美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

吉原の秘密(その3)おまけ:文学の神の宿るところ

2014年10月17日 05時28分32秒 | 歴史


吉原の秘密(その3)おまけ:文学の神の宿るところ

「その2」の終わりのところで、私は「どの時代においても人間社会は常に不完全なものを抱えている。それを引き受けながら、人間はなおも良きもの・あり得べきものを求めて、ときにそれを実現してしまう存在である」というものの見方がとても重要である、という意味のことを申し上げました。今回は、その意とするところを述べてみたいと思います。

吉村平吉氏が『吉原酔狂ぐらし』(三一書房)を書いたのは、一九九〇年、六九歳のときです。そのころ氏は、吉原ソープランド街のちょうど真ん中あたりに住んでいました。氏は、五〇年代末から上野、浅草、新橋の売春地帯で生活し風俗ライターとして活躍したそうですから、そのときまでに四〇年以上そういう暮らしぶりをし続けていたことになります。亡くなったのが、その一五年後の二〇〇五年三月。死後五日ほど経って知人に発見されたそうです。場所は、吉原の近くの竜泉。色事に寄り添う人生を貫き通した末のあっぱれな死に様です。同書には、蒙を啓かれ、吉原について認識をあらたにするところが少なからずありました。それらのなかでとりわけ印象深く残っているエピソードをひとつふたつ引きましょう。

ひとつめ。それは、昭和二六年の大晦日に筆者が馴染みの妓楼(ぎろう)に泊まって、そこで元旦を迎えたときのことです。敵娼(あいかた)はそれほど深く馴染んだ妓ではなかったのですが、筆者によれば「本部屋に泊めてもらえた」そうです。色街通いの熟達者がそう言うのですから、それはけっこう珍しいことなのでしょう。文脈からすれば、本部屋とは、深い馴染みだけを通す娼婦の個室のようです。

戦前においては、中見世や小見世クラスの、客と花魁とが性行為をする部屋を本部屋と呼んでいたようです。大見世クラスでは、花魁の部屋は本部屋と寝室に分かれていて、深い馴染みの客だけが本部屋に通されたそうです(以上『吉原はこんな所でございました』(福田利子)より)。吉村氏は、どうやらこちらのニュアンスで「本部屋」と言っているようですね。それにしては、吉村氏は「当時わたしは、ナカ(吉原)の中級以下の店へ軒並み片っぱしから登楼していた」と言っているのですから、そのあたり、どうなっているのでしょうね。

閑話休題。まずは、部屋のなかの様子の描写から引いてみましょう。

お定まりのベビー箪笥に茶箪笥、ただ鏡台だけは姫鏡台なんてチャチなものでなく、ちょっと立派な三面鏡が置いてあったのを覚えている。その三面鏡の台の上に、小さなお供餅が飾ってあった。ちゃんとユズリ葉まで添えてあった。

大晦日で忙しかったのでしょう。部屋の主が戻ってきたのは、年が改まっての午前二、三時。昔風に言えば、大引けの時間帯です。

お盆にお銚子を一本とおせち料理を盛った小皿と蜜柑を二コ載せたのを持っていた。それらを、布団の脇に寄せてあるテーブルの上に並べながら、「・・・・・ご免なさーい。おトウさん(経営者のオヤジ)がマメな人なんで、お正月の支度はもう全部済んでいるんだけど、やっぱりなにかとガタガタしてたもんでね。さァ、これからゆっくり二人のお年越しをしましょうよ」

女性は、三十七、八歳の大柄な年増です。吉村氏にお酌をしながら、田舎の母親に小学生の男の子を預けていること、洋裁の技術で稼ごうと上京してきたのだが思うようにいかずこの世界に入ったこと、吉原の正月は二度目であること、田舎にはときどき帰るけれどお正月とか旧正月とかはイヤだから帰らないことなどを、明るく微笑しながら語ります。

「・・・・・さァ、そろそろ寝ましょうか。あら、まだ一度も床ツケ(SEX行為)してなかったわね。ご免なさーい」

床のなかでの彼女の声が、娼婦らしくない鼻にかかったものになっているが、それは、ザワザワ、フワフワとした越年の環境のなかでの昂ぶりによるものであると筆者は言います。次は、この逸話のなかで私が一番好きな場面です。

