「私」という意識のはじまりの物語 (美津島明)
自分を他と明瞭に区別された「私」と認識しはじめたのはいつのことなのだろうか。そのきっかけはなんだったのだろうか。過ぎ去った時の静まりかえった薄暗がりをできるだけ川上までさかのぼってみよう。
そこにだけやわらかい光が当たっているかのようなひとつの鮮やかな情景が浮かんでくる。
三歳のころと思われる。当時のわが家は、長崎県佐世保市の、国鉄の踏み切りの近くの家の一角を間借りして住んでいた。生垣と汲み上げ式の手押しポンプの付いた深い井戸のある家だったと記憶している。そのころのことである。
午後のことだったと思う。私はそのとき家の中で母の帰りを待ちながらひとりでぽつんと遊んでいた。そうこうするうち、子ども心に結構長い時間が過ぎたような気がしはじめてきた。そういう気分に伴ってこころもとなさがどこからともなくしのびよってくる。
やがて、陽が傾き、すりガラスの窓の外が薄暗くなってきたように感じられた。すると、しのびよってきていたこころもとなさが急にふくらんで、渦巻くような不安に変貌しはじめた。母がいつ帰ってくるのか皆目見当がつかなくなって、自分を取り巻く世界がまったく未知のもののように感じられるのだった。箪笥の上に飾ってあったこけしまでもがこちらを冷たく見つめているような気がする。私は、母のいない世界にひとりぼっちでおいてけぼりにされたような気がしてきたのだ。
それでついふらふらと外へ迷いでることになった。すると、見慣れていたはずの踏み切りが、いつもよりうず高く感じられ、そこを渡って向こう側に行ってしまったらもう二度とこちら側、つまり母のいる世界に戻って来られなくなってしまうような感覚に襲われた。いいかえれば、こちら側が踏切の向こう側の世界から理不尽にも追い込まれてしまったように感じたのだ。
私は怖くなって一目散に家に逃げ帰り、部屋の隅で子犬のように震えていた。そんなふうにして自分なりに耐え忍び、しびれを切らしかかったところで、やっと母が帰ってきたのだった。私は母の姿を目にするとほどなく、こらえていたものがどっと噴き出してきて、涙があとからあとからどんどんあふれてきた。そうして、いかに自分が長い時間にわたって不当にも孤独に耐えることを余儀なくされたか、どうにもうまく言葉にできないまま、母にむしゃぶりつくように抗議しながら訴えるのだった。母は事態を直感的に察知したらしく、めずらしくしきりに「ゴメンね」を繰り返した。
そこから少しだけ時の流れを下ってみる。すると、ふたつめの情景が、群青色のトーンに染め上げられて浮かび上がってくる。
小学校一年生のときのことである。そのころ私は、玄界灘に浮かぶ対馬(つしま)の竹敷村という寒村に住んでいた。当時はいまと違って電力事情が悪く、しょっちゅう停電があった。その日は、夕方から停電になったと記憶している。いつものように、母が火をつけたろうそくを持ってきた。急に激しい雨が降りはじめ、雷が怒り狂ったように鳴り出した。母といっしょにしんみりとろうそくのゆれる炎をみつめているうちに、それまで一度も考えてみたことのない思いが湧いてきた。それを胸のうちにしまっておくことがどうにもできなくて、私はたどたどしい言葉で、それを母に伝えようとするのだった。
ゆらめくろうそくの炎の向こう側にいる母の姿は、いつの日かこの世から確実に消える。まだ仕事から帰ってこない父の姿も同じ運命にあり、隣の村に住んでいる「勝(まさる)じいさん」(母方の祖父)も同様である。つまり、自分は自分を思ってくれる人々を見送った後たったひとりでこの世に取り残される運命にある。それは到底受け入れがたいことであるが、どうやら逃れがたい絶対の真実でもあるようだ。そのどうしようもなさを、私はどうすればいいのだろうか。
そういう内容のことを子どもなりにぽつりぽつりと物語るうちになんだか無性に悲しくなってきた。そうして、次から次に涙があふれてきてどめどがなくなった。それを見るに見かねて、母がなんとか事態を収拾しようとするのではあるが、私はそれを振り払うかのように自分が感じたものに固執する物言いをするのだった。思えば、その前の年に、私をかわいがってくれた「お伝ばあちゃん」(母方の祖母)が亡くなっていて、子どもながらにそれをえらく切ながったことが、そのときの振る舞いに影を落としていたような気がする。
「私」意識のはじまりはいつのことだったのかと自問してみると、そういうふたつの情景がおのずと浮びあがってくる。それをふまえたうえで、「私」という意識にまつわって、次のようなことがどうやら言えそうである。
いずれの情景にも、「母の喪失」という事態がおおきく関わっているのである。
母の存在によって、世界は秩序を与えられ生きたコスモスを形成している。そこには、はっきりとした生の意味が満ち溢れているのである。ところが、「母の喪失」という抜き差しならない事態の観念が生じると、世界から生きた秩序が見る間に消滅し、それは一転してうそ寒くてよそよそしいものになり、むき出しのカオスが渦を巻いて生意識の根底をおびやかしはじめるのである。
