説明に終わらず、それ自体も劇として興味が持てるように作りあげるのが、小説や劇を作る人間の腕の見せ所ではないのか? またそれだからこそ、クライマックスが本当に盛り上がるのではないか?

文芸 道学先生から文芸に関するご高説をうけたまわるとはな(笑)。いや、先生だからこういう場合でも正論を言うんだな。お説ごもっともではある。私もそう思っていたし、今も思っている。だから、現在の演劇・映画には好意が持てない場合が実際多い。しかし最近、それに凝り固まるのもどうかな、と思えてきたんだ。

手っとり早く感動を伝えるのがそんなにいかんのか? それが文芸としては価値が低いと言って貶めるのはいいが、そして私だって価値が高いとは思わんが、それを求める層は確実にいるんだよ。ピアノコンクールで優勝して、有名なピアニストになることが夢だった少女が、コンサートの最中に、演奏やめて、会場に来ているはずの父を求めて泣き叫ぶ。「名声なんていらない、パパと暮らしたい」とな。

そんな顔をするなって。メチャクチャな設定であることぐらいわかってる。実際にやれば、コンクールの主宰者にも他の出場者にもたいへんな迷惑をかける、という点で、非道徳的であるしね。でも、だからこそドラマチックになるんだよ。演技や映し方でその涙に真実味を持たせることができれば、それで充分、なんせドラマだから。因みに、こんなのを真似する奴は、まずいないだろ? という意味では無害だ。またそれくらいだから、昔ピア美と実親とが離れなければならなかった事情なんて、もうどうでもいい。

いや、これは何も最近の作品に限ったことではない。浄瑠璃や歌舞伎にはそれに近いものがずいぶんあるし、大衆演劇はみんなそうだ、と言ってもいい。どっかで見たか聞いたかした話がどかどかと展開し、立ち廻りとかあって、主役が、「俺には生涯てめえとういう、強い味方があったのだ」とかなんと名セリフを名調子で唸って見せれば、それで見てる人が満足する世界はあるんだ。それを低級だと一概に遠ざけなくてもいいのではないかな。昔からある、高級ぶらない劇の、王道を歩んでいる、と言ってもいいんだよ。

草一 ただ現代的なのは、ちょっとしたしぐさや表情にこめられたものを察知する感性で、これは主にTVの、映像文化のおかげででしょう、一般の人もずいぶん磨かれているようですね。先ほど言われた、子を捨てる時の母の複雑な表情もそうですが、心を病んだドンキの不気味な薄笑いとか、母(とよた真帆)を亡くしたロッカー(三浦翔平)の手をポストと児童相談所の女性(木村文乃)がそっと握るシーンとか、実親の暴言が聞こえないようにとドンキの耳をやさしく塞ぐ里親候補の父(松重豊)の仕草とか、そういうところは皆さん、見逃しません。またそういうところでは、ちゃんと考えてツボを抑えた、よいドラマになっていて、だからこそここへきて支持が高くなったのかな、と思えます。

道学 それでどうなるのかね? そういうものの総体が、この社会に何をもたらすのかね?

文芸 何もない(笑)。直接の役に立たないのが文芸なんだとしか言いようがない。シェイクスピアがなんの役に立つのか、言える人はいないだろ?

道学 いろいろ言った挙げ句が開き直りか。まあ、いわゆる娯楽なら娯楽でいいよ。しかしそれならせめて、水島宏明氏が言うように、誰も傷つけないように配慮すべきではないか。文芸家でも、それぐらいのモラルはもつべきだろう、とワシは言っておるのじゃよ。

草一 文芸というのは本来罪深い、道徳のためにはないほうがいいものかも知れないのです。二千四百年ほど前に、プラトンがすでに、そういうことを言ってますし。まあ今回そこまで話を広げる必要はないので、今日的な問題を最後に申しましょう。

設定とか伏線にあまり拘泥することなく、ドラマ中のある場面に敏感に反応して感動する、ということは、逆にある言葉や場面に、それがドラマ全体の中でどういう意味を持っているのかあまり考えずに、ショックを受ける場合もある、ということです。それは最近、きっと増えているのでしょう。

しかもインターネットのおかげで、感動もショックも短期間で、非常に広く伝わり、また新たな共感やら反感をもたらします。人は、自分が複数の人に支持されているんだと思ったら、ずいぶん強硬な態度にもなれますからね。昔いやなあだ名をつけられていじめられていたという高校生が、ネットで七千人の署名を集めて、日本テレビに「明日ママ」の放送中止を求めた、というのも少し話題になりました。

クレーマーって悪い意味のようだからそうは言いませんけど、こういう、新しい形の社会からの反響にも、今後TV、のみならずすべてのフィクションの作り手さんたちは、対応しなければならない可能性は高くなりましたね。それがドラマなど、フィクション作品そのものにはどう反映されるのか。「明日ママ」騒動は、この新しい局面の幕開けを告げるものかも知れません。

お二人とも、つきあってくださって、ありがとうございました。話題を変えて、後しばらく飲みましょう。
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三酔狂人テレビ倫理問答、「明日ママ」騒動をめぐりまして(その1) (由紀草一)

2014年03月04日 02時37分26秒 | 由紀草一


三酔狂人テレビ倫理問答、「明日ママ」騒動をめぐりまして(その1)

由紀草一

草一 ええ、一席設けさせていただきまして、肴には、ふさわしいかどうか、目下放映中のTVドラマ「明日ママ」(朝生、ではない、正式名称は「明日、ママがいない」)騒動について談論風発、もって一興としていただきたいと存じます。

まあ、「明日ママ」騒動と言っても知らない人はまるっきり知らない。ネットの一部で盛りがっただけ、そこでも、もう山は越えたというか、みんな飽きている感じになっております。いや土台、子役を並べたのがウリのテレビドラマなんて、いい大人の知ったこっちゃないよ、というのもわからぬではない。いや、むしろ、それが当然かも。

しかしながら、神は細部に宿る、こともありまする。品下れる時代の電気紙芝居と雖も、人類永遠の、重大事に些かも触れぬ、とは限らぬでしょう。ひとつ大まじめに、できるだけ立ち入った議論をしてみたい。

ただ、かく言う私、草一めも、毎週同じ時間にTVを見るという習慣を失って久しい。そこで、この分野にはわりあいとお詳しいお二人、道学先生(以下、「道学」)と文芸書生君(以下、「文芸」)をお招きして、大いに語っていただき、合間に愚見を披露させていただく、ということにいたしたい。

最初に整理のために、この騒動の摘要を記したものを掲げておきます。

・1月15日。日本テレビ水曜夜10時より、ドラマ「明日、ママがいない」放送開始。

・16日。国内で唯一の「赤ちゃんポスト」(これは俗称。親がなんらかの理由で育てられなくなった乳幼児を、匿名で、安全に預けられるようにした設備で、正式名称は決まっていない。海外には現在おそらく100以上あるらしい)である「こうのとりのゆりかご」を経営する熊本慈恵病院が抗議声明を出す。ドラマの内容が、児童養護施設やそこで暮らす子どもを傷つけ、また偏見を助長するものである、との内容。放送中止を要請するとともに、BPO(放送倫理・番組向上機構)にも審議を申し立てた。

・21日。全国児童養護施設協議会と全国里親会が厚生労働省で会見を行い、放送の打ち切りもしくは内容の改善と、児童養護施設関係者(入居している子どもが中心)への謝罪を求めた。前者(全養協)は放送前にドラマの内容を知らされ、昨年12月には既に日本テレビに内容変更を申し入れていたのに、無視されたのだと言う。これ等に対して日本テレビ側は、この時点では、「抗議は重く受け止める」としながらも、「ドラマを最後まで見ていただけるなら、制作の意図はわかっていただける」と、中止要請にも内容改変にも応じる気はなかった。

・29日。すでに22日の第2話放映時に、企業イメージが下がることを懸念したスポンサー8社のうち3社は自社のCMを流すことを拒否していたが、この日の第3話からは全社が自社のCMを流すことを拒否した。
【今度初めて知ったのだが、TVのスポンサーは番組ではなく、例えば「水曜夜の10時~11時」という枠を年間契約で買うものらしい。従って現時点では日本テレビに金銭的な損害は発生していない可能性もある。それでも8社のうちいくつかから今後契約を打ち切られたりしたら、大問題であろう。】
ドラマの途中に流れたのは日本テレビ自身の番宣とAC広告とスポットCM(通常番組と番組の間に流れるCM)のみ。やがてスポットを流すことも断られたらしく、第4話以降では前二者のみが流れた。おそらく、最終回までそのままであろう。

・30日、日本テレビと全国児童養護施設協議会(全養協)が会見した。この後2月1日までに慈恵病院や里親協会とも会見を行った。内容の変更も含めて検討し、2月4日までに全養協に文書で回答すると約束。

・2月3日。厚生労働大臣が衆議院予算委員会で、このドラマが全国の児童養護施設に入居中の子どもたちに与えた影響を調査する方針を表明。

・4日。日本テレビの文書回答。児童養護施設に関しては取材不足であったことを認め、子どもたちを傷つけたとしたらお詫びするとしたうえで、内容を検討することも約束した。ここでは日本テレビが折れた形だが、何しろ元がどうだったのかは部外者にはわからないから、4話以降にどのような変更が加えられたか、いや本当に変えられたのかどうかも、憶測の範囲でしかない。

さらに全養協はそれだけでは足りない、放送を通じて傷ついた養護施設の子供達に明確にお詫びしろ、と要求したが、日本テレビは現在までこれには応じていない。のみならず、2月16日放送の第6話で、三上博史演じる施設長が施設内の子供たちを諭す場面の言葉は、番組への批判者達に対する間接的な反論ではないか、とネット上でまた話題になった。「大人の中には、価値観が固定され、自分が受け入れられないものをすべて否定し、自分が正しいと、声を荒げて攻撃してくる者もいる」「上から目線でかわいそうだなんて思われることにはうんざりだろ? かわいそうだと思う奴こそかわいそうなんだ!」(大意)。等々。
 
草一 さて、そこで「明日ママ」の何が問題なのか。細かいところからいきます。あだ名の問題。

主役は、様々な理由で親と離れ、施設で暮らす子どもたちなんですが、これがお互いにあだ名で呼び合うんですな。そのあだ名というのが、「ポスト(赤ちゃんポストに預けられていたから)」「ドンキ(母親が鈍器で男を殴って捕まったから)」「ボンビ(びんぼーの逆さ読み)」「ロッカー(コインロッカーに捨てられたから)」「パチ(親がパチンコに夢中で真夏に密閉された部屋に放置されて死にかかったから)」などなど、とりようにいってはかなりキツイものが多い。

のみならず、前述のように「赤ちゃんポスト」と呼ばれる設備があるのは現在日本でただ一つだから、芦田愛菜演じる主人公が捨てられていた場所は自然に特定されてしまうことになる。これがまず慈恵病院のクレームであったようです。

道学 全く話にならんよ。慈恵病院の「こうのとりのゆりかご」には賛否両論があるのは知っておる。まあ、批判は自由じゃろう、ちゃんとした批判ならな。しかし、こんな形で侮辱されるいわれはないはずじゃ。

草一 そこなんですがね、慈恵病院はあくまで病院であって、子どもを育てる場所ではありません。「こうのとりのゆりかご」に預けられた子どもは異常がなければ児童相談所の管轄となり、三歳までは乳児院、その後は児童養護施設に移されると、院長さんも言っています(「『赤ちゃんポスト』ができるまで〜慈恵病院・蓮田院長が語る」http://blogos.com/article/78275/)。「明日ママ」の主人公も、無理に現実につなげて話を作れば、その過程を経てドラマ中のグループホーム「コガモの家」に引きとられたことになります。「コガモの家」がどんなふうに描写されていようと、慈恵病院と同一視される余地はないはずですが。

道学 そんなもんわかるもんか。世の中にはいろんなやつもおる。それに、病院にすれば、こんな馬鹿なドラマと結びつけられただけでも不愉快、ということもあるじゃろ。しかし、それは彼らは言っておらん。問題なのは、ただでさえ恵まれない、不幸な子どもたちが、ひどい名前で呼ばれてしまうところなのじゃ。

文芸 その言い方がすでに飛躍があって、無用な誤解を生むように思うなあ。ひどいあだ名で「呼ばれる」と。その場合の「呼ぶ」主語は誰? さっきの草一つあんの発表にあったように、ドラマ中で子どもたちは「お互いに」そう呼び合ってるんだよ。

道学 それがどうした? 施設の子どもたちは、そうやってお互いに傷つけ合うもんだ、とでも言いたいのかね?

