怒涛の攻撃でした18歳11ヶ月のメッシが6点目を・・
パス廻しがタンゴの踊りを見るような・・独創性、技量の高さ・・
世界一のマイスター達・・
メッシ圧巻デビュー アルゼンチン6発
2006年 6月17日 (土) 06:13
マラドーナ2世のFWリオネル・メッシ(18=バルセロナ)が衝撃デビューを飾った。W杯1次リーグC組のアルゼンチンは16日、ゲルゼンキルヘンでセルビア・モンテネグロと対戦し6―0の今大会最多得点で快勝し1次リーグ突破を決めた。3―0の後半30分に途中出場したメッシは1ゴール、1アシストと大活躍。18歳357日の同国史上最年少のW杯出場&W杯得点をマークし、新たな伝説の1ページを記した。
負傷明けでも関係なかった。マラドーナの後継者と呼ばれるメッシが、その才能の一端をわずかな出場時間で披露した。「楽しんでゲームに入ることができた。満足している。得点したことよりも、チームが勝ったことの方が重要だから」。1得点1アシストの衝撃デビュー。それでも18歳は淡々と振り返った。
5―0の後半43分、FWテベスのスルーパスで右サイドを抜け出し、冷静にGKのニアサイドを破った。第1回大会以来、76年ぶりに更新した同国W杯史上最年少得点にスタンドは沸き立った。5万2000人の観衆が歴史の証人になった。
3―0の後半30分、満員のスタンドはスタンディングオベーションで、その登場を迎えた。敗色濃厚のセルビア・モンテネグロのサポーターさえも立ち上がった。見せ場は、いきなり訪れた。スピードに乗ったドリブルで左サイドを突破。左足の折り返しはDFの股間を抜け、ファーサイドのクレスポが押し込んだ。出場から3分後のアシスト。衝撃はそれだけでは終わらなかった。
マラドーナ氏はかつて「私はW杯でメッシに背番号10をつけてほしい。10番は偉大な選手を示す数字だからね」と話したことがある。自ら指名した“マラドーナ2世”。背番号こそ19番だったが、この日見せたプレーは、その再来を予感させるのに十分だった。
幼い頃、成長ホルモンの障害を抱えていたメッシにかかる医療費は1カ月で約10万円。貧しい家族にもアルゼンチンのクラブにも助ける余裕はなかったが、そんなときにメッシの才能に目をつけたのがバルセロナだった。当時13歳。身長は1メートル40にも満たなかった。バルサは家族もスペインに招き、全額負担して治療をサポートした。それから5年。身長が30センチ伸び、押しも押されもせぬバルサの、アルゼンチンの希望の星になった。
メッシの登場が呼び水となり、W杯同国最多タイ記録の1試合6ゴールのラッシュでセルビア・モンテネグロを一蹴した。メッシが最高の形でW杯の舞台に躍り出た。
▼リオネル・メッシ 1987年6月24日、アルゼンチン・サンタフェ州生まれの18歳。13歳で母国のニューウェルスからバルセロナに移籍。04年10月16日のエスパニョール戦でリーグ戦デビュー。05年5月1日のアルバセテ戦で17歳10カ月7日のクラブ史上最年少ゴール。同年8月17日、ハンガリーとの親善試合で代表デビュー。Aマッチ通算8試合で2得点。家族は両親と兄2人、妹。1メートル70、65キロ。利き足は左。
≪最悪の結果≫セルビア・モンテネグロは1次リーグ敗退が決まった。欧州予選10試合1失点の自慢の守備が崩壊して、屈辱の6失点。守備の要だったビディッチの負傷離脱が響いた。攻撃もかみ合わず、2戦連続の零敗。モンテネグロが独立したためセルビア・モンテネグロとしては最初で最後の大会となったが、結果を残せなかった。ペトコビッチ監督は「死の組と言われるタフな組で最悪の結果となった。批判の矢面に立つのは分かっている」と肩を落とした。
アルゼンチン 6 - 0 セルビア・モンテネグロ 試合終了 ゲルゼンキルヘン
C オランダ 2 - 1 コートジボワール 試合終了 シュツットガルト
D メキシコ 0 - 0 アンゴラ 試合終了 ハノーファー
6月17日(土)
22:00 D ポルトガル - イラン フランクフルト
25:00 E チェコ - ガーナ ケルン
28:00 E イタリア - アメリカ
【シュツットガルト16日共同】サッカーのワールドカップ(W杯)ドイツ大会第8日は16日、シュツットガルトほかで1次リーグ3試合を行い、強豪がそろったC組でアルゼンチンに続いてオランダが勝ち、2連勝。勝ち点を6に伸ばし、ともに2大会ぶりに決勝トーナメント進出を決めた。
