中村雅俊 いつか街で会ったなら
漫画史研究家として、私がメジャーデビューした『少年画報大全』(少年画報社より2001年7月発売開始。現在3刷り。累計発行部数1万部以上)
には、
巻頭見開きの目次において以下の一文を入れさせてもらいました。
【おことわり】
「ご紹介した作品・記事の中には、現在の社会規範・生活実感からみて、差別的な表現が含まれている場合があります。
著作物は作者の了解なくみだりに改変できない、という著作権上の問題もありますが、当時の実情を知り、今日のあり方を反省するために、あえてそのまま掲載しています。
少年誌が歩んだ道を、またマンガの辿った足跡を歴史的資料として掲示する本誌の目的をご理解ください。
私たちは、民族、国民、障害、病気、思想信条、職業、生活環境などによって、人が差別されたりしてはならないと考えています。
差別を助長するような表現については、今後とも、読者の皆さまとともに、これを厳に戒めていきたいと考えています。」
私は、あらゆる差別が嫌いです。
父と母が日本人であるため、心情的には愛国主義ではありますが・・・。
広島と長崎に原爆を落とし、日本各地にB29による空爆を続けたアメリカは、何故、多くの民間人や幼い子供を犠牲にするための空襲をしたのでしょうか?
民間人を巻き込み、烈しい地上戦が繰り広げられた沖縄のアメリカ軍の基地問題は、いまも解決しておりません。
8月6日は、旅行会社の添乗員として何度となく訪れている広島について、去年訪れた際のブログ記事の再録、
8月7日は、ジョン・レノンが歌い世界平和について考えさせてくれる「イマジン」、
8月9日は、藤山一郎さんが「この子を残して」の作者であり、長崎で被爆した永井博士の家族について歌った「長崎の鐘」
8月15日は終戦記念日。
富山での縁故疎開と終戦の日を都会の少年の視点から描いた・映画「少年時代」
私の好きな詩人サトウ・ハチローさんが作詞し、並木路子さんが歌い敗戦後の日本で大流行した「りんごの唄」
童謡歌手だった川田正子さんが歌う「鐘の鳴る丘」は、最初戦災孤児の架空の収容施設が舞台でしたが、放送中より原作者・菊田一夫さん達の尽力により、実在する施設となりました。(涙)
8月16日、菊池章子さんの「星の流れに」は、敗戦後の日本で、生きるために米軍相手の娼婦・街の女になるしかなかった若い日本女性の悲劇を歌ってます。
宮城まり子さんが歌う「ガード下の靴みがき」は、戦災孤児の少年が成長し、生きるためにガード下の靴みがきに、少女は花売り娘となっていることが社会問題となり・・・。
戦後、日本一の少年雑誌として知られる『少年画報』には、戦後の日本を舞台に日米ハーフの少年探偵が活躍する漫画「ビリーパック」が大人気となりました。
大学教授であるアメリカ人の父親は、スパイ容疑で憲兵に連行されます。
その際、抵抗したビリー少年に銃を向けた憲兵から、身を挺して息子のビリーを守り、身代わりとなって銃弾に倒れ亡くなってしまった優しくて綺麗な日本人の母。
やがて、大学教授である父親も日本軍によって処刑されてしまうのです。
ビリー少年は、最初母方の親戚に引き取られますが、戦後は、父方の伯父の養子となり、アメリカに渡ります。
そして、探偵学校を卒業した後、いくつかの難事件を解決しアメリカ国内でも、有名な少年探偵となってから、日本に帰国してくるのですが・・・。