文芸 いや、だって、ドラマ中でも傷つけ合うためにそうしているわけではないもん。副主人公で鈴木梨央の演じるドンキの本名はマキで、それで呼ぶように要求すれば、「コガモの家」の子どもたちはそう呼ぶんだ。第1話の最後で、母に捨てられたことがはっきりした彼女は、「ドンキでいいよ」と宣言する。本人がいやがっているのに執拗にあだ名を言っていじめるという描写はないし、ましてそういうことを奨励していると取れる要素は皆無だ。

道学 するとこういうあだ名はなんのために使われているのかね?

文芸 それも第一話目で説明されている。あなた、ドラマをちゃんと見ないで批判してるんじゃない?

主人公のポストと呼ばれる少女は、赤ちゃんポストに入れられたとき、薄い紙切れがいっしょに入っていて、名前が書いてあった。それは彼女が親からもらった唯一のものだ。だからこそ、捨てる。親に捨てられたと思うと切な過ぎるから、自分から親を捨てたことにするのだ、と。それにしても「ポスト」を自分の名とすることはないだろう、と言うかも知れないが、わざわざ自分の傷を晒す悲しさは、「自分から親を捨てることにした」という強がりと響き合ってはいるんだ。

道学 それで問題はなくなるのかね? デリカシーがなさすぎるんじゃないか? 慈恵病院のHP http://jikei-hp.or.jp/tv_mama/ では、これについてこう言っておるぞ。

「虐待を受けた中には、トラウマ(心的外傷)の影響から脱却できないケースがあります。友達が冗談で投げかけた「ポスト」「ロッカー」「ドンキ」などの言葉も、虐待を受けた子どもの心には刃物のように突き刺さり、フラッシュバックの引き金になりかねません」

現に学校で同級生から「ポスト」と執拗に呼ばれていやな思いをした、などの施設の子の例が全養協には十五件報告されているようじゃないか。明らかに、このようなあだ名の使用は、害があるんじゃよ。

文芸 だからその場合の「呼んだ」主語は、実在の、学校の子どもだろ? 相手がいやがっているのに、しつこく呼び続けるような子なら、このドラマがなくても、きっと他の何かの機会にいじめたろうと思わないか? いずれにしろ、何か対策なり、指導が必要だったんだよ。

道学 ふん。直接被害ではなく、間接被害だからいいと言うのか? このドラマを見た後でパニックに陥り、「死にたい」と叫んで自傷行為に及んだ女児もいると言うではないか。水島宏明(http://www.huffingtonpost.jp/hiroaki-mizushima/post_6700_b_4629476.html)も、知り合いで「行き場のない人たちへの支援活動をしてる」女性からの手紙の引用で、番組を見たためにショックを受けてリストカットをした若者が紹介していた。これは間接的ではなく、直接ドラマが被害を与えた例であることは否定できんだろう?

草一 それについてはちょっと、高校教師としての自分の体験にひっかかることがあります。それこそ、守秘義務があるんで、そう詳しくは申し上げられませんが。

希望者を集めて、小規模な映画の上映会をやったことがあるんです。といってまあDVDを借りてきて皆で観賞するだけなんですが。そのとき、「おくりびと」を見て、パニックというほどではないけれど、気分を悪くした子がいました。これはしまった、「最近近親者のご不幸に立ち会われたとかですか?」と保護者に聞いたら、「いや、そんなことはないんですが、何しろ神経過敏な子で、何か刺激的なシーンがあると頭から離れなくなっちゃうことがあるんです。どうもご迷惑をかけました」と、逆に謝られてしまいました。

自分の不注意の言い訳をしたいわけじゃないですが、一般に、誰かを傷つけてやろうとする意図はなく、そうなるだろうという予測を越えている事態に関しては、責任は問えないんじゃないですか?

道学 今度のドラマの場合には、そういう言い訳はきかんぞ。特別な境遇に置かれていて、従って特別なケアが必要だとわかっている子どもをドラマの題材として取り上げておいて、しかし彼らへの配慮は知らん、というのでは、無責任としか言いようが無い。

草一 はあ、なるほど。ただ、申し上げた私のケースで、万が一大事になったりしたら、たぶん「おくりびと」の制作者ではなく、見せた私の責任と言うことになるでしょうね? で、ドラマのほうですと、見てショックを受けたのが子どもであれば、それを見せた、あるいは見るのを止められなかった職員の方、ですかな、これも責任を問われないわけにはいかないでしょう。少なくとも、「明日ママ」制作者の責任を追及するのであれば、ですよ。水島氏が例に挙げているのは、大人の方ですから、自己責任しかないことになるのか……?

いやあしかし、どうも責任責任と言い過ぎやしませんか? そんなに他者の責任を厳密に追及することは、こういう場合に一番大切なはずの、思いやりとか、優しさから外れてるんじゃないですか?

道学 泣き言を言うもんじゃない。重要なポジションにいる人がきちんと責任を果たさなかったら、それこそこの世は闇じゃ。

それで、このドラマ中の責任者、親から離れた子どもたちが暮らすグループホーム(いや、制度上のさまざまな条件を全く満たしていないので、こう呼ぶこと自体が問題なんじゃが)の施設長、これがまたなんとも言語道断なんじゃ。朝食前の子どもたちに、「お前達はペットショップの犬と同じだ。可愛いとか可哀想とか思ってもらえなかったら新しい飼い主も見つからないぞ。さあ、泣いてみせろ。泣いた者から食べていい」(大意)などと言う。これは暴言であり、立派な虐待である。これ以外にも彼は喧嘩を始めた主人公の頬を平手打ちにし、規則を破った子どもたちにバケツを持たせて立たせたり(今時!?)といった体罰もふるう。

いずれも、現実の児童養護施設の実態とはかけ離れており、ひいてはそこで働いている職員を侮辱するものである。また、かつて家庭で親から虐待を受けた子どもが、フラッシュバックを起こさせる危険性は、これが一番じゃ。

文芸 これも主語を明確にして言わねばならんと思うんだが、今言われた一連の行為は、ドラマの登場人物がした教育であるわけで。

道学 教育? 馬鹿なことを。子どもを犬扱いする教育なんてあるか?

文芸 いい教育だとは言わんよ。世の中には悪い教育だって現にあるでしょ。それから、普段はいい先生なんだが、あるときつい我を忘れて、教師として言ってはならんことを言ってしまったり、やってはいけないことをやってしまう場合だってあるじゃないか。いや、このドラマでは、施設長(三上博史)のキャラクターがしからしめているんだがね。彼は、大人の中では一番重要な登場人物なんだが、それでも、彼の言動が即ちドラマ全体のメッセージだとするわけにはいかん。

道学 曲がりくねった言いようだな。ここでは施設長は悪役で、悪人として出てきているんだから、悪いことを言い、悪い教育をするのは当たり前、と言いたいのかな?

文芸 いや、そうではなくて、彼はいわゆる悪役ではないのだが、含みあるキャラクターなんだよ(施設長の重い過去は第六話以後に明らかになる)。で、やってることはいわゆるスパルタ教育というやつで。これから先施設出身者というハンディを抱えて生きていかなくちゃならない子どもたちに、強さを身につけさせようと、敢えて冷たく突き放すのがあのせりふなわけなんだ。今はほとんど聞かれなくなったが、かつてはよく、「可愛い子には旅をさせろ」とか、「獅子は我が子を千尋の谷から突き落とす」とかいう成句が言われていたよね? その一種。

うまくできている、とは言わんよ。三上博史は二枚目で色気があり過ぎて、かつての寺内貫太郎(小林亜星、古いか?)のような「ガンコオヤジ」のカラっとしたユーモラスなイメージに欠ける。子どもたちからは「魔王」と呼ばれていて、一見怖いが、しかしよく見ると抜けているところもあって、根は優しくて、けっこう可愛いい、という今風の笑いを狙ったのかとも思う。私見では、それがうまく嵌まったとは言い難いけどね。

草一 寺内貫太郎にしろ、星一徹(「巨人の星」の主人公の父で、スパルタ教育の権化)にしろ、放送当時からしてもう実態がないパロディでしたからね。今やスパルタは、パロディの元ネタとしても成り立ち難くなっているかも知れませんね。子どもは大切に扱われるのが当たり前、という意識が、実態はともあれ、言論の世界ではすっかり行き渡った結果。

道学 なんだかよくわからんことを言い合っておるな。あれはユーモアで、いわば冗談だったと言いたいわけかな?

文芸 まあ、それに近いな。

道学 そうだとしたら、これほど重いテーマを扱うのに、不謹慎ではないかな? それに、君たちにもそんなにすんなり受け入れられるユーモアではないとしたら、視聴者からは違った、文字通りの意味で受け取られてしまっても仕方ないのではないかな?

文芸 うーん、まあ、悪ノリだったかも知れんなあ。しかしそんな、傷ついたり怒ったりするような場面ではないと思うが。少し詳しく説明させてもらおうか。

第一話目の最初、つまりドラマの冒頭では、ドンキの母親が、たぶん痴話喧嘩の挙句、交際中の男を灰皿(これが鈍器)で殴って、傷害罪で警察に連れて行かれる。残された九歳のドンキが、「コガモの家」に引き取られるんだが、そこで不気味な人物たちに次々に出会う。

と言うか、光の当て具合などで怖く見せている、それも、ホラー映画で使い古された手法をわざと陳腐にやって見せて、つまりこれ全体がパロディなんだ。最後にはドンキが二段ベットの下に寝かされると、上から、先輩(以前から「コガモの家」に引き取られていた、という意味で)のピア美(桜田ひより)がいきなり見下ろす、長い髪が下にバサっと垂れてね。ここで照明が明るくなって、女子部屋に前からいた三人による、施設や登場人物たちの説明場面になる。例のあだ名も、この時言われる。それでその次が、翌朝の、魔王の「暴言」の場になる。

つまり、ドラマを服に譬えると、コメディ・タッチが、飾りのように全体に散りばめられていて、そこから、親と一緒に暮らせない少女たちの深刻な話が、地の布として見えてくる、という構成なんだ。魔王の言動は、冗談ではないけれど、コメディ的に、大仰な人物が大げさに振舞う、それが見透かされる分、言動の刺々しさは鈍くなる、少なくとも作った側はそのつもりだったんじゃないか。

草一 深刻な話にも笑いを混ぜる。この二十年ぐらいかな、芝居や映画でもそれが当たり前になっているんですよ。それから、例えば日本テレビだと、他局の、「家政婦は見た!」という番組の、題名をパロった、「家政婦のミタ」なんてドラマが大ヒットしたりしまして。「明日ママ」にも三田村さんという名前の家政婦さんが一話だけ出てくるし、もうパロディは当たり前になっちゃっていて、魔王の大仰のキャラクターも、その雰囲気の中で作られているわけでして。

道学 あのなあ、どう説明されても、ともかく、ワシにはユーモアとは取れなかったし、そういう人は他にもたくさんいるぞ。我々が感じた不快感、これはどうしてくれるのかね?

文芸 それはもう、不愉快なら見ないでください、と言うしかないなあ。

道学 それで済むか? もう見てしまった場合のイヤな気分は? 社会全体に、悪影響が出る可能性は、どう考える?

