挿入歌 ぼくらのキカイダー
ハカイダーの歌/水木一郎 PV (人造人間キカイダー)KIKAIDER
私が店長をしているショッピングサイトがあります。
【漫画の匠】
http://www.manganotakumi.com
よろしくです。
今日は、久しぶりにマックに行きました。
『ドラえもん』のハッピーセットがある時以外はあまり行かないので、新登場のポテトのSSサイズにびっくり!
ってストラップの景品でした。
6種類あらましたが、残念ながら種類は選べず。
バリューセットの飲み物、ポテトをそれぞれLサイズに変更して、60円増しでゲット出来ます。
オマケ好きな私は、思わずてりやきバーガーのバリューセット60円増しの650円にて無事ゲット。
お昼の時間帯は、メニュー価格も変わっている見たいですね!
【漫画の匠】
http://www.manganotakumi.com
よろしくです。
今日は、久しぶりにマックに行きました。
『ドラえもん』のハッピーセットがある時以外はあまり行かないので、新登場のポテトのSSサイズにびっくり!
ってストラップの景品でした。
6種類あらましたが、残念ながら種類は選べず。
バリューセットの飲み物、ポテトをそれぞれLサイズに変更して、60円増しでゲット出来ます。
オマケ好きな私は、思わずてりやきバーガーのバリューセット60円増しの650円にて無事ゲット。
お昼の時間帯は、メニュー価格も変わっている見たいですね!
私が店長をしているショッピングサイトがあります。
【漫画の匠】
http://www.manganotakumi.com
よろしくです。
今日は、有楽町駅前にある実業之日本社へ打合せに行きました。
駅前の一等地にあるこの出版社の歴史はとても古く、私は、明治末期に創刊され、大正時代に日本一の少年雑誌へと成長した
『日本少年』
の研究もしているのです。
少年雑誌の歴史については、成蹊大学文学部学会編として彩流社から2008年3月に出版した
『明治・大正・昭和の大衆文化』(彩流社)
の中に私が書いた論文「少年漫画の誕生とその変貌についての一考察~街頭紙芝居の『墓場奇太郎』はなぜ『ゲゲゲの鬼太郎』へと変貌を遂げたのか~」の中にても紹介しておりますが、少年達の間で熱狂的に受け入れられた少年雑誌の歴史について簡単に説明すると
明治の『少年世界』(博文館)
大正の『日本少年』(実業之日本社)
昭和戦前の『少年倶楽部』(大日本雄弁会講談社)
昭和戦後の『少年画報』(少年画報社)から『少年』(光文社)
への流れがあるのです。
特に大正6年に発行され、私が再発掘し入手した幻の
『日本少年』増刊『少年ポンチ』特集号
の存在は、明治のポンチ絵の時代から、その過渡期である大正時代に日本の少年漫画の誕生を促していた事実を知ることが出来る重要な新発見でもありました。
この本の現存は、まだ私の蔵書以外確認されておらず、実業之日本社の書庫にすら保存されていないことが確認出来ております。
少年漫画の歴史を、幻の『少年ポンチ』特集号の紹介から、昭和39年の『ガロ』(青林堂)誕生の流れまでを今までの漫画史における定説を実証的な調査研究により根底から覆す新たな視点で追っております。
各分野の研究者6人の共著となっているため、帯には
「探偵小説、少年漫画、婦人雑誌、演劇、パンク・ロックなど〈古さ〉と〈新しさ〉のイメージの落差を過去の大衆文化がいかに巧みに操作しているかを探る」とあります。
お近くの書店で見つからない場合は、【漫画の匠】にても紹介してありますので、是非一度、御覧になって見て下さいね!
今日の画像は、実業之日本社1Fのショーケースになります。
『ゲゲゲの女房』44万部突破とのこと。
売れてますね!
