美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

由紀草一・長谷川三千子『神やぶれたまはず』(イザ!ブログ 2013・10・17,18 ,19 掲載)

2013年12月25日 02時18分21秒 | 由紀草一
由紀草一・長谷川三千子『神やぶれたまはず』(中央公論新社平成二十五年)
(その1) ――戦後の神学に向けて――




明治維新から大東亜戦争まで、日本といふ国は過酷で巨大な悲劇を演じたやうに観じられる。

悲劇のヒーローとは世界と戦ふ者である。この劇は、世界のはうが四艘の黒い船の姿をした使者を寄越したところから開幕となる。「地球は狭くなつちやつたの。あなたにいつまでも引き籠つてゐられると迷惑なのよね」。さう言はれて外へ出て行つてみると、そこは「帝国主義」と呼ばれるマナー(作法・様式)で動いてゐる場所のやうだつた。そこで生きるためには、否応なくこのマナーに従はなければならない、と感じられた。そこで非常に努力して、幸運にも恵まれ、日本は勝ち残つたが、それは同時に、世界(正確には世界を支配してゐた欧米諸国)を敵に回した戦ひへ通じる道でもあつた。

この戦ひには敗れた。その事実はどうしようもないとして、問題は、この後我々日本人にはいかなる物語が残されたか、といふことである。決定的な敗北をした以上、日本のそれまでの歩みは失敗だつたのであり、そんな国・民族にはもういかなる物語も許されない。我々はさう思ひ込んだかのやうである。それでも特に差し支えはない。国はどうでも、仕事や家庭の日常はあり、我々庶民とはもともと、それを第一の関心事にして生きる者だから。

半年のうちに世相は変つた。醜の御楯といでたつ我は。大君のへにこそ死なめかへりみはせじ。若者達は花と散つたが、同じ彼等が生き残つて闇屋となる。ももとせの命ねがはじいつの日か御楯とゆかん君とちぎりて。けなげな心情で男を送つた女達も半年の月日のうちに夫君の位牌にぬかづくことも事務的になるばかりであらうし、やがて新たな面影を胸に宿すのも遠い日のことではない。人間が変つたのではない。人間は元来さういふものであり、変つたのは世相の上皮だけのことだ。(坂口安吾「堕落論」昭和二十一年)

人間はいかにも、「元来さういふ者」であらう。さうであればこそ、うはつつらの下にある世間、人間同士の世界を保つために、何かが必要なのである。「何か」のうち最大のものは、今のところ国家である。普通の人とは商売に忙殺されたり、色恋にうつつをぬかして、大部分の時を過ごす者ではあるが、一割でも、一パーセント以下の時間でも、「自分は国民だ」といふ意識を持たねば、近代国家は成立しない。

成立しなくてもかまはない、といふ人もゐるが、それはごく一部に止まる。ならば、我々はどういふ国の、どういふ国民か、最小限の了解がなくてはすまぬはずである。その了解をもたらすものを、私は上で「物語」と呼んだ。ならば、その喪失は、やはり問題にならずにはすまない。

いや、物語も、了解もあるよ、と言ふ人もゐる。「平和国家日本」といふのがそれだ、と。戦後の日本は自国の交戦権の放棄を謳つた憲法九条を抱き、世界のどの国にも先駆けて、戦争の廃絶といふ人類の理想に足を踏み出した、のだと。これはこれでまた、凄い物語である。あまりにも凄過ぎて、どうも実感がない、といふのが、大方の心持ではないだらうか。

それはこの物語を、我々が「自ら選んだ」といふのが嘘だからではない。物語は、必ず幾分かは、事実ではないといふ意味の、嘘を含む。問題は、我々自身が、この物語を(言ひ方は難しいが)「真実」として生かしてゐるか、少なくとも、生かさうとしてゐるか、にかかつてゐる。

自民党の議員などが、「戦後、自衛隊は、一人も殺してゐないし、また一人も殺されてゐない。これはたいへんなことだ」と言ふのを、TVで何度か聞いた。本気で言つてゐるのかな、と思つた。それが望ましいことだつたとして、日本はさうなるためにどういふ努力をしてきたのか、考へたことがあるのだらうか。

例へば、平成二~三(1990~91)年の湾岸戦争に際して、結果として自衛隊を送らず、合計百三十億ドルを「経済援助」として出しただけに止つたことがその「努力」だつたのだらうか。

これについて私は、TVで見た、田原総一郎氏が当時のアメリカの、アマコスト駐日大使にインタヴューした映像を今でも鮮明に覚えてゐる。田原氏が、「日本の拠出した金が、非軍事物資にのみ使はれるのかどうか、心配する人もゐるのですが」云々と問ふと、大使は急に激高して、次のやうに反問したのだつた。

「非軍事物資だつて? それはいつたいどういふ意味なんだ?」

これ以上は言はなかつたと思ふが、私は彼の言ひたいことがすぐにわかつた。「同じぢやないか」つてことだらう。「武器弾薬を買はうが、食料や医薬品を買はうが、要するに戦争の遂行のために使ふんだから。日本はそんなことにこだはつて、何を示さうとしてるんだ?」と、言はれてしまつたら、まさにその通り。抗弁はできない、とも感じた。

以上は拙著『軟弱者の戦争論』に書いた。この本はこのやうに、戦後日本の「平和主義」を問ひ直すのが主眼だつたのだが、どうも驚いたのは、「お前はアメリカの基準に合はせろと言ひたいのだな」といふ批判に何度か出会つたことである。私はむしろ、「アメリカにどう思はれたつてかまはないぢやないか」といふはうに賛成する。ついでに、「中韓からどう思はれてもかまはない」とも言つてくれるなら、ますます賛成する。自らのプリンシプル(原理・原則)を貫いた結果さうなるのだとしたら、けつかう至極。

本当に身に付いたプリンシプルならば、だ。「平和主義」は、我々にとって、さう言へるものかどうか、一度じつくり考へていただきたい。それが私の一番言ひたいことだつた。

いや、そんな御大層な「げんりげんそく」なんてものこそ、我々日本人には身に合はぬもの、現状に合はせた変はり身の速さこそ身上、といふ人もゐるが、それなら、平和主義も、今後の国際情勢次第でどうにでもなる、といふことだ。そんなものでよいものか。

