昨日の夜と今夜、水木しげる先生のゲゲゲの鬼太郎の実写映画が、二夜連続で放映される。
昨夜は、宮崎駿監督のスタジオ・ジブリ作品アニメ映画・魔女の宅急便も放送されていて、昭和の漫画好きの私としては、どちらを見ようか迷ってしまった。
明日、8月2日は赤塚不二夫先生の一周忌である。
(今日は、赤塚不二夫先生との思い出について、3月に書いたブログの再編集版です。)
青梅に赤塚先生の記念館が出来た時、真知子さんが元講談社の名編集者であり、赤塚不二夫先生とはトキワ荘時代からの長い付き合いとなる丸山昭さんに招待券を送ってくれたので、私は、丸山さんと、少女クラブの編集者時代の後輩になる新井善久さん二人のお供、うっかり八兵衛として一緒に見学をしました。
真知子さんは、2001年から毎年年賀状を送ってくれた。
以前、社団法人日本漫画家協会の会報で赤塚不二夫先生への追悼文を発表したので、赤塚先生に二度目に逢った時のことを中心にもっと詳しく話してみたい。
TBSテレビのおはようクジラという朝の情報番組の中継を、当時私が経営していた池袋の漫画喫茶メトロポリスから行うことになり、その前日赤塚先生のコメントのVTR撮影のため小林豊アナウンサーや撮影スタッフ達と一緒にフジオ・プロを訪ねたのである。
二度目となるフジオ・プロ2Fのリビングで赤塚先生や真知子さん、その時偶然来ていた元チーフアシスタントの安達勉先生(あだち充先生の実兄)と助手の人に囲まれて、嬉しくなってつい
(赤塚先生、僕はたいした学歴はないけれど、いつの日にか漫画史の研究者になりたいんです。)
と少年の日からの夢を打ち明けた。
すると赤塚先生は、
(俺で良かったら応援するよ。うん。応援する。)
と言ってくれました。
当時から、今でも漫画の研究書を出したり、大学で教授や准教授、講師をしているのは、有名大学の大学院を出た人達がほとんどである。
私は、旅行会社の添乗員のアルバイトや、奨学金を貰いながら明治学院大学の夜学で学んだので、華麗なるギャッツビーの学歴と似たようなものである。
安達勉先生は、
(弟に逢ったことはありますか?なければいつでも紹介しますよ。)
と言ってくれた。
真知子さんからは、
(貴方は、随分漫画に詳しいみたいだから、そのうち私達のほうが御世話になる時が来るかもしれないからその時は協力してね。)
と言われた。
まだズブの素人だった私に対して、三人のあのやさしさにあふれた笑顔が今も眼に焼き付いてます。
(赤塚先生!!僕は、2003年春に漫画史の研究者として社団法人日本漫画家協会の正会員になれたんですよ。)
安達勉先生が亡くなられたのは2004年6月18日。
真知子さんが亡くなられたのが2006年7月12日である。
昨年放映された(古畑中学生)では、おそ松くんなどの資料協力を、杉並アニメーションミュージアムの追悼展では赤塚先生からいただいた色紙の展示協力をさせていただいた。
2010年4月からは、某国立博物館に赤塚作品の常設展示が始まる。
その下働きの手伝いを私もしている。
3月の東京国際アニメフェアでは、鈴木伸一館長と、りえ子さんとフジオ・プロのスタッフと私の4人で追悼展示ブースを見学し、パーティ会場へも御一緒させてもらった。
トキワ荘で赤塚先生と縁が深い寺田ヒロオ先生の本が、今度、講談社から出ることになり、COM(虫プロ商事)掲載の赤塚先生のトキワ荘についての漫画も収録される。
その本に、私も資料協力や編集協力をしている。
あだち充先生とは、石井いさみ先生の紹介で少年サンデー&少年マガジン50周年大同窓会のパーティの席上で初めてお逢いすることができた。
その際、安達勉先生との話を充先生に直接話しすることも出来た。
いまの私なら、きっと少しは赤塚先生や真知子さん、安達勉先生3人のお役に立つことが出来るのになぁ・・・
追伸
今日の画像は、赤塚不二夫先生からいただいたサイン色紙です。
こんなに素晴らしいサイン色紙を、当時無名の一ファンにすぎなかった私に、赤塚先生は書いて、応援してくれたのです。
知名度や肩書きなどで人を判断しない、誰にでも平等に接してくれる赤塚先生の心優しい人柄が偲ばれます。
ー大アンケートによるー
少年少女小説ベスト100
(1992年・文春文庫)
に赤塚先生のコメントが次のように、載っています。
マイベスト3
赤塚不二夫(漫画家・55歳)
1.ロビンソン漂流記(ダニエル・デフォー)
2.宝島(ロバート・L・スティーブンスン)
3.ソロモンの洞窟(ヘンリー・R・ハガード)
少年少女小説だけでなく、夢中になった伝記ものがあります。
エジソンとか、野口英世とか。
ほとんどが子供の頃、勉強ができなかったり、貧乏だったり。
ああ、ボクと同じ境遇なんだなあ、よし、ボクも頑張ろう、なんて思って、はげみになったものです。
