美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

由紀草一・長谷川三千子『神やぶれたまはず』(その4) (イザ!ブログ 2013・10・19 掲載)

2013年12月25日 02時48分14秒 | 由紀草一
由紀草一・長谷川三千子『神やぶれたまはず』(その4・完結篇)
 ――昭和天皇の平和主義+長谷川先生からの御返答――



昭和天皇の日本国憲法署名

大東亜戦争の降伏とは、一億総玉砕といふ形で、神に命を捧げようとしてゐた日本国民が、その奉献を拒否された事態だつた。しかしその時、陛下の玉音放送があり、民を救ふために身を投げ出す聖王の意思が、日本国民に直に伝へられた。この時、神風は吹いたのであり、神人対晤が行はれた。ただそれは、はるか上空を一瞬吹き渡つた天籟であり、確かに聞いたにしても、その意味は忘れられたり取り違へられたりされることが多かつた。

これがざつと『神やぶれたまはず』の主旨である。魅力的なストーリーであるが、そこには収まりきれないこともあるのを、私はこれまで吉本隆明と三島由紀夫に即して述べてきた。我々もまたけつかう複雑なのが当然なのだから、私はここで長谷川氏へ反論するつもりではなく、一種の注釈つけのつもりであつた。

今後もさうだ。が、天皇自体のこととなると、話はいよいよ広遠かつ微妙であつて、私はただ疑問、それも愚問に過ぎないものしか提出できないかも知れない。ただ、私なりのこだはりはどうしてもあるので、長谷川氏を初め、博識の人のご教示をお願ひしたい。

疑問は大きく分けて二つある。

第一に、「天皇」の性格、といふか我が国体に関すること。長谷川氏はそれを、藤田東湖「弘道館記述義」を援用して次のやうに述べる(以下の語釈は長谷川氏に依る)。我が国には「宝祚無窮」(皇室がきはまりなく続きさかへること)「国体尊厳」「蒼生安寧」(天皇が民の安寧を第一のこととして常に心がけられること)「蛮夷戎狄率服」(周辺諸国が自ずから日本に従ひ服すること)の四つが実現されてゐるが、重要なのはこれら四つが互ひに循環し、つながり合つてゐることである。「すなはち、天皇が民を「おおみたから」として、その安寧をなによりも大切になさることが皇統の無窮の所以であり、だからこそ国体は尊厳である」(P.242)。

俗人である私から見ると、なんだか都合が良すぎて危い。最後の「蛮夷戎狄」など、周知の如く、支那の王朝が周辺の諸民族に与へたれつきとした蔑称である。日本ももちろん「東夷」の中に数へられる。皇帝の徳にこれら野蛮人どもが心服する、といふのも支那ふうだ。これだけでもやや不愉快な感じになる。

東湖は「蛮夷戎狄」で具体的にどの国々を考へてゐたらうか。特に考へなかつた可能性もある。つまり、それこそ「周辺諸国」と同じであつて、深い意味はないのかも。しかしながら、これを「当然のこと」として掲げたりしたら、実際の国々からは単なる夜郎自大と映るのはやむを得ないであらう。それを「八紘一宇(日本書紀の文言なら八紘以宇)」=「世界中が一つの家族のやうになりませう」と言ひ換へても同じこと、相手の国情も民族性も日本との具体的な関はりも無視してこんなことを言ふのは、何か悪しき意図を隠してゐるのではないかと疑はれても仕方がない。

日本人はずいぶんデリケートな国民であるのに、かういふところへは神経があまり行き届かないやうなのは、残念である。だから、現在の中韓の日本叩きは、自国の都合によるところが大半ではあらうが、かつての日本の態度がその種を蒔いた面も決して否定できない。

以上は本書の内容から離れてゐる。ここで一番の問題は「宝祚無窮」と「蒼生安寧」の密接なつながり、即ち、一心に民の幸せを念じる天皇が、当然民に慕はれ、万世一系の皇統が続いてきた、とするところである。

