一昨日のNHKザ・ライバル少年サンデー少年マガジン物語の中で、水木しげる先生が紹介されなかったのは、少し寂しかった。
水木しげる先生の作品(墓場の鬼太郎 手)が、週刊少年マガジン昭和40年8月1日号No.32号に掲載されたことは、漫画史にとって、とても重要な意味を持つ。
今日の画像は、少しだけ珍しい竹内寛行版の墓場鬼太郎11巻を載せて見た。
(水木しげると鬼太郎変遷史・2007年やのまん発売)など、いままで大勢の人達が語り、今でも、映画化やアニメ化が続くこの名作については、私よりも詳しい人がたくさんいることだろう。
唯一、私の方が皆さんより詳しい点は、(街頭紙芝居の墓場奇太郎はなぜゲゲゲの鬼太郎へと変貌を遂げたのか)についてである。
街頭紙芝居の墓場奇太郎についての記述は、加太こうじ著・紙芝居昭和史からの引用のみが一人歩きしており、黄金バットや山川惣治の少年王者などについても全て加太こうじの視点から語られることが多かった。
明らかな誤りも訂正されず、その後に実証的な確認作業もほとんどされてこなかった街頭紙芝居と漫画との深い関わりについて、漫画一代誓った日から今日に至るまで、体系的に収集し続けている2万冊足らずの私の蔵書と、当時の関係者による証言や現物資料を元に、調査を進めてきたデータにより、漫画史において現在まであまり語られることがなかった事柄を中心に論を展開してみた(少年漫画の誕生とその変貌についての一考察)なる論文を成蹊大学文学部学会編として、昨年の3月に彩流社より発売された(明治・大正・昭和の大衆文化)の中で発表出来たのは嬉しい限りだ。
この論文に関して、街頭紙芝居や絵物語を集めているある有名なコレクターがブログ上で8月に悪意あるコメントをしているのをGW中に見つけた。
私は彼のことを確かに知っているが、あくまでも知人であり、友人ではないため、現在は何の交流もない。
私が池袋で漫画喫茶をやっていた時、大勢のオタクやマニア、コレクター達がお店にやってきたが、その中の一人が彼だった。
マニアやコレクター、オタク達とは、その時始めて付き合いが始まるのだが、お店が閉店した途端、態度を一変させた人達の方が多かったので、その後も親しく付き合っているのはほんの一握りの信用がおける人だけである。
それまでの私は、マニアやオタク、コレクターとの付き合いはまるでなかったし、学生時代からの友人や日本旅行時代の知人達も私が漫画やアニメが好きであることをほとんど知らなかったので、会社を辞めて漫画喫茶をオープンしたのを周りの皆が驚いたくらいだ。
コミケに行ったのは2000年の冬に一度きり。
2000年夏、日米芸術家交換計画フェローとしてニューヨーク在住のマンガ家デーウ゛ィッド・マッツーケーリ氏が来日。
半年間の滞在中に日本のマンガの歴史を研究していた彼を案内するためである。
オタクやマニア、コレクターの中には、普通の常識が通じない人が実在するので、知人ではあっても友人にはなりたくない場合が多い。
私は、信頼出来る友人や尊敬出来る先生達との交流で日々忙しく暮らしている。
私の文章は、コレクターやマニア、オタク向けのものではなく、普通の人達に昭和の漫画やアニメの魅力を伝えるために書いている。
漫画評論家ではなく漫画史研究家を名乗っているのは評論家という上から目線で漫画やアニメを見るのではなく、あくまで漫画やアニメの魅力を伝える一研究者でありたいと願うからだ。成蹊大学文学部学会では、そんな私の考え方を理解し、発表の場を与えてくれた。
私の母校は、明治学院大学の社会学部であるため、本来、成蹊大学文学部学会とは、何の繋がりもない。
論文の内容が評価されての大抜擢である。
そのことを心良く思わない人達もいるようだ。
卑劣なる悪意は、私達の身近にもたくさん渦巻いているみたいだ。
皆さんのところにも、親切を装い近付いてくる人がいるかも知れませんので、気を付けて下さいね!
