三島由紀夫『葉隠入門』(新潮文庫)について(その1)
戦中・戦後を通じての「座右の書」
三島由紀夫の「神学」について、あれこれと考えているうちに、『葉隠入門』を読むことになりました。その感想をお話しすることにいたしましょう。
話は、三島由紀夫が『葉隠』をどう読んだかということと、私自身が『葉隠』そのもののどこに興味を抱いたかということの、ふたつがあるかと思われます。とはいうものの、そのふたつをくっきりと分けるわけにはいかないような気がします。なぜなら、私は三島の導きによって、今回はじめて『葉隠』に接したので、自覚しないまま三島の目で『葉隠』を見ている可能性を否定できないからです。しかし、そのあたりの判断は、読み手のみなさまに委ねることにして、とりあえず話を進めましょう。
まず、三島が『葉隠』をどう読んだのか、について。それは、「三 「葉隠」の読み方」において、三島自身によって端的に語られています。三島は、その冒頭で次のように述べます(引用文中の「戦争」とは、むろん大東亜戦争のことを指しています)。
「葉隠」がかつて読まれたのは、戦争中の死の季節においてであった。当時はポール・ブールジュの小説「死」が争って読まれ、また「葉隠」は戦場に行く青年たちの覚悟をかためる書として、大いに推奨されていた。
戦時中に、保田與重郎の諸著作や『古事記』や『万葉集』がそういう扱いを受けたことは知っていましたが、『葉隠』もそういう類の本だったとは、今回はじめて知りました。そうであるのみならず、『葉隠』は、三島自身にとっても、因縁浅からぬ書物であることは、「プロローグ 「葉隠」とわたし」にはっきりと書き記されています。そこで、三島が戦時中に熱心に読んだ本として挙げているのは、レーモン・ラディゲの『ドルチェル伯の舞踏会』と上田秋成全集と『葉隠』です。そうして、ラディゲと秋声とが戦後座右の書ではなくなっていったのに対して、『葉隠』だけはそうではなかったというのです。
三島は、「戦争中から読み出して、いつも自分の机の周辺に置き、以後二十数年間、折にふれて、あるページを読んで感銘を新たにした本といえば、おそらく『葉隠』一冊であろう」とまで言い切るのです。これは、三島「神学」を理解するうえで、聞き捨てならない重大発言です。さらに三島は、「葉隠」を、戦後文学のなかで深い孤独を感じ続けざるをえなかった自分自身の反時代的な立場の「最後のよりどころ」と評してさえもいます。戦後においてのほうが、むしろ「わたしの中で光を放ちだした」とも言っています。ここから私たちは、三島が感じ続けた戦後思想空間の圧力のすさまじさに思いを致したほうがよいかもしれません。それがいかに凡庸な思想に過ぎないものであったとしても、絶対多数を占めてしまった場合、そこにすさまじい力が生まれることになります。それにあえて抗しようとする者は、思想の身体性をできうるかぎり強靭なものにしておかなければ、その圧力に耐え抜くのは不可能です。
戦後思想を振り返りながら、三島は、次のように述懐します。
われわれは西洋から、あらゆる生の哲学を学んだ。しかし生の哲学だけでは、われわれは最終的に満足することができなかった。
ここで私たちは、桶谷秀明が『昭和精神史』で述べた、次のような言葉を思い出してよいかもしれない。
この(伊東静雄の日記に記された「昭和二十年八月一五日」の神話的なイメージの原風景における――引用者補)内部感覚は、八月十五日からこの半月のあひだに、詔書を奉じ、国体護持を信じて生の方へ歩きだした多くの日本人と、すべてがをはつたと思ひ生命を絶つた日本人との結節点を象徴してゐるやうに思はれる。 (本書103頁・『昭和精神史』より)
つまり戦後とは、引用文に即して形容すれば「八月十五日からこの半月のあひだに、詔書を奉じ、国体護持を信じて生の方へ歩きだした多くの日本人」の世界、いいかえれば、「すべてがをはつたと思ひ生命を絶つた日本人」の存在を隠蔽し続けてきた世界となりましょう。それゆえ『葉隠」は、戦後において、その存在を忘却してしまうべき忌まわしい呪われた書物という「禁書」の位置づけを得るに至ったという意味のことを、三島は述べています。だから、『葉隠』を語るという振る舞いは、三島にとって、戦後思想の盲点を突くという契機をおのずから含むことになるのです。『葉隠』は、戦後思想の主流がなかば無意識に避けて通ろうとし続けてきた「死」を真正面から論じた書物、ということになりましょう。
戦中・戦後を通じての「座右の書」
