(1905年)日露戦争~第三軍が旅順要塞を完全攻略
乃木希典大将率いる第三軍がこの日、旅順要塞の望台を占領したことでロシア側司令官ステッセル中将が降伏を申し出、旅順攻囲戦は日本側の勝利で終結した。
戦争の間、日本軍が本土と大陸を結ぶ補給路を安全に航行するには制海権を確保せねばならず、バルチック艦隊が到着するまでに旅順港を根拠地とするロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を殲滅させる必要があったが、海軍は幾度に渡る作戦を実行するも目標を達せず、それまで支援を断っていた陸軍に対し旅順攻略を正式に要請。
攻囲陣地を確保する前哨戦の後行われた要塞東北正面への総攻撃であったが、ここで日本側は大打撃を受ける。
旅順港を囲む山々にはいくつもの砲台・べトンで固められた防壁・残壕で連絡された複数の堡塁・堡塁周辺に張り巡らされた鉄条網・斜面に埋められた地雷など、当時最先端と言われた永久要塞がロシア側によって構築され、近代要塞戦のノウハウを殆んど持たないまま戦いに挑んだ日本側に多大な犠牲をもたらしたのだ(例えば、従来型の横線突撃で進む日本兵は、銃座に無数に配置された最新兵器の敵機関銃によって次々となぎ倒された)。
この失敗の反省から、陸軍は強襲突撃をとり止め、残壕や坑道を掘り進める正攻法を採用、また、本土から強力な二十八サンチ榴弾砲を運び込み、執拗に砲撃を繰り返した。
三次にわたる総攻撃で、筆舌に尽し難い苦戦を重ねるも徐々に漸進、12月5日には旅順港を一望出来る二百三高地を占領。
続いて主要三堡塁(二龍山・松樹山・東鶏冠山)を占領し、遂に要塞最高所の望台を制圧するに至った。
陸戦の一大決戦は3月の奉天会戦であるが、後方からの来襲を憂慮せず会戦に総力を投じられた点で、旅順戦勝利の意義は大きい。
また、奇跡と評された永久要塞攻略を成し遂げた第三軍の存在は、ロシア軍の士気低下の要因のひとつとも言われている。
よく「乃木愚将論」なるものが叫ばれるが、そもそも要塞の情報が決定的に不足している中敵を攻めるには、「その時点で」最も適切と考えられる作戦を採るのは当然で、第一次総攻撃の失敗は已むを得ない面があった。
その証拠に、正攻法を採り入れた第二次総攻撃以降、日本側の犠牲は減り、逆にロシア側の損害は格段に増している。
決して徒に突撃を繰り返した訳ではない。
確かに犠牲は甚大だったが、乃木以外の誰が指揮したところで、それは変わらなかっただろう。
乃木を愚将呼ばわりする風潮は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』での批判的記述、またそれをもとにした各批評の影響が大きいと思われる。
乃木希典大将率いる第三軍がこの日、旅順要塞の望台を占領したことでロシア側司令官ステッセル中将が降伏を申し出、旅順攻囲戦は日本側の勝利で終結した。
戦争の間、日本軍が本土と大陸を結ぶ補給路を安全に航行するには制海権を確保せねばならず、バルチック艦隊が到着するまでに旅順港を根拠地とするロシア旅順艦隊(第一太平洋艦隊)を殲滅させる必要があったが、海軍は幾度に渡る作戦を実行するも目標を達せず、それまで支援を断っていた陸軍に対し旅順攻略を正式に要請。
攻囲陣地を確保する前哨戦の後行われた要塞東北正面への総攻撃であったが、ここで日本側は大打撃を受ける。
旅順港を囲む山々にはいくつもの砲台・べトンで固められた防壁・残壕で連絡された複数の堡塁・堡塁周辺に張り巡らされた鉄条網・斜面に埋められた地雷など、当時最先端と言われた永久要塞がロシア側によって構築され、近代要塞戦のノウハウを殆んど持たないまま戦いに挑んだ日本側に多大な犠牲をもたらしたのだ(例えば、従来型の横線突撃で進む日本兵は、銃座に無数に配置された最新兵器の敵機関銃によって次々となぎ倒された)。
この失敗の反省から、陸軍は強襲突撃をとり止め、残壕や坑道を掘り進める正攻法を採用、また、本土から強力な二十八サンチ榴弾砲を運び込み、執拗に砲撃を繰り返した。
三次にわたる総攻撃で、筆舌に尽し難い苦戦を重ねるも徐々に漸進、12月5日には旅順港を一望出来る二百三高地を占領。
続いて主要三堡塁(二龍山・松樹山・東鶏冠山)を占領し、遂に要塞最高所の望台を制圧するに至った。
陸戦の一大決戦は3月の奉天会戦であるが、後方からの来襲を憂慮せず会戦に総力を投じられた点で、旅順戦勝利の意義は大きい。
また、奇跡と評された永久要塞攻略を成し遂げた第三軍の存在は、ロシア軍の士気低下の要因のひとつとも言われている。
よく「乃木愚将論」なるものが叫ばれるが、そもそも要塞の情報が決定的に不足している中敵を攻めるには、「その時点で」最も適切と考えられる作戦を採るのは当然で、第一次総攻撃の失敗は已むを得ない面があった。
その証拠に、正攻法を採り入れた第二次総攻撃以降、日本側の犠牲は減り、逆にロシア側の損害は格段に増している。
決して徒に突撃を繰り返した訳ではない。
確かに犠牲は甚大だったが、乃木以外の誰が指揮したところで、それは変わらなかっただろう。
乃木を愚将呼ばわりする風潮は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』での批判的記述、またそれをもとにした各批評の影響が大きいと思われる。