分かりやすく言い換えることについて
古松待男(こまつまつお)
最近の新聞にこんな記事が載っていた。
ポケモン人気は国境も越える。最新作は日本語だけでなく英語、スペイン語など計7言語に対応。ほぼ同時に世界各地で発売する。ネット普及で世界中の子どもたちが時間差なく最新情報を手に入れている。人気ゲームを外国語対応させて海外展開するのは日本企業の常とう手段だが、数カ月の遅れが新作の熱気を冷やしてしまっていた。(『日本経済新聞』2014年11月22日付 朝刊)
内容そのものにはあんまり関心がなかったので特になんの感想も持たなかったが、ただ、「常とう手段」という表記はなんだかマヌケだな、とだけ思った。
テレビや新聞を見ていると、こういう例がしばしば見つかる。例えば、「ら致」だったり「終えん」だったり「じん大な被害」だったり「精ちな表現」だったり「標ぼうする」だったり「肺がんのり患率」だったり「現実と理想とのかい離」だったり・・・、まぁ、このほかにもいろいろある。前々から思っていたが、このように熟語の一部分を平仮名に置き換える表記法はなんだかマヌケだし、マヌケなだけじゃなくて読みにくく分かりにくい。
1 漢字使用制限
この種のマヌケな表記の源流は1946年の当用漢字表導入による漢字使用制限に遡れる。当用漢字表とは日常のなかで使用する漢字の範囲とその読み方、標準となる字体を定めたリストである。
種類が多く難解で煩雑な漢字表記を改めるべきだという声はかなり前から既にあった。かなり前、というと・・・我が国の郵便制度の礎を築いた前島密は維新前夜の1866年の段階で将軍慶喜に漢字を廃止し仮名表記に統一すべきであると提案していた、という例が挙げられるだろう。また、日本が近代化を果たしてからも議論は絶えず、いずれも実施こそされなかったが1922年には「常用漢字表」、1942年には「標準漢字表」という名で漢字制限の具体的なリストが作成されていたらしい。ずいぶんと昔からあちらこちらで唱えられていた漢字表記への異議は戦後間もない時期に大いに高まった。さらに、一部では漢字の使用そのものを廃止してローマ字を導入するべきだという声も上がった。「大衆的ローマ字運動へ」と題された1946年4月11日付『讀賣報知』社説は次のように始まる。
日本の民主化については、漢字の廃止とローマ字採用の必要であることを、いままで二回ほどわれらは本欄において主張したが、米国教育使節団の報告においてローマ字採用の必要が指摘されてゐるのをみてまことに喜ばしく感ぜられた。この報告が實行に移されるとすれば、國語のローマ字書きは遠からず實現されるわけで日本民族と文化との發展のうへに革命的な影響を與えるにちがひない。
いま読むとなんとも飛んでもない内容で荒唐無稽な話だ。日本の「民主化」を実現するためには漢字を廃止してローマ字表記に改めた方がよい、ローマ字採用は日本民族と文化の発展に革命的な影響を与える、との内容を「米国教育使節団の報告」という外圧を用いて主張している。この引用の後には、ローマ字反対論が極めて根強いということを指摘しながらも、大衆運動を起こせば三年か五年の内に日本語はローマ字表記になる、ローマ字を習った子どもたちはすぐに不便な漢字仮名交じり文を嫌いになる、漢字とともにそれに付随する封建的観念は日本人の頭から一掃される・・・・などという楽観的な見通しが続く。
いま読むとなんとも飛んでもない内容で荒唐無稽な話だが、そのように感じてしまうのは私が当時の日本国内の空気に肌で触れていないからなのかもしれない。この社説の書かれた敗戦後間もない時代は、戦中戦前の「軍国主義」を猛省し、日本をいかにして「民主化」するのかという課題を前に皆が必死になっていたのだろう。国が亡びるかどうかというぎりぎりの状況の中で、難解で複雑な漢字が「ファシズム」を導き、「民主化」を阻む「封建主義時代」の遺物としてやり玉に挙げられるのも分からなくはない。きっとみんな必死だったのだろう。どうにかしようと懸命になっていたのだろう。敗戦に打ちのめされた先人たちの苦悩とそこから這い上がろうとする努力に敬意を払いつつ、ローマ字採用なんて愚かな策を採らないでよかったとホッとする。もしも朝、起床して一番につけたテレビにローマ字のテロップが映り、ひらいた新聞にローマ字がびっしり並んでいたら一日の始まりの気分は台無しになるだろう。
明治維新以来官民問わず様々なところで検討されてきた漢字制限は、一連の昭和の御一新の動きの中、「当用漢字表」という形で実現された。
漢字を制限することの目的は二つある。一つは教育上の配慮であり、もう一つは円滑な意思疎通のためである。たくさんの漢字を覚えるのは大変だし、覚えるのが大変な漢字で情報のやり取りをするのは困難である。だから制限するべきだという人たち(これを「表音派」と呼ぶ)と、そんなに急速に制限したら社会は混乱するし伝統文化が壊れかねないから慎重になるべきだという人たち(これを「表意派」と呼ぶ)とが長いこと相争ってきた。それが敗戦となり、「民主化」というイデオロギッシュな色彩をまとうことによって時代の空気とマッチした「表音派」がついに一定の勝利を収めた、ということになるだろう。