戦中・戦後だけでなく、現在でも日本やアメリカをはじめ世界では、民族、国民、障害、病気、思想信条、職業、生活環境などによって、人が差別されたりしております。
昭和29年10月号より連載開始された「ビリーパック」は、そのような差別の問題を、少年漫画の世界で既に描いていました。
少年時代に「ビリーパック」の復刻本を手にした私は、とても衝撃を受けたのです。
「悲しい運命」の生い立ちでありながら、誰を恨むでもなく、正義の少年として活躍を続けるビリーパック。
単行本一巻には、作者である河島光廣先生による次のような言葉があります。
【ーこの本をごらんになるみなさまへー】
「みなさん。名探偵のビリー・パックは、世の中の正しい人たちが平和なくらしができるように、よわい者をいじめたり、警察の目をぬすんで不正なことばかりしている悪漢どもを、徹底的にこらしめていく勇敢な少年です。
どうかみなさんも、このビリー探偵のように、心の正しい、りっぱな少年になってください。」
少年時代の私は、ビリーパックに憧れた。
私は、【ビリーパックに憧れて】と題して次のようなコラムを寄せた。
『少年画報』誌上に彗星のごとく現れた河島光広は、「ビリーパック」において戦後のマンガ界に探偵マンガブームを巻き起こし一世を風靡した。
しかし、彼には当時の少年読者達には知り得ない秘密があった。
それは、戦後の日本ではまだ不治の病であった肺結核に侵されていたのである。
病の床にてマンガを描き続けることが自らの命を縮めてしまうと知りながらも、彼はビリーの活躍を描き続けることをやめなかった。
戦争や人種差別のない日本を復興させたいという夢を子ども達に託すために、「ビリーパック」を描くことだけが、彼に出来る唯一の手段だったからだろう。
21世紀を迎えた現在、探偵マンガは隆盛を極めてはいるが戦後の少年達のためにわずか30年の命を懸けて「ビリーパック」を描き続けた彼の名を知るマンガファンは少ない。
けれども河島先生、私達だけはあなたの「ビリーパック」を忘れはしない。
当時の編集者であり、名古屋在住の河島先生と唯一御逢いしたことがある元『少年画報』編集長の山部徹郎さん(故人)が、当時のことを回想した文章が復刻本に収められているので、『少年画報大全』において再録させてもらいましたが、それは、又の機会に。
皆さん、おやすみなさい。
には、
巻頭見開きの目次において以下の一文を入れさせてもらいました。
【おことわり】
「ご紹介した作品・記事の中には、現在の社会規範・生活実感からみて、差別的な表現が含まれている場合があります。
著作物は作者の了解なくみだりに改変できない、という著作権上の問題もありますが、当時の実情を知り、今日のあり方を反省するために、あえてそのまま掲載しています。
少年誌が歩んだ道を、またマンガの辿った足跡を歴史的資料として掲示する本誌の目的をご理解ください。
私たちは、民族、国民、障害、病気、思想信条、職業、生活環境などによって、人が差別されたりしてはならないと考えています。
差別を助長するような表現については、今後とも、読者の皆さまとともに、これを厳に戒めていきたいと考えています。」
私は、あらゆる差別が嫌いです。
父と母が日本人であるため、心情的には愛国主義ではありますが・・・。
広島と長崎に原爆を落とし、日本各地にB29による空爆を続けたアメリカは、何故、多くの民間人や幼い子供を犠牲にするための空襲をしたのでしょうか?
