日本アニメクラシックコレクション、発売に際してー
シチリアの映画好きな少年トトが夢を抱いて故郷を跡にした。数十年振りに帰郷すると、そこにあった思い出の映画館は朽ち果ててしまうが、約束通りトトの為に残されていた映画のフィルムだけは、今も昔となんら変わることはなかった。(映画ニュー・シネマ・パラダイスより)
今回、マツダ映画社と㈱デジタル・ミームの共同事業として発売された(日本アニメクラシックコレクション)DVD四巻セットは、日本のアニメ史研究を一挙に加速させることが出来る商品である。収録された五十五作品のうち、八作品が新発掘となるのだから驚きだ。
今回の商品化がキッカケとなり、日本アニメの歴史もやっと実証的に研究される時代が来たと思われる。なぜなら、資料不足の為か、日本アニメの創成期については近年まであまり顧みられることはなかった。だが、2000年に教育白書にて漫画やアニメを芸術分野と位置づけた頃より状況は一変する。俄に大学でも研究対象とされ、東京の荻窪には日本初の本格的な総合施設として杉並アニメーションミュージアムが設立される(館長は、オバケのQ太郎に出てくるラーメン大好き小池さんのモデルとしても有名なアニメーターの鈴木伸一さん)。
こんな話がある。十年ひと昔なら、ふた昔以上も前のこと。少年達が皆、王や長嶋などプロ野球選手に憧れていた時代に鍵っ子で、いつも一人ぽっちだった12歳の少年の心には、たったひとつの小さな夢がありました。ある日のこと。イベントで初めて眼にした街頭紙芝居ライオンマンに少年は魅せられてしまう。それがキッカケとなり、少年は紙芝居を実演した初老の豊田耕治さん(通称トヨジイ。少年は丹下段平に良く似ているなと内心思ったのだが、恐くてそのことは言えなかった)に連れられて、東京都足立区にあるマツダ映画社で毎月行われていた蛙の会(戦後から現在も続く街頭紙芝居の保存研究会であり、豊田さんはそこの幹事を務めていた)や、新宿・紀伊國屋ホールでの無声映画鑑賞会(現在は門前仲町にある門仲天井ホールにて毎月開催されている活動弁士による映画上映)へ通うことになる。
その頃は丁度、マツダ映画社で新作の無声映画(地獄の蟲・稲垣浩監督、田村高廣主演)が製作されたり、新作街頭紙芝居として(紅とかげ)や(六つの掟)が作られた時期であり、活動弁士であり、両方の会長そして社長でもある松田春翠氏は五十代であった。
わざわざ遠くから片道二時間近くかけて通ってくる少年に、春翠先生やトヨジイは優しく語りかけた。
00君は紙芝居やアニメが好きなようだが、いまに紙芝居やアニメも大切な日本文化のひとつとして保存し、語り継いでいかなければいけないと皆が気づく時がきっとくるはずだ。その時がくるのは何年先か、はたまた何十年先になるのか私達にもわからないが、その時がきたら00君、君も私達と一緒に紙芝居やアニメの魅力を皆に伝える一人となってくれ。紙芝居やアニメは、私達が集めておいたものも少しはあるから、きっと君にも役に立つ時がくるハズだからね。
21世紀となり、その時は訪れた。
少年はいつしか青年となり日本旅行に就職。その後、漫画喫茶経営を経て、二人から教わった街頭紙芝居の知識を元に少年雑誌の歴史をまとめた一冊の本を監修する。この本が出版界で評判を呼び、2003年春には研究者として、社団法人日本漫画家協会への入会が認められる。少年時代からのたったひとつの小さな夢がついに叶えられたのである。それを機に門仲天井ホールへと会場を移した鑑賞会へ22年振りに顔を出すことが出来たのだ。
けれども、そこにはもう春翠先生の姿はなかった。トヨジイもいない。22年の時の流れが、春翠先生だけでなくトヨジイまでをも、遠い所へ連れ去っていたのだ。
少年の人生は、トヨジイや春翠先生と過ごしたわずか1年の間に、すべて決まってしまったような気がする。
何もかもまわりは変わってしまったけれども、 春翠先生の活弁は、今回収録の(日の丸太郎~武者修行の巻~・昭和11年)の中であの頃と変わらずに聞く事が出来る。我が春翠先生の声は、いまではオジサンとなってしまった遠いあの日の少年である私に、いまも(本間君)と優しく語りかけてくれるのだ。(メトロポリス漫画総合研究所・主宰)
追記 成蹊大学文学部学会編(明治・大正・昭和の大衆文化・彩流社より2008年発売)に、無声映画の活動弁士や街頭紙芝居と漫画の関わりについての私の研究論文が掲載されます。御一読頂ければ幸いです。
(初出は無声映画鑑賞会会報、活狂No.128 2007年4月1日発行より、一部改訂)