 翌朝―――つまり、元日の朝。
「・・・・・いいお天気よ。いいお正月だわ。起きませんか」
 まだ寝たりないわたしが、ぼんやりと薄目を開けてみると、その目の上に精一杯の晴れ着姿の彼女が立っていた。大柄なだけに、訪問着のような派手な晴れ着姿が一段と映えて見えた。
「・・・・・いやァー、立派、立派。いつのまに起きたの?」
「とっくに、お内証(帳場)でおトウさんやおカアさん、お店の女たち全員そろって、お雑煮を祝ってきたのよ。お客さんにも、お内証のサービスで皆さんにお雑煮を差し上げるんですって。だから、早く起きてよ」
 彼女、晴れ着の裾をさばいて、階下から雑煮の椀を運んできてくれた。


できることなら田舎で家族とともに正月を迎えたい本心を、持ち前の明るい心の隅で静かになだめすかして、気に入ったお客と正月を快く迎えようとする女性の気立ての良さが印象的です。「精一杯の晴れ着姿の彼女」の一語で、その心映えが集約的に表現されています。過剰な表現がないぶん、かえって、彼女の気立ての良さと筆者のさりげない優しさとが読み手の心に静かにしみとおってきます。

せっかくの吉原ネタですから、もっと色っぽい話を引きましょう。

昭和二〇年代前半、吉原周辺にはふつうの家よりもモグリ売春宿の民家のほうが多いという一画が各所にあったそうです。吉原大門(おおもん)近くの居酒屋で、当時吉村氏がよく通った「石川バー」や「赤垣」の裏の花園通りへかけての一帯もそんな場所でした。その附近に、当時の一般住宅としては群を抜いて豪勢な二階家があって、そこにとびきりの売れっ子娼婦のヨネ子がいました。彼女はその家のなかの部屋を借りて自主営業しているモグリの娼婦です。あるとき、当時輪タク屋稼業をしていた吉村氏は仕事仲間に連れられて、はじめて彼女の部屋に行きました。立派な茶箪笥などの家具や調度品や燃えるようなピンクの絹地のふっくら大判の夜具を目の当たりにして、当時まだ遊び慣れていなかった筆者の胸はどうしようもなく高鳴り、昂奮してしまいました。

筆者は、それまでにも何度か「赤垣」などでヨネ子の顔を見ていました。三十がらみの中年増。美人というのではありませんが、筆者好みの細面の仇っぽい感じで、服装はいつも小ざっぱりしていました。「顔見知りのヒトのとこにくるのはテレ臭いな」などと照れ隠しにもならない照れ隠しを言ってみると、ヨネ子は「いいじゃないの。仲よくなったって」と皮肉っぽく笑ってみせます。氏によれば、そこにベテラン娼婦としてのいやらしさなどみじんも感じられませんでした。要するに吉村氏は、事を為す以前にじゅうぶんにのぼせあがり「惚れ」モードに入ってしまっているのです。「それ以上に、わたしが参ってしまったのは『いざ・・・!』ということになり、目の前にチラチラしていた鮮やかなピンクのふかふか布団に、彼女とベット・インしてからだった」の箇所の続きを引きましょう。けっこう長くなってしまうことをお許しください。

 わたしもまだ若かったが、セックスのしっとりとした情感と微妙な甘美さを堪能させられたのは、このヨネ子との夜が最初ではなかったか・・・と思うのだ。
 それだけ、彼女のカラダは素晴らしかった。体も秘所が吸いつくようにまとわりつき、わたしの体とソレに一分の隙もないくらいに密着し、それがお互いに挑発し合った。
 わたしは、すっかりのぼせ上がってしまった。カラダに惚れる・・・・・ということも、わたしははじめて知った。
 ただ、これは本筋に関係ないかもしれないが、実は彼女の秘所がほとんど無毛にちかく、よくいうパイパンなる珍しい状態であることも、このときはじめて知った。
 それ以来、わたしはヨネ子に文字どおり夢中になり、二度、三度と馴染みを重ね、肌を合わせるうちに、結婚してもいい、結婚したい・・・・・というまでに熱中した。
 (中略)
 だが、しょせんはわたしの片想いだったようで、やがて終局がやってきた。
 ある晩、ヨネ子がわざわざ「赤垣」にやってきて、一緒に飲みながら、
「・・・・・あたし、こんど結婚することになったの。今月一杯で、あそこも引き払ってしまうつもり。せっかく仲よくしてもらって、ほんとに残念だけれど・・・・・」
 と、藪から棒にいうのだった。
 突然なことで、わたしは、ショック、絶望した。
 今夜は空いているから、よかったらいらっしゃいよ・・・・・という彼女の言葉に従って、その晩は複雑な気持ちで通いなれた六畳間の人となった。
 翌朝・・・・・、
「・・・・・わるいけど、もう来ないでね」
 と、ヨネ子にいわれて送り出され、わたしはしおしおと表へ。
 わたしは、彼女の部屋のあたりをふり返ってしみじみ見上げた。


