金子兜太という俳人 ―――荒凡夫(あらぼんぷ)と「生きもの感覚」
昨年末、新宿のジャズバー・サムライに行ったときのこと。たまたま店主の宮崎二健さんと俳人のY・M女史と私の三人で俳句談義になりました。といっても、こちらは俳句に関してはずぶの素人同然。それに対して、お二人は俳句道に深く入り込んでいらっしゃる方々。で、私としては、俳句に関して自分がかねがね気になっていたことが、専門家から見て変ではないか、的外れではないかを確認するという形になりました。
私は、だいぶ酒量がかさんでいたので、勢いに任せて、おおむね次のようなことを言い放ちました。「芭蕉、蕪村よりも一茶の方が芸術表現としてレベルが低いという一般的なイメージは間違っているんじゃないか。もともと俳句は、和歌に反発して、それが使おうとしなかった漢語や卑俗な言葉をあえて大胆にその表現に取り入れることによって、言語芸術の一ジャンルとして出発したはず。その、雅に対してあえて俗を対置しようとする『俳の精神』を一茶なりに突き詰めたところに、あの一見平明な、ほとんど散文のような俳句があったのではないか。その意味では、一茶の俳業は、もっともっと評価されてしかるべきなのではないか…」。
私の素人くさい話を真摯に聴いてくれていた二人は、異口同音に「金子兜太(かねこ・とうた)」の名を挙げました。お前の言っているようなことをもっとちゃんと筋道立ててきちんと言っているから、彼をちょっと読んでみろ、というわけです。
それでインターネットでいろいろと調べてみたところ、次のような、彼の動画がありました。
総会記念講演 金子兜太さん(俳人) 2010.5.28
この動画は、2010年日本記者クラブ・第76回総会記念講演の模様を記録したものです。そのシャキシャキとした話しっぷりは、とても九〇歳の老人のそれとは思えないもので、それ自体驚異的と申し上げても過言ではありません。しかも、物腰に格式張ったところがまったくなくて、自由闊達で、しかも内容が面白いときています。
氏のスピーチでとくに感心した点をいくつか挙げておきましょう。
一つ目は、一茶の有名な句「やれ打つな蠅が手をすり足をする」についての氏の解釈です。この句は、通常、一茶の小動物に対する優しい心を強調して、「ハエを叩き殺したりしてはいけないよ。ほら、手をすり足をすって命乞いをしているじゃないか」という解釈がなされます。ところが氏の解釈は、それとはまったく異なります。
蠅というやつは、どっちが手で、どっちが足ということもないんでしょうけれども、四本足があるわけですね。この足の先端で全部のものを識別するんだそうでございます。ですから、ブーンと飛んでいって、私の頭にとまると、あ、これはハゲだとわかる。それから、ブーンと行って、あ、これは刺身だ、こういうふうにわかる。ブーンと行って、あ、これはクソだとわかる。そういうふうに四本の足の先端部でいつも識別している。
そのために、彼は暇があれば、ここを磨くのだそうでございます。ですから、一茶はそういう害を加えない男だというふうに蠅にもわかっていたらしいんでございまして、一茶の前でブーンと―――あのころはあたくさんおりますから―――きて止まった。一茶がそれをボーと眺めていると、蠅は安心してここを磨いている。つまり、先端の感度をよくしているわけでございますね。磨いてやってる。それをみて、ああ、やっているな、やっているなと、一句つくっているわけです。
ここで金子氏は、とても重要なことを言っています。氏によれば、人間の心の中には、自分たちがもともと棲んでいた森の中というふるさと、すなわち原郷があって、それを指向する本能の動きがある。それを氏は「生きもの感覚」と形容します。その「生きもの感覚」が、一茶の場合、生きものをそのままにみる視線になります。いいかえれば、一茶にとって、人間としての自分の命とそのほかの生きものの命とはどこかで等価なものであるという感覚がごく自然にある。そのことが、一茶に優れた生物学者の観察眼をおのずから授けることになった、というわけなのでしょう。
