手元に、長年のファンであった岩崎宏美のコンサートにはじめて行ったときのことを記録した文章があります。3年前のことです。それをブログに掲げておきます。こんな形でなければ陽の目を見ない文章だろうと思うので、心の広いみなさまに甘えます。
岩崎宏美LIVE報告
平成21年2月22日(日) 六本木スイートべジルSTB139 午後8時~9時半
ピアノ 青柳 誠
アコースティック・ギター 古川 昌義
ピアノの青柳誠、アコースティックギターの古川昌義と三人で、福岡、大阪、名古屋と回ってきたライヴハウス・コンサートの、東京での今日は最終日。「今晩のお客さんは、なんだか真剣に私の歌を聴こうという方がとても多いような気がします。もっとテキトーでかまわないんですよ。」と本人がいささか戸惑いを見せるくらいに真摯な、と言いたくなる空気が張りつめていた。私の場合、彼女のコンサートに足を運ぶのは、これがはじめてである。思っていたよりも小柄なのにびっくり。そのかわいらしい身体像に、年甲斐もなく胸がときめく。
オープ二ングは、ワルツ調の『好きにならずにいられない』だった。彼女が歌いはじめてすぐに、ジーンときてしまった。あの甘酸っぱいような歌いっぷりに、忘れていた「胸キュン」(死語か?)状態が襲ってくる。これが、いくつになっても変わらぬファン心理というやつなのだろう。当ツアーでこの曲を歌うのは始めてらしい。当会場に駆けつけて来た山川恵津子氏へのお礼として、とは本人の弁。山川氏は、この曲の作曲者なのである。
二曲目は、おなじみの『思秋期』。青柳誠のピアノに乗せてしんみりと歌う。この曲で、歌手として生きていくことを決めた、とは本人の弁。宏美さんのお父さんの、初めてのご納得の一曲。レコーデングのとき、宏美さんが泣いて泣いてどうしようも無かった曲でもある。その痕跡は、録音された原盤に残っている。ファンにはそれが分かる。(作曲者の三木たかしは、今から3年前の2009年5月11日に失くなっている。知っている人がどんどん死んでいく。ー注)
三曲目は、・・・これが忘れてしまったんですね。メモ帳に、「明日」となぐり書きしてあるのですが、なんの曲だか皆目見当がつかないんです(と、自虐的な丁寧語になってしまう)。確か、古川昌義のアコースティック・ギターをフィーチャーしていたはずである。うーん、思い出せない。
四曲目は、『春おぼろ』。昔から思っていたのだが、彼女が曲中で男のセリフを歌ったところは、妙に心に残る。なんだかゾクゾクっとするのだ。若い頃筒美京平に褒められた、その中低音がよく響いているのかもしれない。例えば、『ドリーム』のなかの「このぼくに君のすべてを預けて」 というくだりなどがそうだ。この曲の場合、恋人が自分の家に結婚の許しを得に来て、父から冷たく、「まだ早い 若すぎる」と言われるところが一番クル。駅への帰り道、押し黙っている恋人に心のなかで、「怒っているでしょー ぶっても いいのよー」というところが生々しくもありはかなくもあり、という微妙な表現になっている。この二人はどうやら結ばれることはない、と思わせる作りになっている。青春期のどうしようもないもどかしさ、不器用さがよく表現されているというべきか。なつかしいというより不思議と苦さがのこる一曲だ。
五曲目は、カバーアルバム「Dear Freiends Ⅳ」から、ハイファイ・セットの『フィーリング』(1976年)。ゲストにあの大ヒット曲『学生街の喫茶店』で有名なガロのボーカルだった大野真澄を呼んでデュエットした(アルバム中の原曲でも同じく)。会場は大いに盛り上がったのだが、大野が相当に緊張していたようだった。岩崎宏美と一緒に歌うってのは、やはり大変なことなのだろう。『学生街の喫茶店』のベースは、実はあのYMOの細野晴臣が担当したというエピソードにちょっとびっくり。
六曲目も、同アルバムからで、さだまさし作曲の『人生の贈り物~他に望むものはない~』。作詞は、楊姫銀という人だが、詳細は不明。「もしももう一度だけ若さを くれると言われても おそらく 私はそっと断るだろう 若き日のときめきや迷いをもう一度 繰り返すなんてそれはもう望むものではない それが人生の秘密 それが人生の贈り物」なんて、そうだなとは思うものの、五十歳の岩崎宏美がそう歌うとやや淋しくもある。もう十年経ってから歌ってほしかったかな、と。真に迫る、すごい歌いっぷりではあるのだけど。一度はこの世の栄華の頂点を極めた人は、精神的に年をとるのが早いのかもしれない、とも想う。