これを読めば、読み手の多くは、ヨネ子はほんとうに良い女だったのだな、とすなおに分かりますね。彼女は、ちゃんとご執心の吉村氏の気持ちを汲んで自分の立場で出来るだけの誠意を尽くしたのです。それがよく分かるからこそ、吉村氏は取り乱したりしなかったのでしょう。こうした一切について、わからんちんにどういえばいいのかなんて、私には分かりません。端的に正式な夫婦の間においても不誠実な振る舞いばかりだったりすることもあるし、また、通りすがりの男女が情を交わし合った場合でもお互い誠を尽くす場合があったしりますよ、それが人間という奇妙な生き物なのですよと言えばお分かりいただけるのかしら。そう言ったからといって、別に、ごく普通のご夫婦を愚弄するつもりはありませんよ。

もうひとつ。今度は、なんどか触れた『吉原はこんな所でございました』(福田利子)から。いま話題の慰安婦に触れた箇所があるので、引いてみます。戦線が拡大するにつれて、兵隊の数のみならず、慰安婦の数も不足してきて、飲食店に勤めていた女性、私娼だった女性、日本の支配地域の女性や韓国人女性へと対象が広がり、それでも不足して、吉原にも割り当てがくることになりました。昭和十六年のころのことだそうです。これもちょっと長くなります。

 花魁の中には、従軍慰安婦になると、年季がご破算になるので、それで応募した人もいれば、兵隊さんと行動をともにしたくて、前戦行きを希望した人もいました。あのときは必ずしも強制ではなく、自分から希望して、兵隊さんについて行きたいといった花魁が多かったんですよ。(中略)新島にも日本の軍隊が駐屯していて、そこにも慰安所がありました。吉原の花魁の何人かが新島にまわされましたので、貸座敷のご主人たちが船の出るところまで送って行き、戦争に敗けて戻るときには、三業組合の事務長(吉原のお偉いさんです――引用者注)をしていた山田勝雄さんが新島まで迎えに行ったということでした。(中略)花魁たちをみながら、「新島が戦場にならなくてよかった」と、山田さんは胸が熱くなるほど、痛切に思ったそうです。
 慰安婦を希望した花魁たちはみな、「兵隊さんと一緒に死ぬ」ということを本気で思っていたのだそうです。戦争の実情を知らなかったこともあったでしょうが、前線に行くからは、みんな、帰ってくるなんて思わなかったのですね。


前線で亡くなった慰安婦は相当な数にのぼるものと思われますが、「一般の戦死者には軍人遺族年金が支給されているのに、従軍慰安婦には名簿もないのだそうです」と福田女史は、控えめながらも強い異議申し立てをしています。もっともなことです。

花魁たちは花魁たちなりに大東亜戦争を命がけで闘っていたことが、福田女史のお話しから分かります。女史の言葉がなければ、私たちは彼女たちの「戦死」に哀悼の意を表することも、彼女たちをわが子のように慈しんだ吉原びとがいた事実を知ることも、かなわかなった。そうですね。

とりとめもなく、いろいろとエピソードを並べました。私が申し上げたいのは、これらのエピソードに登場した、心根の良い年増の娼婦や感謝の念を込めながらお客にそっと別れを告げる私娼や兵隊さんたちにつかの間の慰安を与えるために死を覚悟して戦地に赴く花魁たちの日陰に咲いたちいさな華のような心持ちのすぐそばこそが、文学の神が宿るところである、ということです。端的にいうならば、無縁仏のすぐそばにこそ文学の神は宿っている、ということです。

娼婦は、もともと中途半端で不完全な周りの人間たちから、「売女(ばいた)」と見下される、彼らからすれば不完全さの極みのような存在でしょう。そんな彼女たちが、無意識の祈りのような形で、瞬時、人間の心の掛け値なしの美しさを示すときがあります。そのすぐそばに、文学の神が宿っていたとしてなんの不思議がありましょうか。彼女たちは、そういう在り方をすることによって、人間は捨てたもんじゃないことをおのずと指し示しているのではないでしょうか。

そういう意外なところに文学の神が宿っていることに、『永遠の0』をたいした根拠もないままに侮蔑して川端文学の権威に逃げ込もうとする自称高踏派の大学教授や、安倍総理のおかげでいささかなりともスポットライトを浴びたくせに、二言目にはやれ「オレは文学者だ」とか、やれ「小林秀雄だ、三島由紀夫だ」などと大げさに触れ回り、変に肩肘張った文章ばかり書き散らしている文学スノッブは、決して気づきません(彼らから喧嘩を売られたわけではないので、実名を出すのは控えておきます)。

