美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

哲学と政治 ―――プラトン『ゴルギアス』について (イザ!ブログ 2013・6・12,14,19 掲載)

2013年12月16日 07時21分05秒 | 思想・哲学

ゴルギアスの彫刻

先日の読書会で、プラトンの『ゴルギアス』を扱った。いろいろと思うところがあったので、忘れないように書き記しておきたい。例によって、参加した方々のご意見・見識をそこかしこに織り込んでいることをおことわりしておきたい。

岩波文庫の解説によれば、この作品は、プラトンの全著作を彼の生涯の主要な区分(遍歴時代、アカデメイア時代、晩年)に応じて、初期と中期と後期とに分けると、初期のおおむね終わりごろに書かれたとのことである。ならば、紀元前388年の少し前として、プラトンが三〇代後半のときに書かれたことになる。解説から引用しよう。

この対話篇ではまだ、後の作品においてよく見られるように、ソクラテスだけが主な話し手になっていて、相手方のほうはただ、「イエス」とか「ノー」と答えるだけの、形式的な対話人物となっているのではない。いな、ソクラテスとその問答相手たちとは、互いに問い手になったり答え手になったりしながら、文字通りの「対話」を交わしており、そして両者の挑戦と応酬によって作り出される緊張が、この対話篇を一個のすぐれた劇作品としているのである。その点では、プラトンの数多くの対話篇のなかでも、おそらくこの『ゴルギアス』ほど真の意味で 「対話篇」の名に値する作品は、他にはないといってよいかもしれない。

文中の「一個のすぐれた劇作品」という評価は、まったくその通りである。だから、当作品はとても楽しくスリリングに読み進めることができる。これは、作品としての『ゴルギアス』を褒めて言うのだが、読後、「ソクラテス先生、圧勝」という印象はあまり残らない。逆に言えば、対話の相手たち(ゴルギアス・ポロス・カリクレス)は、ソクラテスを相手になかなか善戦しているのである。特に三番手のカリクレスは、なかなかの存在感を示していて、ソクラテスによって論破されたとは、本質的なところでは、到底言えないと私は考えている。

以下、カリクレスとの対話に焦点を当てて当作品のいくつかの論点を提示し、それらについての私見を述べよう。

〔1〕カリクレスによるニーチェ的視点の提示と強者・弱者のパラドクス

カリクレスは、当作品のなかで、現役のバリバリの政治家として登場する(もちろん実在の人物だ)。だから、その態度は、現実なるものをよく知る者に特有の自信に溢れていて余裕がある。彼は、あくまでも哲学の立場に固執するソクラテスに対して、次のような言葉を投げかける。

ぼくの思うに、法律の制定者というのは、そういう力の弱い者たち、すなわち、世の大多数を占める人間どもなのである。だから彼らは、自分たちのこと、自分たちの利益のことを考えにおいて、法律を制定しているのであり、またそれにもとづいて賞賛したり、非難したりしているわけだ。つまり彼らは、人間たちの中でもより力の強い人たち、そしてより多く持つ能力のある人たちをおどして、自分たちよりも多く持つことがないようにするために、余計に取ることは醜いことで、不正なことであると言い、また不正を行うとは、そのこと、つまり他の人より多く持とうと努めることだ、と言っているのだ。というのは、思うに、彼らは、自分たちが劣っているものだから、平等に持ちさえすれば、それで満足するだろうからである。
(483B,C)

これは、2000数百年以上も後のニーチェが、民主主義における平等の理念の本質は弱者の強者に対するルサンチマンであると喝破したのに、まっすぐに通じる。カリクレスは、さらに次のようにも言う。 

法律習慣の上では、世の大多数の者たちよりも多く持とうと努めるのが、不正なことであり、醜いことであると言われている(中略)。だが、僕の思うに、自然そのものが直接に明らかにしているのは、優秀な者は劣悪な者よりも、また有能な者は無能な者よりも、多く持つのが正しいということである。(中略)それは他の動物の場合でもそうだけれども、特にまた人間の場合においても、これを国家と国家の間とか、種族の間とかいう、全体の立場で考えてみるなら、そのとおりなのである。すなわち、正義とは、強者が弱者を支配し、そして弱者よりも多く持つことであるというふうに、すでに決定されてしまっているのだ。 (483C,D)

これまた、ニーチェの「我がものとし、支配し、より以上のものとなり、より強いものとなろうとする意欲」があらゆるものの根源であるとする〈力への意志〉の思想を、カリクレスなりの言葉で先取りしたものであると解することができる。

カリクレスの歯に衣着せぬ物言いに対して、ソクラテスは次のように尋ねる。

より優れているということと、より強いということとの定義は、同じなのかね。

(488D)

以下、二人のやり取りを見ていただきたい。


カリクレス (略)あなたにはっきり言っておこう、それらは同じ意味なのだ。

ソクラテス それでは、どうだろう。多数の者は一人よりも、自然本来においては、より強いのではないかね。そして、まさにその多数の者が、一人に対抗して、法律を制定しているのだが、君もさっき言っていたようにだね。

カ それはもちろん、そうだ。

ソ そうすると、多数の者の定める法規は、より強い人たちの定める法規だ、ということになるね。

カ たしかに。

ソ ではまた、より優れた人たちの定める法規でもある、ということになるのではないかね。なぜなら、君の説によると、より強い人たちというのは、より優れた人たちのことだろうから。

カ そうだ。

ソ だとすると、彼ら多数の者の定める法規は、自然本来において、美しいものだということになるのではないかね。とにかく、それはより強い人たちの定めるものなのだから。

カ それは認めよう。  


                             (488D,E)