私は、自然科学の知見に著しく反するような芸術表現を高く評価しかねるところがあります。もう少し強く言えば、感情過多・感性オンリーの芸術表現を一流とは認めないのです。たとえば、ダリの諸作品を一級品として認めることを、私は躊躇します。あれは、一種のキッチュ感覚の産物にほかならないのではないでしょうか。同じことになりますが、(やや言い過ぎかもしれませんけれど)自然科学の知見をおのずから(無意識のうちに)踏まえていることは、ある芸術作品が一流のものであることの必要条件である、と考えるのですね。その点、金子氏の「蠅」の句についての解釈は、当句が一級品であることをおのずから指し示しています。別言すれば、当句についての先に述べた俗流の解釈は、当句を二級品扱いしてその価値を貶めるものである、とも申せましょう。
感心した点のふたつ目。それは、「娑婆(しゃば)遊び」と「荒凡夫」(あらぼんぷ)という言葉の魅力にまつわることです。一茶は、五〇歳のとき故郷に帰り二七歳のきくという女性と結婚します。そうして彼女との間に四人の子どもをもうけるのですが、四人とも死んでしまいます。そのなかの二番目のさとが疱瘡で死んだことに、一茶は大きなショックを受けて中風(脳出血のようなもの)になってしまい、半身不随となり言語障害を起こします。それで、温泉の主人をしていたお弟子さんが、彼を温泉に連れて行って、いまでいうところの温泉療法をするのです。そのおかげで、それらの症状が一年ほどして治ります。五九歳のときのことです。
その五九になったときに、正月のはじめに書いた句があります。「ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び」という句を書いています。これは『ホトトギス」の俳人にいわせると、季語がないといって怒るでしょうけれども、そんなことは一茶にとっては問題じゃない。季語なんていうものも、生活に役立たない季語はいらないと、彼ははっきり書いています。平気で「ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び」と。娑婆遊びというのは、この世の中を遊んで暮らしたい、丸儲けだから、そういうことでございますね。
この句を虚心に読んでいると、治らないと思っていた憂うつな症状が嘘のようになくなって、心から素直に喜んでいる一茶の姿が、くっきりと誰の目にも浮びあがってきます。そこにたくまざるユーモアさえも感じられるのは、彼の「生きもの感覚」のなせる技なのでしょう。「娑婆遊び」、この言葉の心底朗らかな表情を、私はとても好ましいものと感じます。
翌年の正月、一茶は六〇歳になりました。心中なにかしら期するところがあったのでしょうか、メモ魔の一茶は、阿弥陀如来に対して「自分は荒凡夫として生きたい、ぜひ生かしてくれ」と祈願し、そういう意味のことを書きつけているそうです。
その荒凡夫とのはどんなことなんだろうと思いましたら、彼はこんなふうなことを言っている。自分は長年、ずうっといままで六〇年の間、煩悩具足、五欲兼備で生きてきた。つまり、欲の塊で生きてきた。こういう生き方をする人間のことを、彼は愚だという。自分は愚の上に愚を重ねてきた。「愚」という言葉を使っています。愚の上に愚を重ねて生きてきた。これ以上の生き方がない。とても心美しくとか、そんなことはとても無理だから、とにかくこの欲のままで生かしてください。それが「荒凡夫として生かしてください」ということだったんですね。
ごく平凡なことを言っているようですが、私は、一茶のこの無類の率直さを美しいと感じます。「荒凡夫」、良い言葉じゃありませんか。できうることならば、私もそうありたいと心底思います。無駄な知識をそれなりに身につけてしまったので、かなわぬ夢なのかもしれませんが。
まだまだ話したいことが出てきそうではありますが、さかしらな説明はいいかげんにして、そろそろここいらでひっこみましょう。よろしかったら、金子氏の小気味の良い話しっぷりに接してみてください。