ついでに言つておかう。戦後の日本にも戦死者はゐる。昭和二十年以後、日本軍は解体されたが、掃海艇の乗組員だけは「日本掃海部隊」の名で再編成され、日本近海の、日米両軍によつてばらまかれた機雷の除去に従事した。これは現在でも非常に危険な仕事で、二十五年までの五年間で殉職者は七十七名に達した。それだけではない。二十五年に朝鮮戦争が勃発すると、この部隊はアメリカ占領軍の命令で、朝鮮半島の元山・仁川方面に送られて、掃海作業をしてゐる。作業中、一隻が機雷に触れて沈没、乗組員のうち炊事係の中谷坂太郎が死亡した。当時は占領中であり、自衛隊の名前すらなかつた時代だから、「自衛隊は戦争で一人も殺してゐないし、殺されてもゐない」は、まあ嘘ではないけれど。

この事件は当時は秘密とされ、政府がようやく中谷などの功績を認めて勲章を贈つたのは昭和五十四年になつてからだつた。それでも、現在でもよく知られた事実とは言ひ難いだらう。

そればかりではない。湾岸戦争のとき金を出したことも、平成十三年にはアメリカ軍の後方支援のためにイージス艦をインド洋に派遣したことも、それより先、ヴェトナム戦争時には、日本の基地から米軍爆撃機が飛び立つて行つたことも(すべて広義の戦争協力と見られる)、当初こそ賑やかに議論されるが、すぐに忘れられ、なにごとも無かつたかのやうに時が流れる。大東亜戦争時の悲惨は、八月になる度に繰り返し語られるのに、それ以後の戦争関連事はあまり注目しないことが、戦後といふ時代が成り立つ要件ででもあるかのやうだ。

冒頭に掲げた坂口安吾のやうに、戦後の日本人のあり方を「堕落」と見、しかし堕落こそが人間本来のあり方だからよいのだ、とする立場もあり得るだらう。しかし、我々はいつから堕落したといふのか。その記憶すらないなら、人間にとつて、時間はないのと同じ。即ち、歴史がなくなる。歴史のない民族には、顔がない。戦後の日本は、何か得体の知れない、薄気味の悪い国になつた。他国の人がどう思ふかではなく、我々自身がさう感じはしないだらうか。この不安は、オリンピックを招致したぐらゐで根本的に解消されるやうなものではないのだ。

前置きが長くなつたが、長谷川三千子『神やぶれたまはず』は、昭和二十年八月十五日、日本民族が体験した稀有の感情を忘却の底から掘り起こし、もつて日本人の歴史を、顔を取り戻す第一歩としようとした試みである。その志をまづ壮としたい。

八月十五日が日本人にとつて特別な日であることを否定する人はゐないだらう。ただし、大東亜戦争が終つた日といふなら、重光葵と梅津美治郎が降伏文書にサインした九月二日とか、サンフランシスコ講和条約が発効して日本が独立した昭和二十七年四月二十八日とかのはうが相応しいと言ふ人はゐる。本書で取り上げられてゐる佐藤卓己氏は、八月十五日を「終戦記念日」とするのはマスコミによる刷り込みであると言つてゐるさうだ(P.51)。八月十五日は新暦では全国的にお盆の日にもなつたので、戦死者の慰霊の日としても相応しいやうに感じられるし、といふわけだ。

さういふ主張は法的にはいかにも正しい。しかし、日本人のこころ、あるいは精神、の問題として考へたときには、八月十五日、玉音放送が流れたことには、誰もが無視できない重さがある。

重さとは、具体的にはどういふものだつたか。著者はまづ、書き残されたいくつかの体験を検討して、この日の意味に迫らうとする。

例へば折口信夫は、玉音放送を聞いて悲嘆にくれる。彼の愛弟子で、養子で、おそらく愛人でもあつた春洋は、硫黄島で戦死した。もちろん日本人の多くが、この戦争でかけがへのない人を亡くしたのだ。その多大な犠牲にもかかはらず、日本はつひに勝利することはなかつた。なぜか。日本を守るはずの神々は、どこへ行つてしまはれたのか。否むしろ、我々が神助に相応しくない者に成り果てたことを思ひ知るべきなのだらうか。

このやうに問ふとき、戦争はのつぴきならない絶対の相を帯びる。悲嘆がないところでは、戦争に格別の意味はない。これを長谷川氏は「すべての戦争は「普通の戦争」なのだと言つてもよい」(P.29)といふ言葉にしてゐる。

普通の戦争としての大東亜戦争で日本はなぜ負けたのかと言へば、アメリカに比べて経済力軍事力すべてひつくるめた物理的な国力が劣つてゐたからだ。それ以外にはない。そんなことは最初からわかつてゐたはずなのに戦争を始め、大きな犠牲を出すまで止められなかつた愚かさ、即ち日本の首脳陣の無能、これに、多くの人と同様、折口も怒つた。怒りに対応する形での、日本及び日本軍の作戦行動の批判的な分析は、現在まで数多い。「歴史から学ぶ」とは、普通にはさういふことであり、それは今後のために必要である。

問題は、悲嘆と怒り、本書で取り上げられた河上徹太郎の言葉では「絶望と憤怒」(P.53)だけが戦後の、大東亜戦争に対するいはば公的な感情とされたところにある。特攻隊員の遺書にしばしば見られる、絶望も気負ひもない清澄な感情などは、無視されるか、せいぜい、軍国主義教育による「刷り込み」の結果とされるぐらゐだつた。

折口信夫の目は、さすがに深いところまで届いてゐたらう。しかし、おそらく、「絶望と憤怒」が大きすぎたせゐだらう、翌二十一年には「神こゝに 敗れたまひぬ―」と歌ひ、せつかく志した「新しい神学」の樹立、「神道の宗教化」も見るべき形を取る前に雲散霧消してしまふ。

