長崎74回目 原爆の日に思う。

2019-08-09 | 歴史、

今年も広島、長崎で核廃絶を訴える平和祈念式典が行われましたたが、

世界の、特に原爆保有国には、被爆国日本の被爆者達の訴えは

どのように届いているのでしょうか?

私の家族は原爆投下の翌年、昭和21年末に爆心地の北、

浦上方面の住吉町に建てた家で生活を始めました。

長崎の場合、爆心地は市の中心より少し北の郊外に差し掛かる地点の松山町でした。

市内の被害の大きさを左右したと思われるのは金比羅山という山と

当時の風向きだったという話を聞いたことがあります。

被害が大変大きかったのは、爆心地の北側の浦上地区、城山町などの西側、

三菱製鋼所や三菱造船所の一部などの南西側であったと実感しています。

市の中心部の繁華街や東側の建造物は辛うじて破壊を逃れています。

大浦天主堂やグラバー邸などは今も長崎の観光に寄与しています。

戦前に住んでいた港の見る丘とは異なり、被爆の影響の大きかった地区での生活でした。

残留放射能のことなど知らずに、水道が敷かれるまで、井戸水をくみ上げての、

私設水道の生活でした。天井裏では夜毎に元気なネズミの運動会でした。

近所で生まれた子猫を飼い始めたせいか、ネズミ捕りが効いたのか、

いつの間にかいなくなったのでした。大きな蛇も堂々と現れていました。

その家での生活を13年、後に父は91歳で中皮腫という癌で亡くなりましたが、

姉弟4人、皆、体力はあまりないのですが、今のところ大病なく過ごせています。

それにしても最近の隣国でのミサイル実験が気がかりな今日の情勢です。

 

 


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