こんなふうにして、ソクラテスはおもむろに議論を自分に有利な形に持っていこうとする。しかし、そのことよりも、ここで注目したいのは、弱くて劣った存在のはずだった多数者が、本来強くて優れた存在のはずであった者よりも、数の力で強者となり優れた者となる「法律習慣」の世界、すなわちこの世のパラドクスである。このパラドクスが、さまざまな領域における統治の不可思議と困難とをもたらすのである。この事態を、かの魯迅は、当時の中国の政治情況に引き寄せて「暴君に支配される民は、暴君よりも暴である」と言い表した。無上の権力を持つ専制君主でさえも、被支配者たちから専制君主であることの同意を取り付けなければ、専制君主として振舞うことが不可能なのである。いささか逆説的な物言いを弄するならば、強者としての支配者は、弱者としての被支配者に支配されることによってはじめて支配者として振舞うことが可能となるのである(ある貨幣が流通しうるのは、その流通圏内の人々がそれを貨幣として承認するからである、という事態に似ている。その承認が、貨幣をめぐる抜き差しならぬ喜悲劇をもたらす。人間は、そういう不思議で馬鹿げたことを当たり前のようになす存在なのである)。この支配の本質が、民主政治においては、ポピュリズムの病として顕在化しやすくなることは言うまでもない。奴隷制によって支えられていたとはいえ、ソクラテスたちは、アテナイの民主政治の担い手だったので、統治なるものの不可思議と困難とがとりわけ身にしみてよく分かったのではないだろうか。そういう背景を想定して、上の問答を読むと、面白みがさらに増すのではないかと思われる。

☆上記の二人の問答のなかの「法律習慣」(ノモス)と「自然本来」(ピュシス)という言葉の対比が気にかかった方がいらっしゃると思う。とくに「自然本来」(ピュシス)は、われわれ日本人の自然概念とはかなりニュアンスを異にしている。それについては、読書会のレポーターF氏が適切な解説をしてくれたので、それを援用しておこう(興味のない方は読み飛ばしてください)。

以下はすべて、F.ハイニマンの『ノモスとピュシス』(1945・みすず書房1983)からの引用である。

通説によれば、現存するものに対するソフィストの批判が、ノモスとピュシスの両概念を初めて互いに対置させたとされる。すなわち、すでに比較民俗学によって知識が伝えられていたさまざまな民族におけるきわめて多くの相互に矛盾する風習とものの考え方を眼にして、ソフィストの批判は、それらの一切がたんなる人間の所産であり、またそれゆえ拘束力をもたないもの(ノモス)であると宣言し、それらに対して自然(ピュシス)こそが唯一の真なる規範であると告げるに至ったとされる。 (原文引用)

両概念を対にした用法の現存文献における初出は、ヒポクラテス(460BC~370BC)の『空気、水、場所』である。これは、ペロポネソス戦争(431BC~404BC)勃発直前、ペリクレスの時代に成立した。ヒポクラテスは、当著において、アジアとヨーロッパとの身体的特徴や気候や地理の相違点の因って来たる原因を首尾一貫した形で問おうとする。そうして、その原因を、気候・地勢(季節・水・土地)などのピュシス的原因と、自然環境に依存せず、もっぱら人間にのみ依存した第二の原因としてのノモス的原因とに分けて論じた。       (レポーターのレジュメの文言を文章化したもの)

語源とその意味の変遷について。

「ノモス」の元は、動詞「ネメイン」。他動詞としては①分ける②放牧する、という意味であり、自動詞としては①自分自身に割り当てる(享受する・所有する)②牧草を食べる、という意味である。ここから、「ノモス」=「割り当てられたもの」という原義が生まれて来る。それが、ヘシオドスの『仕事と日々』においては「共同体の秩序」という意味で使われており、ヘラクレイトスは「妥当するもの」という意味で使い、ピンダロスは「国家体制」という意味で使った。「ノモス」は、このようにして、一方の方向においては、権威ある意味を持った概念へと発展していったが、しかし他方では、共同体の秩序の拘束性をもはや強調しなくなり、単なる「慣習」の名称に成り下がった。

次に「ピュシス」について。

「ピュシス」は名詞であるが、つねに「生じる」「成長する」という動詞的な力を保持してきた。「合理的で自然科学的な」イオニアにおける「ピュシス」概念は、①副次的な例外に対する「正常な状態」②規範・基準③物事の真の本質・真の状態、という意味を持つ。  (レポーターのレジュメの文言を文章化した)

後のルソーが肯定的に「自然」と言うとき、そこには、上記の③の「物事の真の本質・真の状態」というニュアンスが濃厚である。

詩の話になっていささか恐縮だが、私は「ピュシス」概念の意味の箇所に触れるうち、突然次の詩を思い出した。そのことを話しておきたい。

道程  
高村光太郎

僕の前に道はない
僕の後ろに道は出来る
ああ、自然よ
父よ
僕を一人立ちにさせた広大な父よ
僕から目を離さないで守る事をせよ
常に父の気魄を僕に充たせよ
この遠い道程のため
この遠い道程のため


ここでの「自然」の意味が、私は高校生のとき以来、ずっと分からずに来た。どうにもしっくりこなかったのである。ところが、「自然」=「ピュシス」ととらえて、上記の意味のうち「②規範・基準③物事の真の本質・真の状態」に着目すれば、ちゃんと理解が行き届く、という体験を得ることができたのである。日本的な「自然」概念をいくら引き伸ばしても、ここで高村光太郎が使っている「自然」のニュアンスには届かない。昔、故吉本隆明が、高村光太郎は日本人ばなれした知的な詩人であるという意味のことを言っていたが、その意味が今回少しだけ実感できた。小さな喜びである。