【漫画の匠】
http://www.manganotakumi.com
よろしくです。
今日は、有楽町駅前にある実業之日本社へ打合せに行きました。
駅前の一等地にあるこの出版社の歴史はとても古く、私は、明治末期に創刊され、大正時代に日本一の少年雑誌へと成長した
『日本少年』
の研究もしているのです。
少年雑誌の歴史については、成蹊大学文学部学会編として彩流社から2008年3月に出版した
『明治・大正・昭和の大衆文化』(彩流社)
の中に私が書いた論文「少年漫画の誕生とその変貌についての一考察~街頭紙芝居の『墓場奇太郎』はなぜ『ゲゲゲの鬼太郎』へと変貌を遂げたのか~」の中にても紹介しておりますが、少年達の間で熱狂的に受け入れられた少年雑誌の歴史について簡単に説明すると
明治の『少年世界』(博文館)
大正の『日本少年』(実業之日本社)
昭和戦前の『少年倶楽部』(大日本雄弁会講談社)
昭和戦後の『少年画報』(少年画報社)から『少年』(光文社)
への流れがあるのです。
特に大正6年に発行され、私が再発掘し入手した幻の
『日本少年』増刊『少年ポンチ』特集号
の存在は、明治のポンチ絵の時代から、その過渡期である大正時代に日本の少年漫画の誕生を促していた事実を知ることが出来る重要な新発見でもありました。
この本の現存は、まだ私の蔵書以外確認されておらず、実業之日本社の書庫にすら保存されていないことが確認出来ております。
少年漫画の歴史を、幻の『少年ポンチ』特集号の紹介から、昭和39年の『ガロ』(青林堂)誕生の流れまでを今までの漫画史における定説を実証的な調査研究により根底から覆す新たな視点で追っております。
各分野の研究者6人の共著となっているため、帯には
「探偵小説、少年漫画、婦人雑誌、演劇、パンク・ロックなど〈古さ〉と〈新しさ〉のイメージの落差を過去の大衆文化がいかに巧みに操作しているかを探る」とあります。
お近くの書店で見つからない場合は、【漫画の匠】にても紹介してありますので、是非一度、御覧になって見て下さいね!
今日の画像は、実業之日本社1Fのショーケースになります。
『ゲゲゲの女房』44万部突破とのこと。
売れてますね!
いつも皆さまには、私のブログを御覧いただきまして誠に有難く存じます。
さて、私のブログは皆さんが話題にする、しないとは関係なしに、私の興味のある事柄を中心に書いてきました。
そんな私が、3月6日にgooのブログを始めてからの訪問者数が一万人を突破したのが6月21日。
一万五千人を突破したのが7月25日で、8月26日にはついに二万人を突破。
9月29日には二万五千人を突破しました。
10月30日は三万人に達し、11月28日には三万五千人、12月31日には40316人にまで、日々順調に読者数を伸ばしてきております。
1月31日には、累計45597人となりました。
アメーバは、3月10日の開設以来、6月15日で一万アクセス突破。
7月27日には一万五千アクセス突破。
8月30日にはついに二万アクセス突破。
9月28日には、二万五千人突破です。
悪質なネットストーカーによる嫌がらせから、ブログが炎上しかけ、ボヤ騒ぎとなり、10月26日に三万アクセス、10月31日には、三万五千アクセスとなりました。
私に嫌がらせをしている相手『サンメリーダの梟(ふくろう)』は、アメブロを強制退会させられるなど自滅しましたが、『棟梁の娘』『SEES』など私が所属していた協会宛てに嫌がらせ電話をしてきたネットストーカー達は、それぞれ自身の画像更新も満足に出来ないまま、平然とアメブロを続けております。
邪悪なる偽善者で卑劣な鬼畜のような奴らの相手をしている暇はないので、前のアメブロは、記事更新を停止し、事実関係が誰にでも見て直ぐに分かるようにそのままにしてあります。
それでも、11月18日には、四万五千アクセスを突破。12月31日には、累計48555アクセスとなりました。