いつたい、絶望と憤怒の向かう側に、「八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬」(河上徹太郎「ジャーナリズムと国民の心」、本書P.50の引用文より)をもう一度みることはできないものだらうか。それができれば、「新しい神学」の立ち上げも可能であらう。「イエスの死がたんに歴史的事実過程であるのではなく、同時に、超越的原理過程を意味したと同じ意味で、太平洋戦争は、たんに年表上の歴史過程ではなく、われわれにとっての啓示の過程として把握」(橋川文三「『戦争体験』論の意味」、本書P.35の引用文より)できるのであれば。

河上や橋川の言葉に垣間見える、「あの戦争の、とりわけ敗戦の、本当の意味」の探求を根底に置いた数少ない文業の一つに、桶谷秀昭『昭和精神史』がある。これに触発された著者が、改めて、「啓示」とはなんだつたのか、正面から取り組んだ姿が本書『神やぶれたまはず』には刻まれてゐる。桶谷氏の大著は、むしろこれを語ることの絶望的な困難に呻吟してゐる部分が多いのだが、ここで長谷川氏は、驚くほど闊達で真率である。

ただ、これに単純に「共感する」と言ふにしては、現代に生きる我々は、残念ながら余分なものを抱へ過ぎてゐるやうに思ふ。本書の読後感は、「すつきりし過ぎてゐる」ところがあるのだ。

たぶん、これまで述べたこと以外にも、小さな躓きの石はある。それを無視しては、一歩以上を進める障碍になるのではないかと案じられる石が。私が本書を読みながら抱いた小さな違和感が、その在り処を指摘できるものであればよいと願つて、この一文を草する。



(その2) ――吉本隆明の「転向」――



例へば、「戦後の吉本隆明氏が熱心な反天皇主義者となつた」(P.233)といふ言ひ方にはちよつと違和感がある。私は吉本にさほど深く親炙した者ではないので、もし知らないことがあつたらご教示願ひたいのだが、彼が、この言葉からすぐに連想されるやうな、天皇制打倒を声高に叫んだといふやうなことは、なかつたと思ふ。もつとも、天皇及び天皇制の擁護者や賛美者には、なほさらならなかつたけれど。

戦時中の吉本は、混じりつけなし、純度百パーセントの皇国少年で、天皇のために死ぬのは全く当然だと思つてゐた。玉音放送を聞いたときには「名状できない悲しみ」(吉本隆明「高村光太郎」、本書P.138の引用文より)を感じ、「生きることも死ぬこともできない精神状態に堕ちこんだ」(P.141)と言ふ。これを著者は次のやうに解釈する。

戦中の吉本は、彼の有名な著作『マチウ書私論』中の言葉を借りれば、「神と己れとの直接性の意識」で生きてゐたのだらう。特攻隊員と同様の、「自分の命を喜んで捧げる」といふ心境は、そこからしか出て来ない。しかし、あの日、この「捧げ物」は、当の神によつて拒否された。これ以上残酷なやり方はない。「喜んで死にます」と言つてゐる者に、「生きよ」と言はれても、「すでにいつたん投げ出した命を、もう一度拾ひなほして、いはば廃棄物となつた生を生きること」(P.142)しかできはしないのだから。青年吉本隆明からすると、高村光太郎のやうな、戦争中は天皇のための美しい死を称揚し、終戦となると同じく天皇の名のもとに強く生きることを訴へる詩人は、倫理的といふより感覚的に理解し難い者だつた。

それでも、敗戦後の吉本から、生き神さん=天皇への呪詛の言葉は聞かれなかつた。「神に憤る人間は、その憤怒によつて神にそむくと同時に、その憤怒によつて神へとしばりつけられてゐる…」(P.147)。たぶんこれ以上神に縛り付けられることは耐へ難かつたのだらう、吉本の憤怒は、戦争を引き起こした権力へと向かふ。もつともそれは、戦後の一般的な大東亜戦争論のあり方だつたのだが。長谷川氏はそれを、〈神学〉から「戦争のモラル」へと問題をずらし、後者に戦争犯罪のレッテルを貼ることで、詔勅の衝撃から逃れ、信仰を捨て去ることができたのだらう、と評する(P.157)。

それはさうかな、とも思ふが、吉本についてはもう少し詳細を見ておく必要があるやうに感じる。

昭和三十四年、今上天皇の御成婚時の、いはゆる「ミッチーブーム」に触れて書かれた「天皇制をどうみるか」といふ短文がある。冒頭で吉本は、「戦後、奇妙なノイローゼが、われわれ一部の年代に流行したことがある」と書く。「天皇とか皇室とかいうコトバを眼にしたり耳にしたりすると、肋間神経のあたりが痛くなってくる」から始まり、もう少し症状がすすむと、君が代を聞いたり日の丸を目にしただけで逃げ出したくなつたり、みぞおちのあたりが冷たくなつてくる、のださうだ。今では減つたやうだが、私も同種のノイローゼを患つてゐさうな人には何度か出会つた覚えがある。

吉本自身がこのノイローゼに罹り、治療法を医者に聞いたところ(それはウソでせう…)、「積極療法がいちばんだ、ひとつ天皇とか天皇制とかいうのを、徹頭徹尾、論理的に追及してみろ、ということだったので、早速、実行にうつし、どうやら快癒することができた」。

これが、〈神学〉を「戦争のモラル」へとずらして、根底的な憤怒・苦悶から逃れたことになるだらうか。さうだとしても、吉本隆明を特長づけるのは、この場合の「論理的追求」の徹底性のはうにある。それは戦後すぐに彼が陥つた「ノイローゼ状態」の深刻さの裏返しではあるだらうが。

「天皇制をどうみるか」が発表された『夕刊読売新聞』は、吉本以前に井上清と肥後和男の意見を載せてゐて、この文章は彼らへの批判を骨子としてゐる。御成婚パレードを見送る庶民の熱狂を、井上清のやうに危険視する学者もゐて、「事実、天皇がその歴史的本質に帰って平和と文化の祈とう者として立ってもらいたいなどという肥後和男の空おそろしい発言を読むと、そう考えたくもなる。/しかし、憲法が改悪されず、憲法を超越する法制が存在しないかぎり、天皇制は墓場から復活できないとおもう」。