草一  いやはや、「責任」問題がそこまで追及されるとは……。

これもテレビだからですよね。「明日ママ」の視聴率は第六話から11パーセント台で、最終的には40パーセントに達した「家政婦のミタ」に比べたら大したことない、とも言われますが、でも、一千万人以上の人が見ているということですよね。本や映画の世界では、まずめったにあることじゃない。

本を読むためには、買うなり、図書館で借りるとかしなくちゃならない。映画を観るためには、映画館へ行くか、ビデオを借りるとかしなくちゃいけない。一応の金とか手間はかかって、それを厭わない人だけが観賞するもんですが、TVは、各家庭にほぼ一台づつあって、リモコン・スイッチで電源を入れれば誰でもすぐに目に入る。「勝手に目に入ってくる」感覚に近いものがある。

それでも、電源を切ったり、他局にチャンネルを変えたりするぐらいは、これまた誰でもできるはずなんだから、「いやなものは見ない権利」とか、「子どもに見せるのは不適切だと思ったら見せない、養育上の責任」もあるんじゃないか、と思えますね。一方的にテレビ局側ばかり責められるものか、と。

一方、もうこうなったら、TVでは、変に凝ったドラマなんて作らずに、ニュースを中心にして、せいぜい毒のない短いコメディぐらい作って流す(それでも傷つく人が出る可能性は皆無ではないけけど)、となっても、個人的にはそんなに痛痒はありませんでね。

いやあ、軽く終える予定だったのに、思わず長い時間がかかってしまったなあ。よければ次回、別の角度から今度出てきた問題を考えてみましょう。
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由紀草一・道徳的な死のために その3(テロについて)  (イザ!ブログ 2013・12・12 掲載)

2013年12月27日 05時19分49秒 | 由紀草一
道徳的な死のために その3(テロについて)


ボリス・サヴィンコフ

メインテキスト:アルベール・カミュ 佐藤朔・白井浩司訳『反抗的人間』(原著は1951年刊、『新潮世界文学49 カミュⅡ』昭和44年刊より。なお、この叢書には白井健三郎訳「正義の人々 五幕」も収録されている)
サブテキスト:サヴィンコフ 川崎浹訳『テロリスト群像』上・下巻(原著は1926年刊。岩波現代文庫平成19年)

「死とモラル」に因んで、アルベール・カミュが1950年前後に提起した問題に、若い頃興味と疑問を持ったことを思い出しましたので、今回改めて考えました。

主著『反抗的人間』に集成されているものを一番大きく言うと、「目的は手段をどの程度まで正当化するか」であり、小さく言うと、「革命が正しいとして、そのためなら人を殺してもいいのか」になり、具体的にはいわゆるスターリニズム(この言葉が出てくるわけではない)の超克が目指されている、と思う。ニキータ・フルシチョフによるスターリン批判は1956年だから、カミュの先見性は讃えられるべきだろう。

加えてこの時代は、日本でもそうだが、下手に人類初の共産主義国家ソビエトを批判すると、「お前は右翼だ、ホシュハンドーだ」とのレッテルを貼られ、知識人稼業が危うくなる状況があり、現にカミュもJ・P・サルトルとの有名な論争の果てに、このフランス知識界の大物と絶縁し、結果孤立することになった。それでもやった勇気という点でも、大したもんです。

ただ、こういうのはやはり昔の話。現在でもなお意義が見出せるのは、カミュが戯曲「正義の人々」(49年作。同年上演)の題材とした、20世紀初頭の、ロシアのテロリストをめぐる議論だろう。

『反抗的人間』中「第三章 歴史的反抗 心優しき殺害者たち」で改めて取り上げられているのを見ると、これはスターリニズムの解毒剤の有力候補として挙げられているようだ。つまり、非人道的な圧政に抗して巻き起こった革命が、成功してみると、前と同じか、さらにもっとひどい圧政が敷かれる。ロシアに限らず、フランス革命でも中国共産主義革命でも見られたこの悪夢の連鎖を断ち切る思想的な力が、他ならぬロシア革命(そのうちでも、いわゆる第一革命)の最初期を担い、すぐに消えていった革命家たちのうちに見出せるのではないか。こうまとめてもいい熱い思いが、カミュにはあった。

このテロリストである革命家とは、社会革命党(頭文字から取ったエス・エルの略称で知られる)、その中の戦闘団に属した闘士たちのことを指す。レーニンがいた社会民主労働党(1903年にボルシェヴィキとメンシェヴィキに分裂した)はこの頃は機関誌を通じた言論・啓蒙活動を主としていたのに対して、彼らはロシア皇帝(ツアー)政府要人の暗殺という実力行使に出た。

9.11以前はこういうのがテロの典型だと考えられていた。平成12(2000)年に出た『政治学事典』(弘文堂)では、次のように定義されている。

テロリズムとは殺人を通して、政敵を抑制・無力化・抹殺しようとする行動である。抑圧的な政府に対して集団的行動がなかなか思うように取れない時に、政府指導者個人を暗殺することで、レジーム自体を震動させ、崩壊させるきっかけをつくろうと企図することをテロリズムという。19世紀のロシアの無政府主義者のなかにはこのようなテロ戦術が有効であると考えて行動するものがいた。

実際は19世紀後半は、ロシアに限らずヨーロッパ各地でアナーキストによるテロが激発した時代ではあるが、『反抗的人間』を読むと、ロシアの一人の人間と一つの組織がとりわけ印象に残るのは事実である。

セルゲイ・ネチャーエフは、ゲルツェンやバクーニンほど有名ではないが、「革命のためにはすべてが許される」と初めて明確に言った人物だった。ただ実際にやったのは一連の詐欺と言ってよい。与太話によって作り上げた組織を防衛するためとして、仲間の一人を殺したことが最大の事績で、これはドストエフスキー「悪霊」の題材となった。

一方、1881年に皇帝アレクサンドル2世を暗殺したことで有名な「人民の意思」派は、その後の強力な弾圧によって84年には壊滅している。その路線を継ぐことを期して1903年に戦闘団を組織したのがエス・エルである。最も過激な行動にも関わらず、彼らはネチャーエフ風のマキャベリズムとは無縁だった。あるいは、できるだけ無縁であろうとした。そこにカミュは多大な共感を寄せている。

「殺害とは、必然的ではあるが、許せないもののように彼らには見えたのである」。なぜ必然かと言えば、それ以外にロシア帝政をくつがえす有効な手段はないからであり、しかしそれでもなお殺人は悪だとする。この二つを両立させる方法、というよりはむしろ、矛盾を抱えたままでなすべきことをするための方法を、彼らは示したのだ、と。

具体的に言えば、人を殺した以上、自分も死ぬべきだ、と考えて、その通りに実行した、そこにポイントがある。

彼らが必然的だと思ったものを正当化することが不可能だと知ってから、彼らは、自己の身体を正当化に賭けられはしまいか、自分たちを犠牲に供することによって自己に課された質問に答えられはしまいか、と想像したのである。彼らにとって、彼らまでの他のすべての反抗者と同じく、殺人と自殺は同一のものであった。それゆえに一つのいのちは、もう一つの命によって支払われるわけであり、これら二つの犠牲から、ある価値が約束されるのである。カリャーエフも、ヴノロフスキーも、他の人たちも、いのちが等価値であることを信じている。それゆえ彼らは、思想のために殺人を犯すとはいえ、いかなる思想も人命以上とは考えなかった。正確に言えば彼らは、思想の高さに生きているのだ。彼らは、思想のために死ぬほど思想を肉体化しているので、最期には思想を正当化してしまう。

すんなり納得できますか? 私は大学生時分から、ひっかかるものを感じている。

命は等価である、というのは、法律の次元ではいかにもそうだろうし、そうでなければならない。しかし、実存(実際の生活上の意識、ぐらいの意味です)に即した場合、命はかけがえがない、これは「欠けた場合には替えはない」を意味する。つまり、交換はきかない。ならば、他人の死を自分の死で「支払」う、なんぞという取引が、根本的に成り立つはずはないのである。

実はカミュもそれは理解していた。死後に公刊されたカイエ(ノート)の、1947年頃のに、次のような文が見つかる。「一つの生命は、一つの生命によって支払われる。その理屈は誤ってはいるが、尊重すべきだ。(奪われた一つの生命は、与えられた一つの生命に値しない)」(高畠正明訳『反抗の論理 カミュの手帖―2』新潮文庫)。原文は見ていないのだが、この訳の( )内は、どうもまちがいであるように思う。今回ネット上で見つけた西川宏人の講演録「アルベール・カミュ『正義の人びと』―愛と正義と死と―」www.paris-catholique-japonais.com/conferences/conference-pr-nishikawa-2007-06-27-les-justes.pdfではこの部分は、(奪われる生命は差し出される生命と相殺できるものではない)とあって、これならピンとくるし、私も全く同感である。

しかしそうであればなおのこと、上の『反抗的人間』の、熱烈な讃美はどういうことなのであろう。ぎりぎり言えるのは、彼らが殺人は罪であることは、どこまでも自覚して、ごまかそうとはしなかった、という点で、その後のレーニン、スターリン、毛沢東、などの成功した革命家、成功のために何人も殺した指導者たちよりはずっとましであった、ということだろう。何しろ本当に命がかかっていて、自己犠牲の精神もそこにはあるのだから、偉大、と言ってもいいかも知れない。

もっとも、途中で死んでしまうのなら、彼らの手では革命は決して成就できない。それと引き換えに革命の純粋な夢を保ち続ける、子供っぽい類の偉大さであることはもう一面の真実ではある。だから、彼らが「思想の高さに生きて」、「思想を正当化」し得たのかどうか、今の私にはよくわからない。

ただし、カミュも直接参考にしたサヴィンコフの回想録『テロリスト群像』によると、エス・エル戦闘団のメンバーも、多くは十死零生を期して事に臨んだわけではない。暗殺方法は爆弾を投げることで、当時の爆弾は扱いが難しくて危険だったから、犠牲は覚悟されていたが、死ななくてはならない、というほどではなかった。

1904年、反政府勢力に対する苛烈な弾圧を指揮したことで知られる内務大臣プレーヴェを爆殺したのが最初の成果だが、この実行犯サゾーノフは自分が投げた爆弾で負傷して、心ならずも(爆死したほうがましだったとその後も言い続けた)捕まり、たぶんプレーヴェの悪名のおかげもあったろう、絞首刑ではなく終身刑となり、その後減刑もされている。一方、06年、モスクワ総督ドゥパーソフを狙ったヴノロフスキーは、暗殺には失敗して自分が爆死した。それは充分覚悟のうえのことだったし、他に現代のいわゆる自爆テロに近いやり方をした者もいたが、この時代にはまだそれは例外と言ってよい。

上の二件に挟まる形で、05年にイヴァン・カリャーエフが前のモスクワ総督で皇帝ニコライ2世の叔父セルゲイ大公暗殺に成功した。彼は、プレーヴェ暗殺計画に加わったときは、自分が爆弾を抱えて馬車の下に飛び込むことをエス・エル戦闘団の最高指導者エヴゲーニー・アゼーフ(後に秘密警察のスパイであったことが発覚した)に申し出ている。また、官憲に捕まるぐらいなら日本人に倣って「ハラキリ」をしたい、と現場指揮官のサヴィンコフには言っていたそうだ。が、実際には逮捕されて、絞首刑になっている。

それよりも、彼を有名にしたのは、セルゲイ大公暗殺計画第一回目の失敗に依る。

2月2日、大公は夫人が庇護している赤十字のための観劇会に出かけることがわかった。エス・エル戦闘団はこの日を決行日に定め、カリャーエフと、彼が失敗した場合に第二弾を投げるはずのもう一人のメンバーが、ボリショイ劇場付近の路上で配置についた。大公を乗せた馬車はカリャーエフの前を通った。しかし、爆弾は投げられなかった。予備の者も、何か不測の事態が起こったものと考えて、見送った(彼はこの後、自分には暗殺を実行するほどの力はないと感じて、戦闘団を離脱している)。

起きたことはこうだった。カリャーエフは、爆弾を投げようとした寸前に、大公夫人と大公の幼い甥と姪が同乗しているのを見たのだ。「ぼくの行動は正しかったと思う。子供を殺すことができるだろうか?……」

『テロリスト群像』には、サヴィンコフも、他のメンバーも、カリャーエフを一切非難しなかったと書かれている。つまり、「子どもを殺すことはできない」は、エス・エル全体の意思だと認められた。

彼らに代わってカミュが、実名のカリャーエフを主人公とする「正義の人々」第二幕で、「革命のためならいかなる犠牲もやむを得ない」とする党員を登場させて、議論させている。サヴィンコフに当たる登場人物は、これは「名誉の問題だ」と言ってこの党員を退ける。子どもを殺せば、たぶん彼等は民衆の支持を失う。それはエス・エルにとって致命的なダメージになり得る、と。