民間人を巻き込み、烈しい地上戦が繰り広げられた沖縄のアメリカ軍の基地問題は、いまも解決しておりません。
8月6日は、旅行会社の添乗員として何度となく訪れている広島について、去年訪れた際のブログ記事の再録、
8月7日は、ジョン・レノンが歌い世界平和について考えさせてくれる「イマジン」、
8月9日は、藤山一郎さんが「この子を残して」の作者であり、長崎で被爆した永井博士の家族について歌った「長崎の鐘」
8月15日は終戦記念日。
富山での縁故疎開と終戦の日を都会の少年の視点から描いた・映画「少年時代」
私の好きな詩人サトウ・ハチローさんが作詞し、並木路子さんが歌い敗戦後の日本で大流行した「りんごの唄」
童謡歌手だった川田正子さんが歌う「鐘の鳴る丘」は、最初戦災孤児の架空の収容施設が舞台でしたが、放送中より原作者・菊田一夫さん達の尽力により、実在する施設となりました。(涙)
8月16日、菊池章子さんの「星の流れに」は、敗戦後の日本で、生きるために米軍相手の娼婦・街の女になるしかなかった若い日本女性の悲劇を歌ってます。
宮城まり子さんが歌う「ガード下の靴みがき」は、戦災孤児の少年が成長し、生きるためにガード下の靴みがきに、少女は花売り娘となっていることが社会問題となり・・・。
戦後、日本一の少年雑誌として知られる『少年画報』には、戦後の日本を舞台に日米ハーフの少年探偵が活躍する漫画「ビリーパック」が大人気となりました。
大学教授であるアメリカ人の父親は、スパイ容疑で憲兵に連行されます。
その際、抵抗したビリー少年に銃を向けた憲兵から、身を挺して息子のビリーを守り、身代わりとなって銃弾に倒れ亡くなってしまった優しくて綺麗な日本人の母。
やがて、大学教授である父親も日本軍によって処刑されてしまうのです。
ビリー少年は、最初母方の親戚に引き取られますが、戦後は、父方の伯父の養子となり、アメリカに渡ります。
そして、探偵学校を卒業した後、いくつかの難事件を解決しアメリカ国内でも、有名な少年探偵となってから、日本に帰国してくるのですが・・・。
戦中・戦後だけでなく、現在でも日本やアメリカをはじめ世界では、民族、国民、障害、病気、思想信条、職業、生活環境などによって、人が差別されたりしております。
昭和29年10月号より連載開始された「ビリーパック」は、そのような差別の問題を、少年漫画の世界で既に描いていました。
少年時代に「ビリーパック」の復刻本を手にした私は、とても衝撃を受けたのです。
「悲しい運命」の生い立ちでありながら、誰を恨むでもなく、正義の少年として活躍を続けるビリーパック。
単行本一巻には、作者である河島光廣先生による次のような言葉があります。
【ーこの本をごらんになるみなさまへー】
「みなさん。名探偵のビリー・パックは、世の中の正しい人たちが平和なくらしができるように、よわい者をいじめたり、警察の目をぬすんで不正なことばかりしている悪漢どもを、徹底的にこらしめていく勇敢な少年です。
どうかみなさんも、このビリー探偵のように、心の正しい、りっぱな少年になってください。」
少年時代の私は、ビリーパックに憧れた。
私は、【ビリーパックに憧れて】と題して次のようなコラムを寄せた。
『少年画報』誌上に彗星のごとく現れた河島光広は、「ビリーパック」において戦後のマンガ界に探偵マンガブームを巻き起こし一世を風靡した。
しかし、彼には当時の少年読者達には知り得ない秘密があった。
それは、戦後の日本ではまだ不治の病であった肺結核に侵されていたのである。
病の床にてマンガを描き続けることが自らの命を縮めてしまうと知りながらも、彼はビリーの活躍を描き続けることをやめなかった。
戦争や人種差別のない日本を復興させたいという夢を子ども達に託すために、「ビリーパック」を描くことだけが、彼に出来る唯一の手段だったからだろう。
21世紀を迎えた現在、探偵マンガは隆盛を極めてはいるが戦後の少年達のためにわずか30年の命を懸けて「ビリーパック」を描き続けた彼の名を知るマンガファンは少ない。
けれども河島先生、私達だけはあなたの「ビリーパック」を忘れはしない。
当時の編集者であり、名古屋在住の河島先生と唯一御逢いしたことがある元『少年画報』編集長の山部徹郎さん(故人)が、当時のことを回想した文章が復刻本に収められているので、『少年画報大全』において再録させてもらいましたが、それは、又の機会に。
皆さん、おやすみなさい。