このやうに天皇制存否の問題は政治的に「大したことではない」、それは今ではもう墓場に入つてゐるのだから、とする態度を、「生き神様」への感情の残滓から、と見るのは、穿ち過ぎといふものであらう。戦後の吉本が、天皇にある種の神性を、たとへ悪しき神性であつても、認めてゐたといふ証拠はまづ見つからないのである。

せつかくだからもう少し。戦争責任といふことになれば、吉本も天皇・天皇制に責任なし、とはしてゐない。御成婚が大騒ぎされたことは「天皇の戦争責任がいまも問われていることのアイロニカルな証拠」だ、などと言つてゐて、これは私には理解し難い。

吉本隆明の戦後の天皇論の要諦を一番短く述べたものとしては、赤坂憲雄氏との対談本『天皇制の基層』(平成二年)中の次の発言になりさうだ。「僕にとっては象徴天皇制は無意識の基盤としては肯定的だ、ということなんです。けれども、理念としていったら全面的に否定します、ということになります」(講談社学術文庫版P.39)。これまた理解し難いところがあるが、たぶんかういふことらしい。天皇および天皇制そのものについては、象徴天皇制を含めて、どこまでも反対の立場である。しかし、それを無意識の地盤の一つとして成立してゐる現代日本の市民社会を認める以上、その限りでは現在の天皇制も認めざるを得ない、と。

確かなことは、吉本は天皇制打倒を喫緊の政治的な課題だとは考へてゐないことで、天皇制は日本の農耕社会の文化がなくなれば自然に消滅するし、産業化が進んだ現在だつて、さほど恐るべき威力を持つてゐるわけではない、といふ見解は、上記二つの文献にも、他にも、記されてゐる。

ただしそれで終はりかといふとさうでもなくて、『天皇制の基層』では、天皇制で本当に問題にすべきなのは、明治国家によつて作り上げられた近代的なイデオロギー及び社会システムとしてのそれだ、とする赤坂氏にはつきり反対してゐる。あのとき、自分を含めて多くの日本人がそのために死なう、死ぬのが当然だ、と感じた「天皇」といふ存在は、もつと広く深い視点から考究されねばならぬのだ、と。

吉本隆明の天皇論にこれ以上つきあふことは、本稿が課題とする範囲をはるかに超える。ここではもう一つ、昭和三十五年に書かれた「日本ファシストの原像」といふ一文を瞥見して終はりにしたい。この文の中ほどで吉本は、女性の戦争体験文集である鶴見和子・牧瀬菊枝編『母たちの戦争体験―ひき裂かれて』(昭和三十四年)を取り上げ、庶民にとつての、戦争に関するイデオロギーはどういふものであつたか、考察してゐる。この記録中から抜き書きされてゐる部分は、吉本自身の文より興味深いし、『神やぶれたまはず』の内容とも関連してゐるので、二つばかり孫引きする。

(1)津村しの「無智の責任」

戦争中人間魚雷に乗って死ぬことを夢としていた弟が、戦後あるとき「たとえ、自分に偽りが全然なくとも、おれたち(わたしをも含めて)の取った態度、また思ったことは、悪いことであった。エゴイズムからでも、戦争に協力しなかったほうが正しかったのだ」という。主婦はこれにたいして、「いや、わたしはそうは思わない。戦争をはじめから否定し、知性ある節操で消極的にでも反対の姿勢を取り続けた人々に対しては、もちろん心の底から頭を下げるけれども、それとは別の人々の中でも責任をとって自決した軍人のあり方はどうしても立派に見え、戦争悪をはっきりと認識しておりながら、時の政府の前に影をひそめて生きていて、戦後になってからわたしは弱い人間ですなんてひとりごとを言って、傷のつかない程度に自分をあばいて見せるインテリのあり方のほうが不潔でいやだわ」と主張する。(後略)

さらに、この主婦の記録は、弟の死を決定的なものとする出征を、悲しみもせず平然と見送った母親が、死の病床で「いろいろのことがあったけれども、どうしてもいちばん大きなことは、八月十五日のことだったよ、一億玉砕しないで生きているということが不思議でね。幾日も幾日も、ご飯がどうしてものどに通らなくてね。廃人というのだろうね。あんな状態を―」と述懐するのを記録している。


(2)田村ゆき子「学徒出陣」

学徒出陣をひかえた息子と陸軍中将で司令官である叔父とが、この記録の主婦の家で談合し、たまたま戦争観について激しく対立する。天皇に御苦労であったと言われて、ありがたがっている叔父に、息子がいう。「(前略)こんな意味のないくだらない戦争に、ぼくは大事な命を投げ出そうとは思いませんよ。まるで、どぶに捨てるようなものだ。」叔父の軍人的庶民はこたえる。「いや、この光輝ある歴史と伝統のある日本に生まれたわれわれは、幸福だよ。国家あっての国民だからな。国の危急存亡の時、一命を捧げることのできるのは、無上の光栄というものだ。」息子はいう。「それじゃおじさん、その国を危急存亡の中へ追いやったのはだれですか。(後略)」叔父「(前略)わが国の御歴代の天皇は、国民の上に御仁慈をたれ給うて、われわれを赤子と仰せられる。恐れ多いことではないか。(中略)民のかまどの仁徳天皇のお話もよく習ったろう。明治の御代からこのかた、国運は隆々たるものだ。みな御稜威のいたすところだ。」息子「おじさんは『日本書紀』もお読みになったでしょう。武烈天皇はどんなことをしましたか。人民の妊婦の腹をさいて胎児を引きずり出したり、人民を木に登らせて下から弓で射させたり、その他天皇たちの非行はたくさん挙げられているではありませんか。これが御仁慈というものですか。それで『大君の辺にこそ死なめ』か。」

このような叔父と息子の対立には、後日譚がついている。やがて、敗戦となり帰京した息子は、家が焼失して、主婦は疎開、夫は近所に間借りの状態で真夜中に帰京し、仕方なくさきの叔父の家の戸を叩いたが、先の大口論にもかかわらず、ずぶぬれの軍服姿の息子をみて、「おお、帰ってきたか。さあさあ、お入り、御苦労だったな」と、温かく迎えたというのである。