七曲目と八曲目は、楽器が弾けない、音符が読めないという岩崎宏美が、なんと楽器を弾き語りしながら、坂本九の『上を向いて歩こう』とキャロル・キングの『You’ve got a friend.』を歌った。その楽器というのは、『涙そうそう』を作曲したBEGINが開発した一五一会(いちごいちえ)という、ちょっとギターに似た四弦の、いわゆる誰でも弾ける楽器だそうだ。次は何番を押せばよいかという指示書があるので、それに従って弾けばよいとのこと。それはそれとして、最近観たテレビ番組でそれを弾きながら岩崎宏美がトチッてしまった場面を目撃してしまったので、ファンとして気が気でなかった、というのが正直なところだ。だから、歌の印象はほとんど残っていない。青柳誠と古川昌義という凄腕のサポーターがついているので、サウンド面でビクともしないのは分かるのではあるが。あまりハラハラさせないでくださいって。
九曲目は、岡本真夜作詞作曲の『手紙』。「永遠なんて ないけど 明日も あさってもずっと ふたり一緒にいれたなら こんな幸せないと思うの」なんて、実存的で、とてもいい歌詞だと思うし、そのときもそう思った。微妙なほろ苦さが織り込まれているようにも感じた。かつての失敗に終わった結婚生活の幻影のなせるわざか。
十曲目は、池間史規作詞作曲の『シアワセノカケラ』。彼女によれば、この曲を歌うことで、愛息たちとの別離の悲しみに耐えることができたとのこと。彼女のレパートリーの中で、癒し系の筆頭であるといってよいだろう。私にとっては、彼女の歌い手としての存在そのものが、その身体像をふくめて、掛け値なしに癒しそのものなのではあるが。正直に言おう、私は口をあんぐり開けたまま、頬にさらさらと涙が伝ってしまった(知人に予告したとおりにちゃんとなってしまいました)。
十一曲目が、名曲『聖母(マドンナ)たちのララバイ』。これを歌ってヒットさせたのは、一九八二年、彼女が二十三歳のとき。それから二十八年間、コンサートのときには欠かさず歌ったはずである。お客さんからいちばん拍手をもらった曲であるにちがいない。この曲を聴かないと岩崎宏美のコンサートに来た気がしない、という位置づけの曲なのではないだろうか。私自身、正直なところ、まだかまだかと心待ちにしていたのだった。
なんというか、シンプルでとても力強いマドララであった。みんながんばって、と心から言われたような気がした。そうして、圧倒的であった。こういう一撃必殺の一曲といえば、昔なら美空ひばりの『悲しい酒』。いまでは、森進一の『おふくろさん』くらいのものではないだろうか。ほかにあるのかなぁ。
アンコール曲は、新曲『始まりの歌 あなたへ』だった。あらためて、良い曲であると思った。岩崎宏美が、「この曲を歌うと、死んだ人たちが見守ってくれているような気がする」といっていたのがおもしろかった。というのは、それは、日本人の伝統的な生死観の自然体の表白であったからだ。この曲の根底にあるものを彼女は的確につかみとっているし、また、それを私たちに教えてもくれたのだった。となりのおじいさんが、「ああ、良い曲だ」と思わずもらしていた。
最初に申し上げたとおり、今回はじめて岩崎宏美のコンサートを観た。予期していたとおり、(繰り返しになるが)圧倒的なものだった。あのちあきなおみが歌っていない現状においては、おそらく最高峰(の少なくともひとつ)のライヴなのではなかろうか、と思う。こういうことにはおのずと好き嫌いの問題がからんでしまうので、強いことがいえないのではあるが。
実は、コンサートが終わった後、ある機関紙に載せてもらった文章を場内の係りの人に託した。″この雑誌の中に宏美さんのことを書いた自分の文章が載っているのでぜひお渡しいただきたい″、と頼んだところ、その人は「必ずお渡しします」と言ってくれた。私の文章は、彼女の目に触れることになったのだろうか。