初戦のオーストラリアに敗れ、2大会連続の決勝トーナメント進出へ後のなくなった日本はキャンプ地ボンでの練習後、18日の第2戦、クロアチア戦の舞台、ニュルンベルクに入った。宿舎の前には100人以上の日本人サポーターが駆けつけ、応援の横断幕を掲げるなど熱気に包まれた。
オランダはファンニステルロイのゴールなどで、初出場のコートジボワールに2―1で競り勝った。アルゼンチンは華麗な攻撃で堅守のセルビア・モンテネグロに6―0と圧勝した。
D組のメキシコは初陣のアンゴラと0―0で引き分けた。 (07:26)
■アルゼンチンタンゴの歴史
今からおよそ130年前、19世紀南米アルゼンチン・ブエノスアイレスで生まれたアルゼンチンタンゴ。
その発祥はラプラタ河という海みたいに大きな川の河口ボカ地区で貿易が盛んに行われるようになった
ことによって生まれました。 輸入とともに入ってきた外国の様々なリズム。キューバのハバネラというリズム、アフリカ、スペインなどたくさんのリズムが混じり合ってできたようです。
アルゼンチンってヨーロッパからの移民の国だし、あの「母を訪ねて三千里」でもでてきたマルコのお母さんも
当時、経済が豊かだったアルゼンチンへ出稼ぎに来てたんじゃなかった?
そんな祖国への哀愁なんかが、このアルゼンチンタンゴ独特のセンチメンタリズムを生んだんでしょうね。
貿易で栄え、南米のパリと呼ばれたほどの美しい街並みをしたブエノスアイレスですが、一方、貧富の差は激しく、船乗りや、貧しい労働者、娼婦のたむろする裏通りがそのボカ地区でした。
そうした混沌とした中で貧しい人々のストレス解消?としてタンゴは生まれたのです。
最初はギターのみで、男性だけが踊って生まれたようですが、いずれ娼婦を相手に踊るようになり、
男女が組んで踊る形成となりましたが、世評では汚い・いかがわしい踊りとされていたようです。
こうして貧民街で踊られていたタンゴも、やがてダンスホールなどで多くの人々に踊られるようになり、
ヨーロッパへと伝わっていきました。 この頃、今では欠かすことの出来ないバンドネオンが加わったのです。
バンドネオンと言えばアルゼンチンタンゴ だからアルゼンチンの楽器かと思いきや、ドイツの楽器なんですよ~!
バンドネオンとはアコーディオンに似た形をしてるけど、鍵盤はなく両サイドにたくさんのボタンがついてる
蛇腹楽器です。 音階がすっごい難しいらしいよ・・・
←こーゆうの。
で、1920年頃~ヨーロッパに渡って広まったのがコンチネンタルタンゴね。
■日本でも1930年代にタンゴブームとなりました。 が、その頃ダンスとして踊られていたのはほとんど
コンチネンタルタンゴだったようです。1940年には日本の楽団も結成されましたが、戦争によってダンスホール
などは一時閉鎖され、また第二次世界大戦後にタンゴブーム復活、となりました。
その頃「早川真平とオルケスタティピカ」が藤沢蘭子とともに南米演奏旅行などに行き、
現地でも大評判となりました。 タンゴの歴史といえば彼らの写真などは必ず載ってますよ~。
■アルゼンチンタンゴ黄金時代
アルゼンチンでは1940年頃、ペロン大統領の労働者保護政策によって、更にタンゴは大衆化してゆき 頻繁に踊られるようになりました。 この頃がアルゼンチンタンゴ黄金時代と言われており、多くの楽団、ダンサーも続々登場した頃です。
外国ではヨーロッパスタイルのタンゴだけが踊られていましたが、アルゼンチン以外の他国でもアルゼンチンタンゴが広く踊られるきっかけとなったのが、
1983年 ショー「タンゴ アルヘンティーノ」パリ公演。
大喝采を受けたタンゴ アルヘンティーノはブロードウェイに進出し、通算198回に及ぶ公演をしたということです。
■日本のアルゼンチンタンゴ・ダンス
コンチネンタル、つまり社交ダンスのタンゴではなく、アルゼンチンタンゴが日本でも踊られるようになったのは
ここまだ20年ほどでしかありません。 1987年、先に出たタンゴ アルヘンティーノ日本公演は
その情熱的な男女のドラマ・官能的なステップ・哀愁ある音楽で、やはり日本の人々をも虜にし、大成功を収め