この文章、思ったよりも長くなりそうである。続きは、近いうちに。


*****

〔2〕カリクレスの哲学批判とソクラテスの政治批判

ソクラテスとの埓のあかない問答に業を煮やしたカリクレスは、次のように言う。

いや、ぼくとしては、もうさっきから言っているはずだ。まず第一に、ぼくが強者であると言っているのは、靴屋のことでもなければ、肉屋のことでもないのだ。そうではなくて、国家公共の事柄に関して、それはどうしたならよく治められるのか、ということに思慮のある者が、もし誰かいるとすれば、その人たちのことなのだ。そして、たんに思慮があるだけではなく、その上また勇気もある人たちのことなのだ。つまり、思いついたことはなんでもやり遂げるだけの力を持っていて、そして精神の柔弱さのために、途中でへこたれてしまうことのない人たちのことなのだ。 (491B)

ここでカリクレスは、一国を統治するに足るだけの者は、国にとってなされねばならないことをきちんと考えぬくだけの思慮深さと、それをやりぬくだけの意志の強さ・勇気とを合わせ持っているという意味での強者であらねばならない、と言っている。言いかえれば、ノーブレス・オブリージュ(高貴なる者の義務)を果たしうるだけの力を持った者が統治の任に当たるべきである、と言っているのである。これは、極めて妥当な見識であると申し上げるより他はないだろう。

それを受けての、ソクラテスの言葉とカリクレスのやり取りをしばらく見ていただきたい。

ソ では、どうだろうね。自分自身のことは、君、どうなっているのかしら?

果たして、その支配する人たちは、自分自身をなんらかの意味で支配しているのだろうか、それとも逆に、自分自身については、支配されたままになっているのだろうか。

カ というと、それは、どういう意味かね。

ソ その人たちのひとりひとりが、自分で自分自身を支配しているのか、と訊いているのだよ。それとも、そんなことは、つまり自分で自分を支配するということは、全然不必要なことであって、ほかの人たちを支配すれば、それで足りるのかね。

カ その、「自分自身を支配する者」というのは?

ソ いや、何もこみいったことではなく、世の多くの人たちが言っているとおりの意味なのだ。すなわち、自分で自分にうち克ち、節制する人のことで、つまり自分の中にあるもろもろの欲望や、それに伴う快楽を支配する者のことなのだ。

カ なんてあなたは甘い人なんだろうね!あなたの言う節制家とは、なあんだ、あのお人好しの、とんま連中のことかね。

ソ いや、どうしてそんなことがありえよう。ぼくがそんなことを言おうとしているのでないということは、だれだってわからぬ人はないはずだが。
                         (491D,E)

ここで、私はカリクレスの立場に肩入れするうえで、もどかしい気分におそわれる。ソクラテスの逆襲を撃退するうえで、カリクレスの言葉はお世辞にも有効とは思えないからだ。カリクレスは、「自分が主張しているのは公人としての徳の在り方であるのに対して、ソクラテス、お前が主張しているのは私人としての徳なのだよ。だからお前の反論は、私の主張に対してまったく有効性がないのだ」と言ってしまえば良かったのである。公人として有するべき徳の議論に、節制の是非などという私人の徳の議論を持ち込むのは基本的に意味がない、と。

ソクラテスの主張は、朱子学になぞらえれば、修身・斉家・治国・平天下の連続性のそれである。つまりソクラテスは、治国・平天下を実現するためには、修身が礎とならなければならないと言っているのである。しかし、近代的な政治意識は、修身・斉家と治国・平天下との間にきっぱりと切断線を入れる。その視点からすれば、ソクラテスの政治意識は古代的である。それは、ソクラテスが古代の人であるのだから、当たり前のことである。つまり、ソクラテスの政治家論は、古代のパラダイムの中にすっぽりと入ってしまうのだ。それに対して、カリクレスの拙劣な反論の言葉にこそ、古代の限界を突き抜けかねない先見の明があるのだ。

ここでわれわれは、『ゴルギアス』を書いたのはソクラテスではなくてプラトンであるという単純な事実を思い出そう。プラトンが作中のなかでソクラテスにもっとも心を寄せているのはたしかなことであるのだが、ちょっとした補助線を引けば、そのソクラテスを論破してしまいかねないほどにカリクレスなる人物を生き生きと力強く造形しえたプラトンの、劇作家としての手腕が並々ならぬものであることもまたたしかなことなのだ。

これをプラトンの思考のドラマとしてとらえれば、プラトンの頭のなかで、ソクラテスとカリクレスとは、その存在を賭けてギリギリの対話をしているのである。その過程で、もう少しで古代の限界を突き抜けるところまでの思考の突き詰めがなされている。こういうところで、私は「プラトン、恐るべし」の思いにかられる。

その思いは、カリクレスの次の発言を目にしたときにも湧いてくる。

ソクラテス、哲学というものは、たしかに結構なものだよ、ひとが若い年頃に、ほどよくそれに触れておくぶんにはね。しかし、必要以上にそれにかかずらっていると、人間を破滅させてしまうことになるのだ。(中略)つまり、一口でいえば、人さまざまのあり方について、まるっきり心得のない者になるからなのだ。だから、そんな状態で、公私いずれにもせよ、何らかの行動に出るようなことがあれば、物笑いの種になるだけであろう。それはちょうど、政治の仕事にたずさわっている者たちが、逆に、あなた方が日常行っている談話や討論に加わった場合には、笑い物になるだろうとぼくは思うけれど、それと全く同じことなのだ。(中略)実際、いい年になってもまだ哲学をしていて、それから抜け出ようとしない者を見たりするときに、ソクラテスよ、そんな男はもう、ぶん殴ってやらなければいけないとぼくは思うのだ。なぜなら、そういう人間は、さっきも言ったことだけれど、いかによい素質をもって生まれて来ていたところで、もう男子たる資格のない者となってしまっているからだ。                          (484C~485D)