参考までに、上記中の「ある雑誌に載せてもらった文章」を次に掲げておきます。もしも運悪く、宏美さんご本人の目に私の文章が触れていなかったのであれば、その機会を少しでも作りたい、というファンの煩悩ゆえの振る舞いと、お許し願います。
******
神様のご褒美 ――岩崎宏美の歌声
お昼にNHKを見ていたら、ひょっこりと岩崎宏美が登場していた。後日インターネットで調べてみたら、それは(2008年ー注)十一月十八日のことで、番組はNHK「スタジオパークからこんにちは」であることが判明した。
「それがどうした」とお叱りを受けそうなのだが、実は私、彼女の長年のファンなのだ。「だから、どうした」とまたもやお叱りを受けそうなのだが、その番組を見て、私はけっこう感動してしまったのだった。
私が熱心に彼女の(CDではなく)LPを買っていたのは、高校生のころから大学生のころまでだった、と記憶している。山口百恵、森昌子、桜田淳子そして岩崎宏美。彼女たちはみんな私と同い年の歌手だが、私がLPを買ったのは岩崎宏美だけである。そのころ買ったLPのほとんどがロックだったなかで、岩崎宏美だけは例外だった。なぜだったのだろう。彼女のおかっぱヘアとその透明感のあるのびやかな歌声に心惹かれるものがあったとしかいいようがない。それと、歌唱力の本格度が若手では群を抜いていたように感じたのも一因だったような気もする。
彼女が『二重唱(デュエット)』でデビューしたのは一九七五年。十六歳のときだ。その次の『ロマンス』で人気歌手としてブレイク。ファンでなくとも「あなたおー願ァいよー 席を立ったなァいでェー」のフレーズは知っているのではないか。その後はいわゆる飛ぶ鳥も落とす勢いだった。同年の『センチメンタル』、七六年の『ファンタジー』『未来』『ドリーム』、七七年の『悲恋白書』『熱帯魚』『思秋期』、七八年の『シンデレラ・ハネムーン』、七九年の『万華鏡』、八十年の『スローな愛がいいわ』、八一年の『すみれ色の涙』とほぼ切れ目なくヒットを飛ばし続けた(ファンの方、もれがあったらスミマセン)。そして、一九八二年の『聖母(マドンナ)たちのララバイ』がミリオンセラーを記録。これまたファンでなくとも「今はァ心のォ痛みをーぬぐゥってェ 小さな子供の、昔に、帰って、熱い胸にィ甘えてェー」のフレーズは知っているのではないか。このあたりが彼女の人気歌手としての頂点だったと思う。そして、そこで彼女にまつわる私の記憶はぷっつりと途絶えている。
いや、一つだけあった。お昼のワイドショウみたいな番組で、彼女が三井財閥の大番頭益田孝の玄孫(やしゃまご)と結婚し、今度ドイツに住むことになっている、と報じられるのをぼんやりと聞いていたのを思い出した。ファンとしての感慨めいたものはなにもなかった。単なる他人事だった。(分かりましたョ、ヤキモチがあったことも認めますって)そう、私は長いこと彼女に対して実に冷淡なファンであり続けてきたのだ。そして、それは結婚し家庭人として生きることを決意し「歌を忘れたカナリア」であることを甘受しようとした彼女の潔さとどこかでつながっていたのではないか、といまでは感じている。
NHKで四半世紀ぶりに目の当たりにした彼女は、若いころとは一味違うが相変わらずの美しさだった。五十歳にしてなお私を惹きつけてやまない魔力めいたものを保持していたのである。(その客観性は保証の限りではない)番組の五十分間、私の目は彼女を映す地デジの画面に吸い寄せられ続けた。そのさっぱりとした江戸前の語り口も魅力的だった。彼女は、情と知の兼ね合いが絶妙な人であることを再認識した。本質的に頭が良いのだ。しかし、そこには狡さのかけらも感じられない。その頭の回転の速さが、周りの人たちへの気遣いをさりげないものにするためにだけ使われているように感じられた。良い歌い手であるための心がけがちゃんとできているのである。
