美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

幸田文『流れる』(一九五六年)について  (イザ!ブログ 2013・10・1 掲載)

2013年12月22日 06時38分35秒 | 文学
幸田文『流れる』(一九五六年)について



私は、当作品を読むずっと前に、成瀬巳喜男監督の『流れる』を観ています。もちろん、幸田文の当作品を映画化したものです。私は、小説は小説、映画は映画と分けるようにしているので、その優劣にはあまり頭が行きません。しかしながら、映画のほうを何度も観ているので、当作品を読み進みながら、そのなかの登場人物を演じた俳優の面影が浮かんでしょうがない、という経験を何度もしました。

特に、五〇歳を過ぎた落ち目の老芸者である染香を演じた杉村春子の面影が何度も浮かんできました。そういう意味での杉村春子の演技の呪縛力には凄まじいものがあって、成瀬の『流れる』を観た者は、小説の中の染香の言動に接するたびに否応なく杉村春子の演技が浮かんでくるようになっているのではないかと思われます。いま私は、それがあたかも普遍的な法則であるかのようなもの言いをしてしまいましたが、そう言いたくなるほどに、杉村春子は、小説のなかの染香を完璧に演じているのです。杉村春子がいかに優れた女優であるのかを今回あらためて思い知ることになりました。DVDになっていますから、それを確認するためだけにでも、ぜひみなさんにもこの映画を見て欲しいと思います。「観て損をした」とはおそらく思われないのではないでしょうか。きっと日本映画の豊かさを満喫なさることでしょう。

面影が浮かんでくると言えば、小説中でも染香とコンビを組んでいるなな子を演じた若き日の岡田茉莉子もそうです。なな子は、二〇代前半の売れっ子芸者でありながら、そのことに浮かれ切っているわけではなくて、自分が身を置く芸者屋にごまかされないように現金出納帳にちゃっかりとまめに記帳するほどの現代感覚の持ち主です。いわばクール・ビューティの走りのような存在なのですが、岡田茉莉子は、どこか杉村春子の名演技に釣られるようにして、それをなかば以上無意識の勢いで好演しています(その好演を引き出した功績の半ば以上は杉村春子に帰せられるものと思われます)。その匂い立つようなシュミーズ姿と、杉村演じる染香と酔っ払って「それジャジャンカジャン、それジャジャンカジャン」と浮かれ騒ぐシーンは、おそらく日本映画史に残る名場面なのではないかと思われます。もったいぶってシュミーズ姿になるのではなくて、すんなりとなるところになな子のクールな持ち味がよく表現されており、そのことでかえって強烈な印象を残すのです。後の岡田茉莉子は、そのときの杉村と組んでのお芝居がとても楽しいものであったことを懐かしそうに回想しています。

名演技といえば、この小説の中心人物である柳橋の置屋「蔦の屋」の女主人を演じた山田五十鈴を外すわけにはいかないでしょう。この女主人は、三〇代後半から四〇代はじめ(推定)の花街・柳橋の名花として描かれています。冒頭に近い場面で、当作品の主人公である梨花に「この土地じゃもう三十になると誰でもみんなばばあって云われるんでね」と言っていることから、自分は芸者としての盛りがすでに過ぎた存在であることを曇りなく自覚しています。しかしながら、ここ一発の勝負どころでのその色香には瞠目すべきものがあることは、例えば次の描写からうかがうことができます。これは、かつて「蔦の屋」に身を置いた田舎者のなみ江の父「鋸山」(のこぎりやま。もちろんニックネーム)が、娘は女主人から売春を強要されたと因縁をつけてお金をせしめようとしつこく何度も脅迫を繰り返しているのを女主人がなんとかしのごうとしている場面で、それを梨花の目を通して描写しています。