2010年1月31日には、累計50796アクセスです。
そして、11月17日より新しくオフィシャルブログとして、記事更新をするために引越した新ブログも大好評で、11月は一日平均179アクセス。
累計で2517アクセス、12月31日で11432アクセスに達しています。
2010年1月31日には、累計30459アクセスとなりました。
さて、gooとアメブロそれぞれのブログを併せると累計12万人以上になるんですね!驚きです。
私の著書の代表作である『少年画報大全』(少年画報社)が2001年7月の発売以来、昨年の1月に3刷りをして、昨今の出版不況の中、定価3000円近い高額の漫画史の研究書としては異例の一万部を突破し、現在も記録更新中ですが、私のブログはスポーツ関係やゲーム、最近の漫画評論家を名のる人達が大好きなエロやパロディなどの話題はなく、20世紀の冒険活劇の少年世界をテーマに書いているオジサンのブログのわりには、大健闘をしているのではないかと独り喜んでおります。
先程、Googleで漫画史研究家を検索したら、最初の10項目の内、1・2・3・4・5・6・7・8・9・10番目の項目全てで私、本間正幸に関連する事柄が出て来ました。
アメーバにて一度限りでなく、いつもペタ返しをしてくれるのは、心優しくて綺麗な女性達が多く、読者登録やアメンバーを承認してくれたのも皆、素敵な人達ばかり。
いつもコメントをくれたり、プレゼントやプチメを返してくれる人達もいるなど、嬉しい限りです。
これからも、昭和の漫画を中心としたアニメや特撮、映画・テレビドラマなどの少年少女の夢や憧れを紹介してまいりますので宜しくお願い致しますね!
漫画の匠・店長
漫画史研究家
本間正幸
追伸
私は、アメブロにだけたくさん棲息している地獄の妖怪餓鬼グループ『栗本宗一郎』『サンメリーダの梟(ふくろう)』そして『棟梁の豚娘』『瑠璃』『SEES』のような、本人の画像更新も出来ない暇でオバサンフェチオタクのオジサン達や、療養中(体や心?)と称して働きもせず、人に嫌がらせをすることを生き甲斐としている若い男好きの醜いオバサンブロガー達には、興味がありませんので、匿名でのコメントなど、迷惑です。
あなた方の哀れな人生は、全て自業自得ですので、人を羨んだり、妬んだりしても、見苦しいだけです。
「構ってちゃんはお疲れちゃんなの(笑)!」
ご愁傷さま。
以上が、2010年2月23日のブログ記事
【やったね!ついに訪問者・アクセス数12万人突破!!】
の記事の再録です。
先程、久しぶりにデータを確認してみたら、
gooは、
ブログの開設から508日
閲覧数196,323PV
訪問者 71,797IP
となっておりました。
アメブロの私の旧ブログは、
7月アクセス数5056
ペタ数1051
一日平均アクセス数163/ペタ数33
新ブログは、
7月アクセス数9472
ペタ数3498
一日平均アクセス数305/ペタ数112
となっておりました。
皆さん、これからもよろしくね!
さて、私のブログは皆さんが話題にする、しないとは関係なしに、私の興味のある事柄を中心に書いてきました。
そんな私が、3月6日にgooのブログを始めてからの訪問者数が一万人を突破したのが6月21日。
一万五千人を突破したのが7月25日で、8月26日にはついに二万人を突破。
9月29日には二万五千人を突破しました。
10月30日は三万人に達し、11月28日には三万五千人、12月31日には40316人にまで、日々順調に読者数を伸ばしてきております。
1月31日には、累計45597人となりました。
アメーバは、3月10日の開設以来、6月15日で一万アクセス突破。
7月27日には一万五千アクセス突破。
8月30日にはついに二万アクセス突破。
9月28日には、二万五千人突破です。
