井沢元彦の『逆説の日本史』がめっぽう面白い。ハマっていると言っていいでしょう。最近やっと鎌倉時代の滅亡と建武の新政のところまできました。
その史観の特徴をざっくりと要約すると、次のようになるかと思われます。
〈日本の歴史は「言霊・和・怨霊・穢れ」への無意識の非合理的な信仰によってその流れの基本が創り出された。そのことを明らかにするためにはアカデミズムの史料絶対主義を排すべきである。もっとも、史料を尊重するのは当然のことである。しかしそれに加えて、書かれなかった背景をも深く考察すべきこと。その際「当たり前のことがらとして同時代人が認識していることは記録されなかった」ことを考慮すべきである。それらを含めて、アカデミズムの行き過ぎた専門性を超える通史的考察の重要性を強調したい〉
以上のような、井沢氏の主張に、当方、基本的に賛成します。とはいうもの、井沢氏は強烈な個性の持ち主なので、おそらく毀誉褒貶にはすさまじいものがあることでしょう。
それはさておき。
これまで読んだなかでいちばん印象に残っているのは、平安京を作った桓武天皇が徴兵制による大規模な「正規軍」を廃止し、健児(こんでい)という小規模な専門兵士の集団というより地方警察や派出所程度のものに変えたこと、および平安時代の政府には健児制を積極的に維持しようとする姿勢がみられなくて、同制度は平安時代の中ごろまでに自然消滅してしまう、という国家権力としての驚くべき経緯についての分析です。ちなみに健児の制は、当時の憲法にあたる律令を改正して設けたものではなくて、「太政官符」という政府の一片の通達で設けたものです。つまり一片の通達によって、日本は「軍隊なき国家」になったのです。
ざっくりと言ってしまえば、井沢氏は、桓武天皇が「軍隊なき国家」を作った根本動機を「ケガレ」思想に求めます。井沢氏によれば、日本人にはケガレを極端に嫌う「信仰」があり、特に古代・中世において最も嫌われたのは、「死のケガレ」つまり「死穢」(しえ)です。そうして、「死穢」を最も体現する存在は、人殺しの専門家集団である軍隊です。だから、ケガレ信仰を体現する桓武天皇は、死のケガレにまみれた軍隊を廃止した。井沢氏は、おおむねそう主張します。賢明な読み手なら「では、桓武天皇が坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し蝦夷討伐に熱心だったのはどう説明するんだ」という疑問が湧くことでしょうが、それに答えるのは控えておきましょう。この論点に興味を持たれた方は、井沢元彦『逆説の日本史3 古代言霊編』(小学館文庫)をお読みください。
で、察しの良い方は、当方が言いたいことがもうお分かりでしょう。
そうです。当方は、目下猖獗を極めている新型コロナウィルスは、日本人の理屈以前の根本感情において、「死のケガレ」と受けとめられている、と主張したいのです。「きたない」と思ったモノは煮沸消毒しても相変わらず「きたない」と思うのがケガレ信仰なのだから、死をもたらす新型コロナは、日本人にとって、怖いものというよりむしろ嫌悪の対象なのです。怖いものであると同時に忌み嫌っているものでもある、ということ。
井沢氏によれば、ケガレ信仰は、不可避的に差別をもたらします。平安貴族は、殺人という死のケガレに触れる専門軍隊=武士を差別し、「罪人」というケガレに触れる警察=検非違使を差別し、動物の解体・皮革業というケガレ仕事に従事する「・」を差別しました。
同じように、コロナ禍の日本人は、職業上、新型コロナという「死のケガレ」に関わらざるをえない医療関係者を差別しています。それは大変残念なことあり、人としてとても悲しいことでもあります。
「触らないで!」医療従事者への“コロナ差別”が横行 本サイトに届いた悲鳴https://jp.news.gree.net/news/entry/3617300
私たちは「理屈以前の根本感情において、新型コロナを死のケガレとして受けとめている」という自己認識をはっきりと持たなければ、コロナ問題を根のところから乗り越えることがかなわないのではないか。いたずらに混迷の度を深めるだけなのではないか。
そういう当方の思いが杞憂に終わればさいわいです。
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