美津島明編集「直言の宴」

政治・経済・思想・文化全般をカヴァーした言論を展開します。

先崎彰容氏・「戦後」思想のかんたんな復習 ~網野善彦編~(イザ!ブログ 2013・6・12,16 掲載)

2013年12月16日 07時13分54秒 | 先崎彰容
ブログ編集者より

最近先崎氏は、ちくま新書から『ナショナリズムの復権』を上梓しました。これからの世界史の流れにかかわるものと思われる米中会談がつい先日終わり、心ある人々はなにやら胸騒ぎがしているものと思われます。アメリカは日本を見放すのか、と。その世情を察したのか、当著は、書店で平積みになっています。タイトルひとつとってみても、タイムリーな出版と言えましょう。

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「ナショナリズム」について考えた本で、網野善彦(1928-2004)を取りあつかうなんて不思議ですね。しかも吉本隆明と絡めるなんて――こんな感想を、さいきん複数の人から受けた。たしかに、そうかもしれない。網野と言えば、誰でも知っている「網野史観」を確立した有名な日本史家だ。いっぽう吉本と言えば、戦後を代表する在野の知識人で一生をつらぬいた人だ。

彼らに共通する問題意識など、あるのだろうか。立場も考えも、さっぱりつながるようには思えない。それをどうして、「国家について考える」ときに使ったの?? というわけである。

なるほど、その通りだ。「直言の宴」の主催者は寛大な人である。こうした時代から少し離れた問題でも、掲載を許してくれるからだ。だとすれば、ここで少し、網野善彦とは誰なのかを説明してみよう。『ナショナリズムの復権』の書き洩らしを、ここで補足しようという魂胆なわけだ。

                 *

網野の専門は、時代で言えば「中世」だった。高校の先生をしていた時に、生徒から「なぜ、鎌倉時代に多くの仏教者が一気に登場してきたんですか?」という質問を受け、網野はがく然とした。こんなに一生懸命、勉強してきたのに、答えられなかったからだ。よく学者のあいだで使う言葉がある、それは「教科書に載るような学問をせよ」というものだ。

学者の言う事は、専門的でむずかしいことばかり…これは、ほんとうは嘘である。学者は教科書に載るような、もっとも骨太で素朴な問題に勇敢に取りくむべきなのだ。

網野はそれができた学者だった。では彼はどのような経緯で、大日本史家になっていたのだろうか。

網野の本を、「中世の専門家の本」だと思って読んでいては、駄目なのである。私は、網野は、1968年の全共闘革命運動後に登場した「戦後の知識人」として評価すべきだと思った。そして、民俗学者の赤坂憲雄氏とおこなったシンポジウムで、そのことをしゃべってみた。赤坂氏は、非常にそれを高く評価してくれたし、東北大の日本史の専門家も、私の説をきわめて妥当だと言ってくれた。だから、次に書くことにおそらく間違いはないだろう。

網野が登場するまで、日本史を席巻していたのは、あの「マルクス主義歴史観」なるものであった。その特徴を一言で言おう。それは徹頭徹尾「土地」に関心を持っているという事である。

だが網野は違った。日本史を生き生きと描くためには、「土地」にしばられてはいけない。「土地」から自由な人たち、つまり漁民とか、商人とか、そういう人の生活を描けなければ駄目なのだ、網野はこう思った。

つまり網野の歴史観は、60年代まで席巻していた「講座派」などと呼ばれるマルクス主義歴史観のその先をゆく、最先端の歴史観だったのだ。

さらに、網野はもっともっと最先端の思想家だった。彼の考えた歴史の見方は、80年代に日本を席巻する思想、そう、かのポスト・モダンの先駆けでもあったからである。

網野史観と、ポスト・モダン。いったい何が同じなのか。

それは「土地」にへばりつくことを嫌ったという点にあるのだ。自由と移動を肯定する思想。自在にうごきまわることを肯定する思想が、網野の描きだす商人たち、漁民たちの生き方そのものだった。その軽やかな思想は、歴史のお墨付きを得たというわけだ。資本主義の極北=大量消費社会を思いだそう。もっと分かりやすく、ファーストフード店を頭に思い浮かべてみよう。

そこでは、世界中どこでも、誰でも、同じものを食べることができる。世界中を同じ商品が駆け巡り、その土地その土地の特徴ある食べ物を蹴散らしてしまうのだ。この移動性、拡散性こそ、ポスト・モダン思想を、背景で支えている時代の雰囲気である。

だから私は、網野の思想を「戦後」から読むことができると言っているのだ。網野の登場とは、「戦後」の日本の思想家たちの動きにつながっている。網野は中世が専門の日本史家であると同時に、「戦後」思想家なのだ。

今日はここまで。次回は、では吉本隆明との関係は?という問いにお答えしよう。もう、みんなさん薄々、分かって来たのではないでしょうか。(以下、次回)


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私はいま、新書『ナショナリズムの復権』で書きもらしたことを、説明している。

ほんとうは、もう少し引用し、丁寧に言いたかったことを補足している。それは「網野善彦と吉本隆明をどうして一緒に取りあつかうのか?」という友人の質問からだった。

ナショナリズムを考える。そのとき、どうして網野善彦なのか、それの吉本との関連とは何か?