悪質なネットストーカーによる嫌がらせから、ブログが炎上しかけ、ボヤ騒ぎとなり、10月26日に三万アクセス、10月31日には、三万五千アクセスとなりました。
私に嫌がらせをしている相手『サンメリーダの梟(ふくろう)』は、アメブロを強制退会させられるなど自滅しましたが、『棟梁の娘』『SEES』など私が所属していた協会宛てに嫌がらせ電話をしてきたネットストーカー達は、それぞれ自身の画像更新も満足に出来ないまま、平然とアメブロを続けております。
邪悪なる偽善者で卑劣な鬼畜のような奴らの相手をしている暇はないので、前のアメブロは、記事更新を停止し、事実関係が誰にでも見て直ぐに分かるようにそのままにしてあります。
それでも、11月18日には、四万五千アクセスを突破。12月31日には、累計48555アクセスとなりました。
2010年1月31日には、累計50796アクセスです。
そして、11月17日より新しくオフィシャルブログとして、記事更新をするために引越した新ブログも大好評で、11月は一日平均179アクセス。
累計で2517アクセス、12月31日で11432アクセスに達しています。
2010年1月31日には、累計30459アクセスとなりました。
さて、gooとアメブロそれぞれのブログを併せると累計12万人以上になるんですね!驚きです。
私の著書の代表作である『少年画報大全』(少年画報社)が2001年7月の発売以来、昨年の1月に3刷りをして、昨今の出版不況の中、定価3000円近い高額の漫画史の研究書としては異例の一万部を突破し、現在も記録更新中ですが、私のブログはスポーツ関係やゲーム、最近の漫画評論家を名のる人達が大好きなエロやパロディなどの話題はなく、20世紀の冒険活劇の少年世界をテーマに書いているオジサンのブログのわりには、大健闘をしているのではないかと独り喜んでおります。
先程、Googleで漫画史研究家を検索したら、最初の10項目の内、1・2・3・4・5・6・7・8・9・10番目の項目全てで私、本間正幸に関連する事柄が出て来ました。
アメーバにて一度限りでなく、いつもペタ返しをしてくれるのは、心優しくて綺麗な女性達が多く、読者登録やアメンバーを承認してくれたのも皆、素敵な人達ばかり。
いつもコメントをくれたり、プレゼントやプチメを返してくれる人達もいるなど、嬉しい限りです。
これからも、昭和の漫画を中心としたアニメや特撮、映画・テレビドラマなどの少年少女の夢や憧れを紹介してまいりますので宜しくお願い致しますね!
漫画の匠・店長
漫画史研究家
本間正幸
追伸
私は、アメブロにだけたくさん棲息している地獄の妖怪餓鬼グループ『栗本宗一郎』『サンメリーダの梟(ふくろう)』そして『棟梁の豚娘』『瑠璃』『SEES』のような、本人の画像更新も出来ない暇でオバサンフェチオタクのオジサン達や、療養中(体や心?)と称して働きもせず、人に嫌がらせをすることを生き甲斐としている若い男好きの醜いオバサンブロガー達には、興味がありませんので、匿名でのコメントなど、迷惑です。
あなた方の哀れな人生は、全て自業自得ですので、人を羨んだり、妬んだりしても、見苦しいだけです。
「構ってちゃんはお疲れちゃんなの(笑)!」
ご愁傷さま。
以上が、2010年2月23日のブログ記事
【やったね!ついに訪問者・アクセス数12万人突破!!】
の記事の再録です。
先程、久しぶりにデータを確認してみたら、
gooは、
ブログの開設から508日
閲覧数196,323PV
訪問者 71,797IP
となっておりました。
アメブロの私の旧ブログは、
7月アクセス数5056
ペタ数1051
一日平均アクセス数163/ペタ数33
新ブログは、
7月アクセス数9472
ペタ数3498
一日平均アクセス数305/ペタ数112
となっておりました。
皆さん、これからもよろしくね!