番組の歌のコーナーでは、今年リリースされた『始まりの歌、あなたへ』が歌われた。結婚、出産、離婚、そして、愛するわが子達との生木を引き裂くような別離、と人生の曲折を経た彼女ならではのスケールの大きな曲で、あたたかさとこまやかさとを兼ね備えた素晴らしい歌だった。作詞作曲は大江千里である。「あなたへ 心から ありがとう あなたへ」というエンディング・フレーズのところでは、おのずとこちらの涙腺がゆるんでしまった。もともと天才的だった彼女の歌声は、今では人の心に深く届くようになっていたのである。肩の力を抜いて軽やかな歌い方をしているのだが、不思議なくらいに圧倒的なのである。司会の竹内アナウンサーが、今日は泣きっ放しで顔がぼろぼろになってしまったと語っていたが、それはちっとも大げさではなかった。
彼女は、一九九五年に協議離婚が成立した後、二〇〇〇年になってから歌手としての活動を本格的に再開した。ところが、なぜだか思うように声が出ない。相当に無理をしないと昔のような声が出ないのだった。肉体的な不調より、精神的な落ち込みの方がつらかったという。ほがらかでうじうじしたところのない人柄なので、暗くなってしまった自分を受け容れることに戸惑いを感じたのだろう。おそらくその時期に、歌うことが自分のアイデンティティにどれほど深く関わっているのか心底思い知ったのではないだろうか。
結局ポリープが二個できていることが判明。摘出手術を施した後、一ヶ月ほど声を出さないように医者から指示を受けたそうだ。そして、仮退院の許可が出て、タクシーに乗り込み、運転手に行き先を告げたとき、自分の声にびっくりしたという。というのは、彼女の耳に、小学校時代の少女の声が響いたからだ。涙が止まらなかったらしい。
そういう話を友人にしたところ、彼が言うには、「それはね、何十年も一生懸命歌っている彼女に神様がご褒美をくれたのさ」。
なかなか良いことを言ったものである。そのとおりなのだろう。いまの彼女は、歌が歌えることに感謝しながら歌っている。歌うために生まれてきた宿命を心静かに受け容れている。そのひたむきさが聴く者の胸を打つのだ。それに加えて、もっといい歌を歌いたいという向上心が感じられる。その長いキャリアに甘えることなくいまにおいてもなおベストの歌を歌おうとしている。手馴れ感がない。こんな歌手は、私の記憶によれば、ほかには今はなき美空ひばりだけである。いまの彼女はその域に達している。そう言われたとしても、ほめられたときいつもそうであるように、少しはにかみながら「ははは」と朗らかに笑うだけだろうが。(後に彼女が『Dear Friends Ⅴ』で歌った、美空ひばりの『愛燦々』のカバーは絶品であるー注)
今、彼女は喉をとても大事にしているという。寝覚めの電話には出ないようにしているし、午前中はなるべく話さないようにも心がけている、とのこと。天から与えられた宝物を決して傷つけないように、とつけ加えたい。
これが応援せずにおらりょうか、彼女のコンサートにぜひ行ってみたい、とは思っている。長いこと知らん顔をしていて悪かったとも感じている。あまりにも身近すぎて不覚にもすっかりその存在を忘れていたのだ。しかし、いい歳をして、暗いコンサートホールの片隅でおろおろ泣きながら彼女の母性的な歌声に聞き惚れるなんてのは、はずかしいのを通り越してちょっとつらくさえ感じる、とも思うのである。そういう自分がありありとまぶたに浮かぶのだ。さて、どうしたものか。久しぶりに彼女の(LPではなく)CDを買って聴きながら考えてみることにしよう。
*みなさんに一枚だけ推薦するとすれば、『PRAHA』(2007年発売)です。それもDVD付きのお買い得版の方です。セルフ・カバー・アルバム。東欧の国チェコの首都プラハで、マリオ・クレメンス氏が指揮するチェコフィルハーモニー管弦楽団の極上の演奏をバックに、彼女の代表作が目白押し、という趣向のものです。若い人でも、日本にこんな歌手がいたのかと再認識すること請け合いです。年を重ねて力強さの増した中低音と、若い頃のように地声では出なくなった高音部を伸びやかなファルセットでカバーする超絶技巧とによって、歌謡曲でもない、かといってクラシックでもない、「岩崎宏美風」としか名付けようのない独特の世界が展開されています。下の写真は、『PRAHA』ではありません。単にこれが、若い頃の私のハートを鷲掴みにした彼女の身体像を凝縮しているような気がしたので掲げてみただけです。