このやうなあり方は、本当に日本古来のものと言へるであろうか、と問ふことはここでは棚上げにする。第2節で挙げた、叔父と甥の議論以上のことを私が言へるわけではないから。

ただ、長谷川氏が、旧約聖書の「イサク奉献」を引いて、西洋の不滅の神(不滅であるおかげで、全知全能だが死ぬことだけはできない)と、民のために死ぬこともできる現御神(個体としての天皇は死んでも、次の世代に皇統が引き継がれるので、全体としては不滅である)といふ対比を示したのは、一読したときには行文の美しさに惹かれて納得してしまひさうになつたが、落ち着いてみるとやや強引な感じが持たれるのは否めない。

「日本の伝統的な「愛民」は、天皇自身の自己犠牲の決意にささへられてゐる」ことの例証として長谷川氏が挙げたのは次の三例である。民の窮乏を見て課税を一時停止し、宮殿がどれほど傷まうと修繕せず、自分もまた弊衣粗食に耐へた仁徳天皇。元寇の際に「わが身をもつて国難に代へむ」と祈願なされたといふ亀山天皇。大雨で死者がでたとき、雨が止むようにと「民に代つて我が命を弃(す)つる」の祈願をした花園天皇。

すべて自己犠牲的な精神と呼んでよいが、イエスの刑死や、お釈迦様の「捨身飼虎」に比肩し得るやうな苛烈な自己犠牲ではない。現にこの御三方とも、これによつて崩御なさつたわけではない。日本の神は、自分の身を犠牲にして他者の幸福を願ふ者に対して、その祈りを聞き届ける時もあればさうでない時もあるが、めつたに命まで奪はうとはなさらない、優しいと言ふか、曖昧と言へばさう言へるやうなご性格であるやうだ。

一方、山背大兄王が「われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定(さだめ)し。しかあれど一つの身のゆゑによりて、百姓を傷(やぶ)りそこなはんことを欲(ほ)りせじ。このゆゑにわが一つの身をば入鹿に賜はん」(「日本書紀」)と言つて、蘇我入鹿との戦ひを避け、法隆寺で一族とともに自害したといふ逸話には、たぶん仏教をベースにした、自己犠牲そのものが現れてゐる。

しかし、どうだらう。山背大兄王が本当に聖徳太子の子であるかどうかはさておき、「王」なのだから天皇になる資格は認められてゐたのだろう。また、だからこそ入鹿に襲はれたのだらう。結果、即位しなかつた。だからこのやうな鮮烈な、紛れもない英雄的な死も似つかわしいのであつて、天皇その人の場合はどうか、と感じるのは、私が軟弱だからだらうか。

因みに、歴代天皇の中で自死したことが知られてゐるのは御二方、弘文天皇(大友皇子)と安徳天皇だ。前者は明治になつてから諡(おくりな)された方だし、後者は御年八歳で、母方の祖母である二位の尼(平清盛の正室)に導かれて、いはば無理心中に近い形で入水なされた。御二方とも、別々の意味で、天皇としては例外的な存在なのである。また、その死には、普通の意味で自己犠牲的な要素は乏しい。さうではなくて、山背大兄王のやうな壮烈な死に見舞はれる場合が多かつたとしたら、天皇家は百二十五代も続かなかつた、やうな気がしませんか?

私は一個の日本人として次のやうに感じてゐる。天皇陛下には犠牲にまでなつていただかなくてもよい。国民の安寧を一心に祈つてゐるらしき存在がゐてくれるのは、その祈りの現実的な効果はあつてもなくても、心の救ひになる。その意味でなら、「宝祚無窮」と「蒼生安寧」は密接不可分のものだと言はれることに同意する。平時なら、これで特に問題はないだらう。