しかしこの勝利は飽くまで一定のものに過ぎない。当用漢字表導入当初から漢字制限の問題点を指摘する声は上がっていた。出来上がった表を見てみると、ごく普通に使いそうな漢字でも見当たらないものがあった。当用漢字表の中には例えば、「犬」はあるが「猫」はない。「松」はあるが「杉」はない。「杯」はあるが「皿」はない。なにゆえあれはあるのにこれはないのか。どうしてあれじゃなくてそれにしたのか。・・・それなりに頭のいい人たちがいろいろ考えて作ったリストなんだろうが、なんであれ甲を選び乙を捨てる作業を誰もが納得する形で行なうのは難しいことだ。ましてやそれが、これから毎日使っていく漢字の選択ともなれば完璧なものとすることは限りなく不可能に近い。
そういうわけで、急速な変革であった1946年の当用漢字表導入から現代にいたるまで二回の見直しがあった。一回目が1981年の「常用漢字表」で、二回目が割と最近のこと、2010年の「改訂常用漢字表」である。
「表音派」の中には当用漢字表以後もどんどん使用できる漢字の数を減らしていくべきだと考えていた人もいたらしいが、現実はそのようにはならなかった。使える漢字の数は「当用漢字表」では1850字、「常用漢字表」では1945字、「改訂常用漢字表」では(196字増5字減の)2136字、と、漢字表の改定ごとに使える数は増えていった。ほんの一例を挙げれば、1981年には(念願だった?)「猫」「杉」「皿」などが追加されている。また、2010年には拉致の「拉」や精緻の「緻」などが新しく表に加わった。つまり、二回の改定を経て制限は緩くなっていっているのである。
学びやすさや分かりやすさを求めて漢字の使用範囲を制限する試みは、しばしば反対に遭う。同じ意味を持つ単語ならば、字画の多い字よりは少ない字を選んだ方が効率的である。同じ内容を表わせるのならば、数限りなく存在する漢字を覚えるよりも、よく使うものに限定して覚えた方が経済的である。もっと言えば、漢字なんか使うよりも、全部で30字に満たないローマ字を使うことにする方が賢い。しかし、このような意見に賛成する者は少ない。
或る表現を別の表現に言い換える際、時として私たちはためらうことがある。このとき二つの表現の間には、言い換えても言い換えきれないものがあるのだということになるだろう。
2 言い換えても言い換えきれないもの
「AとBが同値ならば、AとBはそれが使用される全ての状況で相互に置き換えられる。」しかし、実際に私たちが普段使う具体的な言葉を挙げてこのことを確認してみようとすると、あんまりうまくいかない。「恍惚」と「うっとり」はおんなじ意味のように思えるけど、だからと言ってこの世の中のありとあらゆる文章の中に登場する「恍惚」という言葉をひとつ残らず「うっとり」に言い換えるのは気が引ける。気が引けるぐらいで諦めたりせずに勇気を振り絞って言い換えればよいではないかと言われるかもしれないが、気が引ける時点で二つの言葉が同値でないことを私たちの繊細な精神は感じ取ってしまっているのである。「AとBが同値ならば、AとBはそれが使用される全ての状況で相互に置き換えられる」というのが正しいかどうかはひとまず置いといて、とにかく、私たちが普段使う言語や記号には厳密な意味で同値のペアは存在しないので、日常語を用いてこのテーゼを確かめることできない。「恍惚」と「うっとり」は同じ意味の言葉として言い換えることができるだろうが、言い換えきれない要素がそれぞれに備わっているのである。
言い換えても言い換えきれないものは、大雑把に言って、二種類に分けられる。ひとつが記号そのものの特徴に関わるもので、もうひとつが記号の来歴に関わるものである。順に見ていこう。
2-1 記号そのものの特徴
「恍惚」と「うっとり」の違いは何か? 明白な違いは記号そのものの特徴の違いである。つまり、声に出したときには音の響きが違い、書いたときには字の形が違う。音の響きと字の形は、「恍惚」と「うっとり」を言い換えるときに言い換えきれないものである。言葉は意味を持つから意味にばかり目が行ってしまうが、記号としての物理的な特徴を持っていることを忘れてはならない。
言葉の物理的な特徴は意味と必然的な結びつきをもっているわけではない、というのはきっとそうなんだろうけれど、なんとなく、「うっとり」という響きはうっとりとした様子をうまく表わしているような気がする。あしたから「うっとり」という言葉の代わりに「しっかり」という言葉を使用するように取り決めたとする。この取り決めに従って「太郎はしっかりした」と言ってみても、太郎が恍惚とした様子とうまくマッチしていない。うまくマッチしていないと感じるのは、これまでにうっとりを「うっとり」という言葉で言い表すよう学習させられてきたからだ、と言われてしまえばこちらは何も言い返せない。その場合、しばらくのあいだ違和感に耐えればやがて「しっかり」が恍惚とした様子をうまく表わしているような気がしてくることになる。まぁでも、うっとりを「うっとり」という言葉で言い表すよう学習させられてきた人間の感覚からすると、「うっとり」はやっぱりうっとりしているし、「しっかり」はやっぱりうっとりしていない。うっとりとした様子は「うっとり」という響きや形において表現されている、という気がする。
この種の記号そのものの特徴は、とりわけ文学や演説や言葉遊びなどの場合に重要な要素として現れてくることが多い。これらの局面での言葉の使用は、リズミカルで心地よい響きそれ自体への愛好をうまく利用してそれぞれの目的を果たしていると言える。それゆえ、(同じ言語内であれ異なる言語間であれ)別の表現に言い換えることによって、一定の名文句はもともとの良さが半減してしまう(し、ダジャレならば良さが半減するどころかその生命が完全に失われてしまう)。例えば、ピュタゴラス一派の言葉とされている「肉体は魂の墓である」という言葉は、その意味内容だけではなく、ギリシア語の「肉体(sōma)」と「墓(sēma)」が似た響きと字面を持っていることによって名文句たり得ている。だから、当時のギリシア人がこれを聞いたら「ソーマとセーマか・・・、なるほど、こいつ上手いこと言ってるなー」と感動できるのだろうけど、ギリシア語の分からない私は残念ながら同じ感動を味わうことができない。
