左が回天乗組員・仁科関夫中尉
渡辺惣樹氏の『第二次世界大戦とは何だったのか 戦争指導者たちの謀略と工作』(PHP研究所)を読んでいて、心をつかまれた箇所がありました。それについて触れましょう。
2001年8月、西太平洋カロリン諸島にあるウルシー環礁を統治するミクロネシア連邦は緊急事態を宣言しました。前月から同海域で石油の流出が始まっていたのです。同政府は米海軍に救援を求めました。石油の流出源が、海の底に眠る米海軍・油槽船「ミシシネワ」だったからです。同船は、大東亜戦争の最中の1944年11月20日・早朝5時45分に黒煙を上げ、やがて沈没したのです。そのとき、沈没の原因は分かりませんでした。
2003年2月、米海軍は船内に残る1300万リットルもの石油を抜き取る作業を終えました。海底のミシシネワには、船体とともに沈んだ多くの遺体が残っていましたが、米海軍はそのとき回収しませんでした。「海戦」の墓標としてとどめるために。
ミシシネワの乗組員には生存者がいました。その一人ジョン・メアは、息子のマイケルにミシシネア沈没の顛末を世に知らせてほしいと遺言し、2005年に亡くなりました。
2014年、マイケルは、父との約束を果たす書『KAITEN』を上梓しました。その書名から分かるように、ミシシネワは、特攻魚雷「回天」の攻撃で沈没したのです。先ほど「海戦」と申し上げたゆえんです。
特攻魚雷戦術を構想したのは、仁科関夫と黒木博司という二人の日本海軍士官です。1944年9月1日、二人が板倉光馬少佐とともに中心となって山口県大津島に基地が開隊され、同月5日より全国から志願して集まった搭乗員達による本格的な訓練が開始されました。ところが、 訓練初日の9月6日、提唱者の黒木が殉職する事故が起きました。
ミシシネワは、仁科中尉の操る回天の攻撃で沈みました。ミシシネワへ特攻する仁科の胸には、訓練中に殉死した黒木の遺骨があったそうです。享年21歳です。
ミシシネワの生存者が、「海戦」の事実を知らされたのは1999年のこと。日米の記録を照合して、ミシシネワが仁科中尉の操る回天の犠牲になったことが確定したのは2001年だったとの由。
2010年には、当時回収された遺体のなかに、一体だけ米海軍将兵のものとは考えられないものがあったとの証言が出ました。それは仁科中尉の遺体であると考えられています。
本書から引きましょう。
1999年、ミシシネワの生存者は友の会を結成した。彼らは、日本の回天関係者(回天顕彰会)と交流し、互いの経験を語り合った。『KAITEN』の上梓で父の願いを叶えたマイケル・メアはその書の最後を、回天会会長、小灘利春氏の言葉で締めくくった。
「特攻は愛するものを守りたいとの強い思いから生まれたのです」。
マイケルが、日本「軍国主義」の象徴とされる特攻の書物の掉尾(ちょうび)を小灘氏の言葉で飾ったのは、あの戦争を、恨みや善悪の感情から距離を置いたリアリストの目で見た証(あかし)なのである。
渡辺惣樹氏は、「リアリスト」という言葉に、万感の思いを込めているにちがいありません。その「万感の思い」のなかには、米国人マイケルの、特攻魚雷乗組員に対する最大限の敬意への深い感応が織り込まれているのは間違いないでしょう。私は、そのことに心をつかまれてしまいました。
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