美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

「偏愛的文学談義」(その2)上田→後藤(上田仁志・後藤隆浩)

2014年12月18日 01時49分32秒 | 後藤隆浩・上田仁志

屋久島の森と小川 http://www.pakutaso.com/userpolicy.htmlより転載させていただきました。

「偏愛的文学談義」(その2)上田→後藤(上田仁志・後藤隆浩)

後藤さん、こんにちは。

「偏愛的文学談義」という題名でやりとりをすることに決めてからだいぶ日にちがたちましたが、このたびようやく開始の運びとなりました。〈こだわりのテーマ〉や、〈とっておきの題材〉ばかりでなく、そのときどきの興味ある話題をざっくばらんに語り合えればよいと思います。

さて、最初にとりあげるのが、今年惜しくも亡くなった哲学者・木田元さんというわけですが、なかなか重厚感のあるスタートです。木田さんは、後藤さんが長年にわたって親しんできた著述家のひとりであり、直接その人柄にふれる機会もあったとも聞いていますので、話題は多岐にわたることでしょう。

一方、私にとっての木田さんは、とどのつまり、現象学やハイデガー哲学のすぐれた解説者といったところかもしれません。「解説者」というと、なんとなく独自性がとぼしいように聞こえるかもしれませんが、決してそんなことはありません。すぐれた解説者の条件とは、「わかりやすい」、「面白い」、「ふところが深い」の3つであろうと思いますが、これらをすべてかねそなえた哲学の専門家はそうめったにいません。哲学のよき解説者たるには、研究者として優秀なだけでは不十分なので、徹底した自前の思索が不可欠です。まして相手が『存在と時間』のような錯綜した思想書であればなおさらでしょう。

木田さんの『ハイデガーの思想』(岩波新書)は、三拍子そろった哲学解説書の名著です。平易かつ明快な言葉で、「存在了解」から「存在の生起」へというハイデガー思想の核心にある〈転回〉を解き明かしているばかりではありません。個別に見ていたのではつながりがよくわからなかった概念同士が、深いところで有機的につながって、西洋形而上学を貫く広大な流れ(ハイデガーの言葉でいえば、「存在史」)が姿を現わしてくるのです。そうしたスケールの大きな思考はもちろんハイデガーの中にあるものですが、木田さんの解説は、それを熟練の腕さばきで、一般読者に伝わるように再構成してくれるのです。

目からうろこの落ちる場面は随所にありますが、〈現前性〉という概念の説明はその一つです。昔流行したジャック・デリダの「現前の形而上学批判」では、〈現前性〉はもっぱら敵役とされていて、そうした観念がハイデガーに由来することも知られていましたが、〈現前性〉のどこがいけないのか正直いってピンときませんでした。木田さんによれば、ハイデガーは、〈現前性〉という概念に、〈制作され終わって、それ自体で自立して存在し、いつでも使用されうる状態で眼前に現前している〉という意味合いをもたせているというのです。ハイデガーは、「古代ギリシアの存在論の了解地平として働いているのが、人間の制作行為だということ」を明らかにしました。〈存在=現前性〉とは、〈存在=被制作性(作られて在るもの)〉にほかならなかったのです。このようにハイデガーは、(ニーチェにならって)プラトン=アリストテレス以来の存在論を相対化し、「ソクラテス以前の哲学者」には、それとは異なる〈存在=生成〉という存在了解が見られることを論じました。

木田さんのハイデガー解説を読むたびに強く感じることは、木田さんはハイデガーという人物の著作に心底付き合ってきた人だなということです。『ハイデガーの思想』が出たのは1993年ですが、そのだいぶ前から木田さんはハイデガーを相対化してとらえるようになっています。「今世紀最大の哲学者」としての圧倒的・持続的影響力は認めざるをえないとしながらも、ハイデガーのナチス加担には根の深い問題があることを認めてもいます。しかし、そんなことは他の誰でもいいそうなことに思えます。

『存在と時間』を読みたい一心で哲学科に入った木田さんですが、はじめの20年間はハイデガーについて1行も書けず、ハイデガーに対するアンビバレントな気持ちを自覚するようになってからようやく適当な距離がとれて論じられるようになったそうです。

木田さんのハイデガー論の妙味は、主著とされる『存在と時間』が実のところ「未完成の失敗作」にすぎないと喝破したところにあります。そういう事実もまた専門家の間では知られていたのかもしれませんが、なにしろ本のオーラが強すぎました。あれだけ強い影響力をもった本が「未完成の失敗作」ではいかにも都合がわるいのでした。

木田さんは、『存在と時間』の初期草稿にあたる「ナトルプ報告」や講義録「現象学の根本問題」をはじめとするさまざまな資料をたんねんに読みぬき、ありうべき『存在と時間』を再構成するという芸当までやってみせています。ハイデガー関連の一連の仕事を通じて実感されることは、賞賛するにせよ、批判するにせよ、木田さんは決して観念的にものをいってはいないということです。ハイデガーを問題とする人たちは往々にして観念的、イデオロギー的です。そして学者たちは新しい解釈を求めることに汲々としています。木田さんのハイデガー論は、そうした思想や学問の流行に関係なく、今後も一般読者に読みつがれていくでしょう。

 後藤さんは、木田さん(ならびに彼の盟友だった生松敬三氏)の著作を昭和精神史としてとらえるべき必要性を示唆していますが、次はそのあたりをぜひ聞きたく思います。私の方は、昭和精神史ということでいえば、木田さんの小林秀雄への関心と、木田さんが考える小林とハイデガーとの類似点についてみていきたいと思います。

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