《 空想から科学へ 》 奧菜主義革命~ 革命的奥菜主義者同盟非公然ブログ

奥菜恵さんは、精神と肉体の両方から無駄なものをすべて削ぎ落とし、必死に舞台に立っていた

(浅草の踊り子たちはフィナーレをふいなあれと言う)

2011年12月12日 20時20分48秒 | Weblog
今日の読売新聞夕刊(朝刊休刊日だから当然か)で講談社文芸文庫が

高見順『如何なる星の下に』

を発売したことを知った。

実は私は国文系の学科を卒業しているのだが、私をこの道に引っ張り込んだのが、この作品。
1400円を超える値段に当惑しながらも、購入した。

なぜ、今この作品を世に再び出すのか。
ちょっと驚き。
好きな作品だけに、世の評価もよく知っているつもり。
はっきり言って、通俗小説、風俗小説という扱いをする文学人が多いことだろう。
『墨東奇譚』のようには次世代に読み継がれる要素はない、と。
作品に描かれている風俗はとっくに廃れてしまっており、そこにノスタルジーを感じる世代も、もう残りが少ない(失礼!)。
なぜ、誰をターゲットに、講談社はいまふたたび世に出そうと考えたのか。
興味があるなぁ。
この作品は、風俗の流行を描いているようでありながら、人間の性(さが)や業の不易な面を描いているのだと言ったら、
持ち上げ過ぎだろうか。

昨今の世相が昭和10年代化しているから、というのが妥当なとこ?
いまの国会を拝見していると政友会と民政党の泥仕合そのまんまだもんなぁ。


ちなみに、卒論の跋文に「ふいなあれ」という見出しをつけたら、
口頭試問の時、岩淵匡教授に
「卒論はエッセイではないんだ」
とこっぴどくしかられたのも、いまは懐かしい思い出。

卒論の章ごとの草稿を、というかただ単に下書きに過ぎないものを教授にお見せするたびに、
「これではエッセイですね。論文になってませんよ」
と言われ続けていたころ、
果たしてこれで卒論書き上げられるのだろうか、書き上げられなくて卒業延期になったら、内定先になんて詫びればいいんだろう?
と言いようのない不安と恐怖におののいていたのだが、
最後の最後も「エッセイだ」のダメ押しなんだものな。
「エッセイだ」というひと言が私に与えていたダメージを、
はたして教授はご存じだったのだろうか。
いまとなってはわからない。