三島由紀夫の「神学」について、あれこれと考えているうちに、『葉隠入門』を読むことになりました。その感想をお話しすることにいたしましょう。
話は、三島由紀夫が『葉隠』をどう読んだかということと、私自身が『葉隠』そのもののどこに興味を抱いたかということの、ふたつがあるかと思われます。とはいうものの、そのふたつをくっきりと分けるわけにはいかないような気がします。なぜなら、私は三島の導きによって、今回はじめて『葉隠』に接したので、自覚しないまま三島の目で『葉隠』を見ている可能性を否定できないからです。しかし、そのあたりの判断は、読み手のみなさまに委ねることにして、とりあえず話を進めましょう。
まず、三島が『葉隠』をどう読んだのか、について。それは、「三 「葉隠」の読み方」において、三島自身によって端的に語られています。三島は、その冒頭で次のように述べます(引用文中の「戦争」とは、むろん大東亜戦争のことを指しています)。
「葉隠」がかつて読まれたのは、戦争中の死の季節においてであった。当時はポール・ブールジュの小説「死」が争って読まれ、また「葉隠」は戦場に行く青年たちの覚悟をかためる書として、大いに推奨されていた。
戦時中に、保田與重郎の諸著作や『古事記』や『万葉集』がそういう扱いを受けたことは知っていましたが、『葉隠』もそういう類の本だったとは、今回はじめて知りました。そうであるのみならず、『葉隠』は、三島自身にとっても、因縁浅からぬ書物であることは、「プロローグ 「葉隠」とわたし」にはっきりと書き記されています。そこで、三島が戦時中に熱心に読んだ本として挙げているのは、レーモン・ラディゲの『ドルチェル伯の舞踏会』と上田秋成全集と『葉隠』です。そうして、ラディゲと秋声とが戦後座右の書ではなくなっていったのに対して、『葉隠』だけはそうではなかったというのです。
三島は、「戦争中から読み出して、いつも自分の机の周辺に置き、以後二十数年間、折にふれて、あるページを読んで感銘を新たにした本といえば、おそらく『葉隠』一冊であろう」とまで言い切るのです。これは、三島「神学」を理解するうえで、聞き捨てならない重大発言です。さらに三島は、「葉隠」を、戦後文学のなかで深い孤独を感じ続けざるをえなかった自分自身の反時代的な立場の「最後のよりどころ」と評してさえもいます。戦後においてのほうが、むしろ「わたしの中で光を放ちだした」とも言っています。ここから私たちは、三島が感じ続けた戦後思想空間の圧力のすさまじさに思いを致したほうがよいかもしれません。それがいかに凡庸な思想に過ぎないものであったとしても、絶対多数を占めてしまった場合、そこにすさまじい力が生まれることになります。それにあえて抗しようとする者は、思想の身体性をできうるかぎり強靭なものにしておかなければ、その圧力に耐え抜くのは不可能です。
戦後思想を振り返りながら、三島は、次のように述懐します。
われわれは西洋から、あらゆる生の哲学を学んだ。しかし生の哲学だけでは、われわれは最終的に満足することができなかった。
ここで私たちは、桶谷秀明が『昭和精神史』で述べた、次のような言葉を思い出してよいかもしれない。
この(伊東静雄の日記に記された「昭和二十年八月一五日」の神話的なイメージの原風景における――引用者補)内部感覚は、八月十五日からこの半月のあひだに、詔書を奉じ、国体護持を信じて生の方へ歩きだした多くの日本人と、すべてがをはつたと思ひ生命を絶つた日本人との結節点を象徴してゐるやうに思はれる。 (本書103頁・『昭和精神史』より)
つまり戦後とは、引用文に即して形容すれば「八月十五日からこの半月のあひだに、詔書を奉じ、国体護持を信じて生の方へ歩きだした多くの日本人」の世界、いいかえれば、「すべてがをはつたと思ひ生命を絶つた日本人」の存在を隠蔽し続けてきた世界となりましょう。それゆえ『葉隠」は、戦後において、その存在を忘却してしまうべき忌まわしい呪われた書物という「禁書」の位置づけを得るに至ったという意味のことを、三島は述べています。だから、『葉隠』を語るという振る舞いは、三島にとって、戦後思想の盲点を突くという契機をおのずから含むことになるのです。『葉隠』は、戦後思想の主流がなかば無意識に避けて通ろうとし続けてきた「死」を真正面から論じた書物、ということになりましょう。
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