(鋸山は――引用者補)主人の花やかに修飾多く話す話しかたをどう捌いていいかわからないらしい。自分にまったく無縁な話しかたをされるので困っているのである。床の間のまえにすわって、いかにも鋸山(これは、なみ江親子の出身地・千葉県房総半島の鋸山のこと――引用者注)の石工(いしく)を剥きだしに、ころんとおっころがっているというかたちである。

一方主人のほうは、はっきりと座敷を勤めているというものだった。芸妓の座敷というものを梨花は見たことがないけれど、一見してこれがそうだとわかった。ふだん茶の間にいる主人とまるで違って、一トかさも二タかさも大きく拡がっていた。からだのまわりに虹がかかっているような感じである。思いあたるのは梨花がはじめてここへ目見えに来たときの、初対面の印象だった。牡丹だとか朴(ほお)だとかいう大きな花が花弁を閉じたりひらいたりするような表情だとおもって感歎して見たのだったが、いま花弁はまさにみごとにひらくだけひらいて香っているのである。上品であり艶であり、そして才気が部屋の空気を引き緊(し)めていた。自然に備わった美貌と長年の修練で身につけた伎(ぎ)としての技術が、惜しみなく拡げられていた。豪勢な料亭の座敷に客という対手(あいて)がいてはじめて座敷なのだと思いこんでいたのに、こんなちゃちな自分のうちの二階に客でもない鋸山に対(むか)っていても、こちらの腹一ツでいかようにも座敷たり得るのに、しろうと女中
(梨花のこと――引用者注)が感心したのである。

辛口の批評眼の持ち主である梨花から、ここまで褒めあげられる女主人を演じ切ることのできる女優は、当時では山田五十鈴よりほかにだれもいなかっただろうと思います。また、いまではもはや誰も演じることができないのではないかとも思われます。事実、山田五十鈴は、当作品でその芸歴において特筆されるべき名演技をしました。身につけている着物の柄は決して派手ではないし映画は白黒なのですが、その奥行のある演技によって、上品な色香が画面いっぱいに匂い立つのですね。観ているときはそれほどのことがないような気がするのですが、顧みると、そこに絶対感を帯びた姿が浮びあがってきます。山田五十鈴はやはり正真正銘の大女優なのです。

では、何度か名前が出てきた梨花を演じたのは誰なのかといえば、それは田中絹代です。原作では、梨花が主人公で、彼女は作中においてものごとの本質を直観的に掴み取る鋭敏な感性を伴ったカメラ・アイの役割を果たしています。映画の場合、姿が映ってしまいますから、純粋なカメラ・アイに徹することはできません。また原作では、その鋭敏な感性は、モノローグ的な地の文で十分に表現されていますが、映画では彼女のナレーションがあるわけでもないので、眼差しや仕草などの身体表現で示すほかはありません。つまり、映画の梨花はとても難しい役どころなのです。そうして、山田五十鈴や杉村春子や岡田茉莉子が圧倒的な存在を示す演技をしているところに、田中絹代までおっぱじめてしまったら、作風が不必要に暑苦しくアンバランスなものになってしまいます。やろうと思えば、田中絹代は共演者を食ってしまうことのできる底力を持った女優です。しかしこの映画で、彼女はその底力をぐいっと封印しました。当作品を上出来のものにするために、彼女はそうすることに決めたのではないかと思われます。そのことが、当作品に美しい均衡をもたらしています。

田中絹代と同じことを意識したのが、女主人の一九歳の一人娘の勝代を演じた高峰秀子です。原作では、勝代は母とは対照的に無器量で芸事の身につかない能なしとして描かれています。高峰秀子は、みなさんご存知の通り普通にしていれば美貌の持ち主なので、無器量な娘を演じるのはちょっと難しい。そこで高峰秀子は、自分の存在を薄消しすることで、その美貌を無化してしまいました。そうすることが、田中絹代のスタンスと同様に、当作品に美しい均衡をもたらすことを彼女はよく分かっていたのです。