岩崎宏美LIVE報告
平成21年2月22日(日) 六本木スイートべジルSTB139 午後8時~9時半
ピアノ 青柳 誠
アコースティック・ギター 古川 昌義
ピアノの青柳誠、アコースティックギターの古川昌義と三人で、福岡、大阪、名古屋と回ってきたライヴハウス・コンサートの、東京での今日は最終日。「今晩のお客さんは、なんだか真剣に私の歌を聴こうという方がとても多いような気がします。もっとテキトーでかまわないんですよ。」と本人がいささか戸惑いを見せるくらいに真摯な、と言いたくなる空気が張りつめていた。私の場合、彼女のコンサートに足を運ぶのは、これがはじめてである。思っていたよりも小柄なのにびっくり。そのかわいらしい身体像に、年甲斐もなく胸がときめく。
オープ二ングは、ワルツ調の『好きにならずにいられない』だった。彼女が歌いはじめてすぐに、ジーンときてしまった。あの甘酸っぱいような歌いっぷりに、忘れていた「胸キュン」(死語か?)状態が襲ってくる。これが、いくつになっても変わらぬファン心理というやつなのだろう。当ツアーでこの曲を歌うのは始めてらしい。当会場に駆けつけて来た山川恵津子氏へのお礼として、とは本人の弁。山川氏は、この曲の作曲者なのである。
二曲目は、おなじみの『思秋期』。青柳誠のピアノに乗せてしんみりと歌う。この曲で、歌手として生きていくことを決めた、とは本人の弁。宏美さんのお父さんの、初めてのご納得の一曲。レコーデングのとき、宏美さんが泣いて泣いてどうしようも無かった曲でもある。その痕跡は、録音された原盤に残っている。ファンにはそれが分かる。(作曲者の三木たかしは、今から3年前の2009年5月11日に失くなっている。知っている人がどんどん死んでいく。ー注)
三曲目は、・・・これが忘れてしまったんですね。メモ帳に、「明日」となぐり書きしてあるのですが、なんの曲だか皆目見当がつかないんです(と、自虐的な丁寧語になってしまう)。確か、古川昌義のアコースティック・ギターをフィーチャーしていたはずである。うーん、思い出せない。
四曲目は、『春おぼろ』。昔から思っていたのだが、彼女が曲中で男のセリフを歌ったところは、妙に心に残る。なんだかゾクゾクっとするのだ。若い頃筒美京平に褒められた、その中低音がよく響いているのかもしれない。例えば、『ドリーム』のなかの「このぼくに君のすべてを預けて」 というくだりなどがそうだ。この曲の場合、恋人が自分の家に結婚の許しを得に来て、父から冷たく、「まだ早い 若すぎる」と言われるところが一番クル。駅への帰り道、押し黙っている恋人に心のなかで、「怒っているでしょー ぶっても いいのよー」というところが生々しくもありはかなくもあり、という微妙な表現になっている。この二人はどうやら結ばれることはない、と思わせる作りになっている。青春期のどうしようもないもどかしさ、不器用さがよく表現されているというべきか。なつかしいというより不思議と苦さがのこる一曲だ。
五曲目は、カバーアルバム「Dear Freiends Ⅳ」から、ハイファイ・セットの『フィーリング』(1976年)。ゲストにあの大ヒット曲『学生街の喫茶店』で有名なガロのボーカルだった大野真澄を呼んでデュエットした(アルバム中の原曲でも同じく)。会場は大いに盛り上がったのだが、大野が相当に緊張していたようだった。岩崎宏美と一緒に歌うってのは、やはり大変なことなのだろう。『学生街の喫茶店』のベースは、実はあのYMOの細野晴臣が担当したというエピソードにちょっとびっくり。
六曲目も、同アルバムからで、さだまさし作曲の『人生の贈り物~他に望むものはない~』。作詞は、楊姫銀という人だが、詳細は不明。「もしももう一度だけ若さを くれると言われても おそらく 私はそっと断るだろう 若き日のときめきや迷いをもう一度 繰り返すなんてそれはもう望むものではない それが人生の秘密 それが人生の贈り物」なんて、そうだなとは思うものの、五十歳の岩崎宏美がそう歌うとやや淋しくもある。もう十年経ってから歌ってほしかったかな、と。真に迫る、すごい歌いっぷりではあるのだけど。一度はこの世の栄華の頂点を極めた人は、精神的に年をとるのが早いのかもしれない、とも想う。