言葉そのものの特徴は他の言葉に言い換えた瞬間に不可避的に消えてしまう。しかしながら翻訳者は、意味だけじゃなく原文の持っている彩りをも出来るかぎり訳文に反映させたいと願うものだろう。オーソドックスな手としては、意味内容を言い換えたのちにルビで音を振るという方法が挙げられる。「肉体(ソーマ)は魂の墓(セーマ)である」とすれば、読み手は「ああ、ギリシア語では韻を踏んでるんだろうなー」という見当をつけられる。私はこのような翻訳法で十分だと思う。芸がないとは思うが仕方ない。
芸があると思ったのは、『カラマーゾフの兄弟』の「プロとコントラ」のところに出てくる«сосну, как со сна»という台詞を「まつがまつわりつく」(原卓也訳)あるいは「うめをゆめのように」(米川正夫訳)と言い換えた日本語訳である。この翻訳は原文の意味を(まぁ、それなりに)保存しつつロシア語の言葉遊びを見事に日本語に移し替えている。ルビを振って「松の木(サスナー)を夢(サスナー)で」(亀山郁夫訳)としてる訳もあったが、おそらくこれが意味的には原文に忠実である・・・のではないかと私は踏んでいる。踏んでいる・・・というのも、私はロシア語をなにひとつ知らないので、正直なところよく分からない。のだが、きっとそんなとこだろうと思う。違っていたらごめんなさい。
他に芸があると思ったのは、ジョルジュ・ペレックの小説『煙滅』の邦訳である。この小説は特定の文字(アルファベットのe)を使わないで書かれているリポグラム(文字落とし)という技法が用いられているが、これを日本語にする際に訳者の塩塚秀一郎氏は「い」段(い、き、し、ち、に、ひ、み、り、ゐ)の文字を使わないで訳出した。これも原文の意味だけではなく言葉そのものの特徴を踏まえた置き換えである。訳者あとがきを読むと、これがいかに骨の折れる作業だったかが感じとれる。
もちろんこうした芸のある言い換えといえども、原語のもつ記号そのものの特徴を保存しているわけではない。ただ、言い換える際に意味にばかり囚われず、記号そのものの特徴に注目していることがよく分かる例だと思う。
記号そのものの特徴を言い換えることができないということは、この議論を非言語記号にまで拡張させれば、より一層明らかとなる。「花」を詠んだ詩と「花」を描いた絵は、仮に同じ場面を表わしていたとしても、異なる情感を帯びている。リヒャルト・シュトラウスによる同名の交響詩が世に出たからといってニーチェの『ツァラトゥストラ』がそれに取って代わられることなどありえない。なぜなら、仮に同じ意味であったとしても、記号そのものの特徴が、あまりにも異なっているからである。
言語記号であれ非言語記号であれ、同じ意味を持つものとして言い換えたとしても言い換えきれないものがどうしても残るのだが、その一つが記号そのものの特徴に関わる要素であることが分かった。次は、もう一つの要素である記号の来歴に関わるものについて考えてみよう。
2-2 記号の来歴
「恍惚」と「うっとり」の違いは何か? それはこの二つの言葉が辿ってきた歴史である。「恍惚」はどちらかと言えば日常であんまり使われないのに対して、「うっとり」は普段の会話の中でも出てくる。「恍惚」という言葉をどこかで小学生が口にしたら変な感じがするが、「うっとり」という言葉ならば別に違和感はない。「恍惚」という字は、二つとも立心偏が付いているから何かこころと関連するものとしてイメージされてきただろうし、「惚」の右側には「忽」という字があるから何かこころ(心)がうつろ(勿)な様子と関係づけられてきただろう。しかし、「うっとり」に同じような連想は生まれない。このように、同じ意味の言葉であってもそれまでに違う歴史を歩んで来れば、どのような場面や文脈において使用されて来たのか、どのような人たちによって使用されて来たのか、他のどのような言葉や事物と関係づけられてきたのか、という点において異なってくる。
こうした言葉の来歴については人によって捉え方が異なる。「恍惚」という言葉を「うっとり」よりもよく使うという人も居るかもしれないし、「恍惚」という言葉を頻繁に使う小学生が近所にたくさん住んでいるという人も居るかもしれない。また、「恍惚」という言葉をわざわざ分解して「心」という言葉と連想させたことなどないという人も居るだろう。一つの言葉の来歴は、百人いれば百通りに語られうる。
百通りに語られる一つの言葉の歴史の中には、偶然的なものもあるだろうし、間違っているものもあるだろう。「歯」という字に「米」が含まれていることを見て、歯で米を噛むからこんな字になった、という連想を膨らませる人も居るかもしれない。しかし、「歯」と「米」はなんら関係ない。「歯」という字は略字であり、この字体が導入されるまでに使われていた「齒」の字の中に「米」は見当たらない。それならば、「米」の代わりに「人」があるから、歯はもともと「人」と関連付けられていた、というのもまた違う。漢和辞典をひらいてみると、「齒」の下の部分は歯の見た目をそのまんま象ったものである、というようなことが書かれてある。辞典に書いてあるんだから、これが差し当たり正しい起源ということになるのだろう。このように言葉は日々誰かによって使われているものだから、誤った連想がなされる場合もある。
