「珈琲専門店 TOM」のカウンター席
http://blog.livedoor.jp/tabearuki_tokyo/archives/4434325.html(三十路サラリーマンが食ったり飲んだりするブログ)より引用させていただきました。
喫茶店、いまむかし
先日、若い人と飲んだ。彼とは、久しぶりといえば久しぶりだった。彼は二十五歳である。私の年齢のちょうど半分だ。そういう歳の差を気にしないで楽しくお酒が飲める、私にとって貴重な存在である。飲み友達の定義が「いっしょに飲むと酒がおいしくなる人」であるならば、彼は間違いなく飲み友達だ。
いつものように文学ばなしを肴に酒を(われわれは日本酒党だ)酌み交していたところ、彼がいうには、最近村上春樹の『羊をめぐる冒険』を読んでいるとのこと。以前、『ノルウェイの森』と『ダークサイド』を読んでちっとも面白くなかったので村上春樹には興味がないという彼に、では初期のものを読んでみてはどうか、特に『羊をめぐる冒険』はいいよ、と私が勧めたのを覚えていて読んでみたというのである。だまされたつもりで読みはじめてみると、これがなかなか面白くて、村上春樹の良さが初めてわかったという。「ところで」と彼がいう。「喫茶店に入って本を読んで、などというシーンには違和感を抱いてしまう。そういう行動パターンが自分らにはないので、どうもピンとこない。」彼の率直な言葉に、私は、いささか不意打ちをくらったような思いを抱きかけた。でも、思い返してみると、それは時代の流れからすれば自然な成り行きなのだった。
大学生のころ、私は近代文学会(略して近文会)という文芸サークルに入っていた。年に四・五回メンバーが創作した詩と小説の、それぞれの謄写版の機関紙を発行していた。そして、発行するたびに合評会を開いた。夏合宿もやった。思えば、けっこう真面目に活動していたのだった。
近文会には部室がなかった。では、毎日どうやって集まったのか。大学のラウンジの片隅に設置された木製の粗末な棚を板で細かく平べったい直方体の形に区切ったスペースのそれぞれに、各サークルの連絡ノートが置かれていた。近文会のノートもそのなかの一角にあった。それをめくって、今、他のメンバーがどこにいるのか確認した。たいてい、大学の西門を出て数分のところにある『檸檬屋』という喫茶店にいた。そこが、わが近文会のメンバーたちの事実上の「部室」だった。
私の場合、たいてい後ろの一コマか二コマか授業を残して(さぼって)、『檸檬屋』に向かった。
木材でたてながの格子状に細工され、長方形の小さなガラスがそれらのグリッドにはめ込まれたドアを引く。すると、ウナギの寝床のような薄暗い空間の右側に木製の四人がけテーブルが四つ続いているのが見える。左側はカウンターで、椅子が四、五脚あった。カウンターのなかには、サイトウさんという二〇代後半の色白で華奢なカーリーヘアの美人ウェイトレスがいつもいて、われわれが店のドアを開けて顔をのぞかせるたびに、にこっとほほ笑みながら「いらっしゃい」と声をかけてくれるのだった。店のいちばん奥に、壁掛けライトでぼんやりと照らし出された、詰めれば八人ぐらい座れる長方形のテーブルがあった。そこが、近文会の事実上の「指定席」だった。というより、そこをわれわれが傍若無人に「占拠」することを店が寛大にも許してくれ続けたというべきだ。
そこで、私はサークルのメンバーとともに、はたから見ればガキのたわごととしか思われないような「言葉の宴」をほぼ四年間飽きもせずに繰り広げた。話しの相手の言葉の背後に見え隠れするあれこれの書物をこちらが読んでいなくて、たわいなく言い負かされてしまったときの悔しさを噛み締めて、家に帰ってその書物を読む。大学の授業で習ったことは今ではすっかり忘れてしまったけれど、そうやって読んだ書物の中身は、今でも覚えている。
そんな学生時代を過ごしたせいなのだろう。私は、家でよりも喫茶店でのほうが読書に集中できる。
そういう習慣が身についてしまったのだ。