平時ならば、だ。そこで第二の、わが国未曾有の国難時に際会された昭和天皇の場合に移る。

以下の事実はいろいろな本に載つてゐて、よく知られてゐるだらうから、『神やぶれたまはず』の記述(P.263~266)から概要を記すに止める。日本政府にポツダム宣言が伝へられたのは七月二十六日。ソ連は八月八日に日ソ中立条約を一方的に破棄して、八月九日侵略開始。これによつてソ連を仲介にして和平を結ぶ案は完全に潰えた。この午後、ポツダム宣言受諾の可否を巡つて閣僚会議が開かれるが、賛否二つに分かれて決着がつかなかつた。そこで深夜に御前会議が開かれ、ご聖断が仰がれた。この時天皇は「自分の意見は東郷外務大臣の申したことに賛成である」と、受諾の意思を示された。それで受諾と決まつたのだが、この時は「右宣言は天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解」を条件とするものだつた。八月十三日、この申し入れに対する回答(いはゆるバーンズ回答)がもたらされたが、これでも天皇及び天皇制がどうなるかについては曖昧なままであつた。そこで八月十四日朝、再度の御前会議での、再度のご聖断となる。

天皇は、玉砕をもって君国に殉じようとする国民の心持はよくわかるが、「自分は如何にならうとも万民の生命を助けたい」、戦争をやめる他に、日本を維持する道はない、と懇々と諭し、戦争での死傷者・遺族、さらに国民全般に「御仁愛」の言葉を発した。さらに、国民に呼びかけることが必要なら私は何時でも「マイク」の前に立つ、とも述べた。(伊藤之雄『昭和天皇伝』P.388)

これはこれで英雄的な御姿と呼ばれてよいものであらう。この後昭和天皇は処罰もされず退位もなされなかつたが、それはアメリカ占領軍の都合によるものであつて、陛下御自身の自己犠牲的精神を疑ふべき理由はどこにもない。

我々はこれを忘れたからこそ、堕落の道を歩まなければならなかつたのだらうか。さうかも知れない。堕落とは具体的には、長谷川氏によると「いまも日本は安全保障を米国に頼らざるをえないでゐるのだし、「日本国憲法」などといふものが半世紀以上も存在しつづけてゐるのだし、北方四島もロシアにとられたまゝである」(P.42)やうな状態、さらには我々がそのことを普段一向に気にとめないで過ごしてゐる状態を指す、としてよいであらう。

私もまた、一日も早く、憲法を改めるべきだし、独立国なのに他国の軍隊が常時駐留してゐる異様な状況は解消されるべきだと思ふ。そのためにはまづ、八月十五日の、「宝祚無窮」と「蒼生安寧」が見事に合体して、我が国体の尊厳が輝いた瞬間を思ひ出すべきであらうか。確かに、それこそ正道なのであらう。

しかし、昭和天皇は戦後まで長く皇位にお留まり続けられた。その中で、戦後政治史の過程にもいくらか関はつてをられる。八月十五日を思ひ出して、こちらを忘れる、といふわけにもいかない。

まづ、「日本は安全保障を米国に頼らざるをえない」ことを、占領中の段階では、昭和天皇が積極的に望まれた事実がある。

以下は豊下楢彦『昭和天皇・マッカーサー会見』に依つて述べる。戦後独立前には実質的な日本の支配者であつた連合軍最高司令官と天皇とが、何度も会見を重ねたことは周知のことである。その中で、昭和二十二年五月六日に行われたダグラス・マッカーサーとの第四回会談は、三日前に施行されたばかりの新憲法の、九条問題に終始した。この時マッカーサーが、「日本が完全に軍備を持たないこと自身が日本の為には最大の安全保障」であるとしたのに対し、天皇は、日本が軍備を放棄する以上、「日本の安全保障を図る為にはアングロサクソンの代表者である米国がそのイニシアティブをとることを要するのでありまして、その為元帥の御支援を期待しております」と答へてゐる。