人によってさまざまで、かつ、間違えることもある言葉の歴史もまた、私たちが言葉を発し言葉を受け取る際に欠かすことのできない要素である。言葉は対象や概念への純粋な指示作用をもつだけでなく、使われていくごとに様々な印象、種々の観念、雑多な想念と結びついたり離れたりしながら歴史を蓄積させていく。学術用語として漢語やラテン語が用いられたり、完全に新しい術語が考案されたりするのは、日常語のもつ歴史性を断ち切り純粋な指示作用を出来る限り担保するためである。また、差別的な意味合いをもつ単語が使用禁止になり他の単語に言い換えられるのも同じ事情による。いつだったか、人種問題を扱ったテレビの一場面で「彼らは決して口にしてはいけない単語を叫んでいた。nから始まる単語をね。」とアメリカ人が言っていた。“negro”という単語は、語源に当たるラテン語のnigerまで遡れば純粋に「黒い」または「暗い」という意味を表わす言葉だったようだが、長い歴史を経て黒人に対する侮蔑的な意味合いを獲得していき、今や単なる引用として口にすることすら憚られる言葉になってしまったのである。本当は侮蔑的な意味合いなんてなかったのに・・・、と嘆いたところで今さらもう遅い。
1946年に使える漢字の範囲が定められて以来用いられるようになった代用字という表記法は、ある時点において言葉の持っている歴史を無視した上に成り立ったものと言えるだろう。代用字とは漢字表に載っていない漢字を表わすために、音が同じ漢字を同値のものとして置き換えることである。たとえば、当用漢字表に「苛」という漢字が載っていなかったので困ったことに「苛酷」という熟語を作ることができなくなるが、「苛」の代わりに「過」を用いて「過酷」とすれば、これは使っても許される漢字なので難を逃れることができる。他には、「理窟」と「理屈」、「禁錮」と「禁固」、「藝術」と「芸術」の例がある。前の方が元々の綴りで、後ろの方が代用表記である。
「過酷」も「理屈」も「禁固」も「芸術」も、当用漢字表が世に出てから半世紀のちに国語教育を受けた私からすれば、なんら変な感じはしない。マヌケな印象も受けない。しかし人によってはこうした表記に違和感を持つこともあるかもしれない。今道友信氏の本(『美について』、講談社現代新書、1973年、75頁あたり)を読んだときに知ったのだが、「芸」は「藝」の単なる略字ではなく、まったく別の歴史を歩んできた字であるということらしい。しかも、「藝」がもともと「ものを種える」という意味であったのに対して、「芸」は「草を刈りとる」という、言ってみれば反対の意味を持つ字であるそうだ。このことを踏まえ、芸術というのは「人間の精神において内的に成長してゆく或る価値体験を植えつける技」であるから「藝」の字を用いた方が適切である、と今道氏は述べている。
私はこのことを知り、自分自身の漢字に対する知識、教養、感性の欠如を深く恥じ、これからは「藝術」と書くようにしようと自らに固く誓ったつもりだったが、ひと月と持たずにふたたび「芸術」と書くようになってしまった。いまでは何も見ずにこれを書けるかどうかも怪しい。こうなってしまったのは、たんに画数が多くて面倒だというよりは、その面倒臭さを厭わずに書こうとするだけの動機がなかったからである。確かに、「芸」と「藝」に違いがあるという知識は得ることができたし、「藝術」というのが適切な表記だという考えには納得したのだが、両者の違いを感覚として捉えられているとは言えず、また、「芸術」と書いても別にさしたる違和感が生じない以上、難しい字をわざわざ書く理由はない。
私たちが言葉を発し言葉を受け取る際に欠かすことのできない要素、記号の来歴はなにも正史だけに限定されるわけではなく、野史も外史も含まれる。米を噛むから「歯」だといった民間伝承も、「恍惚」が口癖の小学生が居たといった思い出も、記号の来歴と呼ぶに十分な資格を持っているのである。
3 分かりやすさについて
誰かと意見を交換したり、大勢の人に向けて情報を発信したりする際には、出来る限り分かりやすく表現することが求められる。もちろん、聞き手や読み手が理解できないように敢えて難解な言葉を弄することがプラスに働く局面もあるだろう。厳粛な儀式で使われる呪文やお経なんかはどんな意味だか分からない方が有り難みがあるし、学術論文で使われる言葉なんかは耳に馴染みのない専門用語を多用する方が著者は自分を頭よさそうに見せることができる。しかし、大体の場合において分かりにくい言葉遣いを分かりやすい言葉遣いに言い換え、難しい言い回しを簡単な言い回しに言い直すことが要請される。
漢字制限は、普段使う文章を分かりやすい表記にすることを目的の一つにしている。しかし、何が分かりやすい表現で何が分かりにくい表現なのかは、場面によって変わってくる。平仮名ならば分かりやすくて、漢字ならば分かりにくいわけでは必ずしもない。大和言葉ならば分かりやすくて、漢語ならば分かりにくいわけでは必ずしもない。専門用語を日常の中で多用することが円滑なコミュニケーションを阻害するのと同じように、専門家集団を相手にしてその中で既に通用している専門用語を日常語に言い直したら混乱するだろう。一様に分かりやすさの規準を与えることは困難である。
古松待男(こまつまつお)