このうち(2)の弟と叔父については、また吉本特有のわかりづらい言ひ方で、要するに彼らはインテリの口真似をしてゐるに過ぎない、と言はれてゐる。どんなに激しく言ひ争はうと、そこには人を決定的に、根底から動かすやうな力はない。だから時代が変はるにつれて簡単に変はる。それくらゐだから、「理屈」よりは肉親の情のはうがたいていは大きいのであり、庶民にとつてはそれでよい、否むしろそのはうがよい。しかし、言葉を使ふこと、理屈をこねることが仕事であり存在理由であるはずのインテリまで似たやうなものであり、言葉が羽よりも軽いのだとしたら、それは問題とされずにはすまないだらう。

これに対して(1)については、「残念なことに、わたしたちの戦争責任論は、心情的な基礎として、ここに記録された主婦と弟と母親の準位を超えることができていない」と吉本は言ふ。ここの理路がまた非常にわかりづらいのだが、つまり、「戦争中人間魚雷に乗って死ぬことを夢としていた弟」にしても、「弟の死を決定的なものとする出征を、悲しみもせず平然と見送った母親」も、戦争に対する観念が生活意識のレベルにまで達してをり、その意味でイデオローグたちの言説から「自立」してゐる。戦争で死ぬのは全く当然、それについて彼是の理屈を必要としない程度に。そして吉本(たち?)には、そのレベルで「戦争」を論理的に扱ふことはまだできない、といふことらしい。

果たしてさう言へるのかどうか、疑問はある。この話の中の母は、(2)の叔父の話を聞けば一も二もなく同意したのではないか。こんな知識やら理屈付けはいらないらしいところは、なるほど強さに見えるが、それこそ吉本たち左翼的なインテリが「ナロード(民衆)」に対して過剰に抱いたロマンチズムにすぎないのではないだらうか。

ただ、戦後まで生き延びた主婦と弟には、「無智であることそれ自体に責任はあるか」といふ問ひが生まれる。究極的な問ひの一つではあるが、この問ひもまた、庶民の生活の場で追及されなければならない、と吉本は言ふ。さうでなければ、理屈が一見どんなに精緻になつても、本当に人を動かす力は持たないから、「無智ゆゑの間違ひ」は何度でも繰り返されるであらう、と。これは説得力が感じられる。

以上がざつと、戦後の吉本隆明の立脚点であり、それは戦中の皇国少年の立場からすれば「転向」と呼ばれてもよいのではないかと思ふ。なぜこんな神を信じたか、と悔やまれたとしても「すぐに自分の神学的思考を切り換へて、もつと別の神をさがしたり、無神論を選択したりすることができるといふものではない」(P.146~147)と長谷川氏は言ふのだが、「たやすく」ではなかつたにしろ、戦後の吉本は天皇とは別の神を探し出した。その御名を尋ねれば、たぶん「科学的社会主義」といふのが一番近いであらう。

もちろん旧来の社会主義者とは一味違ふ。吉本は、庶民の生活意識の根底(大衆の原像)から軸足を離さず、一方で目は世界全体を鳥瞰する普遍性をあくまで希求する、理念上の巨人であらうとした。これはこれで一種の神学と呼んでもよい。吉本隆明のカリスマ性は、そこで何が成し遂げられたか、よりは、そこでの彼の意欲の激しさと逞しさに因る。これまた、宗教指導者の持つカリスマ性に似通つてゐると言へる。

そしてかういふのもまた、八月十五日の衝撃が生み出したものなのである。


(その3) ――三島由紀夫の「忠義」――



戦前に生まれ、天皇を神とし、戦後になつても「神へとしばりつけられ」てゐる徴である憤怒を持ち続けた数少ない人物の一人として、長谷川氏が挙げたのは三島由紀夫である。ただし三島は、八月十五日にはあまり衝撃を受けなかつた、と何度も、自ら言つてゐる。例外はただ一つ。

たしかに、二・二六事件の挫折によつて、何か偉大な神が死んだのだつた。当時十一歳の少年であつた私には、それはおぼろげに感じられただけだつたが、二十歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死の怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直観したものと、どこかで密接につながつてゐるらしいのを感じた。(「二・二六事件と私」、本書P.163の引用より)

このエッセイは、「二・二六三部作」として、「英霊の聲」「憂國」と戯曲「十日の菊」をまとめて『英霊の聲』の総タイトルで出版された(昭和四十一年)ときの、あとがきとして付されたものである。「神の死の怖ろしい残酷な実感」こそ、吉本隆明や桶谷秀昭氏が八月十五日に感じたものであらう。「これまでいつもはぐらかすやうな仕方でしか語らなかつた自らの敗戦体験を、三島由紀夫はここではじめて、小説の形をかりて語り出さうとしてゐるらしい」との期待を長谷川氏は抱く。ところが小説「英霊の聲」には、八月十五日のことなどほとんど何も書かれてゐない。二・二六事件に際して感じられた「神の死」は、終戦の翌年の「人間宣言」に結びつけられる。

三島にとつては、敗戦は実際に痛恨事ではなく、上の文中の「敗戦に際会したとき」云々は、「筆のすべり」に過ぎなかつたのか、とさへ思へるが、さうではなく、「告白するやうな顔をしてかくし、かくしながらひそかに告白する」といふ彼の習性に則つて八月十五日が描かれてゐるのだらう、と長谷川氏は考へ、そこから「英霊の聲」の分析に向かつてゐる。

私はこれに関しては、「筆のすべり」のはうが正解に近いやうに感じてゐる。むろん「真実」はわからない。今も三島が生きてゐて、尋ねることができたとしても、彼が「正解」を言ふかどうか、いや、彼自身が「正解」を覚えてゐるかどうかも確実ではないだらう。だいたい、三島といふ多作で多弁な作家の遺した大量の言葉のうちから、彼が積極的に示さうとしたぺルソナ(仮面)を見て、とりあえずそこの「真実」に基づいて考察を進めるより他に、彼とつきあふ道はないと思ふ。