その通りかも知れないが、これでは話は政策上の問題にとどまりそうである。もっと道徳的かつ原理的に、「子どもを殺してはいけない」と言えないだろうか。「正義の人々」第四幕は、非常に厳しい、妥協のない形でこの問題を追及している。まるでこの後エス・エル党員を手放しで讃美しているのが嘘に思えるほどに。

カリャーエフは2月4日に、官邸から出たセルゲイ大公の馬車に投弾し、暗殺を成し遂げた後、その場で逮捕された。この幕は獄中の彼を描いている。まず警視総監がやって来て、次のように問いかける。「その思想で子供は殺せないということになると、同じ思想で大公なら殺せるというわけになるんですかな?」。答えは大公妃にすればいい、とも言われる。因みに、セルゲイ大公夫人が、夫の殺害者を訪ねたのは歴史的な事実である。ただ、彼女は自分たち皇族の慈悲深さを国民にアピールするのが目的だったようだから、以下の対話はカミュの創作である。

自分は「正義の行為をした」と言うカリャーエフに、彼女は次のように告げる。「まあ、同じ声! お前のいまの声はあのひとの声とそっくり。男の人は、正義について話すときは、誰もみな同じ調子になるんですね。(中略)あのひとは間違ってたのかも知れません。お前も間違って……」

人間は誰も完全になれない以上、正義はついに相対的なものでしかない。エス・エル派から見れば大公の不正は明らかだが、大公からすれば彼らこそ不正なのだと言うだろう。どちらがより正しいか、完璧に決定するための超歴史的かつ超社会的な基準はないし、あっても人間にはわからない。カリャーエフは、もし自分が間違っているとしたら、今の牢獄と翌日の刑死がその報いになる、と言う。罰を甘受する覚悟があるから罪も恐れない、ということは、前述した議論の範囲に入るだろう。

では、それでも子どもは殺さないことについては? 「子どもに罪はない」。世界中どこでも通用しそうな考えではあるが、本当に、いつもそう言えるのか? 大公妃は言う。姪は意地の悪い子だ。貧しい人に触れるのを嫌がった。大公は、少なくとも百姓たちを愛していた。いっしょにお酒も飲んだ。それなのに?

いや、大公の人柄などは問題ではないのだ。「僕が殺すのは、彼じゃない。僕は専制政治を殺すんだ」と、カリャーエフは第一幕で言っている。しかし、そうだとすれば、生身のセルゲイ大公を殺す意味は、曖昧になるのではないか? ツアーを頂点とする専制政治さえ打倒できるなら、もう政府要人のだれそれという個人は問題にならなくなるはずだ。逆に、体制がそのままなら、個人は死んでも、その役を継ぐ者が必ず現れる。それを殺せば、また次が……、と、きりのない話になる。現に、セルゲイの次のモスクワ総督もまた、エス・エルは標的にせねばならなかったことは前述した。

明らかに、革命は、個人よりレジーム(体制)の打倒を目指すべきものだ。ただし、それが成し遂げられたら殺人のほうはなくなる、というわけにはまずいかない。1918年の十月革命直後のロシアでは、レーニンの命令によって、皇帝ニコライ2世の一家が、十七歳の皇女アナスタシアを含めて全員惨殺されたのは、周知の通り。どの道をたどっても、血に飢えた正義の神を宥めるのは容易ではないのである。

もう一つつけ加える。エス・エルが、暗殺はしてもできるだけ「道徳的」であろうとし、「名誉の問題」に気を配っていたことは事実である。裏切り者を処分したとき、彼の自宅で決行したので、止めに入った年老いた母親を傷つけてしまった、それまで問題視されたぐらいだ。またサヴィンコフは、他の乗客を巻き添えにする可能性の高い列車内の爆破には反対している。後には「ロシア皇帝の牢獄から脱走するとき彼は、彼の逃走をさまたげるかもしれぬ士官たちに発砲はしても、兵士たちに彼の武器をむけるよりはむしろ自殺しようと決心する」(『反抗的人間』)。当時のロシア軍の士官はだいたいは貴族だが、兵士は民衆だから、というわけだろう。しかし……。

しかし馬車を狙った場合、列車よりは周囲の人に被害を及ぼす可能性はいかにも低いだろうが、標的が一人で乗っている場合でも、必ず馭者はいる。彼も爆破の被害を受けないわけにはいかないが、こちらは民衆に属するのではないか?

セルゲイ大公の馭者はアンドレイ・ルーヂンキンという名だった。カリャーエフは大公の馬車を特定するのに、まず御者台の彼を目印にした。爆破後ルーヂンキンはどうなったろうか。『テロリスト群像』には、官公側の発表が写されており、そこに「無数の傷を負うた」とだけある。彼が死んだのか、一命はとりとめたのかは皆目わからない。

カリャーエフも、サヴィンコフも、そしてカミュも、彼のことなど全く気にかけてはいないのである。もしそこまで気にかけたとしたら、爆弾テロそのものをやめるしかなく、彼らの活動は著しく制限されなければならなかったろう。ここで結局、革命の大義が、庶民を直接犠牲にする手段を正当化してしまっていることが認められる。

以上は批判のために書いたのではない。不完全な我々には、完全な正義を行うことはできないことを改めて確認したかった。それにまた、「人を殺してはいけない」にも、「子どもを殺すことは大人を殺すより悪だ」にしても、論理的な根拠などない。感覚の問題である。ただ、このような感覚に基づいて、人の世は現に営まれているのだし、人はそういうところでしか生きていけないのは確かである。

ここからして「何をなすべきか」について多少は論理的に言おうとしても、せいぜい、できるだけ謙虚に、寛容になりましょう、ということぐらいしかない。理想に則って世の中を一気に変えてしまおうとする革命は、犠牲が多くなり過ぎる。カミュの言う、この世の不条理(人間は完全になれないこともその中に入る)にノンと言い続ける反抗というのも、カッコよすぎてとうてい凡庸な身の丈には合わない。生まれてから身についた感覚を一応の頼りとして、迷いながら、多少とも正しいと思える方向に進む以外に、普通人にとっての「正しい道」はないようだ。ただ、迷うことそれ自体は倫理的な行為である、とは言い得ると思う。いつも同じようなことしか言えないのは、たいへん恐縮ですが。

それにつけても、2001年9月11日以後我々の目にも明らかになった自爆テロの有様には慄然とさせられる。軍人でも政府の要人でもない一般の人々が集まるところへ、爆弾を抱いて行って、もろともに爆死する。一番成功率が高い、ということなのだろうが、それだけで、ここにはいかなる倫理も道徳も、それを気にかけようとする気配も、ない。

国末憲人『自爆テロリストの正体』(新潮新書)によると、その実行犯たちは、アメリカやイスラエルに追い詰められてぎりぎりの生活を強いられた者、というわけでもない。多くは、けっこう裕福な家庭出身でそれなりに教育もある者たちが、例えばアラブ人であることで差別される、というような体験から、不全感を抱き、そこをアルカイダなどのテロ組織にオルグされて、やるのだと言う。

パレスチナ出身のハニ・アブ・アサド監督の映画「パラダイス・ナウ」(2005年)を見ても、対イスラエルの自爆テロに向かう二人の青年(一人は途中で脱落)は、特に狂信的ではなく、恋愛もすれば、友人や家族を思いやる心も持っている。根深いコンプレックスはある(主人公の父は密告者だった)が、それをも含めて、日本でもざらに見つけられるような若者だ。違いは、明確な敵、つまりイスラエルとその背後のアメリカがあること。それで、自分自身を含めて多くの人を犠牲にするテロ行為に走るとは……。

私の人間理解は、ここには到底及ばない。知識もない。年を取って自分から宿題ばかり増やしているのは我ながら苦笑ものですが、この問題に取り組むのもやっぱり他日を期します。

*由紀草一氏ブログ「一読三陳」から、ご本人の許諾を得て転載しました。


〈コメント〉

☆Commented by kohamaitsuo さん
由紀草一さんへ。

ご文章での真摯な問いかけ、とてもよくわかります。でもたいていはこういう問いをどう克服するかについて、みんな逃げてしまうのですね。

じつは私も若いころ、カミュやサヴィンコフや高橋和巳を読んで、この種の問題で悩んだことがあります。

カミュについて言えば、「自分が死ぬなら悪政を終わらせるための殺人は許される」という一種の自己納得を「正義」としてぎりぎり容認するというところに落ち着くようですが、これだと、では、ある思想的信念があって、そのために殉教するなら、いくらでも人を殺してもよいのか、信念の正しさはだれが決めるのかという反問がすぐ帰ってきて、問答は循環してしまいます。当時のテロリストなら、「ひとり対ひとり」という言い分で説得力を持ったかもしれませんが、人類史のひどさを見れば、そういう問いの応酬の形式そのものがむなしいという感じがどうしても立ち上ります。

カミュのダメなところは(といっても、必死で問題提起したその功績は認めるべきですが)、この種の問題を倫理的、道徳的、文学的な主題に限局していることそのものにある、と、いまの私は考えます。というのは、この種の問いは、いわゆる「限界状況」をシミュレートすることが前提となっていて、そこで初めて、あたかもそれが普遍的な倫理問題であるかのような意匠をまとうわけです(エス・エルの意志と行動にまつわる問いも、限界状況の中で出てきたものですね)。しかし、逆にそのことは、政治問題を社会知として考えるという志向性を隠蔽するのではないか。倫理的な問いを、特定の状況に置かれた個人の「心理」としてとらえるのではなく、どうすれば限界状況的な境遇に多くの人を追い込まずに済むか、というように視線変更する必要がある、と思います。これは、マルクスやケインズの発想につながるものだと勝手に考えているのですが。

☆Commented by soichi2011 さん

わざわざコメントをいただき、ありがとうございます。

 おっしゃることはよくわかります。前にサンデルの本を取り上げたときに見た有名な(なんで有名なんですかね?)「暴走する路面電車」の思考実験もそうですが、限界状況を考えたほうがスリリングなわけでして。そのワクワクする面白さで人を惹きつける一種の手管を使っているのは見易いことです。私もその類いの「面白さ」には大いに惹かれるほうでして。

さてしかし、これらを政治問題として考えた場合、いかなる展望が開けてくるものか。例えばカミュは、この点ではサルトルたちと同じく、「革命は必然だ」という前提の上で語っているわけです。ロシア革命が回避できるものだったら、エス・エルがどうたらの状況も最初からなかったわけです。

しかし、そういうわけにいきましたでしょうか。いや革命なら、結局地域的にしか起きなかった、例外的な状況だ、でいいとは思いますけれど、国家というのはいつなんどき、個々人に限界状況を押しつけてくるかわからない。パレスチナ問題なんて、政治問題に違いないないですが、ではどのような政治的な解決が可能なのか、見当もつかない。我が国だって、中国の出方ひとつで、久々に戦争をする羽目になるかもわからない。その場合、戦うのはやっぱり個々人です。

 たぶん私は、小浜さんより志が低いんだと思いますが、完璧な人間も完璧な政治もない、その意味で世界はいかにも不条理、しかしAという行為よりBという行為の方が「よい」ことがあり得る(カミュのカリギュラは、そいつは非論理的だと言った)、それは信じていこう、とだけ思っております。世界全体のことは、お話程度にしかわかりませんので。


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由紀草一・道徳的な死のために (その1)(その2) (イザ!ブログ 2013・11・25)

2013年12月27日 04時28分09秒 | 由紀草一
*以下は、由紀草一氏が、ご自身のGOOブログに投稿なさった論考です。当ブログ主の要請によって、ここに転載いたしました。最近のブログ主の論考と響きあうところが多いと感じたからです。むろん、その知的でクールな切れ味鋭い筆致は、自ずから別物ではあります。

道徳的な死のために
その1 切腹について

                                           由紀草一
2013年11月08日 | 倫理
メインテキスト:モーリス・パンゲ、竹内信夫訳『自死の日本史』(筑摩書房昭和61年)

長谷川三千子氏の近著『神やぶれたまはず 昭和二十年八月十五日』を題材にして、著者にもお越し願って、先日読書会を開いた。そのとき、長年考えていたことを口にすることができた。もっとも、口頭で思いをきちんと伝えるのはいつも難しい。だから多少とも読んでくれる人がいることを期待して、例えば今ここで文を綴っている。以下に、その時言ったことを改めて、枝葉をつけて、述べる。