昨年末、新宿のジャズバー・サムライに行ったときのこと。たまたま店主の宮崎二健さんと俳人のY・M女史と私の三人で俳句談義になりました。といっても、こちらは俳句に関してはずぶの素人同然。それに対して、お二人は俳句道に深く入り込んでいらっしゃる方々。で、私としては、俳句に関して自分がかねがね気になっていたことが、専門家から見て変ではないか、的外れではないかを確認するという形になりました。
私は、だいぶ酒量がかさんでいたので、勢いに任せて、おおむね次のようなことを言い放ちました。「芭蕉、蕪村よりも一茶の方が芸術表現としてレベルが低いという一般的なイメージは間違っているんじゃないか。もともと俳句は、和歌に反発して、それが使おうとしなかった漢語や卑俗な言葉をあえて大胆にその表現に取り入れることによって、言語芸術の一ジャンルとして出発したはず。その、雅に対してあえて俗を対置しようとする『俳の精神』を一茶なりに突き詰めたところに、あの一見平明な、ほとんど散文のような俳句があったのではないか。その意味では、一茶の俳業は、もっともっと評価されてしかるべきなのではないか…」。
私の素人くさい話を真摯に聴いてくれていた二人は、異口同音に「金子兜太(かねこ・とうた)」の名を挙げました。お前の言っているようなことをもっとちゃんと筋道立ててきちんと言っているから、彼をちょっと読んでみろ、というわけです。
それでインターネットでいろいろと調べてみたところ、次のような、彼の動画がありました。
総会記念講演 金子兜太さん(俳人) 2010.5.28
この動画は、2010年日本記者クラブ・第76回総会記念講演の模様を記録したものです。そのシャキシャキとした話しっぷりは、とても九〇歳の老人のそれとは思えないもので、それ自体驚異的と申し上げても過言ではありません。しかも、物腰に格式張ったところがまったくなくて、自由闊達で、しかも内容が面白いときています。
氏のスピーチでとくに感心した点をいくつか挙げておきましょう。
一つ目は、一茶の有名な句「やれ打つな蠅が手をすり足をする」についての氏の解釈です。この句は、通常、一茶の小動物に対する優しい心を強調して、「ハエを叩き殺したりしてはいけないよ。ほら、手をすり足をすって命乞いをしているじゃないか」という解釈がなされます。ところが氏の解釈は、それとはまったく異なります。
蠅というやつは、どっちが手で、どっちが足ということもないんでしょうけれども、四本足があるわけですね。この足の先端で全部のものを識別するんだそうでございます。ですから、ブーンと飛んでいって、私の頭にとまると、あ、これはハゲだとわかる。それから、ブーンと行って、あ、これは刺身だ、こういうふうにわかる。ブーンと行って、あ、これはクソだとわかる。そういうふうに四本の足の先端部でいつも識別している。
そのために、彼は暇があれば、ここを磨くのだそうでございます。ですから、一茶はそういう害を加えない男だというふうに蠅にもわかっていたらしいんでございまして、一茶の前でブーンと―――あのころはあたくさんおりますから―――きて止まった。一茶がそれをボーと眺めていると、蠅は安心してここを磨いている。つまり、先端の感度をよくしているわけでございますね。磨いてやってる。それをみて、ああ、やっているな、やっているなと、一句つくっているわけです。
ここで金子氏は、とても重要なことを言っています。氏によれば、人間の心の中には、自分たちがもともと棲んでいた森の中というふるさと、すなわち原郷があって、それを指向する本能の動きがある。それを氏は「生きもの感覚」と形容します。その「生きもの感覚」が、一茶の場合、生きものをそのままにみる視線になります。いいかえれば、一茶にとって、人間としての自分の命とそのほかの生きものの命とはどこかで等価なものであるという感覚がごく自然にある。そのことが、一茶に優れた生物学者の観察眼をおのずから授けることになった、というわけなのでしょう。