カリクレスは、いい年をして哲学なんかにかまけていると、自分に対して妙に自信を持った、救いがたい「世間知らず」になってしまう、と言っているのだ。これは、実に痛烈な哲学批判である。ここには、哲学者に限らず、思想家とか学者とかあるいは知識人などと呼ばれるような、生活過程において「考える」という作業に、普通の人と比べると過剰にウェイトづけをしている存在の弱点を鋭く突くものがある(アドルノは、『ミニマ・モラリア』で、それに「現代において、知識人はみなどこか『ハンス坊や』である」という意味の言葉で言及した)。そういう人々が、ここにそういうものを感じないとすれば、それは、その人が、馬鹿か鈍感か傲慢なせいである。こういう言い方をしているからといって、私は、いい気になっていうわけではない。いい歳をしてこんなものを書いている私自身、他人(ひと)ごとではないのである。ましてやカリクレスは、ちゃんと「逆に、あなた方が日常行っている談話や討論に加わった場合には、笑い物になるだろうとぼくは思う」と言って、自分の発言が一方的なものにならない配慮さえしているのである。そこには、成熟したまっとうな社会人の常識感覚がある。お見事というより他はない。

それに対して、ソクラテスはどう言っているのだろうか。彼は、テミストクレス(BC528頃~462)、キモン(BC512~449)、ミルティアデス(BC550頃~489)、ペリクレス(BC495頃~429)という前五世紀のアテナイを代表する四人の偉大な政治家たちを、デモス(民衆)のご機嫌をとる召使のようなものに過ぎないとしてことごとく否定したうえで、次のようにいう。

ぼくの考えでは、アテナイ人の中で、真の意味での政治の技術に手をつけているのは、ぼく一人だけだとはあえて言わないとしても、その数少ない人たちの中の一人であり、しかも現代の人たちの中では、ぼくだけが一人、ほんとうの政治の仕事を行っているのだと思っている。        (521D)

歴代の偉大な政治家たちを「ほんとうの政治の仕事」を行っていないという理由で全否定したうえで、ソクラテスは、少なくとも自分が生きている時代においては、自分だけがただひとり、「ほんとうの政治の仕事を行っている」と言い切る。これは、取りようによっては、傲岸不遜の極みのような発言であり、独りよがりもはなはだしい噴飯ものだと評されかねない問題発言である。

ここで問題になるのは、ソクラテスのいわゆる「ほんとうの政治の仕事」とは何かということである。ソクラテスによれば、それは、デモス(民衆)のご機嫌をとる召使や迎合家のような仕事とは正反対のものである。すなわち、それは「人々のご機嫌をとることを目的にしているのではなく最善のことを目的に」する仕事である。

では、「最善のこと」とは何か。それは、文脈から察するに、アテナイ人ができるだけすぐれた人間になるようにあくまでも頑張り抜く役を果たすことである。そのためには、人々のご機嫌をとったり、彼らが心地よいことを言ったりすることなどもってのほかであり、彼らの反発や拒否反応にめげることなく、あくまでも、彼らのためになる、ほんとうのことを誠実に言い続け、実行し続けなければならないのである。ソクラテスが言おうとしている「ほんとうの政治の仕事」とは、どうやらそういうものであるらしい。

世論調査では、国民が政府に望む政策の筆頭はいつも景気対策である。そのことに例外はない。それを目にすることに慣れた者にとって、ソクラテスの政治観は、あまりにも浮世はなれした、ある意味ではとても過激なものである。それは、当時のアテナイの人々にとってもそうだったのではないだろうか。なによりも、ソクラテスの言葉を受けつけないカリクレスのような存在そのものが、その証拠である。

ソクラテスの政治観は、浮世ばなれしているだけではない。彼は、政治家の業績の評価をめぐって具体的な看過しがたい誤りさえも犯している。彼は、ペリクレスの評価をめぐって、「ペリクレスは、公けの仕事に手当を支給する制度を最初に定めた人なのだが、そのことによって彼は、アテナイ人を怠け者にし、臆病者にし、噂好きのおしゃべりにし、また金銭欲の強い人間にしてしまった」と言う。

しかし、岩波文庫の注によれば、その批評は、「歴史的事実としては正確でない」。

なぜなら、これらの手当を受ける機会は、市民全体の総数からいえば、きわめて限られた範囲の者に訪れただけであるからである。つまり人は、政務審議会の議員(任期一年)には、一生の間に二度なれただけであり、またどの官職(任期一年)――軍事関係を除いて――にも、人は一度しか就任しえなかった。そして民会の開催は一年に四十回であり、しかもその出席手当を受ける人員の数は制限されていた。また観劇手当は一年に数日のことにすぎない。しかがって、戦時にける軍隊勤務の場合を別にすれば、陪審員の職だけがかなり恒久的に手当を受ける機会をもたらしたと言える。しかしその手当にしたところで、その額はたいへん低く、一人の人間がどうにかその日を送ってゆけるだけのものにすぎなかった。
  (岩波文庫P320~321)