映画への言及はこれくらいにしましょう。そろそろ小説の中身に入っていかないと、タイトルに偽りあり、というそしりを免れない雰囲気になってきたようなので。

さて、当作品の冒頭を少し掲げてみましょう。梨花が女中として雇ってもらおうと「蔦の屋」をはじめて訪う場面です。彼女は、神田川が隅田川と合流する手前の柳橋を渡って花街・柳橋の「蔦の屋」にたどり着いたはずです。「しろうと」として「くろうと」の世界に迷い込むときの戸惑いやためらいがよくあらわれています。

 このうちに相違ないが、どこからはいっていいか、勝手口がなかった。

 往来が狭いし、たえず人通りがあってそのたびに見とがめられているような急(せ)いた気がするし、しようがない、切餅のみかげ石二枚分うちへひっこんでいる玄関へ立った。すぐそこが部屋らしい。云いあいでもないらしいが、ざわざわきんきん、調子を張ったいろんな声が筒抜けてくる。待っていてもとめどがなかった。いきなりなかを見ない用心のために身を斜(はす)によけておいて、一尺ばかり格子を引いた。と、うちじゅうがぴたっとみごとに鎮まった。


これを書き写しながら、なにかとても懐かしい感触が身体の芯から湧き出てくるような感じに襲われました。それは、幸田文がこの文章を身体の芯から紡ぎ出していることのなによりの証しではないかと思います。それは、まあ私の単なる思い込みと一笑に付されても構わないのですが、そのことよりもここで考えてみたいのは、当作品の人称についてなのです

当作品をまだ通読したことのない方が、先に掲げた冒頭を虚心にお読みになり、そのうえで、「この作品が実は三人称小説なのだ」と聞かされたら、少なからず戸惑うのではないでしょうか。というのは、先の冒頭部分には主語が明示されていませんね。で、この調子が延々と続くのですから、普通は「私は」という主語をおのずと補って読み進めることになります。つまり、「この小説は一人称小説である」と判断するのが自然である、となります。

ところが、文庫本で最初から七ページ先にさしかかったところで、不意に次のような叙述が目に飛び込んできます。

手のひらの薄い美人は雪丸さんというのだそうだ。主人のかさにかかった云いかたにもおとなしい挨拶をして起(た)ちあがった。うろうろしている梨花に、「お折角お勤めなさい。あたしまた寄せていただきますが、そのときに又ね。」

最初から読み進めてきた読み手は、この箇所を目にすることではじめて、一人称小説だと思いこんでいた当作品が実は三人称小説なのだと知ります。しかし、それは「ああ、そうだったんだ」という程度のことです。そこで、ひとつ疑問が湧いてきます。この小説の「梨花」をすべて「私」と書きかえてなにか支障を来す点があるのだろうか、という疑問がです。つまり当作品は、「梨花」を「私」と書きかえることで、三人称小説から容易に一人称小説に変換しうるかどうかということです。

結論を言えば、形式的な意味でなら、答えはYESです。なぜなら、当作品の内容に、梨花の知りえないことは書かれていないからです。言いかえれば、当作品の叙述内容は、すべて梨花の知覚を通したものになっているからです。

「梨花」と「私」とが、形式的な意味でならスムーズな変換を許すということは、当作品が、「主語がない」という日本語の特色をよく生かした小説である、ということです。ちなみにこれが、英語の作品ならそうはいきません。先ほど取り上げた冒頭部分から、全面的に書きかえる必要が生じます。そうすると、作品の印象はガラッと変わってしまうことになるのです。英語が、日本語と比べた場合、「主語がなにか」をいかに強く意識した言語であるのかがこの一事からもお分かりいただけるものと思われます。

では当作品の「梨花」を「私」に変えてしまったとしても、本当に何の違いもないのでしょうか。人称の単なる形式的な違いとして処理すればいいのでしょうか。

それをきちんと考えるには、次のような考察が必要となるでしょう。一般に形式的なものの相違は、それだけにとどまらず内容的な相違をもたらします。ここで、「作品の構造」という言葉を使うならば、作品の形式的な相違は、「作品の構造」に根本的な変更をもたらす、ということです。『流れる』に即すならば、「梨花」を「私」に書きかえることは、当作品に構造的な変更をもたらすはずである、ということです。