最近の新聞にこんな記事が載っていた。
ポケモン人気は国境も越える。最新作は日本語だけでなく英語、スペイン語など計7言語に対応。ほぼ同時に世界各地で発売する。ネット普及で世界中の子どもたちが時間差なく最新情報を手に入れている。人気ゲームを外国語対応させて海外展開するのは日本企業の常とう手段だが、数カ月の遅れが新作の熱気を冷やしてしまっていた。(『日本経済新聞』2014年11月22日付 朝刊)
内容そのものにはあんまり関心がなかったので特になんの感想も持たなかったが、ただ、「常とう手段」という表記はなんだかマヌケだな、とだけ思った。
テレビや新聞を見ていると、こういう例がしばしば見つかる。例えば、「ら致」だったり「終えん」だったり「じん大な被害」だったり「精ちな表現」だったり「標ぼうする」だったり「肺がんのり患率」だったり「現実と理想とのかい離」だったり・・・、まぁ、このほかにもいろいろある。前々から思っていたが、このように熟語の一部分を平仮名に置き換える表記法はなんだかマヌケだし、マヌケなだけじゃなくて読みにくく分かりにくい。
1 漢字使用制限
この種のマヌケな表記の源流は1946年の当用漢字表導入による漢字使用制限に遡れる。当用漢字表とは日常のなかで使用する漢字の範囲とその読み方、標準となる字体を定めたリストである。
種類が多く難解で煩雑な漢字表記を改めるべきだという声はかなり前から既にあった。かなり前、というと・・・我が国の郵便制度の礎を築いた前島密は維新前夜の1866年の段階で将軍慶喜に漢字を廃止し仮名表記に統一すべきであると提案していた、という例が挙げられるだろう。また、日本が近代化を果たしてからも議論は絶えず、いずれも実施こそされなかったが1922年には「常用漢字表」、1942年には「標準漢字表」という名で漢字制限の具体的なリストが作成されていたらしい。ずいぶんと昔からあちらこちらで唱えられていた漢字表記への異議は戦後間もない時期に大いに高まった。さらに、一部では漢字の使用そのものを廃止してローマ字を導入するべきだという声も上がった。「大衆的ローマ字運動へ」と題された1946年4月11日付『讀賣報知』社説は次のように始まる。
日本の民主化については、漢字の廃止とローマ字採用の必要であることを、いままで二回ほどわれらは本欄において主張したが、米国教育使節団の報告においてローマ字採用の必要が指摘されてゐるのをみてまことに喜ばしく感ぜられた。この報告が實行に移されるとすれば、國語のローマ字書きは遠からず實現されるわけで日本民族と文化との發展のうへに革命的な影響を與えるにちがひない。
いま読むとなんとも飛んでもない内容で荒唐無稽な話だ。日本の「民主化」を実現するためには漢字を廃止してローマ字表記に改めた方がよい、ローマ字採用は日本民族と文化の発展に革命的な影響を与える、との内容を「米国教育使節団の報告」という外圧を用いて主張している。この引用の後には、ローマ字反対論が極めて根強いということを指摘しながらも、大衆運動を起こせば三年か五年の内に日本語はローマ字表記になる、ローマ字を習った子どもたちはすぐに不便な漢字仮名交じり文を嫌いになる、漢字とともにそれに付随する封建的観念は日本人の頭から一掃される・・・・などという楽観的な見通しが続く。
いま読むとなんとも飛んでもない内容で荒唐無稽な話だが、そのように感じてしまうのは私が当時の日本国内の空気に肌で触れていないからなのかもしれない。この社説の書かれた敗戦後間もない時代は、戦中戦前の「軍国主義」を猛省し、日本をいかにして「民主化」するのかという課題を前に皆が必死になっていたのだろう。国が亡びるかどうかというぎりぎりの状況の中で、難解で複雑な漢字が「ファシズム」を導き、「民主化」を阻む「封建主義時代」の遺物としてやり玉に挙げられるのも分からなくはない。きっとみんな必死だったのだろう。どうにかしようと懸命になっていたのだろう。敗戦に打ちのめされた先人たちの苦悩とそこから這い上がろうとする努力に敬意を払いつつ、ローマ字採用なんて愚かな策を採らないでよかったとホッとする。もしも朝、起床して一番につけたテレビにローマ字のテロップが映り、ひらいた新聞にローマ字がびっしり並んでいたら一日の始まりの気分は台無しになるだろう。
明治維新以来官民問わず様々なところで検討されてきた漢字制限は、一連の昭和の御一新の動きの中、「当用漢字表」という形で実現された。
漢字を制限することの目的は二つある。一つは教育上の配慮であり、もう一つは円滑な意思疎通のためである。たくさんの漢字を覚えるのは大変だし、覚えるのが大変な漢字で情報のやり取りをするのは困難である。だから制限するべきだという人たち(これを「表音派」と呼ぶ)と、そんなに急速に制限したら社会は混乱するし伝統文化が壊れかねないから慎重になるべきだという人たち(これを「表意派」と呼ぶ)とが長いこと相争ってきた。それが敗戦となり、「民主化」というイデオロギッシュな色彩をまとうことによって時代の空気とマッチした「表音派」がついに一定の勝利を収めた、ということになるだろう。
しかしこの勝利は飽くまで一定のものに過ぎない。当用漢字表導入当初から漢字制限の問題点を指摘する声は上がっていた。出来上がった表を見てみると、ごく普通に使いそうな漢字でも見当たらないものがあった。当用漢字表の中には例えば、「犬」はあるが「猫」はない。「松」はあるが「杉」はない。「杯」はあるが「皿」はない。なにゆえあれはあるのにこれはないのか。どうしてあれじゃなくてそれにしたのか。・・・それなりに頭のいい人たちがいろいろ考えて作ったリストなんだろうが、なんであれ甲を選び乙を捨てる作業を誰もが納得する形で行なうのは難しいことだ。ましてやそれが、これから毎日使っていく漢字の選択ともなれば完璧なものとすることは限りなく不可能に近い。