三島が敗戦前後を語つた文書のうち、一番詳細なものとしては小説「仮面の告白」がある。そこでは例へばかう言はれてゐる。「戦争が勝たうと負けようと、そんなことは私にはどうでもよかつたのだ。私はただ生れ変りたかつたのだ」。

「生れ変」るとは、この場合は死ぬことを言ふ。この主人公は、普通の、平凡な生活を何よりも嫌悪し、また恐れてゐた。文学の世界でこそ、天才の声名を一部からは受けてゐたものの、それ以外の彼は、虚弱で、また男色の性癖を隠し持つた青年だつた。この時代では、今よりずつと生きづらさを感じざるを得なかつたらう。殊に、彼のやうに自意識もプライドも異常なまでに強い者は。空襲時の火に捲かれて夭折する、そちらのはうが、退屈で無意味な日常に埋没し、そこからの侮辱を絶えず感じながら生きるよりずつとよい。

と、思つてゐてもその時は来る。それは八月十五日の少し前だつた。彼は父親から、「確かな筋からきいたといふ原文の英文の写し」(ポツダム宣言かしら?)を見せられる。

私はその写しを自分の手にうけとつて、目を走らせる暇もなく事実を了解した。それは敗戦といふ事実ではなかつた。私にとつて、ただ私にとつて、怖ろしい日々がはじまるといふ事実だつた。その名をきくだけで私を身ぶるひさせる、しかもそれが決して訪れないといふ風に私自身をだましつづけてきた、あの人間の「日常生活」が、もはや否応なしに私の上にも明日からはじまるといふ事実だつた。

敗戦の衝撃がなかつたわけではない。しかしそれは、「私にとつて、ただ私にとつて」とわざわざ繰り返して、天皇も日本民族の運命も、全く念頭にない主人公の身勝手さが強調されるていのものだ。これが三島由紀夫の文学の出発点だつたのである。

それでも、三島が、二・二六事件の青年将校たちに憧憬を抱いてゐたことは本当だらう。「二・二六事件と私」の、先程の引用文の後は次のやうになつてゐる。

それがどうつながつてゐるのか、私には久しくわからなかつたが、「十日の菊」や「憂國」を私に書かせた衝動のうちに、その黒い影はちらりと姿を現し、又、定かならぬ形のままに消えて行つた。

 それを二・二六事件の陰画とすれば、少年時代から私のうちに育まれた陽画は、蹶起将校たちの英雄的形姿であつた。その純一無垢、その果敢、その若さ、その死、すべてが神話的英雄の原型に叶つてをり、かれらの挫折と死とが、かれらを言葉の真の意味におけるヒーローにしてゐた。

三部作のうち最初に書かれた「憂國」(昭和三十五年)は、正にその陽画を描いたものだ。主人公の青年将校は美男であり、彼が半年近く前に娶つた妻は美女である。夫は蹶起将校たちと親しく、当然誘はれたはずだが、たぶん新婚であることを慮つてのことだらう、相談も受けなかつた。蹶起の二日後、即ち二十八日の夜、彼は警備の任を一時解かれて帰宅する。もはや蹶起部隊は叛乱軍と決まつた。明日は自分も討伐に加はるやう命じられるであらう。それはできない。と言つて軍人として勅令にも逆へない、とすれば、残された道は、今晩のうちに死ぬしかない。

「俺は今夜腹を切る」と夫が告げると、妻は少しもたぢろがず、「覚悟はしてをりました。お供をさせていただきたうございます」。夫「よし。一緒に行かう。但し、俺の切腹を見届けてもらひたいんだ。いいな」

これでこの小説の物語は終はる。後は、死を前にした若夫婦の交合と、切腹の詳細な描写が続く。至高の死に密着した至高のエロスが描かれてゐる、といふことなのだらうが、臆病で凡庸な私にはその味はひはわからない。ただ、三島にとつて、死の必然性が最も重大なのだな、とはわかる。必然的な死こそ、生を必然的なものとする。それを得た者が英雄なのであつて、偶然の死によつて終はるしかない人生など、なんの意味も値打ちもない。「仮面の告白」中の二十歳の青年が抱く日常性への嫌悪を辿ると、かういふところへ行き着くのは見易いだらう。

同様に、直ちに気がつくことだらうが、ここでは天皇はほとんど関係ない。「憂國」には、その題名とはうらはらに、国家への思ひも微塵もない。ただ至高の死を導く条件として、討伐の勅令が予想されてゐるだけだ。ここでも三島は、恐ろしく身勝手なままなのである。

さてしかし、三島が創造した青年将校はそれでよいとして、実在の蹶起将校たちの死はどうなるのか。この時「偉大な神が死んだ」とは、どういふ意味になるのか。ここで初めて、神としての天皇が問題になつてくる。これを最も直截に伝へたのが「英霊の聲」であつた。

あらかじめ言ふと、ここには「神への奉献としての死が、当の神によつて拒まれる」事態が描かれてゐる。これこそ『神やぶれたまはず』のテーマであるが、長谷川氏が八月十五日のこととして提出する「神学」とは大きく隔たつてゐる。土台がまるで違ふのである。

「英霊の聲」が雑誌と単行本の両方に発表された昭和四十一年の三月初旬、伊澤甲子磨と、蹶起将校のうちただ一人自決した河野壽大尉の兄で、二・二六事件研究家の河野司が来訪したときの談話の「要約」が、安藤武『三島由紀夫「日録」』に収録されてゐる(P.315)。

三島「二・二六の挫折の原因は何でしょう」河野「三〇年に亘る私の研究の結果は、口にすることは憚るものがありますが、最終的には天皇との関係の解明につきると思います」三島「やはりあなたもそうですか」河野「蹶起将校一同は全員自決を決意し、自決に際しては、せめて勅使を仰ぎたい旨の懇願を、本庄侍従武官長を通じて奏上した。陛下のお言葉は、陛下には非常なる御不満にて、自殺するならば勝手に為すべく此の如きものに勅使など以ての外なりと仰せられたと本庄日記にある」三島「人間の怒り、憎しみですね。日本の天皇の姿ではありません。悲しいことです」河野「三島さん、彼等が若し獄中で陛下のこのような言動を知っていたら、果たして『天皇陛下万才』を絶叫して死んだでしょうか」三島「君、君たらずとも、ですよ。あの人達はきっと臣道を踏まえて神と信ずる天皇の万才を唱えたと信じます。でも日本の悲劇ですね」