七曲目と八曲目は、楽器が弾けない、音符が読めないという岩崎宏美が、なんと楽器を弾き語りしながら、坂本九の『上を向いて歩こう』とキャロル・キングの『You’ve got a friend.』を歌った。その楽器というのは、『涙そうそう』を作曲したBEGINが開発した一五一会(いちごいちえ)という、ちょっとギターに似た四弦の、いわゆる誰でも弾ける楽器だそうだ。次は何番を押せばよいかという指示書があるので、それに従って弾けばよいとのこと。それはそれとして、最近観たテレビ番組でそれを弾きながら岩崎宏美がトチッてしまった場面を目撃してしまったので、ファンとして気が気でなかった、というのが正直なところだ。だから、歌の印象はほとんど残っていない。青柳誠と古川昌義という凄腕のサポーターがついているので、サウンド面でビクともしないのは分かるのではあるが。あまりハラハラさせないでくださいって。
九曲目は、岡本真夜作詞作曲の『手紙』。「永遠なんて ないけど 明日も あさってもずっと ふたり一緒にいれたなら こんな幸せないと思うの」なんて、実存的で、とてもいい歌詞だと思うし、そのときもそう思った。微妙なほろ苦さが織り込まれているようにも感じた。かつての失敗に終わった結婚生活の幻影のなせるわざか。
十曲目は、池間史規作詞作曲の『シアワセノカケラ』。彼女によれば、この曲を歌うことで、愛息たちとの別離の悲しみに耐えることができたとのこと。彼女のレパートリーの中で、癒し系の筆頭であるといってよいだろう。私にとっては、彼女の歌い手としての存在そのものが、その身体像をふくめて、掛け値なしに癒しそのものなのではあるが。正直に言おう、私は口をあんぐり開けたまま、頬にさらさらと涙が伝ってしまった(知人に予告したとおりにちゃんとなってしまいました)。
十一曲目が、名曲『聖母(マドンナ)たちのララバイ』。これを歌ってヒットさせたのは、一九八二年、彼女が二十三歳のとき。それから二十八年間、コンサートのときには欠かさず歌ったはずである。お客さんからいちばん拍手をもらった曲であるにちがいない。この曲を聴かないと岩崎宏美のコンサートに来た気がしない、という位置づけの曲なのではないだろうか。私自身、正直なところ、まだかまだかと心待ちにしていたのだった。
なんというか、シンプルでとても力強いマドララであった。みんながんばって、と心から言われたような気がした。そうして、圧倒的であった。こういう一撃必殺の一曲といえば、昔なら美空ひばりの『悲しい酒』。いまでは、森進一の『おふくろさん』くらいのものではないだろうか。ほかにあるのかなぁ。
アンコール曲は、新曲『始まりの歌 あなたへ』だった。あらためて、良い曲であると思った。岩崎宏美が、「この曲を歌うと、死んだ人たちが見守ってくれているような気がする」といっていたのがおもしろかった。というのは、それは、日本人の伝統的な生死観の自然体の表白であったからだ。この曲の根底にあるものを彼女は的確につかみとっているし、また、それを私たちに教えてもくれたのだった。となりのおじいさんが、「ああ、良い曲だ」と思わずもらしていた。
最初に申し上げたとおり、今回はじめて岩崎宏美のコンサートを観た。予期していたとおり、(繰り返しになるが)圧倒的なものだった。あのちあきなおみが歌っていない現状においては、おそらく最高峰(の少なくともひとつ)のライヴなのではなかろうか、と思う。こういうことにはおのずと好き嫌いの問題がからんでしまうので、強いことがいえないのではあるが。
実は、コンサートが終わった後、ある機関紙に載せてもらった文章を場内の係りの人に託した。″この雑誌の中に宏美さんのことを書いた自分の文章が載っているのでぜひお渡しいただきたい″、と頼んだところ、その人は「必ずお渡しします」と言ってくれた。私の文章は、彼女の目に触れることになったのだろうか。
参考までに、上記中の「ある雑誌に載せてもらった文章」を次に掲げておきます。もしも運悪く、宏美さんご本人の目に私の文章が触れていなかったのであれば、その機会を少しでも作りたい、というファンの煩悩ゆえの振る舞いと、お許し願います。
