美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

先崎彰容・NHK元旦「ニッポンのジレンマ」補足講座 ――第二回 「つながり」方のゆくえ――

2014年01月10日 08時47分17秒 | 先崎彰容
NHK元旦「ニッポンのジレンマ」補足講座
       ――第二回 「つながり」方のゆくえ――
先崎彰容


前回の復習からはじめよう。私はこの場所で、現代は急速に「つながり」を求めている、そう結論づけた。理由はそれ以前にさかのぼる。現在の状況になる以前、私たちは「砂粒化」していた。

私たち一人ひとりは、自分を特別な存在だと思っている。他人に認めてほしいとも、考えている。だが特別な存在が「全員」いるとしたら、「特別」は消滅するではないか――こんな不思議な状況を、私たちは生きているのだ。そこに大災害と経済問題による不安が襲ってきた。すると今度は、私たちは急激に不安に身を寄せ合い「つながろう」としている、これが前回までの復習である。

ではこの「つながり」をどう評価したらいいのだろう。私なりの考えを言えば、次のようになる。まず「つながり」方にはおよそ三つのパターンがある。一つ目が国家。二つ目にデモ、そして最後がツイッターなどのパソコン上のメディアである。

私が第一を重視し、第二第三の「つながり」方に懐疑的なのは次のような理由からだ。まずデモとツイッターには二つの共通した特徴がある。それは集団化している時間が短いこと、そして興味関心が「そのまま」表現されてしまうことだ。より詳しく言いなおすと、ツイッターの特徴は、その場その場での即興的な興味関心をつぶやくことにある。つまり「時間」を置かず、その場の自分の湧き起こる興味を語る即興性にその特徴があるわけだ。だから次の関心に飛び移るまでが異常に「はやい」。

そしてこの特徴、同じ話題を短時間だけ共有することが、デモと同じだということに、気づくべきではないか。

さらに第二の特徴、即興的に、あるいは過激な行動で自分の興味関心を示すその示し方に、私はきわめて否定的なのだ。なぜと言って、その場で感じる自らの「感覚」は、そのままではどう考えても「意見」ではないからだ。一例を挙げよう。もし君が、有名な歌手になりたいと思い、そのための恋愛の歌詞を書いたとしよう。その歌詞がただただ「好きだ、好きだ」と連呼しただけだとして、果たして売れるだろうか?「作品」として成り立っているだろうか。

当たり前のことだ、若者の歌の大半は色恋沙汰か、あるいは自分がどれだけ悲しいかを歌おうとしている。ただそれが売れるか、売れないかはその言葉と音楽のもつ「作品性」、すなわち自分の思いを「工夫」して相手に伝える技術の有無にかかっているのだ。

そう思ってデモと、ツイッターを見てみる。この二つに共通するのは、上記の例でいうところの「作品性」の決定的な欠如だ。自分の思いを相手に伝える際の「工夫」がない。自分のことをダダ漏れで言って、相手は分かってくれると考えているのだ。

この刹那性と、ダダ漏れ性(?)――これほど怖ろしいものがあるだろうか。これほど、自己中心的なものがあるだろうか。自分の感情の好悪をいっぱしの意見(つまり善悪や真偽)であると取り違える醜悪さ。

今回の「ニッポンのジレンマ」において、もし仮に学者の意見に意味があるとすれば、それはこの「作品性」にあるのだ。自分をダダ漏れにしない、という気品と矜持、これが学者なのだ。

こうして考えてみてみると、「国家のカタチ」という抜き差しならない問題を、刹那的に考え、あるいは工夫を凝らさず自分の不平不満を大声で叫ぶことの恐ろしさが、見えてくるというものだろう。

第一の「つながり」方に私が期待を示し、拙著『ナショナリズムの復権』で「時間の積み重なり」の大事さを強調したのも、そういう意味からであった。

国家を考えるには、工夫と技術そして何よりも「時間」がかかるのだ――これが、今、忙しい現代社会を生きる私たちが、あえて古いことを学び、「遅く」行動することの意味なのである。(この項目、終了)

※以上の見解は、個人的なものであり、所属する団体等とは一切関係ありません。

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