そういうわけで、急速な変革であった1946年の当用漢字表導入から現代にいたるまで二回の見直しがあった。一回目が1981年の「常用漢字表」で、二回目が割と最近のこと、2010年の「改訂常用漢字表」である。
「表音派」の中には当用漢字表以後もどんどん使用できる漢字の数を減らしていくべきだと考えていた人もいたらしいが、現実はそのようにはならなかった。使える漢字の数は「当用漢字表」では1850字、「常用漢字表」では1945字、「改訂常用漢字表」では(196字増5字減の)2136字、と、漢字表の改定ごとに使える数は増えていった。ほんの一例を挙げれば、1981年には(念願だった?)「猫」「杉」「皿」などが追加されている。また、2010年には拉致の「拉」や精緻の「緻」などが新しく表に加わった。つまり、二回の改定を経て制限は緩くなっていっているのである。
学びやすさや分かりやすさを求めて漢字の使用範囲を制限する試みは、しばしば反対に遭う。同じ意味を持つ単語ならば、字画の多い字よりは少ない字を選んだ方が効率的である。同じ内容を表わせるのならば、数限りなく存在する漢字を覚えるよりも、よく使うものに限定して覚えた方が経済的である。もっと言えば、漢字なんか使うよりも、全部で30字に満たないローマ字を使うことにする方が賢い。しかし、このような意見に賛成する者は少ない。
或る表現を別の表現に言い換える際、時として私たちはためらうことがある。このとき二つの表現の間には、言い換えても言い換えきれないものがあるのだということになるだろう。
2 言い換えても言い換えきれないもの
「AとBが同値ならば、AとBはそれが使用される全ての状況で相互に置き換えられる。」しかし、実際に私たちが普段使う具体的な言葉を挙げてこのことを確認してみようとすると、あんまりうまくいかない。「恍惚」と「うっとり」はおんなじ意味のように思えるけど、だからと言ってこの世の中のありとあらゆる文章の中に登場する「恍惚」という言葉をひとつ残らず「うっとり」に言い換えるのは気が引ける。気が引けるぐらいで諦めたりせずに勇気を振り絞って言い換えればよいではないかと言われるかもしれないが、気が引ける時点で二つの言葉が同値でないことを私たちの繊細な精神は感じ取ってしまっているのである。「AとBが同値ならば、AとBはそれが使用される全ての状況で相互に置き換えられる」というのが正しいかどうかはひとまず置いといて、とにかく、私たちが普段使う言語や記号には厳密な意味で同値のペアは存在しないので、日常語を用いてこのテーゼを確かめることできない。「恍惚」と「うっとり」は同じ意味の言葉として言い換えることができるだろうが、言い換えきれない要素がそれぞれに備わっているのである。
言い換えても言い換えきれないものは、大雑把に言って、二種類に分けられる。ひとつが記号そのものの特徴に関わるもので、もうひとつが記号の来歴に関わるものである。順に見ていこう。
2-1 記号そのものの特徴
「恍惚」と「うっとり」の違いは何か? 明白な違いは記号そのものの特徴の違いである。つまり、声に出したときには音の響きが違い、書いたときには字の形が違う。音の響きと字の形は、「恍惚」と「うっとり」を言い換えるときに言い換えきれないものである。言葉は意味を持つから意味にばかり目が行ってしまうが、記号としての物理的な特徴を持っていることを忘れてはならない。
言葉の物理的な特徴は意味と必然的な結びつきをもっているわけではない、というのはきっとそうなんだろうけれど、なんとなく、「うっとり」という響きはうっとりとした様子をうまく表わしているような気がする。あしたから「うっとり」という言葉の代わりに「しっかり」という言葉を使用するように取り決めたとする。この取り決めに従って「太郎はしっかりした」と言ってみても、太郎が恍惚とした様子とうまくマッチしていない。うまくマッチしていないと感じるのは、これまでにうっとりを「うっとり」という言葉で言い表すよう学習させられてきたからだ、と言われてしまえばこちらは何も言い返せない。その場合、しばらくのあいだ違和感に耐えればやがて「しっかり」が恍惚とした様子をうまく表わしているような気がしてくることになる。まぁでも、うっとりを「うっとり」という言葉で言い表すよう学習させられてきた人間の感覚からすると、「うっとり」はやっぱりうっとりしているし、「しっかり」はやっぱりうっとりしていない。うっとりとした様子は「うっとり」という響きや形において表現されている、という気がする。
この種の記号そのものの特徴は、とりわけ文学や演説や言葉遊びなどの場合に重要な要素として現れてくることが多い。これらの局面での言葉の使用は、リズミカルで心地よい響きそれ自体への愛好をうまく利用してそれぞれの目的を果たしていると言える。それゆえ、(同じ言語内であれ異なる言語間であれ)別の表現に言い換えることによって、一定の名文句はもともとの良さが半減してしまう(し、ダジャレならば良さが半減するどころかその生命が完全に失われてしまう)。例えば、ピュタゴラス一派の言葉とされている「肉体は魂の墓である」という言葉は、その意味内容だけではなく、ギリシア語の「肉体(sōma)」と「墓(sēma)」が似た響きと字面を持っていることによって名文句たり得ている。だから、当時のギリシア人がこれを聞いたら「ソーマとセーマか・・・、なるほど、こいつ上手いこと言ってるなー」と感動できるのだろうけど、ギリシア語の分からない私は残念ながら同じ感動を味わうことができない。