【今日の記事は、2009年12月26日のブログ記事の再録です。】
昨日は、クリスマス!でしたね。
子供の頃は、サンタさんから貰えるプレゼントをとても楽しみにしていたものです。
大人になってからは、あまりプレゼントを貰うことがなくなりましたが、私の人生において、両親や肉親以外から貰ったプレゼントとして、一番凄い物は、赤塚不二夫先生から貰ったプレゼントかも知れません。
(今日は、赤塚不二夫先生との思い出について、3月・8月に書いたブログの再編集版です。)
青梅に赤塚先生の記念館が出来た時、真知子さんが元講談社の名編集者であり、赤塚不二夫先生とはトキワ荘時代からの長い付き合いとなる丸山昭さんに招待券を送ってくれたので、私は、丸山さんと、『月刊少女クラブ』の編集者時代の後輩になる新井善久さん二人のお供、『水戸黄門』でいうところのうっかり八兵衛の役まわりとして、護国寺(講談社)のご隠居こと当時講談社社友会(OB会)の会長をつとめていた丸山昭さんと一緒に青梅の赤塚不二夫会館の見学をさせてもらいました。
当時、真知子さんは、2001年から毎年年賀状を送ってくれていました。
以前、社団法人日本漫画家協会の会報で赤塚不二夫先生への追悼文を発表したので、今日は赤塚先生に二度目に逢った時のことを中心にもっと詳しく話してみたいと思います。
TBSテレビの『おはようクジラ』という朝の情報番組の中継を、当時私が経営していた池袋の漫画喫茶メトロポリスから行うことになり、その前日赤塚先生のコメントのVTR撮影のため小林豊アナウンサーや撮影スタッフ達と一緒にフジオ・プロを訪ねました。
二度目となるフジオ・プロ2Fのリビングで赤塚先生や真知子さん、その時偶然来ていた元チーフアシスタントの安達勉先生(『タッチ』で知られる、あだち充先生の実兄)と助手の人に囲まれて、嬉しくなってつい
「赤塚先生!僕はたいした学歴はないけれど、いつの日にか漫画史の研究者になりたいんです。」
と少年の日からの夢を打ち明けてしまいました。
すると赤塚先生は、
「俺で良かったら応援するよ。うん。応援する。」
と言ってくれたのです。
当時から、今でも漫画の研究書を出したり、大学で教授や准教授、講師をしているのは、漫画家さんか、有名大学の大学院を出た人達がほとんどです。
私は、旅行会社の添乗員のアルバイトや、奨学金を貰い、働きながら明治学院大学の夜学で学んだので、一般の人達からすると正規の明学生の学歴ではなく、むしろ映画『華麗なるギャッツビー』が第一次世界大戦に参加し、勲章を貰った軍人の褒美として、エール大学の聴講生として通った学歴を、エール大学卒業と称したのと似たようなものに見えるのかも知れません。
安達勉先生は、
「弟に逢ったことはありますか?なければいつでも紹介しますよ。」
と言ってくれました。
真知子さんからは、
「貴方は、随分漫画に詳しいみたいだから、そのうち私達のほうが御世話になる時が来るかもしれないからその時は協力してね。」
と言われたのです。
当時の私は、まだ文筆業としての活動はなく、ズブの素人の漫画好きに過ぎなかったのですが、そんな私に対して、赤塚不二夫先生や真知子さん、安達勉先生はとても親切に接してくれたのです。
あの時の三人のやさしさにあふれた笑顔は、今も私の眼に鮮やかに焼き付いてます。
(赤塚先生!!僕は、2003年春に漫画史の研究者として社団法人日本漫画家協会の正会員になれたんですよ!)