私は、自然科学の知見に著しく反するような芸術表現を高く評価しかねるところがあります。もう少し強く言えば、感情過多・感性オンリーの芸術表現を一流とは認めないのです。たとえば、ダリの諸作品を一級品として認めることを、私は躊躇します。あれは、一種のキッチュ感覚の産物にほかならないのではないでしょうか。同じことになりますが、(やや言い過ぎかもしれませんけれど)自然科学の知見をおのずから(無意識のうちに)踏まえていることは、ある芸術作品が一流のものであることの必要条件である、と考えるのですね。その点、金子氏の「蠅」の句についての解釈は、当句が一級品であることをおのずから指し示しています。別言すれば、当句についての先に述べた俗流の解釈は、当句を二級品扱いしてその価値を貶めるものである、とも申せましょう。
感心した点のふたつ目。それは、「娑婆(しゃば)遊び」と「荒凡夫」(あらぼんぷ)という言葉の魅力にまつわることです。一茶は、五〇歳のとき故郷に帰り二七歳のきくという女性と結婚します。そうして彼女との間に四人の子どもをもうけるのですが、四人とも死んでしまいます。そのなかの二番目のさとが疱瘡で死んだことに、一茶は大きなショックを受けて中風(脳出血のようなもの)になってしまい、半身不随となり言語障害を起こします。それで、温泉の主人をしていたお弟子さんが、彼を温泉に連れて行って、いまでいうところの温泉療法をするのです。そのおかげで、それらの症状が一年ほどして治ります。五九歳のときのことです。
その五九になったときに、正月のはじめに書いた句があります。「ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び」という句を書いています。これは『ホトトギス」の俳人にいわせると、季語がないといって怒るでしょうけれども、そんなことは一茶にとっては問題じゃない。季語なんていうものも、生活に役立たない季語はいらないと、彼ははっきり書いています。平気で「ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び」と。娑婆遊びというのは、この世の中を遊んで暮らしたい、丸儲けだから、そういうことでございますね。
この句を虚心に読んでいると、治らないと思っていた憂うつな症状が嘘のようになくなって、心から素直に喜んでいる一茶の姿が、くっきりと誰の目にも浮びあがってきます。そこにたくまざるユーモアさえも感じられるのは、彼の「生きもの感覚」のなせる技なのでしょう。「娑婆遊び」、この言葉の心底朗らかな表情を、私はとても好ましいものと感じます。
翌年の正月、一茶は六〇歳になりました。心中なにかしら期するところがあったのでしょうか、メモ魔の一茶は、阿弥陀如来に対して「自分は荒凡夫として生きたい、ぜひ生かしてくれ」と祈願し、そういう意味のことを書きつけているそうです。
その荒凡夫とのはどんなことなんだろうと思いましたら、彼はこんなふうなことを言っている。自分は長年、ずうっといままで六〇年の間、煩悩具足、五欲兼備で生きてきた。つまり、欲の塊で生きてきた。こういう生き方をする人間のことを、彼は愚だという。自分は愚の上に愚を重ねてきた。「愚」という言葉を使っています。愚の上に愚を重ねて生きてきた。これ以上の生き方がない。とても心美しくとか、そんなことはとても無理だから、とにかくこの欲のままで生かしてください。それが「荒凡夫として生かしてください」ということだったんですね。
ごく平凡なことを言っているようですが、私は、一茶のこの無類の率直さを美しいと感じます。「荒凡夫」、良い言葉じゃありませんか。できうることならば、私もそうありたいと心底思います。無駄な知識をそれなりに身につけてしまったので、かなわぬ夢なのかもしれませんが。
まだまだ話したいことが出てきそうではありますが、さかしらな説明はいいかげんにして、そろそろここいらでひっこみましょう。よろしかったら、金子氏の小気味の良い話しっぷりに接してみてください。
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