異変を感じ出したのは、1980年代末のバブル崩壊から数年たったころだろうか。
落ち着いて本を読める喫茶店がひとつまたひとつとその姿を消しはじめたのだ。そして、それと入れ替わるようにして、百数十円で「おいしい」コーヒーが飲める格安の喫茶店が跋扈しはじめた。(『檸檬屋』は私が大学を卒業した二年後に店じまいした)私だって、そういう類の喫茶店をたびたび利用するし、そこで本を読むことだってある。でも、自分が慣れ親しんできた喫茶店の雰囲気と、跋扈しはじめたそれらの店のそれとはどこかが決定的に違うのだ。神経に障るなにかをどこかで我慢しながら、あるいは敏感なところに部分麻酔をかけながら、その場にいるような感じがつきまとう、といえばいいのだろうか。
考えてみれば、ぽつんとひとりで本を読んでいるような「ぜいたく」を許容しない、客の回転効率的な発想を露骨に全面に押し出したような空間で、まともな若者が本を読もうとしないのは、当たり前である。そういうところであえて本を読もうとするのは、私の悲しい習い性なのだろう。
若い友の話を聞いて、そういう記憶と想念が私の脳裏をかけめぐった。私は、ちょっと言葉をさがしあぐねながら、「そういう経験はないかもしれないけれど、そういう描写に接するとどこかしらなつかしい感じがするんじゃないの?ジュークボックスとか」と言ってみた。彼は、「それはそうですね」といってくれた。「だったら、それでね、村上の作品を味わううえでは問題ないんじゃないの」
その二、三日後だっただろうか。午前中仕事で代々木に立ち寄った。先方との待ち合わせの時刻までには、まだ間があった。なんだかコーヒーが飲みたくなってきた。そういえば、まだ朝飯も食べていなかった。それで、手ごろな喫茶店を探すことにした。真っ先に、『ドトール』の黄色い看板が目に飛び込んできた。どうしようかと迷ったがほかを探すことにした。ここは学生街だろう。『ドトール』以外に喫茶店の一軒や二軒くらいあるだろう。そういえば、予備校生だった昔、何軒もあったような気がするのだが。と心のなかでぶつぶついいながら新宿駅南口方面に向かって歩きながら探してみるが、どうも昔と勝手が違う。やはりないのか、とあきらめかけたとき、『珈琲専門店 TOM』という白抜きの文字の浮かぶ茶色い木製の看板が左手に見えた。一度来たことがあるような気がすると思いながら、ドアを開けてみた。
店内は薄暗かった。カウンターの席に着いてしばらくすると身体の芯がほぐれていくような感じがした。店員は三名いたが、マスターらしき人をふくめて皆物静かである。店内には、外とは明らかに異なる空気が漂っていた。一時代前の空気、そう、そこには「昭和の空気」とでも形容するほかはないものが流れていた。丹精をこめてつくられたコーヒーとトーストを、私はゆっくりと味わった。よくこんな店が、バブル以降のハードな高速資本主義の荒波に呑みこまれないで生き残ったものだと思った。手元のレシートの裏側にあったお店のメッセージが印象的だったので、メモをしておいた。
毎度ありがとうございます。
携帯電話での通話はご遠願います。
コーヒーの何と美味しいことよ
千のキスより尚甘く
ムスカート酒より尚柔らかい
コーヒーはやめられない
私に何か下さるというのなら
どうかコーヒーを贈って下さいな
1732 コーヒーカンタータ より
作詞 ビカンダー
曲 J.S.バッハ
私は、レトロで都会的な気取りを好む。今度気心の知れた仲間と再訪したいものだと思っている。
(埼玉県私塾協同組合機関紙『SSK REPORT』掲載 掲載号未詳)
写真、使って頂きありがとうございます。
そうですよね。最近は読書等で長居できる喫茶店がめっきり減ってしまいましたよね。ゆったりできる昭和の喫茶店が大好きなのですが、周りにチェーンのお店がないことが多いです。
ここ最近はめっきりUpしなくなってしまいましたが、少し落ち着いたらまたブログをエントリーしたいなと思っています。
今後ともよろしくお願いします。