これだけでははっきりしませんね。もっと言葉を尽くしましょう。

どのような文学作品においても、メタレベルでの「私」は常に同じです。それは、当作品を書いている作者です。すべての文学作品が、表現主体としての作者の産物である以上、それは自明です(連歌なんかはどうなんだという問いかけが聞こえてきそうですが、それは表現主体論の応用編ということで、話が妙に複雑になってここでの論旨とずれることになるのでとりあえずここでは措きます)。

三人称小説において、作者としての「私」は構造的に明示されます。それに対して、一人称小説においては、それは構造的に作中の「私」の陰に隠れることになります。

それゆえ、三人称小説において、作者としての「私」は、自分の作品のなかのすべての登場人物から一定の距離を置くことができます。つまり、作者は自分の作品からの自由を構造的に獲得することになるのです。『流れる』に即するならば、作家幸田文は、作中の「梨花」と一定の距離を間にはさんだ明示的な「私」としてゆるぎなく存在することが許されます。たとえ、幸田文がどれほど濃厚に自画像を「梨花」に投影しているとしても、この構造は微動だにしません。このことを読み手の側に立って述べるならば、読み手は、強烈な主観を伴ったカメラ・アイとしての作中の「梨花」に作家幸田文の自画像を読み込むのも自由ですし、読み込まないのも自由なのです。また、作中のどの人物に肩入れをするのかもまったく自由となります。作品の構造が、読み手の読みのそういう自由を許すのです。書き手の立場からすれば、「どうぞ、お好きなように読んでください」と胸を張って言えるのですね。そのことは、作品におおらかな虚構の可能性をもたらすことになります。いいかえれば、作品世界の3D化をうながします。事実『流れる』は、失われた「昨日の世界」としての花街・柳橋の超一級のルポルタージュとしても読むことが可能です。同じことですが、その作品世界には入口があり出口もあるのです。『流れる』は、「昨日の世界」として「生きた世界」なのです。そこでは相変わらず、染香は身過ぎ世過ぎにしのぎを削り続けていますし、女主人は憂いを帯びた表情で芸妓としての最後の華を咲かせ続けています。また、みんなからろくに面倒を見てもらえない哀れな瀕死の老犬は、「蔦の屋」の玄関に回虫まじりの糞を垂れながら梨花に面倒を見てもらおうとして必死に尻尾を振って媚を売ろうとしますし、飼い猫のポンコは相変わらずのおすまし顔で梨花の布団の半分を占領します。そんな生きた作品世界、自立した虚構の生活世界の描写の実現を支えている根本的構造こそは、この作品の三人称性なのです。

もしも、「梨花」を「私」に書きかえたならば、どうなるでしょうか。先ほど述べた通り、作中の「私」の陰に作者としての幸田文の「私」は隠れてしまいます。それは、良いとか悪いとかいったことではなくて、作品の構造の不可避性としてそういうことになってしまう。そうすると作者は、作品の外部から作品を構築する自由を失うことになります。作品の虚構性は、作中の「私」の語りの間隙を縫って構築されるよりほかはなくなるのですね。そのかわり、作中の「私」の語りは、読み手にとって作者のそれと等号で結ばれることになりますから(読み手のそういう決めつけを書き手は構造的に拒めなくなるということです)、強度の高められたリアリティを獲得することになります。「この話は本当のことであるにちがいない」という錯覚が、一人称小説の場合、不可避的に高まってしまうのです。その場合の虚構性の追求は、読み手のそういう錯覚の裏をかくことでなされるよりほかなくなるということです。