これだけの事実を突きつけられれば――注は遠慮して「歴史的事実としては正確でない」などと言っているが――要するに、ソクラテスの批評は誤った事実認識に基づいたものなので話にならない、というのが正確なものの言い方だろう。

いろいろと言い募ってきたが、端的にいえば、ソクラテスが言おうとしている「ほんとうの政治の仕事」とは、実は、現実の政治の仕事とは根のところで反するものなのである。さらに踏み込んでいえば、「本当の政治の仕事」とは「本当の哲学の仕事」とその本質において一致する、とソクラテスは言いたいのだろう。しかしながらそれは、現実の政治家が到底受け入れるところではない。そうしてそれは、政治なるものの本質からして、至極もっともなことなのである。

それはどういうことなのか。私見によれば、前回述べた支配をめぐるパラドクスの視点から、そのことは根拠づけることができる。すなわち、「強者としての支配者は、弱者としての被支配者に支配されることによってはじめて支配者として振舞うことが可能」であるとするならば、支配者は、支配するためには、不可避的に被支配者に迎合するよりほかにないのである。この言葉が気に入らないのであれば、支配者は、支配するためには、不可避的に民意に配慮しなければならないのである、と言いかえても一向にかまわない。なぜならそれらは、突き詰めると、同じことに帰着するからである。その度合いがはなはだしい場合、その支配形態は、ポピュリズムと呼ばれて否定的に論じられる。つまり、通常の支配とポピュリズムとは、隔絶したものではなく、地続きのものなのである。

つまり、私がここで言いたいのは、政治と哲学とは、それぞれが自分の本性に忠実であろうとするならば、激突するよりほかにないものなのである、ということである。

ここで政治学者の櫻田淳氏にご登場願おう。彼によれば、知識人や学者は、「ほんとうのこと」を言わなければならない存在である。逆から言えば、決してウソを言ってはならない存在なのである。それに対して、政治家は、「必要なこと」を言わなければならない存在である。逆から言えば、決して不必要なことを言ってはならない存在なのである。

ここで、彼が「知識人や学者」と言っている存在を理念として突き詰めると、ソクラテスのいわゆる「哲学者」に帰着することは、ご同意いただけるのではないかと思われる。だから、ここから先は、「知識人や学者」を哲学者に言い変えよう。

「ほんとうのこと」のみを言わなければならない哲学者と、「必要なこと」のみを言わなければならない政治家とは、言論の展開をめぐって、角逐を余儀なくされるのである。それが、彼らの宿命なのだ。

「ほんとうのこと」を言う哲学者の目に、不必要なことを言おうとしない政治家は不誠実な唾棄すべき存在としか映らない。

逆に、不必要なことを言おうとしない政治家の目に、明らかに不必要なことを含む「ほんとうのこと」をあえて言おうとし、また、政治家がそれを言うことを要請し、さらには、そうしようとしない政治家を激しく否定しようとする哲学者は馬鹿者としか映らないのである。

言論をめぐる両者の本質的な対立関係を、プラトンは、ソクラテスとカリクレスの非妥協的な対話の展開をその思考経路において継続し抜くことによって、保ち続けたのである。そこが、思考の達人としてのプラトンの凄いところである。

それにしても、作品中のソクラテスの非妥協性の行き着く先が、ひとりの読み手として気になるところである。ここで、私の関心は、おのずとソクラテスの非業の死に向かう。                 (次回につづく)


*****

〔3〕ソクラテスの死について

前回の最後のところで、「作品中のソクラテスの非妥協性の行き着く先が、ひとりの読み手として気になるところである。ここで、私の関心は、おのずとソクラテスの非業の死に向かう」と申し上げた。ここで、一気に当作品のなかのソクラテスの死に関わる箇所にアプローチする前に、ソクラテスが死を迎える時期のアテナイの人々の雰囲気や時代背景に触れておきたい。テーマが、あまりにも大きいので、慎重を期して、その外堀を埋めておきたい、ということである。

Wikipediaによれば、当時のアテナイの情況は、次のようである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%AD%E3%83%9D%E3%83%8D%E3%82%BD%E3%82%B9%E6%88%A6%E4%BA%89
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%8D%81%E4%BA%BA%E6%94%BF%E6%A8%A9

ギリシャ全土を巻き込んだペロポネソス戦争(BC431~404)は、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟側の勝利に終わった。その結果、アテナイを盟主とする海洋国家群のデロス同盟は瓦解し、アテナイでは共和制が崩壊した。

その後、スパルタの強い影響のもとで、30人による親スパルタの寡頭制政権が成立した。メンバーには過激派の急先鋒クリティアス、穏健派のテラメネス、アポロドーロスの息子カリクレス(『ゴルギアス』に登場する、あのカリクレスである)などがいた。政権成立の当初、行き過ぎた民主政がアテナイ敗北の原因だったと考えていたアテナイの貴族や富裕層はこの事態を期待すべきものと捉えた。

しかし、その期待は裏切られた。まもなく三十人政権は恐怖政治を敷き、貴族、富裕層や対立勢力を次々と粛清して財産を奪い、仲間内でも穏健派のテラメネスを殺害したのだ(道義上の変革を目指したことが、その政治を過激化した、という側面が否めなかった)。そのため、この政権への失望と反発が強まり、翌紀元前403年にトラシュブロス率いる民主政支持勢力との戦いによって打倒された。なお、ペイライエウス港をめぐる攻防戦で三十人政権のリーダー格のクリティアスが戦死した。こうして、再びアテナイは民主政へと回帰した。