軍人であるマッカーサーより天皇のはうが、安全保障の問題について「現実的」だつたことには苦笑させられるかも知れないが、この時マッカーサーは外国からの日本侵略のことのみ考へ、その可能性はごく少いとしたのに対して、天皇は国内の革命勢力こそ最も危険、と考へたところで食ひ違ひが出たやうである。後のいはゆる「沖縄メッセージ」で言ふ「占領終結後、ロシアによる日本への内部介入の口実として使えるやうな「事変」を惹き起こす可能性がある極右及び極左グループの勢力拡大」こそ押へなければならぬ、特に「極左」の、共産主義者の場合、どうしても天皇制を廃止するだらうから。天皇が皇統の存続を最優先と考へること自体は、ごく自然なことである。

ところでこの「沖縄メッセージ」、詳しくは「沖縄の将来に関する天皇の考へを伝へるため」のメッセージは、この昭和二十二年九月二十、御用掛寺崎英成を通じ、マッカーサーの政治顧問にして総司令部外交局長W.J.シーボルトに伝へられた。これをシーボルトが文書化したものが昭和五十四年に進藤栄一によつて発見され、現在「沖縄公文書館」のホームページに写真版で公開されてゐる。

http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21.html

この中では、「天皇は合衆国が沖縄及び他の琉球諸島の占領を継続することを希望する」とされ、そのやり方についても「合衆国の沖縄(及び要求される他の島々)への軍事的占領は、日本に主権を置いたままで、長期間の―25年から50年、あるいはそれ以上―貸借といふ擬制(フィクション)の上に基礎を置くべきであらう」と記されてゐて、その後の沖縄はほぼその通りの状態になつたことを考へれば、天皇は戦後も、否むしろ戦前にも増して、内閣をも飛び越えて実質的な「外交」をしてゐたのではないか、と勘繰りたくもなるだらう。豊下氏などはその説である。

実際はそんなことはなかつたらうと思ふ。昭和天皇とジョン・フォスター・ダレスらに代表される当時のアメリカ政府が、反共の一点で一致したから、結果として天皇の望むと ほりに政局が動いたやうに見えるだけではないか。

だから、この点天皇の政治責任などはないのだが、長谷川氏が桶谷氏から受け継いだ「精神史」から見るとどうだらうか。「大君の辺にこそ死」すべき「醜の御楯」が失はれた状態で、アメリカ軍に肩代わりをしてもらつて、「宝祚無窮」を保たうとするとしたら、「国体尊厳」はどうなるのか。この時期には他にどうしようもなかつたことは、それこそ政治的には納得できるとしても。

「蒼生安寧」については、天皇が沖縄を積極的にアメリカに差し出したやうに見えるところが、単に「見える」だけであるのはわかつてゐても、喉に小骨がひつかかつたやうな感じを残す。「日本に主権を置いたまま」の一語で、将来沖縄が日本に復帰する布石を打つたのだとする説もある(ロバート・D・エルドリッジ『沖縄問題の起源』)が、今の私は説得されてゐない。

次に日本国憲法。ごく大雑把に言へば、日本政府内部で憲法改正に従事した人々は、天皇制存続のためにはこれしかないと言はれ、GHQ案を受け入れざるを得ない、と考へてゐた(佐藤達夫『日本国憲法成立史』など)。言はば、天皇制と引き替へに今の憲法がある。やはり、いくさに負けた以上、なんとしても陛下をお守りせねばならぬといふ民の決意と、自分の身を捨てても民を救はねばならぬといふ大御心はあつても、それだけで、なんの代価も払はずにすむ、といふわけにはいかなかつたのである。

さらにまた、憲法についても昭和天皇のお言葉がある。六法全書で憲法の頁を引けば、最初に出てくるものであるが、ここにも引用しよう。

(1)日本国に憲法公布記念式典において賜つた勅語 昭和二十一年十一月三日詔勅

本日、日本国憲法を公布せしめた。

この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであつて、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によつて確定されたのである。