そういう、世界の変貌が抜き差しならないものとしてわが身に迫ってきたとき、やむをえず、「私」という、世界に対する反射的な構えが生じることになったのではないだろうか。いいかえれば、「私」という意識の構え方は、母のあたたかいまなざしの届かないうすら寒いところで、孤独にふるえ、涙をにじませながら芽吹くことになったのではないかと思われる。
死の影の、唐突で圧倒的な押し寄せにかろうじて対峙しようとする身体性のただ中において、「私」は誕生したのではあるまいか。少なくとも、わが身を虚心にふりかえるならば、そういう基調において「私」があるというよりほかはあるまい。またそこに、死はいつも不条理な姿で到来するよりほかはない、という死をめぐる普遍性な契機がいささかながらでも織り込まれていることを認めていただけるとするならば、わが身に引き寄せた「私」意識の誕生の物語は、ほかのひとびとにとっても、いかほどかの意味がある、といいうるのかもしれない。
「私」は、生の秩序感覚をおびやかす死のイメージの押し寄せのただなかから、それに対する抵抗・違和の表出のプロセスにおいて生まれたのではあるが、生まれた姿のままで不可避的に死に向かい、やがてあらがう余地もなくそれに呑みこまれる。それと結局は同じことであるが、私は、「私」意識の誕生の瞬間に向かってゆるやかに成熟していく。あるいは、衰退してゆく。そういうふうに考えてみると、生の営みとはなんといじらしいことであるか、という感慨を私は禁じえない。私は実は、一生水槽のなかを泳いでいる金魚となんら変わるところがないのではなかろうか、とも思えてくる。
思えば、先に述べたふたつ目の情景から今日まで、四十年あまりの歳月が流れたことになる。そのときに第二の産声をあげた「私」に、四十年という歳月は何を新たに付け加えたのであろうか。あるいは、付け加えられたものなどなにもなかったのだろうか。その自問には、絶句という名の沈黙をもって答えとするよりほかにすべがないようにも思う。しかし、あえてその沈黙を言葉にするのならば、私は、次の詩句よりほかに思い浮かべうるものがない。
「ああおまえは何をして来たのだと・・・・
吹き来る風が私に云ふ」
(中原中也『帰郷』より)
(初出『SSK REPORT』2006年12月号 今回改稿)
自分を他と明瞭に区別された「私」と認識しはじめたのはいつのことなのだろうか。そのきっかけはなんだったのだろうか。過ぎ去った時の静まりかえった薄暗がりをできるだけ川上までさかのぼってみよう。
そこにだけやわらかい光が当たっているかのようなひとつの鮮やかな情景が浮かんでくる。
三歳のころと思われる。当時のわが家は、長崎県佐世保市の、国鉄の踏み切りの近くの家の一角を間借りして住んでいた。生垣と汲み上げ式の手押しポンプの付いた深い井戸のある家だったと記憶している。そのころのことである。
午後のことだったと思う。私はそのとき家の中で母の帰りを待ちながらひとりでぽつんと遊んでいた。そうこうするうち、子ども心に結構長い時間が過ぎたような気がしはじめてきた。そういう気分に伴ってこころもとなさがどこからともなくしのびよってくる。
やがて、陽が傾き、すりガラスの窓の外が薄暗くなってきたように感じられた。すると、しのびよってきていたこころもとなさが急にふくらんで、渦巻くような不安に変貌しはじめた。母がいつ帰ってくるのか皆目見当がつかなくなって、自分を取り巻く世界がまったく未知のもののように感じられるのだった。箪笥の上に飾ってあったこけしまでもがこちらを冷たく見つめているような気がする。私は、母のいない世界にひとりぼっちでおいてけぼりにされたような気がしてきたのだ。
それでついふらふらと外へ迷いでることになった。すると、見慣れていたはずの踏み切りが、いつもよりうず高く感じられ、そこを渡って向こう側に行ってしまったらもう二度とこちら側、つまり母のいる世界に戻って来られなくなってしまうような感覚に襲われた。いいかえれば、こちら側が踏切の向こう側の世界から理不尽にも追い込まれてしまったように感じたのだ。
私は怖くなって一目散に家に逃げ帰り、部屋の隅で子犬のように震えていた。そんなふうにして自分なりに耐え忍び、しびれを切らしかかったところで、やっと母が帰ってきたのだった。私は母の姿を目にするとほどなく、こらえていたものがどっと噴き出してきて、涙があとからあとからどんどんあふれてきた。そうして、いかに自分が長い時間にわたって不当にも孤独に耐えることを余儀なくされたか、どうにもうまく言葉にできないまま、母にむしゃぶりつくように抗議しながら訴えるのだった。母は事態を直感的に察知したらしく、めずらしくしきりに「ゴメンね」を繰り返した。
そこから少しだけ時の流れを下ってみる。すると、ふたつめの情景が、群青色のトーンに染め上げられて浮かび上がってくる。