だから、ようやくにして政治の実権を取り戻した当時のアテナイ市民の間には、アテナイを苦境に陥れた者はだれかという不健全な「犯人探し」の心理が蔓延していたものと思われる。敗戦とその後の政治不安によって、プライドを深く傷つけられたアテナイ市民は、疑心暗鬼に陥り、不満足な現実を受け入れがたく思う欝情をぶちまける格好の「獲物」を探し求めていたのではないだろうか。ユングなら、ここで、集合的無意識における自律的なコンプレクスが働いている、と言うところである。

そこで、ソクラテスの登場である。人々は、ペロポネソス戦争敗北の原因となった「裏切り者」アルキビアデスや、恐怖政治を強行した三十人政権の指導者のクリティアスらはソクラテスの弟子であるとした。実は、ソクラテスは彼らを弟子とは思っていなかったのであるが。なぜなら、『ソクラテスの弁明』(青空文庫)で、ソクラテス自らが「私は正式に弟子を持ったことはありません」と言明しているのであるから。その言明の精神は、親鸞が「親鸞は弟子一人(いちにん)ももたずそうろう」(『歎異抄』)と言明したそれに深く通じるものがある。というのは、親鸞が阿弥陀如来のお導きによって信心を得たように、ソクラテスは、デルフォイの神のお導きによって、他のすべてを犠牲にしながら哲学なる営みに専心してきたのであるから。「私は神様からみなさんへの贈り物」(『弁明』)というソクラテスの言葉に嘘はないのである。

いずれにしても、アテナイ市民は、格好の「獲物」を探し当てた。これでやっと鬱憤を晴らすことができる、というわけだ。ソクラテスの側から言えば、彼は、衆愚の無自覚なルサンチマンという始末に負えないものと対峙することになったのである。ソクラテスを訴えた詩人のメレトスや政治家と職人代表のアニュトスは、それからエネルギーを補給して、ソクラテスに迫っているのだ。ソクラテス自身そのことを、「もし私が殺されるなら、私を殺すのはメレトスさんでもアニュトスさんでもなく、世間のねたみと悪口なのです。それはこれまでも多くの善人の命取りとなってきましたし、これからも多くの命を奪うことでしょう」(『弁明』)と言って、はっきりと認識していたのである。

ここでふたたび、われわれは、『弁明』を書いたのがプラトンであるという素朴な事実を思いだそう。二八歳の若人プラトンは、ソクラテスという、自分がこの世でもっとも尊敬するかけがえのない人物が、衆愚の無自覚なルサンチマンという人間のもっとも醜くて質(たち)の悪いものに圧倒され、おしつぶされそうになっている現場を目撃しているのである。そうしてプラトンは、自分でも気づかないほどに深く傷つく。さて、ソクラテスは、そういうものにひたすらおしつぶされただけなのだろうか。それがありのままの現実なのだろうか。

「そうではない」という静かではあるがはっきりとした声が、歴史の薄暗がりの彼方から聴こえてくる。それはもちろんプラトンの声だ。ソクラテスの口を借りて、プラトンはこう言う。

かりにもしぼくが、法廷へ引き出されて、君(ゴルギアスのこと――引用者注)がいま言っているような、何かそういうことについての危険にあうのだとすれば、ぼくをそんなところへ引き出した者こそ、悪い人間だろうということだ。――なぜなら、罪のない者を、誰もよい人間は、そんなところへ引き出すはずはないからね。――そしてまた、ぼくが死刑になるとしても、それは少しも意外なことではないということだ。なんならぼくがなぜそんなことを予期しているかを、君に話してあげようか。  (521D)

ソクラテスは、なぜ死刑になることを予期しているのだろう。ここで、私は前回と同じ箇所を引用しなければならない。

ぼくの考えでは、アテナイ人の中で、真の意味での政治の技術に手をつけているのは、ぼく一人だけだとはあえて言わないとしても、その数少ない人たちの中の一人であり、しかも現代の人たちの中では、ぼくだけが一人、ほんとうの政治の仕事を行っているのだと思っている。         (521D)

この言葉をとらえて、私は前回「取りようによっては、傲岸不遜の極みのような発言であり、独りよがりもはなはだしい噴飯ものだと評されかねない問題発言である」と申し上げた。この「問題発言」と死刑の予期とはどうやってつながることになるのだろうか。これに続くソクラテスの言葉に耳を傾けてみよう。

そこで、いつの場合でもぼくのする話は、人びとの機嫌をとることを目的にしているのではなく、最善のことを目的にしているのだから、つまり、一番快いことが目的になっているのではないから、それにまた、君が勧めてくれているところの、「あの気の利いたこと」をするつもりもないから、法廷ではどう話していいか、ぼくはさぞ困るにちがいないのだ。  (同上)

ここでも、また、『ゴルギアス』のほかの箇所を目を皿のようにして探してみても、ソクラテスは肝心要のことを言っていない。すなわち彼は、法廷に引っ張り出されたら、これまでの姿勢を貫こうとする自分は人々の反感を買って窮地に陥るだろうとは言っているが、先の「問題発言」と死刑の予期とはどうやってつながることになるのかについては何も語っていない。言いかえれば、なにゆえ自分の言動が、法廷に引っ張り出されて、死刑を求められるほどに人びとから憎まれることにつながらなければならないのかについてはなにも触れていないのである。