それは、日本人はなぜすぐに死にたがるのか、死を美化する傾向があるのか、ということである。

もっとも、性急に「日本独特」だなどと言えば、まちがいになってしまう。「美しい死」の観念なら、世界中にある。モーリス・パンゲの著書は、「プルターク英雄伝」に描かれている、宿敵ジュリアス・シーザーとの戦いに敗れて、腹をかっさばいて、即ちその後「ハラキリ」と呼ばれるようになった方法で死んだカトー(小カトー)の話から始まっている(B.C.46)。降伏すれば、シーザーはカトーを殺すまでのことはなかったろう。しかし、この敗北によって、ローマに帝政が敷かれることは確定的となった。共和制のために生涯戦い続けてきた者が、どうしてそのような国で生き続けることができよう。信念に殉じた、最も誇り高い生き方としての自死。後にセネカは、この死を、この世で最も美しいものと呼んだそうだ。

日本と違うのは、このような死が、賞賛されることはあっても、様式化され儀式化されるまでのことはなかった点だ。その要因の第一は、やはりキリスト教であろう。人に生命を与えたのは神である、とすれば、その命を自分の手で捨てることは神に対する反逆であり、罪である。こう明確に定めたのは聖アウグスティヌスであるらしい。そうすると、「美しい死」は、殉教、つまり節を曲げずに敵に殺されることしかなくなる。

一方日本では、個々人はもとより「人と人との間」をも完全に超越した上位の審判者は、少なくとも一般的には考えられなかった。そこでは、「人からどう見られるか」が究極の価値とみなされがちになる。すると、「美しい(そう見える)死」の価値の底上げが起こる。あまりにも広大かつ複雑微妙な問題を単純化する弊を気にしなければ、そう言えるであろう。

少しは具体的にわが国の切腹の様相を、『自死の日本史』から見ておこう。

自刃という死に方そのものは平安時代からあったようだが、本格的な様式化を遂げたのは江戸時代からと考えてよいようだ。

源義経は日本史上最も早い時期に、ちゃんとした割腹自殺を遂げた武将の一人ということになっている(1189年)。「義経記」によるとその最期はこうだ。兄頼朝からの圧力に屈して敵方にまわった藤原泰衡の軍勢に囲まれた義経は、奥州平泉の衣川館で最期を迎える。「さて、そろそろ自害の刻限のようだ。で、自害はどうしたらよいと言うのだろう」と義経が問うのに郎党が答えて、「佐藤兵衛(忠信)のやり方こそ、後々まで人のほめるものでありましょう」。忠信は三年前、義経の身代わりとなって京の堀川で奮戦、最期は切腹して果てていた。義経は、「けっこうだ。傷口は広いほうがよいな」と、鞍馬山時代から愛蔵していた刀を採り、左乳の下から突き通すと、傷口を三方に掻き破って腸を繰り出し…。

「義経記」は、義経の時代から二百年ほど後、南北朝時代か室町時代の初期に書かれているので、実際の彼の死がこのようなものであったかどうかは分からない。むしろ、理想的な英雄とされた義経の死に方として、「義経記」の作者か、それ以外の誰かが与えたものとしたほうがいいだろう。逆に言うと、鎌倉時代末ぐらいまでには、切腹こそ武士に相応しい自死のやり方だという観念が定着してきていたのであろう。

その南北朝時代を描いた「太平記」には、かなり一般的にはなったものの、まだ様式化にまでは至っていない、荒々しい切腹の描写が随所にある。中でも、鎌倉幕府の最後、東勝寺に落ち延びた北条氏得宗高時と一門が集団自殺を遂げる、その有様の凄絶さは無類である(1333年)。それは一種の宴であった。

(試訳)さて長崎高重が走り回り、「早々に御自害なされ。お手本を見せましょう」と、弟新右衛門に酌をさせると、三度飲み、その杯を摂津入道道準の前に置き、「一献さしあげる。これを肴にしたまえ」と、刀で左脇腹から右まで長く切り、腸を手繰り出して、道準の前に倒れ伏した。道準は盃を取り、「けっこうな肴じゃ。どんな下戸でもこれで飲まぬ者はなかろう」と戯れ、盃から半分ばかり飲んで、諏訪入道直性(じきしょう)の前に置くと、同じく腹を切って死んだ。直性は盃を静かに三度傾けると、相模入道(北条高時)の前に置いて、「若者どもがずいぶん芸をつくして見せたのに、年寄りがなんとしましょうぞ。今後は皆様これを私からの肴としていただきたい」と、腹を十文字に掻き切って、刀を相模入道の前に置いた。

死を前にして血まみれになり、苦痛をこらえながらの、ブラックジョークの応酬。これこそ武士が備えるべき勇気と克己心をこの上なくよく示す実例と思われたのに不思議はない。だがそれだけではない。ここには多分にマゾヒスティックな、自虐の喜びがありそうだ。それはパンゲも指摘している。

しかし、そのような隠微な喜びは、日本人には明治期まで一般には明らかにされなかった。おかげで切腹は、見た目の、禍々しさを裏地とした華々しさのため、武士に相応しい死に方、さらには、武士の特権とさえ考えられるようになった。死ぬ理由も、敗北死の他に数種数えられるようになる(以下の例は『自死の日本史』からではない)。

まず、命と引き替えに主君に意見する「諫死」がある。戦国時代織田家に仕えた平手政秀は、傅役(もりやく)を勤めた信長の行状が父信秀の死後家督を継いでからもいっこうに改まらないので、諫めるために切腹して果てた(1553年)。

それから、主君が死んだ後の後追い自殺としての「追い腹」、またの名を殉死。森鷗外「阿部一族」(大正二年)に、江戸時代初期、寛永年間(1640年代)の、肥後熊本藩におけるその様相が描かれている。普通に言ってなんら死ぬべき理由のない者が自死する不合理には、さしもの日本的美意識でも耐え難かったのだろう、寛文三年(1665)には幕府は禁令を出している。しかし明治時代、乃木希典が明治天皇に殉じて切腹しているのは有名で、「阿部一族」はその事件の影響下に書かれた可能性がある。

恥をかいた/かかされた、と感じた場合でも武士は死ぬべきだとされた。山本常朝「葉隠」(1717年頃)が言葉にしたのはこれである。ただここでは、恥ずべき状態に陥ってから死ぬのは遅いので、それを避けるためには、少々先走りに見えても死ぬのがよい、と言われている。「阿部一族」の阿部弥一右衛門は、殉死しなかったのを「臆病なせいだ」と陰口されているようなのを憤って切腹する。しかしこれは彼に殉死を禁じた亡主細川忠利の遺命に背いたことになり、ここから阿部一族の悲劇が始まる。以上は史実ではないが、江戸期に出版された「阿部茶事談」に記されており、「君命に従う」と「恥をかかない」という武士の二大徳目が、いつも両立するわけではないことは、当時からある人々の目には映じていたことがわかる。それが思想的な課題とまでされたのは明治以降だというだけである。もちろん山本常朝には、こんな問題意識はない。

それから、必ずしも自分が望んだわけではなく、周囲からの圧力によって切腹にまで追い込まれる場合は、「詰め腹を切る/切らせる」という成句を現在まで残している。幕末の長州藩で、長州征伐に至るまでの国難(この場合の「国」は「藩」)を回避できなかった責めを負って自決した周布(すふ)政之助あたりが代表例だろう(1864年)。それより先、藩論が攘夷一色になっていく時期に開国論を唱え、周囲から恨みを買った長井雅楽(うた)も腹を切っているが、こちらは藩主からの上意を受けてのことである(1863年)。おそらく数としては、後者のような、賜死としての切腹が一番多いだろう。この場合、咎がありながら、武士らしい死を与えられた、というので、光栄だとされた。切腹をめぐる話の中で、ここが一番ヘンだと、私には思える。

ヘンなところは他にもあるので、そこからいこう。あらためて、武士の特権としての切腹の性格とはなんだったか。江戸時代という平和な時代に、戦争の専門家である武士が特権を保つために、彼らには日常から戦場にあるような(常在戦場)緊張感が求められた。卑怯な振る舞いがあったときにはただちに自らを裁く、それも非常にむごたらしい、苦痛を伴うやり方で。それこそが、士農工商の最上位として、人の上に立つに足るモラリティの徴であった。それが今日でも、もちろんお話としてはだが、あまり疑われないようなので、日本人というのは人がいいのだな、と感心する。

むごいたらしいという意味で見た目が派手で、苦痛もべらぼうに大きいという、いわば形式面を考えてみよう。江戸時代には磔刑(たっけい)、あるいは磔(はりつけ)と呼ばれる残忍な刑罰があったのは周知だろう。柱にくくりつけられた罪人の腹を、両側から槍で何度も刺していくというもので、グロテスクな点でも痛いという点でも、切腹にひけをとるとはとうてい思えない。この刑を受けたのは庶民である。「自らの手で自らを裁く」ところが切腹のポイントだとも考えられるのだろうが、江戸時代、それは様式化された。様式化とは形式化ということで、形式化されたものはほぼ必然的に形骸化する。平和に慣れた武士では、自分の腹に刀を突き刺すことなどできない場合もあり、「扇腹(おうぎばら)」と言って、刀の代わりに扇子や木刀を三方に乗せたものが用意され、それを持った動作を合図にして介錯人が首を切る、実質的に斬首となんら変わらない切腹もよくあったようだ。

内容面で、自決によってすべての罪も恥も解消される、という考え方はどうだろうか。死者を鞭打たない、というのは、日本人の美質の一つであると私も思うけれど、そこから「死ねばすべてが許される」→「何をしても死にさえすればいい」にまで至れば、明らかな短絡、あるいはすり替えがあるように感じられる。

明治七年に出た「学問のスゝメ 第十篇」で、福沢諭吉はいわゆる忠臣義士を批判する論を述べて、物議を醸している。この部分が「楠公権助論」として知られているのは、福沢は名を挙げているわけではないが、この時代楠木正成が忠臣の代表とされていたからである。一方権助のほうは、愚昧な下僕の仮名として文中で使われている。

その論に曰く、政府が暴政を行うとき、その下にある身の処し方のうち、最も優れているのは、一身の危険を顧みず正道を唱え続けることである。結果命を落としても、「失ふところのものはただ一人の身なれども、その功能は千万人を殺し千万両を費したる内乱の師(いくさ)よりもはるかに優れり」。一方、日本で名高い忠臣義士と言えば、「己(おの)が主人のためと言ひ己が主人に申し訳なしとて、ただ一命をさへ棄つればよきものと思ふは不文不明の世の常なれども、いま文明の大義をもつてこれを論ずれば、これらの人はいまだ命の棄てどころを知らざる者と言ふべし」。ただ主人への申し訳のために自死した者を義士と言うとしたら、主人の使いで預かった一両の金を紛失したので首を縊る下僕は珍しくない(そうですか?)が、これもそう呼ばれるべきだろう。いずれも同情の涙は誘うとしても、文明の進歩に寄与するところはない。

こう言ったからといって福沢は、日本人の、「潔さ」に感動する傾向と無縁だったわけではない。明治三十四年、彼の死後に、本来出版を予定していなかった「丁丑(ていちゅう)公論」と「瘠我慢の説」が合本として出た。前者では、西南戦争で斃れた西郷隆盛を、武力を使ったやりかたは悪かったにせよ、政府に抵抗する精神を示したものとして称揚している。それはまだしも上の説と整合しているが、後者では、幕閣でありながら節を曲げて、維新後新政府に仕えた勝海舟と榎本武揚を、一国を支えるべき痩せ我慢の精神を欠いたものとして批判している。しかしこの精神が、「文明の進歩」にはどう役立つのか、理解するのは容易ではない。

 このような矛盾は、福沢一個に即してみれば、彼の魅力を増すものだと私は思うが、この世で倫理的であろうとするときの難しさの一端を示してもいると思う。ただ「正しい」だけで、「美しい」とは感じられないものには、人を動かす力は乏しい。一方「美しさ」に酔った人々が世に厄災を惹き起こすことも数多い。そうであれば、「美しい行為」の理非曲直を見極めようとする努力は必要であろう。それ自体は少しも美しくないにしても。