小学校一年生のときのことである。そのころ私は、玄界灘に浮かぶ対馬(つしま)の竹敷村という寒村に住んでいた。当時はいまと違って電力事情が悪く、しょっちゅう停電があった。その日は、夕方から停電になったと記憶している。いつものように、母が火をつけたろうそくを持ってきた。急に激しい雨が降りはじめ、雷が怒り狂ったように鳴り出した。母といっしょにしんみりとろうそくのゆれる炎をみつめているうちに、それまで一度も考えてみたことのない思いが湧いてきた。それを胸のうちにしまっておくことがどうにもできなくて、私はたどたどしい言葉で、それを母に伝えようとするのだった。
ゆらめくろうそくの炎の向こう側にいる母の姿は、いつの日かこの世から確実に消える。まだ仕事から帰ってこない父の姿も同じ運命にあり、隣の村に住んでいる「勝(まさる)じいさん」(母方の祖父)も同様である。つまり、自分は自分を思ってくれる人々を見送った後たったひとりでこの世に取り残される運命にある。それは到底受け入れがたいことであるが、どうやら逃れがたい絶対の真実でもあるようだ。そのどうしようもなさを、私はどうすればいいのだろうか。
そういう内容のことを子どもなりにぽつりぽつりと物語るうちになんだか無性に悲しくなってきた。そうして、次から次に涙があふれてきてどめどがなくなった。それを見るに見かねて、母がなんとか事態を収拾しようとするのではあるが、私はそれを振り払うかのように自分が感じたものに固執する物言いをするのだった。思えば、その前の年に、私をかわいがってくれた「お伝ばあちゃん」(母方の祖母)が亡くなっていて、子どもながらにそれをえらく切ながったことが、そのときの振る舞いに影を落としていたような気がする。
「私」意識のはじまりはいつのことだったのかと自問してみると、そういうふたつの情景がおのずと浮びあがってくる。それをふまえたうえで、「私」という意識にまつわって、次のようなことがどうやら言えそうである。
いずれの情景にも、「母の喪失」という事態がおおきく関わっているのである。
母の存在によって、世界は秩序を与えられ生きたコスモスを形成している。そこには、はっきりとした生の意味が満ち溢れているのである。ところが、「母の喪失」という抜き差しならない事態の観念が生じると、世界から生きた秩序が見る間に消滅し、それは一転してうそ寒くてよそよそしいものになり、むき出しのカオスが渦を巻いて生意識の根底をおびやかしはじめるのである。
そういう、世界の変貌が抜き差しならないものとしてわが身に迫ってきたとき、やむをえず、「私」という、世界に対する反射的な構えが生じることになったのではないだろうか。いいかえれば、「私」という意識の構え方は、母のあたたかいまなざしの届かないうすら寒いところで、孤独にふるえ、涙をにじませながら芽吹くことになったのではないかと思われる。
死の影の、唐突で圧倒的な押し寄せにかろうじて対峙しようとする身体性のただ中において、「私」は誕生したのではあるまいか。少なくとも、わが身を虚心にふりかえるならば、そういう基調において「私」があるというよりほかはあるまい。またそこに、死はいつも不条理な姿で到来するよりほかはない、という死をめぐる普遍性な契機がいささかながらでも織り込まれていることを認めていただけるとするならば、わが身に引き寄せた「私」意識の誕生の物語は、ほかのひとびとにとっても、いかほどかの意味がある、といいうるのかもしれない。
「私」は、生の秩序感覚をおびやかす死のイメージの押し寄せのただなかから、それに対する抵抗・違和の表出のプロセスにおいて生まれたのではあるが、生まれた姿のままで不可避的に死に向かい、やがてあらがう余地もなくそれに呑みこまれる。それと結局は同じことであるが、私は、「私」意識の誕生の瞬間に向かってゆるやかに成熟していく。あるいは、衰退してゆく。そういうふうに考えてみると、生の営みとはなんといじらしいことであるか、という感慨を私は禁じえない。私は実は、一生水槽のなかを泳いでいる金魚となんら変わるところがないのではなかろうか、とも思えてくる。
思えば、先に述べたふたつ目の情景から今日まで、四十年あまりの歳月が流れたことになる。そのときに第二の産声をあげた「私」に、四十年という歳月は何を新たに付け加えたのであろうか。あるいは、付け加えられたものなどなにもなかったのだろうか。その自問には、絶句という名の沈黙をもって答えとするよりほかにすべがないようにも思う。しかし、あえてその沈黙を言葉にするのならば、私は、次の詩句よりほかに思い浮かべうるものがない。
「ああおまえは何をして来たのだと・・・・
吹き来る風が私に云ふ」
(中原中也『帰郷』より)
(初出『SSK REPORT』2006年12月号 今回改稿)
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