実はそれについて、ソクラテスは『弁明』で率直にふれている。引用しよう。

金持ち階級の若者たちが、さしてやることもないまま、自発的に私のもとに集まって、智恵者のふりをした人が試されるのを聞きたがり、しばしば私の真似をして、他の人たちを試し始めたのです。なにか知っていると思っているが、その実は、ほとんど知らないかまるで知らないということを、この若者たちにたちまち見破られた人は多数にのぼり、若者に試された人たちは、若者に怒るかわりに、私に怒ったのです。このいまいましいソクラテスめと、この人たちは言うのです。この若者を惑わす不埒者めと。

この箇所はずいぶん読み手の想像力を掻き立てる。吟味と検証とによって、「智恵者のふりをした人」の無知を、ソクラテスは、白日の下にさらす。それを当人たちの周りで耳を大きくして聴いている「金持ち階級の若者たち」(プラトンはそのなかのひとりである)の目は、好奇心で爛々と輝いていたことだろう。そうして、彼らは、ソクラテスの、哲学というものすごい威力を発揮する言葉の武器を、自分たちでも試してみることになった。すると、年長の、世間で知恵者ともくされていた人びとの無知が、どんどん暴かれるではないか。知的でひまをもてあました若者にとって、これはとても愉快で知的刺激に富んだ、強烈な経験であったことだろう。そうして、彼らは興奮して言い合ったに違いない、「ソクラテスは凄い人だ」と。

しかしながら、公衆の面前で恥をかかされた側はたまったものではない。当然、恨みつらみが残る。彼らは、上の引用にあるように、小生意気な若者たちを怒るかわりに、ソクラテスに怒りの感情を差し向けた。「このいまいましいソクラテスめ、この若者を惑わす不埒者め」と。彼らの目に、ソクラテスは、邪悪でいかがわしい黒魔術のようなものを操る恐るべき存在と映ったに違いない。しかし、ソクラテス流の対話に魅せられていた若き日のプラトンにとって、ソクラテスは、「その当時の人々のうちでいちばん正しい人であるというのをほとんどはばからない」(第七書簡より『プラトン書簡集』(角川文庫)所収)ほどの高みにある存在であった。

かねてよりソクラテスに畏れと恨みとを抱いていた彼らに、やがて好機が訪れることになった。先ほど述べたように、ペロポネソス戦争敗北の余波から脱し切れない不安定な社会情勢下で、アテナイ市民の間に、アテナイを苦境に陥れた者はだれかという不健全な「犯人探し」の心理が蔓延することになったのである。その好機を彼らは捉えたのだった。彼らは、社会不安に乗じて、ソクラテスの社会的な生命の抹殺に動いたのである。メレトスとアニュトスを代表者に仕立てて、彼らは、「ソクラテスは悪事をなす者で、若者を堕落させ、国家の神々を信じず、自らの何か他の新しい心霊を奉じている」と裁判所に訴え出たのだった。(『弁明』)

以上述べたことが正しいとするならば、ソクラテスの窮状は、半ば以上、対話における吟味と検証とを重視する、彼の哲学の非妥協的な性格が不可避的にもたらしたものということができるだろう。窮状を招く可能性が顕在化し現実化するかどうかは、時代の動向といういわば偶然による。しかしながら、もしもソクラテスの哲学の非妥協的な性格が、本質的にはアテナイの危機的な情況の産物であるのならば、すべては起こるべくして起こったということになるだろう。今の私には、そこまで見通す力量は、残念ながらない。

それにしても、ソクラテスの敵は、ソクラテスの命を是が非でも断とうとしたわけではないような気がする。彼の社会的な生命を抹殺すれば足りる、というのが本心だったのではなかろうか。彼らのそういう本音と自分の命を救う可能性が少なからずあることとを、ソクラテスはよく分かっていたのではあるまいか(ソクラテスは、それまで、だれかれ構わず知恵があるとされている者をつかまえてはそれが幻想にすぎないことを暴きたて続けてきたのではあるが、それは神託を果たそうとする使命感からそうしているだけであって、彼はいわゆる人間音痴ではないからだ)。そのことは、『弁明』におけるソクラテスの次の言葉からも窺い知ることができる。

私はこの歳で、亡命の地を転々と変え、絶えず追い立てられて、都市から都市へと流浪しながら、どんな生活を送るのでしょうか。というのは、私があちらこちらとどこへ行っても、若者は私のまわりに群れようとし、私が追い払えば、年長の者が若者の求めに応じて私を追い払うだろうし、来るにまかせれば、父親や友人が自分たちの都合で私を追い払うのは、はっきりしているのですから。 なかには次のようにいう人もいるでしょう。ああ、ソクラテスや、黙ることはできないのか、そうして見知らぬ都市へいけば、だれもじゃまだてしないだろうよ、と。


死刑の可能性以外のものを突きつけられていない者が、追い詰められた状態で、こういう言葉を開陳するとは、私には考えられないのである。

『弁明』にあるとおり、ソクラテスの知人のカイレフォンはデルフォイにおもむき、ソクラテスよりも知恵ある人がだれかいるかどうかを教えてくれる神託を求めた。するとデルフォイの巫女はもっと知恵ある者はだれもいないと答えた。その神託が真実であることを確認する営みが、ソクラテスにとって、対話者の言葉の妥協なき検証を貫く哲学のそれであった。ソクラテスは、ほかのすべてを犠牲にして、それを貫徹してきたのだった。

追い詰められたソクラテスがひたすらに畏れたのは、自分のこれまでの営みのすべてが神託の使命を果たすためのものだったという真実に一点でも瑕疵が生ずることであった。それを防ぐためになら、ソクラテスは、自分の命などどうでもよかったのである。