言葉そのものの特徴は他の言葉に言い換えた瞬間に不可避的に消えてしまう。しかしながら翻訳者は、意味だけじゃなく原文の持っている彩りをも出来るかぎり訳文に反映させたいと願うものだろう。オーソドックスな手としては、意味内容を言い換えたのちにルビで音を振るという方法が挙げられる。「肉体(ソーマ)は魂の墓(セーマ)である」とすれば、読み手は「ああ、ギリシア語では韻を踏んでるんだろうなー」という見当をつけられる。私はこのような翻訳法で十分だと思う。芸がないとは思うが仕方ない。
芸があると思ったのは、『カラマーゾフの兄弟』の「プロとコントラ」のところに出てくる«сосну, как со сна»という台詞を「まつがまつわりつく」(原卓也訳)あるいは「うめをゆめのように」(米川正夫訳)と言い換えた日本語訳である。この翻訳は原文の意味を(まぁ、それなりに)保存しつつロシア語の言葉遊びを見事に日本語に移し替えている。ルビを振って「松の木(サスナー)を夢(サスナー)で」(亀山郁夫訳)としてる訳もあったが、おそらくこれが意味的には原文に忠実である・・・のではないかと私は踏んでいる。踏んでいる・・・というのも、私はロシア語をなにひとつ知らないので、正直なところよく分からない。のだが、きっとそんなとこだろうと思う。違っていたらごめんなさい。
他に芸があると思ったのは、ジョルジュ・ペレックの小説『煙滅』の邦訳である。この小説は特定の文字(アルファベットのe)を使わないで書かれているリポグラム(文字落とし)という技法が用いられているが、これを日本語にする際に訳者の塩塚秀一郎氏は「い」段(い、き、し、ち、に、ひ、み、り、ゐ)の文字を使わないで訳出した。これも原文の意味だけではなく言葉そのものの特徴を踏まえた置き換えである。訳者あとがきを読むと、これがいかに骨の折れる作業だったかが感じとれる。
もちろんこうした芸のある言い換えといえども、原語のもつ記号そのものの特徴を保存しているわけではない。ただ、言い換える際に意味にばかり囚われず、記号そのものの特徴に注目していることがよく分かる例だと思う。
記号そのものの特徴を言い換えることができないということは、この議論を非言語記号にまで拡張させれば、より一層明らかとなる。「花」を詠んだ詩と「花」を描いた絵は、仮に同じ場面を表わしていたとしても、異なる情感を帯びている。リヒャルト・シュトラウスによる同名の交響詩が世に出たからといってニーチェの『ツァラトゥストラ』がそれに取って代わられることなどありえない。なぜなら、仮に同じ意味であったとしても、記号そのものの特徴が、あまりにも異なっているからである。
言語記号であれ非言語記号であれ、同じ意味を持つものとして言い換えたとしても言い換えきれないものがどうしても残るのだが、その一つが記号そのものの特徴に関わる要素であることが分かった。次は、もう一つの要素である記号の来歴に関わるものについて考えてみよう。
2-2 記号の来歴
「恍惚」と「うっとり」の違いは何か? それはこの二つの言葉が辿ってきた歴史である。「恍惚」はどちらかと言えば日常であんまり使われないのに対して、「うっとり」は普段の会話の中でも出てくる。「恍惚」という言葉をどこかで小学生が口にしたら変な感じがするが、「うっとり」という言葉ならば別に違和感はない。「恍惚」という字は、二つとも立心偏が付いているから何かこころと関連するものとしてイメージされてきただろうし、「惚」の右側には「忽」という字があるから何かこころ(心)がうつろ(勿)な様子と関係づけられてきただろう。しかし、「うっとり」に同じような連想は生まれない。このように、同じ意味の言葉であってもそれまでに違う歴史を歩んで来れば、どのような場面や文脈において使用されて来たのか、どのような人たちによって使用されて来たのか、他のどのような言葉や事物と関係づけられてきたのか、という点において異なってくる。
こうした言葉の来歴については人によって捉え方が異なる。「恍惚」という言葉を「うっとり」よりもよく使うという人も居るかもしれないし、「恍惚」という言葉を頻繁に使う小学生が近所にたくさん住んでいるという人も居るかもしれない。また、「恍惚」という言葉をわざわざ分解して「心」という言葉と連想させたことなどないという人も居るだろう。一つの言葉の来歴は、百人いれば百通りに語られうる。
百通りに語られる一つの言葉の歴史の中には、偶然的なものもあるだろうし、間違っているものもあるだろう。「歯」という字に「米」が含まれていることを見て、歯で米を噛むからこんな字になった、という連想を膨らませる人も居るかもしれない。しかし、「歯」と「米」はなんら関係ない。「歯」という字は略字であり、この字体が導入されるまでに使われていた「齒」の字の中に「米」は見当たらない。それならば、「米」の代わりに「人」があるから、歯はもともと「人」と関連付けられていた、というのもまた違う。漢和辞典をひらいてみると、「齒」の下の部分は歯の見た目をそのまんま象ったものである、というようなことが書かれてある。辞典に書いてあるんだから、これが差し当たり正しい起源ということになるのだろう。このように言葉は日々誰かによって使われているものだから、誤った連想がなされる場合もある。