関連して私が一番不思議だと思うのは、二・二六事件の青年将校たちが抱いた、「天皇から賜る、栄光としての死」という観念である。美津島明さんのブログに発表させていただいた「書評もどき 長谷川三千子『神やぶれたまはず』 その3 三島由紀夫の「忠義」」http://blog.goo.ne.jp/mdsdc568/e/c4c04669646a9a3f9d97bd5d52089b87に略記したことを、ここで蒸し返す。

昭和十一年二月二十八日、蹶起部隊は直ちに原隊へ戻るべし、という内容の奉勅命令(天皇からの直接の命令)は出されていたが、それはなぜか当該部隊にはきちんと届けられていなかった。この時蹶起将校の一人栗原安秀中尉が「(天皇に)お伺い申上げたうえでわれわれの進退を決しよう。もし死を賜るということにでもなれば、将校だけは自決しよう。自決するときには勅旨の御差遣くらいを仰ぐようにでもなればしあわせではないか」(高橋正衛『二・二六事件』より孫引)と言い出し、皆が賛成した。この願いは山下奉文(ともゆき)少将から本庄繁侍従武官長を通じて昭和天皇に伝奏された。それに対するご返答は、「自殺するならば勝手に為すべく此の如きものに勅使など以ての外なり」であった。

これは『昭和天皇独白録』では、「勅使」ではなく「検視」と言われている。よくわからないが、勅使案が天皇に一蹴されてから、本庄が、ではせめて検視の者を、とでも言ったのかも知れない。それに対して昭和天皇は、「然し検視の使者を遣はすといふ事は、その行為に筋の通つた所があり、之を礼遇する意味も含まれてゐるものと思ふ。/赤穂義士の自決の場合に検視の使者を立てるといふ事は判つたやり方だが、叛いた者に検視を出す事は出来ないから、この案は採り上げないで、討伐命令を出したのである」。

天皇が、討伐命令ではなく、誰かに直接「死ね」という内容の勅使を送ったことは、日本史上例がないのではないかと思う(もし、ある、という場合にはご教示ください)。検視でも同じことで、検視役正使は、君主からの切腹命令を伝えた後、ちゃんと切腹が成し遂げられたことを見届けるのが役目である。それを天皇が送れば、即ち死の命令が天皇から出たということになる。

赤穂浪士に徳川幕府から切腹の命が出され、検視役も派遣されたのは、温情と言えるだろう。家禄を離れた浪人はもはや武士ではなく、罪を犯せば農工商の一般庶民と同じように罰せられるのが通例だから。吉良邸に討ち入ったのが押し込み強盗と殺人の類とされたら、四十七士は磔か獄門になったであろう。それを武士の「特権」である切腹に処したのは、仇討は美徳と認められていたし、また事件当時から彼らの人気が非常に高かったので、「礼遇」の必要が感じられたからだろう。

ただし基本的に、命じられて切腹するのは、刑死の一種であることにはなんの変わりもない。「御馬前の死」=「戦場での討死」と同列に見られるようなものではないのだ。武士として最低限の面目が保たれていることは事実であるとしても、それ自体が栄光ある死だ、などとどうして考えられるのか。ここにはどうしてもある種の短絡ないし転倒があるとしか思えない。

二・二六の蹶起将校の場合、「その行為に筋の通つた所」があると陛下に認められたとしたら、それは光栄でもあろう。が、それでもなお、三島由紀夫が「英霊の聲」(昭和四十一)年)で言ったように、死そのものが嘉されるわけではない。一番大きく見て、彼らの死は端的に、クーデターの失敗を意味する。そんなことはどうでもいい、と思っているらしいところが、三島などの独特なところで、また私には理解しがたいところである。





道徳的な死のために 
その2 特攻について
                                                  

2013年11月23日 | 倫理




メインテキスト:モーリス・パンゲ、竹内信夫訳『自死の日本史』(筑摩書房昭和61年)
サブテキスト:百田尚樹『永遠の0』(太田出版平成18年刊。講談社文庫版平成21年、平成25年第40刷)

この本は現在文庫の中で一番売れているそうだ。確かによくできた娯楽小説ではある。宮部久蔵という、現実にはまずいないスーパー・ヒーローを物語の中心に据えて、真珠湾奇襲攻撃から沖縄戦まで、日米戦争の一面がうまくまとめられ、描かれている。

宮部は名人の域にまで達した零式戦闘機、通称零戦の操縦士だが、「戦争で死にたくない。生きて妻子のもとへもどりたい」と公言するところが、旧日本軍中では際だって特異なキャラクターになっている。もっとも、よく考えてみると、私も小説や映画からくるイメージ以上のことは知らないのだが、それによると、大東亜戦争中の日本軍では、「命が惜しい」などという言葉はタブーだったようだ(違う、という情報をお持ちの方はご教示ください)。

兵隊がそんな臆病なのでは戦争に勝てないだろう、と言われかも知れないが、それとは異なる観点が示されている。小隊長としての宮部が部下を諭す言葉。

「たとえ敵機を撃ち漏らしても、生き残ることが出来れば、また敵機を撃破する機会はある。しかし―」「一度でも墜とされれば、それでもうおしまいだ」「だから、とにかく生き延びることを第一に考えろ」

戦争に勝つためには、こちらは生きて、多くの敵を殺したほうがいい、だからなるべく生き延びるように心がけるべきだ。これは正論ではないだろうか。美しくないだけに、なおさらそう感じる。山本定朝の言う「武士道と云ふは、死ぬ事と見付たり。二つ二つの場にて、早く死方(しぬかた)に片付くばかり也。別に子細なし。胸すわつて進む也」などは、むしろ平時の武士の心がけを説いたものだ。思うに、戦争とはもっと汚いものなのだ。

汚い話の実例も『永遠の0』中に書かれている。宮部は空中戦で敵機を撃ち落としたとき、向こうの操縦士がパラシュートで脱出するのを見つけたら、それをも機銃で撃った。これが彼の評判を悪くしたもう一つの要因となった。空中戦では、相手の飛行機を破壊すれば終わり、そこから脱出した兵士は、見逃すのが「武士の情け」だと思われていたから。宮部は、そんなものこそ無用な綺麗事だと言う。

「自分たちがしていることは戦争だ。戦争は敵を殺すことだ」「米国の工業力はすごい。戦闘機なんかすぐに作る。我々が殺さないといけないのは搭乗員だ」

実際、戦争の中盤以降、日本軍は武器弾薬から食料医薬品に至るまでの物資面と同じく、あるいはそれ以上に、経験豊かで優秀な戦闘員の不足に悩まされた。特に、まともに戦えるようになるまでには極めて高い練度を要する戦闘機乗りが、ミッドウェイ海戦からガダルカナル島争奪戦を経てマリアナ沖海戦までに至る過程(昭和17年4月~19年6月)で、数多く戦死したことは、太平洋で戦う帝国海軍の首をじわじわと締め付けていった。これを要件の一つとして、特別攻撃作戦、略して特攻、連合軍からはKamikaze Attackと呼ばれて恐れられた、世界の戦史上類のない戦法が実施されたのである。

最初の特攻は昭和19年10月、レイテ沖海戦での神風(当初は「しんぷう」と呼ばれた)特別攻撃隊によるものだった。この隊は20日に結成され、21日から出撃したが、悪天候のためになかなか米艦隊まで到達できず、25日になってから、空母セント・ローに激突、沈没させる、などの成果を挙げている。

当初はこれはこの時限りの、それこそ特別な攻撃だと多くの人が思ったようだが、すぐに常態化した。その経緯は、この25日、第一航空艦隊司令長官大西瀧治郎中将が、マニラ方面にいた飛行隊長以上の指揮者にした説明に、一番簡潔に示されている。森史朗『特攻とは何か』(文春新書)から引用する。

一、(前略)現在の大編隊の攻撃では、攻撃隊は目標を見る前に、敵戦闘機に迎撃され撃墜されてしまう。
二、しかし、索敵機のような単機ないし少数機ならば目標まで接近できる。現に今回敵空母を撃沈した彗星艦爆は単機毎の攻撃であった。
三、だが、現在の技倆では少数機により命中弾を得ることは極めて困難である。しかも、攻撃後の生還はほとんど望みがない。
四、どうせ死ぬならば、体当たりによって大きな損害を与えることこそ本望であろうし、そのような任務を与えることこそ慈悲であると思う。


論理的、ではありますな。この時点で帝国海軍最大の目標は、日本列島に迫り来る米艦隊をなんとか止めることになっていた。しかしそのために多数の攻撃機を行かせたのでは、敵艦隊にたどり着く前に発見されて撃ち落とされてしまう。少数ならたどり着けるが、それでも敵の援護機や艦隊からの砲撃でこれまた撃ち落とされてしまう。さらに、促成した現在の多くの搭乗員(多くは昭和18年から徴兵された学徒兵が充てられた)には、敵艦に爆弾を当てるほどの技術がない。つまり、海戦のために打つ手はもはや、ない。まだしも有効なのは、飛行機ごと艦船にぶつかり、損害を与えることだ。「どうせ死ぬならば」…。日本の兵(つわもの)が、本当に「大君の辺にこそ死なめ」を念願するなら、ここがロドスだ、さあ跳べ! と文字通り命懸けの跳躍が行われた。

言い換えると、なすすべもなくアメリカ軍に撃ち落とされるばかりなら、命と引き替えに一矢報いる道を与える、それが「慈悲」だ、と言ったとき、大西は、いや日本軍全体が、ある一線を越えた。狂瀾を既倒に廻らす方途を論理的に詰めていって、いわばそれを助走にして、倫理の壁を跳び越えたのだ。そのことを大西は自覚していたのだろうと思う。何しろ後に、これは「統率の外道」=「外道の戦法」だと漏らしたと言われているくらいだから。上の説明の最後には、「この案に反対する者は叩き斬る」と言い放ったらしいが、それもつまりは後ろめたさを感じていたからではないだろうか。自分の正しさに充分な自信があるなら、反対者を一人一人粘り強く説得しようとしただろう。

別人の例。昭和20年4月、沖縄に来襲した米軍に対する菊水作戦が始まると、第五航空艦隊長官宇垣纏(うがき まとめ)中将は旗下の全機に特攻を指示した。出撃時には可能な限りはなむけの言葉を贈ったのだが、その折一人の准士官が、「本日の攻撃において、爆弾を百パーセント命中させる自信があります。命中させた場合、生還してもよろしゅうございますか」と尋ねた。宇垣は「まかりならぬ」と、即座に大声で答えた(岩井勉『空母零戦隊』より)。

この准士官が言葉通りの技倆の持ち主だったとしたら、複数の敵艦を撃破できたかも知れない。特攻では最良で一機につき一艦撃沈のみに決まっている。戦術としてこれを見れば、この場合は明らかに損なのだ。しかし、大西や宇垣にとって、もうそういう問題ではなくなっていた。兵を、あくまで兵として、美しく死なしめること。それが戦争に勝つことより大事だった。それで初めて、全体として果たしてどれくらいの戦果があるのかを度外視して、特攻作戦を継続できる。

逆に、たいして有効ではないから、という理由でこの作戦を見直すとしたら、今までに死んだ隊員は無駄死にだ、と見えてしまうだろう。つまり、跳び越えてしまった以上、もう元にはもどれなかったのである。もっとも、特攻を推進した軍幹部の中でも、そう理解していたのはごく少数だったらしい。

大西瀧治郎は、8月16日に、腹心だった児玉誉士夫からもらった刀で割腹自殺し、宇垣纏はそれより早く15日正午の玉音放送を聞いた後で、艦上爆撃機(略して艦爆)彗星に乗って、僚機十機を従えて最後の特攻として沖縄沖へ飛び立っていった。これを責任のとりかただとすれば、「多くの若者の命を奪っておいて、老人が腹を切ったぐらいでなんだ」という意見も出るだろう。それは『永遠の0』にも書かれているが、私はむしろ、彼らは自分たちの作った美しい物語の内部に入り込んでしまっていたので、死をもってそれを完結する以外にない、そういう心境だったのだと考えている。

ただ、生身の人間が、過酷な物語の中に敢えて止まって最期を迎えるのは、いつの時代でも難しい。だからこそ、英雄は希少な存在なのだ。この二人以外の特攻指導者の多くは、けっこう戦後まで生き延びてしまっている。因みに陸軍では、この理由で自決した将官は一人もいない。
 