即ち、日本国民は、みづから進んで戦争を放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたのである。

朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。


(2)日本国憲法公布文

朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。

これらに対しては、僅かながら、保守派と呼ばれる人々の間に論争がある。承詔必謹の精神からすれば、詔(みことのり)が現にある以上、これによつて現憲法は正式なものと認めざるを得ない、とか、占領中、即ち日本が独立してゐない時期に出された法令も詔勅もすべて無効だ、とか、そもそもこれらの文は一種の「飾り」であつて、実質的な意味など考へるには及ばない、などなど。

法律論的には、たとへ最初の承詔必謹説を採つたところで、その憲法自体の中に改正条項があるのだから(九十六条)、変へてはいけない、とまではされてゐない、といふことで、特に今後に問題を残すものではない。

一方、無効説を採つた場合、たとへこれまた法律論的にはそれが成り立つとしても、精神史的に、天皇が、こと「平和主義」に関してはかなり同意なさつてをられたのではないか、と考へられることまで無効として、無視してよいものか、疑問が残る。ためしに、『神やぶれたまはず』にも取り上げられてゐる、俗に「人間宣言」と呼ばれる、昭和二十一年一月一日の詔書(占領中の法令も詔勅も無効、といふなら、これも無効になつてしまふんですがね)の次の御言葉を見ていただきたい。

「我國民ガ現在ノ試煉ニ直面シ、旦徹頭徹尾文明ヲ平和ニ求ムルノ決意固ク、克ク其ノ結束ヲ全ウセバ、獨リ我國ノミナラズ全人類ノ爲ニ輝カシキ前途ノ展開セラルルコトヲ疑ハズ」。「平和を求める決意」が、「全人類のために」なるといふところ、憲法公布時の勅語とも、日本国憲法の前文とも、主旨が通じてゐると見られるのではないだらうか。

私として最も気にかかるのは、「人類普遍の原理」就中「平和主義」を、「自由に表明された国民の総意」で「みづから進んで」、日本国民が選んだのだといふ、この戦後神話を最初に言つたのは昭和天皇だつた事実である。我々が民族に関する物語を、本当に「自ら」築いていくうへで、これをどう考へたらいいか、一つの課題にはすべきであらう。

以上の私の勝手きはまる「書評」を、前もつて長谷川三千子先生に御目にかけましたところ、先生から懇切な御返事をいただきました。これは『神やぶれたまはず』に関する貴重な解題ともなるものですので、私一個のものにしておくのは非常にもつたいないと考へ、長谷川先生の許可を得て以下に掲げます。

***

たいへん詳しい、丁寧な書評を有難うございました。
ご指摘の「すっきりさせ過ぎ」という評は、まさにその通りと言うべきで、実はこれを一冊の本に仕上げるのに十年以上かかってしまったというのも、結局のところ、様々の本を読み、かき集めたものを、どう削ってゆくかーその削る作業、すっきりさせる作業にかかった時間なのです。

もともとが、非常に屈折した精神の軌跡を追ってゆく仕事ですから、裏を探るとさらにその裏が出てくる。「かと思うとそれだけではなくて」の繰り返しという道のりで、それをそのまま辿ったのでは収拾のつかないことになる。そこで、ある時思いきって一点に中心を絞り、それ以外を、切り捨てるのではないけれども、裏側に置く、という書き方に切り替えました。

したがって、由紀さんがご指摘の部分は、そのほとんどが、本来、注で詳述すべきところだったと言えます。

現に、最初は削った原稿を全部注に放り込んで、すごい分量に膨れ上がったのですが、これもある時点でばっさりと思い切りました。

まあ、言ってみれば、この本は削りに削って出来上がった本だと言えます。ある人が、アマゾンのレビューに、この本は学術研究書とは言えない、と「批判」していましたが、「これって、学術研究書として書いてませんから(笑)、」というほかはありません。ただひとつ、これは語るべきことを、これだ!という形にまで持って行けたかどうかーそれだけを考えていました。
作品を仕上げるとは、そういうことだと思います。

由紀さんの丁寧なご書評のおかげで、忘れていた執筆時のことを生々しく思い出しました。

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