人によってさまざまで、かつ、間違えることもある言葉の歴史もまた、私たちが言葉を発し言葉を受け取る際に欠かすことのできない要素である。言葉は対象や概念への純粋な指示作用をもつだけでなく、使われていくごとに様々な印象、種々の観念、雑多な想念と結びついたり離れたりしながら歴史を蓄積させていく。学術用語として漢語やラテン語が用いられたり、完全に新しい術語が考案されたりするのは、日常語のもつ歴史性を断ち切り純粋な指示作用を出来る限り担保するためである。また、差別的な意味合いをもつ単語が使用禁止になり他の単語に言い換えられるのも同じ事情による。いつだったか、人種問題を扱ったテレビの一場面で「彼らは決して口にしてはいけない単語を叫んでいた。nから始まる単語をね。」とアメリカ人が言っていた。“negro”という単語は、語源に当たるラテン語のnigerまで遡れば純粋に「黒い」または「暗い」という意味を表わす言葉だったようだが、長い歴史を経て黒人に対する侮蔑的な意味合いを獲得していき、今や単なる引用として口にすることすら憚られる言葉になってしまったのである。本当は侮蔑的な意味合いなんてなかったのに・・・、と嘆いたところで今さらもう遅い。
1946年に使える漢字の範囲が定められて以来用いられるようになった代用字という表記法は、ある時点において言葉の持っている歴史を無視した上に成り立ったものと言えるだろう。代用字とは漢字表に載っていない漢字を表わすために、音が同じ漢字を同値のものとして置き換えることである。たとえば、当用漢字表に「苛」という漢字が載っていなかったので困ったことに「苛酷」という熟語を作ることができなくなるが、「苛」の代わりに「過」を用いて「過酷」とすれば、これは使っても許される漢字なので難を逃れることができる。他には、「理窟」と「理屈」、「禁錮」と「禁固」、「藝術」と「芸術」の例がある。前の方が元々の綴りで、後ろの方が代用表記である。
「過酷」も「理屈」も「禁固」も「芸術」も、当用漢字表が世に出てから半世紀のちに国語教育を受けた私からすれば、なんら変な感じはしない。マヌケな印象も受けない。しかし人によってはこうした表記に違和感を持つこともあるかもしれない。今道友信氏の本(『美について』、講談社現代新書、1973年、75頁あたり)を読んだときに知ったのだが、「芸」は「藝」の単なる略字ではなく、まったく別の歴史を歩んできた字であるということらしい。しかも、「藝」がもともと「ものを種える」という意味であったのに対して、「芸」は「草を刈りとる」という、言ってみれば反対の意味を持つ字であるそうだ。このことを踏まえ、芸術というのは「人間の精神において内的に成長してゆく或る価値体験を植えつける技」であるから「藝」の字を用いた方が適切である、と今道氏は述べている。
私はこのことを知り、自分自身の漢字に対する知識、教養、感性の欠如を深く恥じ、これからは「藝術」と書くようにしようと自らに固く誓ったつもりだったが、ひと月と持たずにふたたび「芸術」と書くようになってしまった。いまでは何も見ずにこれを書けるかどうかも怪しい。こうなってしまったのは、たんに画数が多くて面倒だというよりは、その面倒臭さを厭わずに書こうとするだけの動機がなかったからである。確かに、「芸」と「藝」に違いがあるという知識は得ることができたし、「藝術」というのが適切な表記だという考えには納得したのだが、両者の違いを感覚として捉えられているとは言えず、また、「芸術」と書いても別にさしたる違和感が生じない以上、難しい字をわざわざ書く理由はない。
私たちが言葉を発し言葉を受け取る際に欠かすことのできない要素、記号の来歴はなにも正史だけに限定されるわけではなく、野史も外史も含まれる。米を噛むから「歯」だといった民間伝承も、「恍惚」が口癖の小学生が居たといった思い出も、記号の来歴と呼ぶに十分な資格を持っているのである。
3 分かりやすさについて
誰かと意見を交換したり、大勢の人に向けて情報を発信したりする際には、出来る限り分かりやすく表現することが求められる。もちろん、聞き手や読み手が理解できないように敢えて難解な言葉を弄することがプラスに働く局面もあるだろう。厳粛な儀式で使われる呪文やお経なんかはどんな意味だか分からない方が有り難みがあるし、学術論文で使われる言葉なんかは耳に馴染みのない専門用語を多用する方が著者は自分を頭よさそうに見せることができる。しかし、大体の場合において分かりにくい言葉遣いを分かりやすい言葉遣いに言い換え、難しい言い回しを簡単な言い回しに言い直すことが要請される。
漢字制限は、普段使う文章を分かりやすい表記にすることを目的の一つにしている。しかし、何が分かりやすい表現で何が分かりにくい表現なのかは、場面によって変わってくる。平仮名ならば分かりやすくて、漢字ならば分かりにくいわけでは必ずしもない。大和言葉ならば分かりやすくて、漢語ならば分かりにくいわけでは必ずしもない。専門用語を日常の中で多用することが円滑なコミュニケーションを阻害するのと同じように、専門家集団を相手にしてその中で既に通用している専門用語を日常語に言い直したら混乱するだろう。一様に分かりやすさの規準を与えることは困難である。
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