安達勉先生が亡くなられたのは2004年6月18日。
真知子さんが亡くなられたのが2006年7月12日です。
昨年放映されたフジテレビのドラマ『古畑中学生』では、『おそ松くん』の雑誌や単行本などの資料協力を、杉並アニメーションミュージアムの追悼展では赤塚先生からいただいた色紙の展示協力をさせていただきました。
2010年3月17日からは、某国立博物館に赤塚先生の作品が常設展示されます。
その下働きの手伝いを私がしているのです。
3月の東京国際アニメフェアでは、鈴木伸一館長と、りえ子さんとフジオ・プロのスタッフと私の4人で追悼展示ブースを見学し、パーティ会場へも御一緒させてもらいました。
トキワ荘で赤塚先生と縁が深かった寺田ヒロオ先生の本が、講談社から『少年のころの「思い出漫画劇場」 寺田ヒロオの世界』として8月に発売され、『COM』(虫プロ商事)掲載のトキワ荘のエピソードの漫画も収録されています。
その講談社の本に、私も資料協力やまんが年表の作成など編集協力をさせて貰っているのです。
あだち充先生とは、石井いさみ先生の紹介で少年サンデー&少年マガジン50周年大同窓会のパーティの席上で初めてお逢いすることができました。
その際、赤塚先生の所で、安達勉先生と御会い出来た話を充先生に直接お話しすることも出来ました。
いまの私なら、きっと少しは赤塚先生や真知子さん、安達勉先生3人のお役に立つことも出来るのになぁ・・・
追伸
今日の画像は、赤塚不二夫先生からいただいたサイン色紙です。
こんなに素晴らしいサイン色紙を、当時無名の一ファンにすぎなかった私に、赤塚先生は描いて、応援してくれたのです。
知名度や肩書きなどで人を判断しない、誰にでも平等に接してくれる赤塚先生の心優しい人柄が偲ばれます。
『ー大アンケートによるー少年少女小説ベスト100』(1992年・文春文庫)
に赤塚先生の次のようなコメントが載っています。
「マイベスト3
赤塚不二夫(漫画家・55歳)
1.ロビンソン漂流記(ダニエル・デフォー)
2.宝島(ロバート・L・スティーブンスン)
3.ソロモンの洞窟(ヘンリー・R・ハガード)
少年少女小説だけでなく、夢中になった伝記ものがあります。
エジソンとか、野口英世とか。
ほとんどが子供の頃、勉強ができなかったり、貧乏だったり。
ああ、ボクと同じ境遇なんだなあ、よし、ボクも頑張ろう、なんて思って、はげみになったものです。」
昨日は、クリスマス!でしたね。
子供の頃は、サンタさんから貰えるプレゼントをとても楽しみにしていたものです。
大人になってからは、あまりプレゼントを貰うことがなくなりましたが、私の人生において、両親や肉親以外から貰ったプレゼントとして、一番凄い物は、赤塚不二夫先生から貰ったプレゼントかも知れません。
(今日は、赤塚不二夫先生との思い出について、3月・8月に書いたブログの再編集版です。)
青梅に赤塚先生の記念館が出来た時、真知子さんが元講談社の名編集者であり、赤塚不二夫先生とはトキワ荘時代からの長い付き合いとなる丸山昭さんに招待券を送ってくれたので、私は、丸山さんと、『月刊少女クラブ』の編集者時代の後輩になる新井善久さん二人のお供、『水戸黄門』でいうところのうっかり八兵衛の役まわりとして、護国寺(講談社)のご隠居こと当時講談社社友会(OB会)の会長をつとめていた丸山昭さんと一緒に青梅の赤塚不二夫会館の見学をさせてもらいました。
当時、真知子さんは、2001年から毎年年賀状を送ってくれていました。
以前、社団法人日本漫画家協会の会報で赤塚不二夫先生への追悼文を発表したので、今日は赤塚先生に二度目に逢った時のことを中心にもっと詳しく話してみたいと思います。
TBSテレビの『おはようクジラ』という朝の情報番組の中継を、当時私が経営していた池袋の漫画喫茶メトロポリスから行うことになり、その前日赤塚先生のコメントのVTR撮影のため小林豊アナウンサーや撮影スタッフ達と一緒にフジオ・プロを訪ねました。
二度目となるフジオ・プロ2Fのリビングで赤塚先生や真知子さん、その時偶然来ていた元チーフアシスタントの安達勉先生(『タッチ』で知られる、あだち充先生の実兄)と助手の人に囲まれて、嬉しくなってつい
「赤塚先生!僕はたいした学歴はないけれど、いつの日にか漫画史の研究者になりたいんです。」
と少年の日からの夢を打ち明けてしまいました。
すると赤塚先生は、
「俺で良かったら応援するよ。うん。応援する。」
と言ってくれたのです。
当時から、今でも漫画の研究書を出したり、大学で教授や准教授、講師をしているのは、漫画家さんか、有名大学の大学院を出た人達がほとんどです。
私は、旅行会社の添乗員のアルバイトや、奨学金を貰い、働きながら明治学院大学の夜学で学んだので、一般の人達からすると正規の明学生の学歴ではなく、むしろ映画『華麗なるギャッツビー』が第一次世界大戦に参加し、勲章を貰った軍人の褒美として、エール大学の聴講生として通った学歴を、エール大学卒業と称したのと似たようなものに見えるのかも知れません。
安達勉先生は、
「弟に逢ったことはありますか?なければいつでも紹介しますよ。」
と言ってくれました。
真知子さんからは、
「貴方は、随分漫画に詳しいみたいだから、そのうち私達のほうが御世話になる時が来るかもしれないからその時は協力してね。」
と言われたのです。
当時の私は、まだ文筆業としての活動はなく、ズブの素人の漫画好きに過ぎなかったのですが、そんな私に対して、赤塚不二夫先生や真知子さん、安達勉先生はとても親切に接してくれたのです。
あの時の三人のやさしさにあふれた笑顔は、今も私の眼に鮮やかに焼き付いてます。
(赤塚先生!!僕は、2003年春に漫画史の研究者として社団法人日本漫画家協会の正会員になれたんですよ!)