昨夜は、宮崎駿監督のスタジオ・ジブリ作品アニメ映画・魔女の宅急便も放送されていて、昭和の漫画好きの私としては、どちらを見ようか迷ってしまった。
明日、8月2日は赤塚不二夫先生の一周忌である。
(今日は、赤塚不二夫先生との思い出について、3月に書いたブログの再編集版です。)
青梅に赤塚先生の記念館が出来た時、真知子さんが元講談社の名編集者であり、赤塚不二夫先生とはトキワ荘時代からの長い付き合いとなる丸山昭さんに招待券を送ってくれたので、私は、丸山さんと、少女クラブの編集者時代の後輩になる新井善久さん二人のお供、うっかり八兵衛として一緒に見学をしました。
真知子さんは、2001年から毎年年賀状を送ってくれた。
以前、社団法人日本漫画家協会の会報で赤塚不二夫先生への追悼文を発表したので、赤塚先生に二度目に逢った時のことを中心にもっと詳しく話してみたい。
TBSテレビのおはようクジラという朝の情報番組の中継を、当時私が経営していた池袋の漫画喫茶メトロポリスから行うことになり、その前日赤塚先生のコメントのVTR撮影のため小林豊アナウンサーや撮影スタッフ達と一緒にフジオ・プロを訪ねたのである。
二度目となるフジオ・プロ2Fのリビングで赤塚先生や真知子さん、その時偶然来ていた元チーフアシスタントの安達勉先生(あだち充先生の実兄)と助手の人に囲まれて、嬉しくなってつい
(赤塚先生、僕はたいした学歴はないけれど、いつの日にか漫画史の研究者になりたいんです。)
と少年の日からの夢を打ち明けた。
すると赤塚先生は、
(俺で良かったら応援するよ。うん。応援する。)
と言ってくれました。
当時から、今でも漫画の研究書を出したり、大学で教授や准教授、講師をしているのは、有名大学の大学院を出た人達がほとんどである。
私は、旅行会社の添乗員のアルバイトや、奨学金を貰いながら明治学院大学の夜学で学んだので、華麗なるギャッツビーの学歴と似たようなものである。
安達勉先生は、
(弟に逢ったことはありますか?なければいつでも紹介しますよ。)
と言ってくれた。
真知子さんからは、
(貴方は、随分漫画に詳しいみたいだから、そのうち私達のほうが御世話になる時が来るかもしれないからその時は協力してね。)
と言われた。
まだズブの素人だった私に対して、三人のあのやさしさにあふれた笑顔が今も眼に焼き付いてます。
(赤塚先生!!僕は、2003年春に漫画史の研究者として社団法人日本漫画家協会の正会員になれたんですよ。)
安達勉先生が亡くなられたのは2004年6月18日。
真知子さんが亡くなられたのが2006年7月12日である。
昨年放映された(古畑中学生)では、おそ松くんなどの資料協力を、杉並アニメーションミュージアムの追悼展では赤塚先生からいただいた色紙の展示協力をさせていただいた。
2010年4月からは、某国立博物館に赤塚作品の常設展示が始まる。
その下働きの手伝いを私もしている。
3月の東京国際アニメフェアでは、鈴木伸一館長と、りえ子さんとフジオ・プロのスタッフと私の4人で追悼展示ブースを見学し、パーティ会場へも御一緒させてもらった。
トキワ荘で赤塚先生と縁が深い寺田ヒロオ先生の本が、今度、講談社から出ることになり、COM(虫プロ商事)掲載の赤塚先生のトキワ荘についての漫画も収録される。
その本に、私も資料協力や編集協力をしている。
あだち充先生とは、石井いさみ先生の紹介で少年サンデー&少年マガジン50周年大同窓会のパーティの席上で初めてお逢いすることができた。
その際、安達勉先生との話を充先生に直接話しすることも出来た。
いまの私なら、きっと少しは赤塚先生や真知子さん、安達勉先生3人のお役に立つことが出来るのになぁ・・・
追伸
今日の画像は、赤塚不二夫先生からいただいたサイン色紙です。
こんなに素晴らしいサイン色紙を、当時無名の一ファンにすぎなかった私に、赤塚先生は書いて、応援してくれたのです。
知名度や肩書きなどで人を判断しない、誰にでも平等に接してくれる赤塚先生の心優しい人柄が偲ばれます。
ー大アンケートによるー
少年少女小説ベスト100
(1992年・文春文庫)
に赤塚先生のコメントが次のように、載っています。
マイベスト3
赤塚不二夫(漫画家・55歳)
1.ロビンソン漂流記(ダニエル・デフォー)
2.宝島(ロバート・L・スティーブンスン)
3.ソロモンの洞窟(ヘンリー・R・ハガード)
少年少女小説だけでなく、夢中になった伝記ものがあります。
エジソンとか、野口英世とか。
ほとんどが子供の頃、勉強ができなかったり、貧乏だったり。
ああ、ボクと同じ境遇なんだなあ、よし、ボクも頑張ろう、なんて思って、はげみになったものです。
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