シチリアの映画好きな少年トトが夢を抱いて故郷を跡にした。数十年振りに帰郷すると、そこにあった思い出の映画館は朽ち果ててしまうが、約束通りトトの為に残されていた映画のフィルムだけは、今も昔となんら変わることはなかった。(映画ニュー・シネマ・パラダイスより)
今回、マツダ映画社と㈱デジタル・ミームの共同事業として発売された(日本アニメクラシックコレクション)DVD四巻セットは、日本のアニメ史研究を一挙に加速させることが出来る商品である。収録された五十五作品のうち、八作品が新発掘となるのだから驚きだ。
今回の商品化がキッカケとなり、日本アニメの歴史もやっと実証的に研究される時代が来たと思われる。なぜなら、資料不足の為か、日本アニメの創成期については近年まであまり顧みられることはなかった。だが、2000年に教育白書にて漫画やアニメを芸術分野と位置づけた頃より状況は一変する。俄に大学でも研究対象とされ、東京の荻窪には日本初の本格的な総合施設として杉並アニメーションミュージアムが設立される(館長は、オバケのQ太郎に出てくるラーメン大好き小池さんのモデルとしても有名なアニメーターの鈴木伸一さん)。
こんな話がある。十年ひと昔なら、ふた昔以上も前のこと。少年達が皆、王や長嶋などプロ野球選手に憧れていた時代に鍵っ子で、いつも一人ぽっちだった12歳の少年の心には、たったひとつの小さな夢がありました。ある日のこと。イベントで初めて眼にした街頭紙芝居ライオンマンに少年は魅せられてしまう。それがキッカケとなり、少年は紙芝居を実演した初老の豊田耕治さん(通称トヨジイ。少年は丹下段平に良く似ているなと内心思ったのだが、恐くてそのことは言えなかった)に連れられて、東京都足立区にあるマツダ映画社で毎月行われていた蛙の会(戦後から現在も続く街頭紙芝居の保存研究会であり、豊田さんはそこの幹事を務めていた)や、新宿・紀伊國屋ホールでの無声映画鑑賞会(現在は門前仲町にある門仲天井ホールにて毎月開催されている活動弁士による映画上映)へ通うことになる。
その頃は丁度、マツダ映画社で新作の無声映画(地獄の蟲・稲垣浩監督、田村高廣主演)が製作されたり、新作街頭紙芝居として(紅とかげ)や(六つの掟)が作られた時期であり、活動弁士であり、両方の会長そして社長でもある松田春翠氏は五十代であった。
わざわざ遠くから片道二時間近くかけて通ってくる少年に、春翠先生やトヨジイは優しく語りかけた。
00君は紙芝居やアニメが好きなようだが、いまに紙芝居やアニメも大切な日本文化のひとつとして保存し、語り継いでいかなければいけないと皆が気づく時がきっとくるはずだ。その時がくるのは何年先か、はたまた何十年先になるのか私達にもわからないが、その時がきたら00君、君も私達と一緒に紙芝居やアニメの魅力を皆に伝える一人となってくれ。紙芝居やアニメは、私達が集めておいたものも少しはあるから、きっと君にも役に立つ時がくるハズだからね。
21世紀となり、その時は訪れた。
少年はいつしか青年となり日本旅行に就職。その後、漫画喫茶経営を経て、二人から教わった街頭紙芝居の知識を元に少年雑誌の歴史をまとめた一冊の本を監修する。この本が出版界で評判を呼び、2003年春には研究者として、社団法人日本漫画家協会への入会が認められる。少年時代からのたったひとつの小さな夢がついに叶えられたのである。それを機に門仲天井ホールへと会場を移した鑑賞会へ22年振りに顔を出すことが出来たのだ。
けれども、そこにはもう春翠先生の姿はなかった。トヨジイもいない。22年の時の流れが、春翠先生だけでなくトヨジイまでをも、遠い所へ連れ去っていたのだ。
少年の人生は、トヨジイや春翠先生と過ごしたわずか1年の間に、すべて決まってしまったような気がする。
何もかもまわりは変わってしまったけれども、 春翠先生の活弁は、今回収録の(日の丸太郎~武者修行の巻~・昭和11年)の中であの頃と変わらずに聞く事が出来る。我が春翠先生の声は、いまではオジサンとなってしまった遠いあの日の少年である私に、いまも(本間君)と優しく語りかけてくれるのだ。(メトロポリス漫画総合研究所・主宰)
追記 成蹊大学文学部学会編(明治・大正・昭和の大衆文化・彩流社より2008年発売)に、無声映画の活動弁士や街頭紙芝居と漫画の関わりについての私の研究論文が掲載されます。御一読頂ければ幸いです。
(初出は無声映画鑑賞会会報、活狂No.128 2007年4月1日発行より、一部改訂)
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