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神様のご褒美 ――岩崎宏美の歌声
お昼にNHKを見ていたら、ひょっこりと岩崎宏美が登場していた。後日インターネットで調べてみたら、それは(2008年ー注)十一月十八日のことで、番組はNHK「スタジオパークからこんにちは」であることが判明した。
「それがどうした」とお叱りを受けそうなのだが、実は私、彼女の長年のファンなのだ。「だから、どうした」とまたもやお叱りを受けそうなのだが、その番組を見て、私はけっこう感動してしまったのだった。
私が熱心に彼女の(CDではなく)LPを買っていたのは、高校生のころから大学生のころまでだった、と記憶している。山口百恵、森昌子、桜田淳子そして岩崎宏美。彼女たちはみんな私と同い年の歌手だが、私がLPを買ったのは岩崎宏美だけである。そのころ買ったLPのほとんどがロックだったなかで、岩崎宏美だけは例外だった。なぜだったのだろう。彼女のおかっぱヘアとその透明感のあるのびやかな歌声に心惹かれるものがあったとしかいいようがない。それと、歌唱力の本格度が若手では群を抜いていたように感じたのも一因だったような気もする。
彼女が『二重唱(デュエット)』でデビューしたのは一九七五年。十六歳のときだ。その次の『ロマンス』で人気歌手としてブレイク。ファンでなくとも「あなたおー願ァいよー 席を立ったなァいでェー」のフレーズは知っているのではないか。その後はいわゆる飛ぶ鳥も落とす勢いだった。同年の『センチメンタル』、七六年の『ファンタジー』『未来』『ドリーム』、七七年の『悲恋白書』『熱帯魚』『思秋期』、七八年の『シンデレラ・ハネムーン』、七九年の『万華鏡』、八十年の『スローな愛がいいわ』、八一年の『すみれ色の涙』とほぼ切れ目なくヒットを飛ばし続けた(ファンの方、もれがあったらスミマセン)。そして、一九八二年の『聖母(マドンナ)たちのララバイ』がミリオンセラーを記録。これまたファンでなくとも「今はァ心のォ痛みをーぬぐゥってェ 小さな子供の、昔に、帰って、熱い胸にィ甘えてェー」のフレーズは知っているのではないか。このあたりが彼女の人気歌手としての頂点だったと思う。そして、そこで彼女にまつわる私の記憶はぷっつりと途絶えている。
いや、一つだけあった。お昼のワイドショウみたいな番組で、彼女が三井財閥の大番頭益田孝の玄孫(やしゃまご)と結婚し、今度ドイツに住むことになっている、と報じられるのをぼんやりと聞いていたのを思い出した。ファンとしての感慨めいたものはなにもなかった。単なる他人事だった。(分かりましたョ、ヤキモチがあったことも認めますって)そう、私は長いこと彼女に対して実に冷淡なファンであり続けてきたのだ。そして、それは結婚し家庭人として生きることを決意し「歌を忘れたカナリア」であることを甘受しようとした彼女の潔さとどこかでつながっていたのではないか、といまでは感じている。
NHKで四半世紀ぶりに目の当たりにした彼女は、若いころとは一味違うが相変わらずの美しさだった。五十歳にしてなお私を惹きつけてやまない魔力めいたものを保持していたのである。(その客観性は保証の限りではない)番組の五十分間、私の目は彼女を映す地デジの画面に吸い寄せられ続けた。そのさっぱりとした江戸前の語り口も魅力的だった。彼女は、情と知の兼ね合いが絶妙な人であることを再認識した。本質的に頭が良いのだ。しかし、そこには狡さのかけらも感じられない。その頭の回転の速さが、周りの人たちへの気遣いをさりげないものにするためにだけ使われているように感じられた。良い歌い手であるための心がけがちゃんとできているのである。
番組の歌のコーナーでは、今年リリースされた『始まりの歌、あなたへ』が歌われた。結婚、出産、離婚、そして、愛するわが子達との生木を引き裂くような別離、と人生の曲折を経た彼女ならではのスケールの大きな曲で、あたたかさとこまやかさとを兼ね備えた素晴らしい歌だった。作詞作曲は大江千里である。「あなたへ 心から ありがとう あなたへ」というエンディング・フレーズのところでは、おのずとこちらの涙腺がゆるんでしまった。もともと天才的だった彼女の歌声は、今では人の心に深く届くようになっていたのである。肩の力を抜いて軽やかな歌い方をしているのだが、不思議なくらいに圧倒的なのである。司会の竹内アナウンサーが、今日は泣きっ放しで顔がぼろぼろになってしまったと語っていたが、それはちっとも大げさではなかった。