繰り返します。文学なしに生きられるほどに幸せならば、あるいはそれほど幸せではなくとも文学を必要とせずにちゃんと生きられるのならば、それにこしたことはないのです。だから私は、文学を必要とせずにきちんと生きている人を、文学を必要とする人よりもいささかなりとも低く観ることは決してありません。不幸の意識を特権化するのは馬鹿げていると思うからです。そういう契機が少しでもある精神の構えに接すると、私にはスノッブとしか映らないのです。

私は、彼らのような文学スノッブを批判するためにあえて奇を衒った文学観をみなさまに披露しているのではありません。私がいま述べたような、あたりまえの文学観が語られることがあまりない現状を心淋しく感じているのです。

このままで終わると、言い逃げしているようでいささか落ち着きませんから、もう少しだけ続けましょう。

私がいま申し上げたことを、文章をどう書くべきか、という角度から論じ直してみましょう。谷崎潤一郎は『文章読本』(中公文庫)のなかで、おおむねつぎのようなことを述べています。すなわち″今日のいわゆる口語文は実際の口語の通りには書かれていない。その違いは、文章語の方は西洋語の翻訳文に似たもの、日本語と西洋語の混血児(あいのこ)のようなものになっており、実際の口語の方は、これまただんだん西洋臭くはなりつつあるが、まだ本来の日本語の特色を多分に帯びている、という点にある。だから自分は、文法に囚われて書くことを戒め、口でしゃべる通りに書く会話体の試みを是とする。口語文にはもはやなくて、実際の口語にかろうじて痕跡をとどめている優雅の精神やおおまかな味わいや床しみのある言い方を、少しでも口語文のなかへ取り入れるようにして、文章の品位を高めることが大切である″と。

その文脈で、谷崎は次のような、「てにをは」を省いた二つの書生言葉を取り上げます。

○僕そんなこと知らない。
○君あの本読んだことある?

これについて谷崎は、″真に嗜(たしな)みのある東京人は、日常の会話でも、割合正確に、明瞭に物を言う。東京人は江戸っ児の昔から、テニヲハを略すことはあまりしない。下町の町人や職人などがぞんざいな物言いをするときでさえ、「おらあ」(己は)とか、「わッしゃあ」(わッしは)とか「なにょー」(何を)とかいうふうにちゃんと口のなかでテニヲハを言っている″と言います。

そこで、先の二つの書生言葉を江戸の職人言葉に直すと、

○己あそんなこたあ知らねえ。
○おめぇはあの本を読んだことがあるけえ。

となる、と谷崎は言います。どちらが日本語としてまともかはいうまでもありませんね。

谷崎がここで言おうとしていることには、とても大きなものが含まれています。テニヲハをやたらと省いていきがっている田舎臭い書生とは、欧米の借り物の思想や翻訳口調を高級なものと信じて疑わない近代日本の知識人の戯画にほかなりません。そうして実は、彼らが見下している市井のひとびとが交わす言葉にこそ豊かでまともな日本語がかろうじて生きているのだ、と言っているのです。そうして、知識人が自分たちの知的優越性を示すものとして有り難がっている「西洋語の翻訳文に似たもの、日本語と西洋語の混血児のようなもの」は、実は性急な近代化の産んだ不幸な文章なのであって、それは是非とも是正されなければならない、そのためには、「俗情との結託」を禁欲的に忌避するどころか、俗情に真摯に耳を傾け、そこから採るべきは採り、文章を豊かにすることが必要なのだ、と言っているのです。さらに突き詰めて言えば、谷崎文学や川端文学の中に、私たちにとっての豊かな文学や可能性があるわけではないのです。文学スノッブが嫌ってやまない目の前の現実の世間にそれは埋もれているのです。そういう決然とした思い決め抜きに、私たちが豊かな文章をものにすることはかなわない。谷崎がそう言っているように、私の耳には響きます。逆説を弄するようでいささか心苦しいのですが、そういう形でしか、私たちは伝統なるものに立ち返ることがかなわないのではなかろうか、とも思っています。

谷崎の提言と、私が先に述べた吉原文学観あるいは無縁仏文学観とが、根底のところでつながっていることは、明らかなのではなかろうかと思われます。生業をいそいそと営み、本当といささかの嘘とを取り混ぜた掛け値なしの会話を交わす名も無き市井びとは、いずれはみな無縁仏になるのですから。むろん、私もそうです。谷崎が『文章読本』を書いたのは、昭和九年ですから、いまから八〇年前のことです。彼の提言は、古びるどころか、文章語の情報化・無国籍化がはなはだしい今日、ますます重要性を帯びているのではないでしょうか。

予定よりも、随分長くなってしまいました。これで終わります。
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