安達勉先生が亡くなられたのは2004年6月18日。
真知子さんが亡くなられたのが2006年7月12日です。
昨年放映されたフジテレビのドラマ『古畑中学生』では、『おそ松くん』の雑誌や単行本などの資料協力を、杉並アニメーションミュージアムの追悼展では赤塚先生からいただいた色紙の展示協力をさせていただきました。
2010年3月17日からは、某国立博物館に赤塚先生の作品が常設展示されます。
その下働きの手伝いを私がしているのです。
3月の東京国際アニメフェアでは、鈴木伸一館長と、りえ子さんとフジオ・プロのスタッフと私の4人で追悼展示ブースを見学し、パーティ会場へも御一緒させてもらいました。
トキワ荘で赤塚先生と縁が深かった寺田ヒロオ先生の本が、講談社から『少年のころの「思い出漫画劇場」 寺田ヒロオの世界』として8月に発売され、『COM』(虫プロ商事)掲載のトキワ荘のエピソードの漫画も収録されています。
その講談社の本に、私も資料協力やまんが年表の作成など編集協力をさせて貰っているのです。
あだち充先生とは、石井いさみ先生の紹介で少年サンデー&少年マガジン50周年大同窓会のパーティの席上で初めてお逢いすることができました。
その際、赤塚先生の所で、安達勉先生と御会い出来た話を充先生に直接お話しすることも出来ました。
いまの私なら、きっと少しは赤塚先生や真知子さん、安達勉先生3人のお役に立つことも出来るのになぁ・・・
追伸
今日の画像は、赤塚不二夫先生からいただいたサイン色紙です。
こんなに素晴らしいサイン色紙を、当時無名の一ファンにすぎなかった私に、赤塚先生は描いて、応援してくれたのです。
知名度や肩書きなどで人を判断しない、誰にでも平等に接してくれる赤塚先生の心優しい人柄が偲ばれます。
『ー大アンケートによるー少年少女小説ベスト100』(1992年・文春文庫)
に赤塚先生の次のようなコメントが載っています。
「マイベスト3
赤塚不二夫(漫画家・55歳)
1.ロビンソン漂流記(ダニエル・デフォー)
2.宝島(ロバート・L・スティーブンスン)
3.ソロモンの洞窟(ヘンリー・R・ハガード)
少年少女小説だけでなく、夢中になった伝記ものがあります。
エジソンとか、野口英世とか。
ほとんどが子供の頃、勉強ができなかったり、貧乏だったり。
ああ、ボクと同じ境遇なんだなあ、よし、ボクも頑張ろう、なんて思って、はげみになったものです。」
私が店長をしているショッピングサイトがあります。
【漫画の匠】
http://www.manganotakumi.com
よろしくです。
今日も、横浜は花火大会。(今日の主催は神奈川新聞社あたりか?)
事務所の窓から花火が見えたよ!
【漫画の匠】
http://www.manganotakumi.com
よろしくです。
今日も、横浜は花火大会。(今日の主催は神奈川新聞社あたりか?)
事務所の窓から花火が見えたよ!