一人称小説の場合、作中の「私」の語りは、リアリティの強度の高まりを獲得するかわりに、読み手の「なぜそう語るのか」という厳しい追求から逃れ難くなります。なぜなら、その厳しい追求を無視してしまうと、せっかく獲得した「語り」のリアリティの強度の高まりがいちじるしく毀損されてしまうからです。「なるほどね、それでそういう『語り』をするわけね」という納得のしかたが深ければ深いほどに、一人称小説の「語り」のリアリティは高まり、ウソ話としての「語り」のなかの虚構性の説得力もそれに応じて強くなるので、読み手の「なぜそう語るのか」という問いかけにきちんと応えることは、一人称小説の生命線と形容しても過言ではないでしょう。たとえば太宰治の場合、その問いかけに応えるために死んで見せたとさえ言いうる側面があるほどです。

『流れる』に即するならば、「梨花」を「私」に変えた途端に、その厳しい問いかけにさらされて、ほのめかされる程度だった「梨花」の過去の生活をもっときちんと述べて、読み手の「なるほどどういうわけでこういう言い方や感じ方をするわけだな」という納得を得る必要が高まるものと思われます。もっと具体的に言えば、死んだ子どもは男の子だったのかそれとも女の子だったのか、何歳のときにどんな原因で死んだのかとか、これも亡くなったものと思われる夫は、どんな仕事をしてどんな家庭をふたりで築いていたのか、どんな死に方をしたのか、そのとき「私」はどう思ったのか、などという読み手の好奇心に一定程度きちんと応えるべき契機が高まるのではないかと思われます。そうしないと、読み手の無意識の欲求不満がうっすらと高まるばかりで、作品のもたらす感動をその高まりの程度に応じて損なうことになってしまうのではないでしょうか。

そうすると当作品は、まったくとは言いませんが、その内容の様相を変えることになるのではないかと思われます。少なくとも、「私」ではなく「梨花」をカメラ・アイにした場合のように、作品世界としての柳橋が自立したものとして鮮やかに浮かび上がる度合いは弱まるものと思われます。その意味で、幸田文が「くろうとの別世界」としての柳橋をイメージ鮮やかに描くことを眼目に筆を進めたのであるとすれば(おそらくそうだとは思われます)、当作品を三人称小説にしたことは成功だったと評することができるものと思われます。その意味で、この小説を成功に導いた根本原因は、三人称構造であると申し上げたい。幸田文が描き出した柳橋の世界は、そこでいまだに人や動物が生活し関わり合い生き死にしているリアリティを獲得しているという意味で永遠不滅なのです。

この結論は、実のところ私一人で得たものではありません。ある読書会で、当作品をめぐって、ごく少人数で腹を割ったやり取りをするうちに、おのずと浮かび上がってきたものを、私なりにすくい取っただけのことなのです。

このことの意味は、とても大きいと思います。読みの対象としての作品が優れたものであるほどに、「読みの多様性」などという猪口才なものは通用しなくなると申し上げたいのです。私にとって、それは理論というよりむしろ生々しい実体験と言うべきものです。真摯な読みをお互いに腹を割って虚栄心を超えたところで交換し合っているうちに、その作品の本質を射抜く読みの在り処がおのずと浮びあがってくるのです。私は、こういう読みのリアリティを解さぬ文学論を、(そうしてそのような思想・哲学も)ほとんど信用していません。その意味で読みの共同性は、いまの私にとってテキストを読むうえでの必須のプロセスとなっています。

最後に、無骨な話をひとつ付け加えます。『流れる』が書かれたのは一九五六年です。高度経済成長の起点はふつう一九五五年に求められますから、ほぼそのスタート地点で、幸田文はこの作品を書いたことになります。優れた作家の感性は、時代の「流れ」を鋭敏に掴み、今後消えてなくなるものが、見えすぎる目にはくっきりと映っていたものと思われます。今日の私たちが、豊かな経済力と引き換えに失ったものがいったい何だったのかについて、当作品は問わず語りにはっきりと指し示しているのではないでしょうか。

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