これが三島の天皇神学のエッセンスである。蹶起将校に勅使を送らず、その死に栄光を与へなかつたことこそ最大の過ち、神としての天皇にはあるまじきふるまひであつた、と。将校たちのテロル(近代政治の文脈ではさうとしか言ひやうがない)は政治的にはどのやうな正しさが認められるのか、その次元のことは関心の外であるかのやうだ。たぶんさうなのだらう。敗戦が重大事ではなかつたやうに。

しかしいつたいそのやうなことがどうして可能であつたらう。賜死とは、支那に由来する制で、身分の高い者が罪を得たとき、公然と追求して縄目の恥に晒すことを避け、潔く自裁した形を取ることで、ぎりぎりの面目を立ててやらうとするものだ。それが日本で、「御馬前の死」=「戦場での討死」となんとなく混同され、栄光ある死だと考えられたのは、ある種の転倒があつたやうに感じられる。

それに第一、臣下に死を賜はることは「日本の天皇の姿」として正しいと言へるのだらうか。支那では多くの場合、毒を贈ることがその作法だつたやうだが、日本では上記の「美意識」の結果、切腹といふ独特の形式に昇華したことは御存知の通り。しかし言ふまでもなく、これは武家の習はしであり、死を命じる主君もまた武士である。長谷川氏も指摘する如く、天皇がさうしたといふ記録は、記紀にはない。

では、変革の原理としての天皇はどうだらう。三島は「英霊の聲」の翌年に書いた「『道義的革命』の論理」で、「国体思想そのものの裡にたえず変革を誘発する契機があつて」「国体論自体が永遠のザインであり、天皇信仰自体が永遠の現実否定なのである」と述べてゐる。

それは国体の中心核としての天皇が、日本の「道義」そのものであるからだ。古来、天皇かそれに近いところで企てられたクーデターから皇族内部のいざこざを除いて数へると、大化の改新、承久の変、建武の中興、といふことにならう。これらはいづれも、「我が国の本来の姿である皇道に戻る」ことを中心理念として掲げてゐた。明治維新も然り、徳川幕府の治世は、あるいは幕府の存在そのものが、国体に悖るとされて、葬られた。倒幕のために天皇信仰が利用されたと言つたはうが現実的には正確であるとしても、理念としてまたタテマエとしてそれは有効、といふより、日本では唯一無二の革命理念であつた事実は揺がない。

しかし、かういふのが野放しにされるのは危険極りない。現実のどんな政治体制も、完全に道義的になどなり得ない。「神の王国」から見たら、この世は常に汚れてゐる。そもそも、人間は道義的に完全にはなれないからこそ、政治が必要とされたのではないか。それを忘れて、「永遠の現実否定」、当時流行つてゐた言葉だと永久革命、をあくまで指向したりしたら、理の当然として、国家・社会は滅ぶ。その危険ぐらゐ、三島もよく弁へてゐた。そのうへでしかし、二・二六の青年将校たちが目指した完全なる道義による変革に、己を託さうとしたのである。

ところで、この時の天皇は国家元首として、また大日本帝国陸海軍の大元帥として、現実の国家の統治者であつた。現体制を守らうとするのが当然であり、軍の統制を最大規模で乱した者たちは、叛乱軍として処罰せねばならぬ。昭和天皇が迷はずさうしたのは、そこに「人間の怒り」があつたことは否定できないにしろ、やはりご英断であつたと評するしかない。

もちろんそれは、蹶起将校たちが求めた、「絶えず変革を誘発する契機としての国体」、その体現者としての天皇像から見れば逸脱であつた。しかしその逸脱がいつ起きたかと言へば、昭和十一年ではなく、遅くとも、帝国憲法によつて天皇が立憲君主となつた明治二十三年まで遡らなければならない。つまり、昭和維新を志した者たちにとつて、「神の死」はもう起きてしまつてゐたのである。

私は先ほど「(終戦の折の)神の死の怖ろしい残酷な実感」は「筆のすべり」としたほうが正解に近い、と推測した。どこがすべつたのかと言ふと、たぶん、「神の死」ではなく、「神の不在」と書くべきだつたのではないか。戦争で多くの者が死んだが、その死を嘉すべき神は最初からゐなかつたのだ(もちろん三島が求めてゐるやうな神は、だが)。さうであれば、三島が戦中に思ひ描いてゐたやうに、戦火に焼かれて死んだとしても、それは偶然の死の一つに過ぎないことになつてしまふ。さらには、特攻隊員の死ですらもが。

天皇の「人間宣言」は、その内容に関はらず、さう呼ばれることによつて、この恐るべき事実を明らかにした。そこが呪はしいのである。

これは当然、「神風はつひに吹かなかつた/何故だらう」の答へになる。三島はそれを、特攻隊員の霊の口を借りて、次のやうに言つてゐる。



陛下の御誠実は疑ひがない。陛下御自身が、実は人間であつたと仰せ出される以上、そのお言葉にいつはりのあらう筈はない。高御座にのぼりましてこのかた、陛下はずつと人間であらされた。あの暗い世に、一つかみの老臣どものほかには友とてなく、たつたお孤りで、あらゆる辛苦をお忍びになりつつ、陛下は人間であらされた。清らかに、小さく光る人間であらされた。

それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。

だが、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらされるべきだつた。何と云はうか、人間としての義務(つとめ)において、神であらされるべきだつた。この二度だけは、陛下は人間であらされるその深度のきわみに於いて、正に、神であらされるべきだつた。それを二度とも陛下は逸したまふた。(下略)


「何と云はうか」と言ひ澱んでゐることからも察せられやうに、ここで英霊は非常に困難な、いや、明白な不可能事を要求してゐるのである。ある決定的な瞬間において神であること、それが人間である天皇の最高の義務だ、などと言はれ、具体的にはどうすればよいのか、わかる人がゐるだらうか。蹶起将校たちの志を嘉納すること?