それなら、「慈悲」をかけられて、若い命を散らしていった特攻隊員達は英雄なのだろうか。そうとしか言いようがない。英霊、確かに彼らはそう呼ばれるに相応しい存在ではあった。どういう意味で? 自己犠牲の化身として。

多数とは言えなくても、価値ある何かのために自分の身を捧げる高名な、あるいは無名の英雄は、どこにでも、いつの時代でも、いる。今年我々は、猛吹雪の中、幼い娘を庇って、自分は凍死した父親のニュースを知らされた。その荘厳さに心をうたれない人は稀だろう。それでこのような物語はアメリカ映画「タイタニック」(ジェームズ・キャメロン監督)や「アルマゲドン」(マイケル・ベイ監督)など、エンターテインメントにも多数取り上げられ、見る人の涙を誘ってきた。ネタバレになるが、『永遠の0』もまた、日本軍や特攻作戦そのものは批判しながらも、主人公に自己犠牲の死を遂げさせて、ヒーロー像の画竜点睛としている。

これでもわかるように、戦争という、人命を軽んじなければならない際でも、積極的ないわゆる捨て身の働きはしばしば感動的に語られる。それも日本のお家芸ではない。ミッドウェイ海戦時、対空砲火に被弾したSB2Uヴィンディケ-ター機のリチャード・E・フレミング大尉は重巡洋艦三隅に激突した。そうしなくても死んだ可能性が高いのだろうが、そうだとしても体当たり攻撃など、なかなかできることではない。アメリカ人にとってもそうである証拠には、彼には死後に名誉勲章が贈られているそうだ。

この延長上に特攻隊員も当然位置づけられる。モーリス・パンゲはこう言っている。

敵だけでなく、平和の到来を今か今かと待っているすべての人々が、彼らのその行為が戦争を長引かせていると思って、それを狂信だと言い、狂乱だと言って非難した。だが人の心を打つのは、むしろ彼らの英知、彼らの冷静、彼らの明晰なのだ。震えるばかりに繊細な心を持ち、時代の不幸を敏感に感じとるあまり、おのれの命さえ捨ててかえり見ないこの青年たちのことを、気の触れた人間と言うのでなければ、せいぜいよくて人の言いなりになるロボットだと、われわれは考えてきた。(中略)しかし実際には、無と同じほどに透明であるがゆえに人の目には見えない、水晶のごとき自己放棄の精神をそこに見るべきであったのだ。心をひき裂くばかりに悲しいのはこの透明さだ。(P.346)

特攻隊員の遺書に折々見出すことができる不思議な清澄さを評するのに、私はこれ以上の言葉を知らない。それにまた、私のような凡庸な俗人は、この「水晶のごとき自己放棄の精神」など生涯無縁であろうと、すぐに得心できる。

そういうわけで、私などとは精神の次元を異にする英雄がいることには同意するのだが、その前提として、パンゲが、特攻隊員の死は自由意志によるものだった、と言うのには異論がある。と、言うより、それが強制されたのか自発的だったのか、などという議論には意味がないと思う。それはパンゲにもわかっていたのではないだろうか。彼はこうも言っているのだ。「太平洋戦争が何か新しい物をもたらしたとするならば、それは〈意志的な死〉の計画化というものであった―あらゆる自由を組織化することに血道をあげている現代という時代に、それはいかにも似合いの発明品であった」(P.341)

最初の時には大西が確かに彼らが志願するかどうか尋ねている。後にもそういうことはあった。志願する者は皆の前で態度を明らかにするのではなく、紙に名前を書いて提出したり、一週間以内に指揮者に個人的に申し出させたりしたケースもある。しかしいずれにせよ、特攻も何度も繰り返され、人間魚雷回天によるものなどを加えて戦死者が五千人以上にも及んだということは、この作戦がシステム化され、ルーティン化された、ということである。

特攻隊員は、システムに乗って、いわば自動的に死んだのである。作戦上の効果もそうだが、彼らの死の意味、つまりは生の意味が考慮されることなどあるべくもなかった。そこで彼一人ひとりがそれこそ必死で考えたことのいくつかが、遺言として残され、後の我々を粛然とさせる。

それにつけても、これはやっぱり外道の戦術であり、最悪のシステムだったと思う。『永遠の0』では、軍上層部は一般兵士など将棋のコマぐらいにしか考えていなかった、と批判されている。それは、戦争である以上、いつの時代でも、どの国でも、幾分かはそうなるだろう。アメリカも、例えば日本に上陸したら兵士の損耗(この言葉だけでも、わかりますわな)はどれくらいに及ぶか見積もった上で、原爆を投下したのだし、日露戦争時の旅順攻撃など、特攻とほとんど変わらない有様だったことは当ブログでも以前に書いた。それでも、紙一重でも、五十歩百歩でも、越えてはならない一線はあるのだと思う。

例えばこう言えばいいだろうか。九死一生の激しい戦いを生き延びた者は、英雄になることがあり、そうでなくても自軍に帰れば温かく迎えられることは期待される。十死零生では、というかそもそも作戦成功の必要条件に自分の死があるのだから、生きていることは失敗でしかない。事実、悪天候や飛行機の不調で基地に戻ってきた隊員たちは、たいへんな焦燥を感じなければならなかったようだ。生を根底から否定するようなこんな試みは許されない。それを我が国はかつてやったのだ。大東亜戦争の反省として、第一に銘記すべきことであろう。
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由紀草一・長谷川三千子『神やぶれたまはず』(その4) (イザ!ブログ 2013・10・19 掲載)

2013年12月25日 02時48分14秒 | 由紀草一
由紀草一・長谷川三千子『神やぶれたまはず』(その4・完結篇)
 ――昭和天皇の平和主義+長谷川先生からの御返答――



昭和天皇の日本国憲法署名

大東亜戦争の降伏とは、一億総玉砕といふ形で、神に命を捧げようとしてゐた日本国民が、その奉献を拒否された事態だつた。しかしその時、陛下の玉音放送があり、民を救ふために身を投げ出す聖王の意思が、日本国民に直に伝へられた。この時、神風は吹いたのであり、神人対晤が行はれた。ただそれは、はるか上空を一瞬吹き渡つた天籟であり、確かに聞いたにしても、その意味は忘れられたり取り違へられたりされることが多かつた。

これがざつと『神やぶれたまはず』の主旨である。魅力的なストーリーであるが、そこには収まりきれないこともあるのを、私はこれまで吉本隆明と三島由紀夫に即して述べてきた。我々もまたけつかう複雑なのが当然なのだから、私はここで長谷川氏へ反論するつもりではなく、一種の注釈つけのつもりであつた。

今後もさうだ。が、天皇自体のこととなると、話はいよいよ広遠かつ微妙であつて、私はただ疑問、それも愚問に過ぎないものしか提出できないかも知れない。ただ、私なりのこだはりはどうしてもあるので、長谷川氏を初め、博識の人のご教示をお願ひしたい。

疑問は大きく分けて二つある。

第一に、「天皇」の性格、といふか我が国体に関すること。長谷川氏はそれを、藤田東湖「弘道館記述義」を援用して次のやうに述べる(以下の語釈は長谷川氏に依る)。我が国には「宝祚無窮」(皇室がきはまりなく続きさかへること)「国体尊厳」「蒼生安寧」(天皇が民の安寧を第一のこととして常に心がけられること)「蛮夷戎狄率服」(周辺諸国が自ずから日本に従ひ服すること)の四つが実現されてゐるが、重要なのはこれら四つが互ひに循環し、つながり合つてゐることである。「すなはち、天皇が民を「おおみたから」として、その安寧をなによりも大切になさることが皇統の無窮の所以であり、だからこそ国体は尊厳である」(P.242)。

俗人である私から見ると、なんだか都合が良すぎて危い。最後の「蛮夷戎狄」など、周知の如く、支那の王朝が周辺の諸民族に与へたれつきとした蔑称である。日本ももちろん「東夷」の中に数へられる。皇帝の徳にこれら野蛮人どもが心服する、といふのも支那ふうだ。これだけでもやや不愉快な感じになる。

東湖は「蛮夷戎狄」で具体的にどの国々を考へてゐたらうか。特に考へなかつた可能性もある。つまり、それこそ「周辺諸国」と同じであつて、深い意味はないのかも。しかしながら、これを「当然のこと」として掲げたりしたら、実際の国々からは単なる夜郎自大と映るのはやむを得ないであらう。それを「八紘一宇(日本書紀の文言なら八紘以宇)」=「世界中が一つの家族のやうになりませう」と言ひ換へても同じこと、相手の国情も民族性も日本との具体的な関はりも無視してこんなことを言ふのは、何か悪しき意図を隠してゐるのではないかと疑はれても仕方がない。

日本人はずいぶんデリケートな国民であるのに、かういふところへは神経があまり行き届かないやうなのは、残念である。だから、現在の中韓の日本叩きは、自国の都合によるところが大半ではあらうが、かつての日本の態度がその種を蒔いた面も決して否定できない。

以上は本書の内容から離れてゐる。ここで一番の問題は「宝祚無窮」と「蒼生安寧」の密接なつながり、即ち、一心に民の幸せを念じる天皇が、当然民に慕はれ、万世一系の皇統が続いてきた、とするところである。

このやうなあり方は、本当に日本古来のものと言へるであろうか、と問ふことはここでは棚上げにする。第2節で挙げた、叔父と甥の議論以上のことを私が言へるわけではないから。

ただ、長谷川氏が、旧約聖書の「イサク奉献」を引いて、西洋の不滅の神(不滅であるおかげで、全知全能だが死ぬことだけはできない)と、民のために死ぬこともできる現御神(個体としての天皇は死んでも、次の世代に皇統が引き継がれるので、全体としては不滅である)といふ対比を示したのは、一読したときには行文の美しさに惹かれて納得してしまひさうになつたが、落ち着いてみるとやや強引な感じが持たれるのは否めない。

「日本の伝統的な「愛民」は、天皇自身の自己犠牲の決意にささへられてゐる」ことの例証として長谷川氏が挙げたのは次の三例である。民の窮乏を見て課税を一時停止し、宮殿がどれほど傷まうと修繕せず、自分もまた弊衣粗食に耐へた仁徳天皇。元寇の際に「わが身をもつて国難に代へむ」と祈願なされたといふ亀山天皇。大雨で死者がでたとき、雨が止むようにと「民に代つて我が命を弃(す)つる」の祈願をした花園天皇。

すべて自己犠牲的な精神と呼んでよいが、イエスの刑死や、お釈迦様の「捨身飼虎」に比肩し得るやうな苛烈な自己犠牲ではない。現にこの御三方とも、これによつて崩御なさつたわけではない。日本の神は、自分の身を犠牲にして他者の幸福を願ふ者に対して、その祈りを聞き届ける時もあればさうでない時もあるが、めつたに命まで奪はうとはなさらない、優しいと言ふか、曖昧と言へばさう言へるやうなご性格であるやうだ。

一方、山背大兄王が「われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定(さだめ)し。しかあれど一つの身のゆゑによりて、百姓を傷(やぶ)りそこなはんことを欲(ほ)りせじ。このゆゑにわが一つの身をば入鹿に賜はん」(「日本書紀」)と言つて、蘇我入鹿との戦ひを避け、法隆寺で一族とともに自害したといふ逸話には、たぶん仏教をベースにした、自己犠牲そのものが現れてゐる。

しかし、どうだらう。山背大兄王が本当に聖徳太子の子であるかどうかはさておき、「王」なのだから天皇になる資格は認められてゐたのだろう。また、だからこそ入鹿に襲はれたのだらう。結果、即位しなかつた。だからこのやうな鮮烈な、紛れもない英雄的な死も似つかわしいのであつて、天皇その人の場合はどうか、と感じるのは、私が軟弱だからだらうか。

因みに、歴代天皇の中で自死したことが知られてゐるのは御二方、弘文天皇(大友皇子)と安徳天皇だ。前者は明治になつてから諡(おくりな)された方だし、後者は御年八歳で、母方の祖母である二位の尼(平清盛の正室)に導かれて、いはば無理心中に近い形で入水なされた。御二方とも、別々の意味で、天皇としては例外的な存在なのである。また、その死には、普通の意味で自己犠牲的な要素は乏しい。さうではなくて、山背大兄王のやうな壮烈な死に見舞はれる場合が多かつたとしたら、天皇家は百二十五代も続かなかつた、やうな気がしませんか?