追伸
今日の夜7時からは、古石場文化センターで待ちに待った脚本家石森史郎先生のシナリオ塾が始まるので、楽しみだ!。
それでは、またね!〓
水木しげる先生の作品(墓場の鬼太郎 手)が、週刊少年マガジン昭和40年8月1日号No.32号に掲載されたことは、漫画史にとって、とても重要な意味を持つ。
今日の画像は、少しだけ珍しい竹内寛行版の墓場鬼太郎11巻を載せて見た。
(水木しげると鬼太郎変遷史・2007年やのまん発売)など、いままで大勢の人達が語り、今でも、映画化やアニメ化が続くこの名作については、私よりも詳しい人がたくさんいることだろう。
唯一、私の方が皆さんより詳しい点は、(街頭紙芝居の墓場奇太郎はなぜゲゲゲの鬼太郎へと変貌を遂げたのか)についてである。
街頭紙芝居の墓場奇太郎についての記述は、加太こうじ著・紙芝居昭和史からの引用のみが一人歩きしており、黄金バットや山川惣治の少年王者などについても全て加太こうじの視点から語られることが多かった。
明らかな誤りも訂正されず、その後に実証的な確認作業もほとんどされてこなかった街頭紙芝居と漫画との深い関わりについて、漫画一代誓った日から今日に至るまで、体系的に収集し続けている2万冊足らずの私の蔵書と、当時の関係者による証言や現物資料を元に、調査を進めてきたデータにより、漫画史において現在まであまり語られることがなかった事柄を中心に論を展開してみた(少年漫画の誕生とその変貌についての一考察)なる論文を成蹊大学文学部学会編として、昨年の3月に彩流社より発売された(明治・大正・昭和の大衆文化)の中で発表出来たのは嬉しい限りだ。
この論文に関して、街頭紙芝居や絵物語を集めているある有名なコレクターがブログ上で8月に悪意あるコメントをしているのをGW中に見つけた。
私は彼のことを確かに知っているが、あくまでも知人であり、友人ではないため、現在は何の交流もない。
私が池袋で漫画喫茶をやっていた時、大勢のオタクやマニア、コレクター達がお店にやってきたが、その中の一人が彼だった。
マニアやコレクター、オタク達とは、その時始めて付き合いが始まるのだが、お店が閉店した途端、態度を一変させた人達の方が多かったので、その後も親しく付き合っているのはほんの一握りの信用がおける人だけである。
それまでの私は、マニアやオタク、コレクターとの付き合いはまるでなかったし、学生時代からの友人や日本旅行時代の知人達も私が漫画やアニメが好きであることをほとんど知らなかったので、会社を辞めて漫画喫茶をオープンしたのを周りの皆が驚いたくらいだ。
コミケに行ったのは2000年の冬に一度きり。
2000年夏、日米芸術家交換計画フェローとしてニューヨーク在住のマンガ家デーウ゛ィッド・マッツーケーリ氏が来日。
半年間の滞在中に日本のマンガの歴史を研究していた彼を案内するためである。
オタクやマニア、コレクターの中には、普通の常識が通じない人が実在するので、知人ではあっても友人にはなりたくない場合が多い。
私は、信頼出来る友人や尊敬出来る先生達との交流で日々忙しく暮らしている。
私の文章は、コレクターやマニア、オタク向けのものではなく、普通の人達に昭和の漫画やアニメの魅力を伝えるために書いている。
漫画評論家ではなく漫画史研究家を名乗っているのは評論家という上から目線で漫画やアニメを見るのではなく、あくまで漫画やアニメの魅力を伝える一研究者でありたいと願うからだ。成蹊大学文学部学会では、そんな私の考え方を理解し、発表の場を与えてくれた。
私の母校は、明治学院大学の社会学部であるため、本来、成蹊大学文学部学会とは、何の繋がりもない。
論文の内容が評価されての大抜擢である。
そのことを心良く思わない人達もいるようだ。
卑劣なる悪意は、私達の身近にもたくさん渦巻いているみたいだ。
皆さんのところにも、親切を装い近付いてくる人がいるかも知れませんので、気を付けて下さいね!
追伸
今日の夜7時からは、古石場文化センターで待ちに待った脚本家石森史郎先生のシナリオ塾が始まるので、楽しみだ!。
それでは、またね!〓
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