もう少し、網野の説明をつづけよう。次の引用を見ていただきたい。

日本における西欧中心主義史観の牙城たる日本共産党=講座派史学から出発した網野のそこからの脱却は、まさしく「リオリエント」的転回にほかならなかった。それは図らずも(?)、定住に対するノマド、農業に対する商業、国家に対抗する戦争機械…といった…「六八年の思想」と呼応することとなったのである…それは即ちマルクス主義的「前衛」からの離脱が民族的下層「民衆」への視座の転換によって保証され癒されるという、日本においても繰り返されてきたパターンを踏襲するものであったのである。周知のように、一九三〇年代のコミュニズムからの「転向」現象の簇生以降、日本の「良心的」マルクス主義者たちの一部は、柳田国男の民俗学へと接近した。これもまた、「リオリエント」的現象の一つとはいえる(絓秀美『革命的な、あまりに革命的な』。作品社、2003年、11頁)

このままでは分かりにくいと思われるので、説明しよう。「講座派」という歴史観から、網野は脱出した思想家だった。その網野史観の特徴は、1968年=全共闘運動以後の日本のモノの考え方、流行を先取りしていると言っているのが前半。

その網野が注目したのは、商業、定住の否定であることもこの引用から分かるだろう。やはり、網野は「戦後」の思想家、とりわけポスト・モダンの思想家といっていいのである。

ところでここで、絓秀美さんがポロリと書いている「柳田国男」に注目してほしい。ここに吉本隆明とのつながりがあるからだ。読者はすでにお分かりのとおり、吉本隆明が『共同幻想論』で、さらに『柳田国男論』で柳田に注目していたことを、ここで思い出してみたいのである。

すると、吉本が、柳田国男の『遠野物語』を引用し、一生懸命分析していることに気がつくのだ。その詳細については、私の新書を読んでほしい。でも、ここで結論だけ言うと、結局、網野善彦も吉本隆明も、「土地」をめぐって商人/農民、漂泊/定住、つまり動きまわる生き方を良しとするか、しっかりと土地に根づいて生きていくことを理想的だと考えるのか、この二つの人間像のまわりをグルグル回っていることが分かるのだ。

もう一度、言おう。ポスト・モダンの思想家・網野善彦は、動きまわること、資本主義の商品のように、世界中を移動するのがいいと思った。

だが吉本は違った。柳田国男を参照している時点での吉本は、土地に根づいて生きていることへの共感をもっていたのだ。少なくとも、この問題の重要性にだけは、気がついていたのである。網野と吉本は、おなじ問題の周辺をめぐり歩いていた「戦後」思想家だったのだ。

結論を言おう。網野善彦と吉本隆明を「ナショナリズム」を考えるために、なぜ、並べたのか?

それは、今、私たちがナショナリズム=外交問題・政治問題だと思い込んでいる、その「常識」を叩き壊すためだ。国家についておしゃべりする、するとすぐに外交と政治ばかり取りあげる「強がり」に疑問を投げつけるためだ。

そうではない、私たちにとって国家は、そして国家について考えることは、網野や吉本のように、自らの生き方について、生のスタイルについて考えることなのだ。

ナショナリズム――それは、落ち着きなくウロチョロするのがいいのか、歴史に抱かれた土地で、静かに生を営み、生を終える方がいいのか、そういう、もっともっと倫理的で奥深い問いなのだと言いたかったのである。(おわり)



ブログ編集者より

先崎氏の『ナショナリズムの復権』は、売れ行き順調のようです。ブログ仲間として、とても嬉しいことです。文芸批評を核とする日本近代の知的遺産に深い敬意を払いつつも、その湿気の多い呪縛から解放されている者のさわやかさが、書き手としての先崎氏にはあります。近代日本思想のユニークな得難い継承者のひとりであることは間違いないでしょう。当新書のアマゾンURLを掲げておきます。
www.amazon.co.jp/%E3%83%8A%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%BE%A9%E6%A8%A9-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-1017-%E5%85%88%E5%B4%8E-%E5%BD%B0%E5%AE%B9/dp/4480067221

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