私は一個の日本人として次のやうに感じてゐる。天皇陛下には犠牲にまでなつていただかなくてもよい。国民の安寧を一心に祈つてゐるらしき存在がゐてくれるのは、その祈りの現実的な効果はあつてもなくても、心の救ひになる。その意味でなら、「宝祚無窮」と「蒼生安寧」は密接不可分のものだと言はれることに同意する。平時なら、これで特に問題はないだらう。

平時ならば、だ。そこで第二の、わが国未曾有の国難時に際会された昭和天皇の場合に移る。

以下の事実はいろいろな本に載つてゐて、よく知られてゐるだらうから、『神やぶれたまはず』の記述(P.263~266)から概要を記すに止める。日本政府にポツダム宣言が伝へられたのは七月二十六日。ソ連は八月八日に日ソ中立条約を一方的に破棄して、八月九日侵略開始。これによつてソ連を仲介にして和平を結ぶ案は完全に潰えた。この午後、ポツダム宣言受諾の可否を巡つて閣僚会議が開かれるが、賛否二つに分かれて決着がつかなかつた。そこで深夜に御前会議が開かれ、ご聖断が仰がれた。この時天皇は「自分の意見は東郷外務大臣の申したことに賛成である」と、受諾の意思を示された。それで受諾と決まつたのだが、この時は「右宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解」を条件とするものだつた。八月十三日、この申し入れに対する回答(いはゆるバーンズ回答)がもたらされたが、これでも天皇及び天皇制がどうなるかについては曖昧なままであつた。そこで八月十四日朝、再度の御前会議での、再度のご聖断となる。

天皇は、玉砕をもって君国に殉じようとする国民の心持はよくわかるが、「自分は如何にならうとも万民の生命を助けたい」、戦争をやめる他に、日本を維持する道はない、と懇々と諭し、戦争での死傷者・遺族、さらに国民全般に「御仁愛」の言葉を発した。さらに、国民に呼びかけることが必要なら私は何時でも「マイク」の前に立つ、とも述べた。(伊藤之雄『昭和天皇伝』P.388)

これはこれで英雄的な御姿と呼ばれてよいものであらう。この後昭和天皇は処罰もされず退位もなされなかつたが、それはアメリカ占領軍の都合によるものであつて、陛下御自身の自己犠牲的精神を疑ふべき理由はどこにもない。

我々はこれを忘れたからこそ、堕落の道を歩まなければならなかつたのだらうか。さうかも知れない。堕落とは具体的には、長谷川氏によると「いまも日本は安全保障を米国に頼らざるをえないでゐるのだし、「日本国憲法」などといふものが半世紀以上も存在しつづけてゐるのだし、北方四島もロシアにとられたまゝである」(P.42)やうな状態、さらには我々がそのことを普段一向に気にとめないで過ごしてゐる状態を指す、としてよいであらう。

私もまた、一日も早く、憲法を改めるべきだし、独立国なのに他国の軍隊が常時駐留してゐる異様な状況は解消されるべきだと思ふ。そのためにはまづ、八月十五日の、「宝祚無窮」と「蒼生安寧」が見事に合体して、我が国体の尊厳が輝いた瞬間を思ひ出すべきであらうか。確かに、それこそ正道なのであらう。

しかし、昭和天皇は戦後まで長く皇位にお留まり続けられた。その中で、戦後政治史の過程にもいくらか関はつてをられる。八月十五日を思ひ出して、こちらを忘れる、といふわけにもいかない。

まづ、「日本は安全保障を米国に頼らざるをえない」ことを、占領中の段階では、昭和天皇が積極的に望まれた事実がある。

以下は豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』に依つて述べる。戦後独立前には実質的な日本の支配者であつた連合軍最高司令官と天皇とが、何度も会見を重ねたことは周知のことである。その中で、昭和二十二年五月六日に行われたダグラス・マッカーサーとの第四回会談は、三日前に施行されたばかりの新憲法の、九条問題に終始した。この時マッカーサーが、「日本が完全に軍備を持たないこと自身が日本の為には最大の安全保障」であるとしたのに対し、天皇は、日本が軍備を放棄する以上、「日本の安全保障を図る為にはアングロサクソンの代表者である米国がそのイニシアティブをとることを要するのでありまして、その為元帥の御支援を期待しております」と答へてゐる。

軍人であるマッカーサーより天皇のはうが、安全保障の問題について「現実的」だつたことには苦笑させられるかも知れないが、この時マッカーサーは外国からの日本侵略のことのみ考へ、その可能性はごく少いとしたのに対して、天皇は国内の革命勢力こそ最も危険、と考へたところで食ひ違ひが出たやうである。後のいはゆる「沖縄メッセージ」で言ふ「占領終結後、ロシアによる日本への内部介入の口実として使えるやうな「事変」を惹き起こす可能性がある極右及び極左グループの勢力拡大」こそ押へなければならぬ、特に「極左」の、共産主義者の場合、どうしても天皇制を廃止するだらうから。天皇が皇統の存続を最優先と考へること自体は、ごく自然なことである。

ところでこの「沖縄メッセージ」、詳しくは「沖縄の将来に関する天皇の考へを伝へるため」のメッセージは、この昭和二十二年九月二十、御用掛寺崎英成を通じ、マッカーサーの政治顧問にして総司令部外交局長W.J.シーボルトに伝へられた。これをシーボルトが文書化したものが昭和五十四年に進藤栄一によつて発見され、現在「沖縄公文書館」のホームページに写真版で公開されてゐる。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21.html

この中では、「天皇は合衆国が沖縄及び他の琉球諸島の占領を継続することを希望する」とされ、そのやり方についても「合衆国の沖縄(及び要求される他の島々)への軍事的占領は、日本に主権を置いたままで、長期間の―25年から50年、あるいはそれ以上―貸借といふ擬制(フィクション)の上に基礎を置くべきであらう」と記されてゐて、その後の沖縄はほぼその通りの状態になつたことを考へれば、天皇は戦後も、否むしろ戦前にも増して、内閣をも飛び越えて実質的な「外交」をしてゐたのではないか、と勘繰りたくもなるだらう。豊下氏などはその説である。

実際はそんなことはなかつたらうと思ふ。昭和天皇とジョン・フォスター・ダレスらに代表される当時のアメリカ政府が、反共の一点で一致したから、結果として天皇の望むと ほりに政局が動いたやうに見えるだけではないか。

だから、この点天皇の政治責任などはないのだが、長谷川氏が桶谷氏から受け継いだ「精神史」から見るとどうだらうか。「大君の辺にこそ死」すべき「醜の御楯」が失はれた状態で、アメリカ軍に肩代わりをしてもらつて、「宝祚無窮」を保たうとするとしたら、「国体尊厳」はどうなるのか。この時期には他にどうしようもなかつたことは、それこそ政治的には納得できるとしても。

「蒼生安寧」については、天皇が沖縄を積極的にアメリカに差し出したやうに見えるところが、単に「見える」だけであるのはわかつてゐても、喉に小骨がひつかかつたやうな感じを残す。「日本に主権を置いたまま」の一語で、将来沖縄が日本に復帰する布石を打つたのだとする説もある(ロバート・D・エルドリッジ『沖縄問題の起源』)が、今の私は説得されてゐない。

次に日本国憲法。ごく大雑把に言へば、日本政府内部で憲法改正に従事した人々は、天皇制存続のためにはこれしかないと言はれ、GHQ案を受け入れざるを得ない、と考へてゐた(佐藤達夫『日本国憲法成立史』など)。言はば、天皇制と引き替へに今の憲法がある。やはり、いくさに負けた以上、なんとしても陛下をお守りせねばならぬといふ民の決意と、自分の身を捨てても民を救はねばならぬといふ大御心はあつても、それだけで、なんの代価も払はずにすむ、といふわけにはいかなかつたのである。

さらにまた、憲法についても昭和天皇のお言葉がある。六法全書で憲法の頁を引けば、最初に出てくるものであるが、ここにも引用しよう。

(1)日本国に憲法公布記念式典において賜つた勅語 昭和二十一年十一月三日詔勅

本日、日本国憲法を公布せしめた。

この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであつて、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によつて確定されたのである。

即ち、日本国民は、みづから進んで戦争を放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたのである。

朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。


(2)日本国憲法公布文

朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。

これらに対しては、僅かながら、保守派と呼ばれる人々の間に論争がある。承詔必謹の精神からすれば、詔(みことのり)が現にある以上、これによつて現憲法は正式なものと認めざるを得ない、とか、占領中、即ち日本が独立してゐない時期に出された法令も詔勅もすべて無効だ、とか、そもそもこれらの文は一種の「飾り」であつて、実質的な意味など考へるには及ばない、などなど。

法律論的には、たとへ最初の承詔必謹説を採つたところで、その憲法自体の中に改正条項があるのだから(九十六条)、変へてはいけない、とまではされてゐない、といふことで、特に今後に問題を残すものではない。

一方、無効説を採つた場合、たとへこれまた法律論的にはそれが成り立つとしても、精神史的に、天皇が、こと「平和主義」に関してはかなり同意なさつてをられたのではないか、と考へられることまで無効として、無視してよいものか、疑問が残る。ためしに、『神やぶれたまはず』にも取り上げられてゐる、俗に「人間宣言」と呼ばれる、昭和二十一年一月一日の詔書(占領中の法令も詔勅も無効、といふなら、これも無効になつてしまふんですがね)の次の御言葉を見ていただきたい。

「我國民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、旦徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、獨リ我國ノミナラズ全人類ノ爲ニ輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ」。「平和を求める決意」が、「全人類のために」なるといふところ、憲法公布時の勅語とも、日本国憲法の前文とも、主旨が通じてゐると見られるのではないだらうか。

私として最も気にかかるのは、「人類普遍の原理」就中「平和主義」を、「自由に表明された国民の総意」で「みづから進んで」、日本国民が選んだのだといふ、この戦後神話を最初に言つたのは昭和天皇だつた事実である。我々が民族に関する物語を、本当に「自ら」築いていくうへで、これをどう考へたらいいか、一つの課題にはすべきであらう。

以上の私の勝手きはまる「書評」を、前もつて長谷川三千子先生に御目にかけましたところ、先生から懇切な御返事をいただきました。これは『神やぶれたまはず』に関する貴重な解題ともなるものですので、私一個のものにしておくのは非常にもつたいないと考へ、長谷川先生の許可を得て以下に掲げます。

***

たいへん詳しい、丁寧な書評を有難うございました。
ご指摘の「すっきりさせ過ぎ」という評は、まさにその通りと言うべきで、実はこれを一冊の本に仕上げるのに十年以上かかってしまったというのも、結局のところ、様々の本を読み、かき集めたものを、どう削ってゆくかーその削る作業、すっきりさせる作業にかかった時間なのです。

もともとが、非常に屈折した精神の軌跡を追ってゆく仕事ですから、裏を探るとさらにその裏が出てくる。「かと思うとそれだけではなくて」の繰り返しという道のりで、それをそのまま辿ったのでは収拾のつかないことになる。そこで、ある時思いきって一点に中心を絞り、それ以外を、切り捨てるのではないけれども、裏側に置く、という書き方に切り替えました。

したがって、由紀さんがご指摘の部分は、そのほとんどが、本来、注で詳述すべきところだったと言えます。

現に、最初は削った原稿を全部注に放り込んで、すごい分量に膨れ上がったのですが、これもある時点でばっさりと思い切りました。

まあ、言ってみれば、この本は削りに削って出来上がった本だと言えます。ある人が、アマゾンのレビューに、この本は学術研究書とは言えない、と「批判」していましたが、「これって、学術研究書として書いてませんから(笑)、」というほかはありません。ただひとつ、これは語るべきことを、これだ!という形にまで持って行けたかどうかーそれだけを考えていました。
作品を仕上げるとは、そういうことだと思います。

由紀さんの丁寧なご書評のおかげで、忘れていた執筆時のことを生々しく思い出しました。
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