しかしそのためには、幾分かは、彼らの行ひを認めなくてはならない。蹶起将校が生前思ひ描いてゐた理想としての「絵図」第二の中で、天皇は彼らに死を命じるのだが、その前には、「今日よりは朕の親政によつて民草を安からしめ、必ずその方たちの赤心を生かすであらう」などと言ふ。天皇の親政? 北一輝だつて実質的にさうなることなど求めてゐなかつた。また、ただそれだけで、蹶起将校たちが政治の貧困・悪徳の証としてゐた、当時の「民の貧しさ、民の苦しみ」まで自動的に救ふことができたらうか。それなら、政府はいらない。憲法もいらない。つまりは、天皇が国家元首、などといふ体制もいらなかつたといふことになる。

これを逆に見れば、天皇が江戸時代まで続いた武家政権で概ねさうであつたやうに、政事や軍事の実権から離れてゐたとしたら、彼らのために一掬の涙をお流しになるぐらゐはおできになつたかも知れない(なさつたかどうかはわからないが)。思へば、そのやうな存在のみが、「絶えざる変革の原理」となり得るであらう。

しかし、陛下が大元帥であり、軍の統帥権を総攬するのだから、自分たちは真直ぐに陛下とつながつてゐる、との思ひが、青年将校たちの第一の行動原理だつたのだから、ここには、この世にあつては、いや、いかなる神をもつてしても、絶対に解き難いアポリアがあるとしか言ひやうがない。

と、いふこともまた、三島は私などよりずつとよくわかつてゐたに違いない。コウルリッジはシェイクスピアは万の心を持つと言つたが、優れた劇作家でもあつた三島にも、百ぐらゐの心はあつたらう。蹶起将校の霊に憑依されてゐない時の彼は、次のやうに昭和天皇の大御心を思ひやることもできたのである。

ああ、お上、尊いお上、けだかい、あらたかな、神さびてましますお上、今やお上も異人の泥靴に瀆されようとしておいでになる。民のため、甘んじてその忍びがたい恥を忍ばうとしておいでになる。(中略)かつて瑞穂の国、日出る国であつたこの国は、今や涙の国になつた。お上こそはこの国の涙の泉だ。遠く苔むした山の頂で、限りもなくあふれるおん涙の泉を、私ははるか山裾にゐて川へ伝へる一本の筧だつたのだ。

これは「英霊の聲」の翌年に書かれた戯曲「朱雀家の滅亡」の一節である。この作を私は、現代日本語で書かれた最も美しい戯曲の一つだと考へてゐる。

主人公は、古くから琵琶をもつて宮廷に仕へてきた朱雀家の当主で、戦争中、この国に仇なすと思へた首相(東條英機がモデルだとすれば、彼が気の毒に思へる)を退陣させるために一役買つたが、それを奏上した時の陛下の目に「何もするな。何もせずにをれ」との詔を読み取る。さうであるならば、ただ黙つて滅びるしかない。

陛下のお考への中にさういうものが実際にあつたかどうかはわからない。が、二・二六事件や三島事件のやうなことをしでかすくらゐなら、何もしないでゐてくれたはうがよい、とはされたであらう。そして、それが大御心に叶ふことだとして、「生きることも死ぬこともできない精神状態」に敢へて留まり続ける者に、不思議な至福が訪れる。承詔必謹の極みだからである。これはこれで、「神人対晤」のある形かも知れない。ただし、よそ眼にはそれは「静かな狂気」と映る。

かういふ境地もあり得ることを示した三島だが、自分自身は最終的にはもつと激しい狂気に身を委ねた。一つには年齢の問題もある。「お上の御学友」だつた朱雀家の当主は終戦時で四十五歳だらうが、昭和といふ年代と生まれを同じくしてゐた三島は二十歳。黙つて滅びを受け入れたまま生きて行くにしては死までの道のりが遠すぎる。もつとも、戯曲では当主の息子は、朱雀家の最後を飾るべく「南の島」で戦死するのだが、三島は、徴兵逃れに近い形で、その機会を自ら逸してゐた。

ここからは私は長谷川氏の論にほぼ完全に同意する。三島に残されたのは、「行動学入門」(昭和四十四年~四十五年)に言ふ、最も純粋な行為としての死である。政治的な有効性はもとより、究極的な必然性を与へてくれる神の有無さへ問はない、心情において徹底的に純粋であることによつてのみ、「道義性」が保証されてゐるやうな行為。三島はこれを、「豊饒の海」第二巻「奔馬」(昭和四十二年~四十三年)の主人公にかう言はせてゐる。

忠義とは、私には、自分の手が火傷するほどの熱い飯を握つて、ただ陛下に差し上げたい一心で握り飯を作つて、御前にささげることだと思ひます。その結果、もし陛下が空腹でなく、すげなくお返しになつたり、あるいは、『こんな不味いものを喰へるか』と仰言つて、こちらの顔へ握り飯をぶつけられるやうなことがあつた場合も、顔に飯粒をつけたまま退下して、ありがたくただちに腹を切らねばなりません。又もし、陛下が御空腹であつて、よろこんでその握り飯を召し上つても、直ちに退つて、ありがたく腹を切らねばなりません。何故なら、草莽の手を以て直に握つた飯を、大御食として奉つた罪は万死に値ひするからです。では、握り飯を作つて献上せずに、そのまま自分の手もとに置いたらどうなりませうか。飯はやがて腐るに決つてゐます。これも忠義ではありませうが、私はこれを勇なき忠義と呼びます。勇気ある忠義とは、死をかえりみず、その一心に作つた握り飯を献上することであります。

かくして昭和四十五年十一月二十五日のあの蹶起となる。これによつて三島由紀夫は、戦後日本の伝説となつた。しかし、最後に「天皇陛下万歳」が叫ばれた、その時の「天皇」とはいつたいなんだつたのか、それは私などの理解を絶する領域である。

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