彼女は、一九九五年に協議離婚が成立した後、二〇〇〇年になってから歌手としての活動を本格的に再開した。ところが、なぜだか思うように声が出ない。相当に無理をしないと昔のような声が出ないのだった。肉体的な不調より、精神的な落ち込みの方がつらかったという。ほがらかでうじうじしたところのない人柄なので、暗くなってしまった自分を受け容れることに戸惑いを感じたのだろう。おそらくその時期に、歌うことが自分のアイデンティティにどれほど深く関わっているのか心底思い知ったのではないだろうか。
結局ポリープが二個できていることが判明。摘出手術を施した後、一ヶ月ほど声を出さないように医者から指示を受けたそうだ。そして、仮退院の許可が出て、タクシーに乗り込み、運転手に行き先を告げたとき、自分の声にびっくりしたという。というのは、彼女の耳に、小学校時代の少女の声が響いたからだ。涙が止まらなかったらしい。
そういう話を友人にしたところ、彼が言うには、「それはね、何十年も一生懸命歌っている彼女に神様がご褒美をくれたのさ」。
なかなか良いことを言ったものである。そのとおりなのだろう。いまの彼女は、歌が歌えることに感謝しながら歌っている。歌うために生まれてきた宿命を心静かに受け容れている。そのひたむきさが聴く者の胸を打つのだ。それに加えて、もっといい歌を歌いたいという向上心が感じられる。その長いキャリアに甘えることなくいまにおいてもなおベストの歌を歌おうとしている。手馴れ感がない。こんな歌手は、私の記憶によれば、ほかには今はなき美空ひばりだけである。いまの彼女はその域に達している。そう言われたとしても、ほめられたときいつもそうであるように、少しはにかみながら「ははは」と朗らかに笑うだけだろうが。(後に彼女が『Dear Friends Ⅴ』で歌った、美空ひばりの『愛燦々』のカバーは絶品であるー注)
今、彼女は喉をとても大事にしているという。寝覚めの電話には出ないようにしているし、午前中はなるべく話さないようにも心がけている、とのこと。天から与えられた宝物を決して傷つけないように、とつけ加えたい。
これが応援せずにおらりょうか、彼女のコンサートにぜひ行ってみたい、とは思っている。長いこと知らん顔をしていて悪かったとも感じている。あまりにも身近すぎて不覚にもすっかりその存在を忘れていたのだ。しかし、いい歳をして、暗いコンサートホールの片隅でおろおろ泣きながら彼女の母性的な歌声に聞き惚れるなんてのは、はずかしいのを通り越してちょっとつらくさえ感じる、とも思うのである。そういう自分がありありとまぶたに浮かぶのだ。さて、どうしたものか。久しぶりに彼女の(LPではなく)CDを買って聴きながら考えてみることにしよう。
*みなさんに一枚だけ推薦するとすれば、『PRAHA』(2007年発売)です。それもDVD付きのお買い得版の方です。セルフ・カバー・アルバム。東欧の国チェコの首都プラハで、マリオ・クレメンス氏が指揮するチェコフィルハーモニー管弦楽団の極上の演奏をバックに、彼女の代表作が目白押し、という趣向のものです。若い人でも、日本にこんな歌手がいたのかと再認識すること請け合いです。年を重ねて力強さの増した中低音と、若い頃のように地声では出なくなった高音部を伸びやかなファルセットでカバーする超絶技巧とによって、歌謡曲でもない、かといってクラシックでもない、「岩崎宏美風」としか名付けようのない独特の世界が展開されています。下の写真は、『PRAHA』ではありません。単にこれが、若い頃の私のハートを鷲掴みにした彼女の身体像を凝縮しているような気がしたので掲げてみただけです。
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