そう、我が命などほんとうにどうでもよいのだ。それを自分に対して証明し、さらには、それを共同幻想として決定的に確立するために、自分は、自ら死刑を求めるよりほかにはない。そうすることが、神託の所在を証明する直接の証拠にはならずとも、それを間接的に証明するうえでもっとも効果的なやり方である。そうソクラテスは思い定めたのだった。それをソクラテスは次のような言い方で表現している。

今朝家を出るときも、法廷に向かう途中も、また言いたいことをしゃべっている間も、神託は反対の徴をなにも出さなかったのです。ところが、私は演説の最中によく中断したのですが、今度は当面の問題について話したり行動したりしないと、神託が私に反対するのです。この沈黙を私はどう説明したらよいでしょうか。言いましょう。それは私の身に起こることは良いことであり、死が災難だと思っている人は間違っているという暗示なのです。というのは、私が悪いこと、良くないことをしようとすれば、いつもの徴が私に反対するのは確かだからです。  (『弁明』)

自分は、神託が真実であることを確認する使命の遂行者であるという確信に瑕疵が生じないように、言いかえれば、哲学者としての自分を守るために、ソクラテスが、死刑に処されることを望んだことは、つぎのエピソードからも窺い知ることができよう。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9 Wikipedia「ソクラテス」

神事の忌みによる猶予の間にクリトン、プラトンらによって逃亡・亡命も勧められ、またソクラテスに同情する者の多かった牢番も彼がいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていたが、ソクラテスはこれを拒否した。当時は死刑を命じられても牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったが、自身の知への愛(フィロソフィア)と「単に生きるのではなく、善く生きる」意志を貫き、票決に反して亡命するという不正をおこなうよりも、死を恐れずに殉ずる道を選んだとされる。

紀元前399年、ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わしてドクニンジンの杯をあおり、従容として死に臨んだ。

自ら望んだ刑死は、我が身に降りかかった悪質なポピュリズムの圧力を我が命とひきかえに押し返す戦略でもあった。そのことをソクラテスはきちんと認識をしていたようである。

私は我が下手人であるあなたがたに、私が世を去った直後に、あなたがたが私に課したよりはるかに重い罰が、あなたがたを待ち構えているのは確かだと予言しておきます。  (『弁明』)

彼の予言はどうやら当たったようである。Wikipediaに次のような記載がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%83%86%E3%82%B9#.E8.A3.81.E5.88.A4.E3.81.A8.E6.AD.BB 「ソクラテス・裁判と死」より

ソクラテスの刑死の後、(ソクラテス自身が最後に予言した通り)アテナイの人々は不当な裁判によってあまりにも偉大な人を殺してしまったと後悔し、告訴人たちを裁判抜きで処刑したという。

むろんこの「予言」は、その後の結果を知るプラトンによって、ソクラテスの慧眼を誇示するために、書き加えられた可能性があることを、私は否定しない。

そろそろまとめよう。

ソクラテスの刑死は、避けようのない歴史的な事実であるのと同時に、ソクラテスの妥協なき哲学的営みの必然的な帰結でもあった。そのことが、ソクラテスの死に崇高さの印象を付与することになるのだ。言いかえれば、プラトンは、ソクラテスの死に、避けようのない愚劣な現実の真っ只中で、それを押し返す精神の自由の強靭な響きを聞き取ったのであった。ソクラテスの、真理の使徒としての魅力的な形姿は、永遠の相として、プラトンの心をとらえた。

ソクラテスの死を積極的な意味があるものとして掴み取ろうとしたプラトンは、それゆえ、我が身を超えたところにほんとうのこと、すなわち真理を求めるやみがたい心的傾向を植えつけられることになった。そうでもしなければ、最愛の友ソクラテスの死は無駄死にであったということになりかねないのであるから。それは、プラトンにとって、到底受け入れがたいことであった。

それゆえプラトンは、圧倒的で天才的な筆力によって、真理の「ほんとう」の在り方を執拗に描き続けた。その結果、後世の哲学者たちは2000年以上に渡って、プラトンの真理イメージに強く呪縛されつづけることになったのである。プラトンの筆力には、それほどの魔力が存する。

当論考のテーマである「哲学と政治」に引き寄せて、ひとつだけつけ加えておこう。ソクラテスは、現世において、政治なるものに敗れた。それは厳然とした事実である。しかしながら、その、命とひきかえの負けっぷりの良さによって、かえって、後々に至るまで、プラトンの筆によって描かれたその形姿に接する者に対して拒み難い魅力を発揮することになった。それをソクラテスの勝利と呼ぶべきなのかどうか、私には判断しかねるのである。   (おわり)

〔付記〕

書こうか書くまいか、いささか迷ったのだが、書いてしまうことにした。

今日(六月二〇日)の午後、私はひとりで喫茶店にいた。月に一・二度の頻度で来店する、昭和の雰囲気を残した喫茶店である。客のまばらなほの暗い店内に、生ギターをフィーチャーしたアコースティックなBGMが流れていた。本を紐解いていた私は、不意に、ソクラテスがすぐそばにいる気配を感じて、愕然とした。それは明らかに、ソクラテスのことを考えているという状態とは違っていた。その気配をあえて言葉にすれば、「それで美津島くん、私のことが何か分かったのかね」と語りかけているようなのだった。そのたたずまいは、古代戦士の不屈の魂を宿した物静かな老人であった。

めったにない経験だったので、「コイツ、頭がおかしい」と思われるのを覚悟で、書いた次第である。一種の意識の変容のようなものを経験したのだと思う。その、若々しい分け隔てのない態度に、私は、彼の哲学の風韻を感じて、胸が打ち震えた。(やっぱり、おかしいよなぁ)

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