今日の午後、テレビを消そうとしていたら、「ごごナマ」に宝田明さんが出ていらしたので
思わず見てしまいました。宝田さんに興味をもったのは、主人から「大連会」によく来ていらしたと
聞いていたからです。殆ど同い年で引き揚げ者同士という事もあり、二人の話を合わせると
終戦後の大連での苦労と恐怖体験を通して命からがら帰国した時の様子がよく分かります。
運が悪ければ、山崎豊子氏の著作「大地の子」になっていたかもしれなかったのですから。
二人とも「中国人はよくしてくれた、ロシアの兵隊は恐怖だった」と言います。、
宝田さんは脇腹?に流れ弾の銃弾を受けて麻酔なしに摘出されたという壮絶体験を
語られておられました。今でも仕事の傍ら、反戦の語りべをしていらっしゃるようです。
その「大連会」も高齢化で役目を終えたと2013年に解散となってしまいました。
大陸から引き揚げた方々は同志の繋がりが深く、主人は今大連の小学校の同窓会の
幹事役を仰せつかって頑張っております。
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大連会」が高齢化などで解散へ 中国との交流役割果たした66年
終戦後に大連から引き揚げた人たちを中心に結成する親ぼく団体「大連会」(中国内では「日本大連会」、本部・東京都千代田区)が、会員の高齢化などを理由に今年秋に解散することになった。同会は戦後、大連との交流活動にも貢献してきただけに、日中両国側から幕引きを惜しむ声は大きい。
大連は日露戦争後に日本が40年間にわたって統治し、終戦前後には約20万人もの日本人が住んでいたという。大連会は当時、大連に住んでいた日本人を中心に1947年(昭和22)に結成し、会報を年2回ほど発行して戦前、戦後の大連に関する思い出や記録を収録するなど、当時の大連を伝える貴重な記録集にもなっていた。
また、2009年(平成21)末には、大連市史上で記録的な〝空白〟となっていた1936年(昭和11)以降の出来事を記した「続大連市史」(275ページ)を発行。大連建設前史や大連市政、経済・産業、交通・通信・放送、生活、教育・スポーツ・宗教など様々な分野を9編にまとめた。
さらに大連市においては、日本留学の経験者らで結成する大連市中日友好学友会との交流をはじめ、NHK児童合唱団の大連公演を企画したり、小説「アカシアの大連」の著者で芥川賞作家の清岡卓行さんに大連日本人学校の校歌の作詞を依頼したり、親ぼく団体でありながら、日中をつなぐ文化活動の架け橋的な役割を果たしてきた。
しかし、戦後60年以上も経ち、会員の高齢化が顕著になり、最多で2万5000人いた会員は現在2500人に減ってしまった。会運営も赤字が続き、存続が困難となったため、4月に最後の総会を開き、今年秋に解散することになった。
大連会理事で現地担当の金子静雄さんは「戦後は会員の間口を、大連に留学、赴任された方にも広げましたが、会員増にはつながらず、解散の方針が決まったことはとても残念です。今後については、亡くなられたご両親・親戚の大連でのルーツ探しに協力し、故郷の大連を訪れる会員の方への協力を行っていきたいと思っています」と話している。