京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

六条河原院と古典①

2024-03-12 22:16:49 | 国文学

前回の記事「六条河原院跡」の看板にある「難波の浦」の出典は、顕昭の『古今和歌集鈔』であるようだ。

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顕昭の『古今和歌集鈔』に、「毎月難波ノ潮二十斛ヲ汲マシメテ、日ニ塩ヲ煑テ、以テ陸奥ノ塩釜浦ノ勝槩ヲ 模ス」とある

(新潮日本古典集成『宇治拾遺物語』[151]「河原の院融公の霊住む事」頭注)

 *ルビ省略 

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ここでは「二十斛」と、数字が違う。

 

国書データベースの『古今集註』では、「難波」の記述は見つからなかった。

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カハラノ ヒタリオホイマウチキミノ ミマカリテノ後

カノ家ニ マカリテアリケルニ シホカマトイフトコロノサマヲ

ツクレリケルヲ ミテヨメル            ツラユキ

キミマサテ ケフリタエニシ ゝホカマノ ウラサヒシクモ ミエワタルカナ

 

カノイエとイヘルハ■■河原院ナリ 六條坊門ヨリハ南 六条ヨリハ北 万里小路ヨリハ東 川原ヨリハ西

方四町也、池ニ 毎月ニ 塩三十斛ヲ入テ

海底ノ魚蟲ヲ 令住之由 清輔所注也 大臣之後為寛平法皇御所 ■■云 本号東六条院

令ハ堂也 隆国卿注者 作陸奥塩竃形汲湛湖水云々

(国書データベース『古今集註』p.152:国書データベース (nijl.ac.jp)

  *訓点省略。読み取れない部分は■で表示

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ここでは、池には海水ではなく塩を入れたことになっているが、源隆国(醍醐天皇の曾孫)の注には湖水を湛えたなどとある、としている。

すべての底本を確認することはできないうえ、研究者でもないので深追いはしないが、引用の底本だけは調べておこう。

国書データベース(宮内庁書陵部蔵書)『古今集註』は貫之自筆の小野皇太后宮本を藤原通宗書写の通宗本をもとにした清輔本を底本とし、新潮日本古典集成『古今和歌集』は俊成本の昭和切をほかの写本で校合した定家本系統の貞応二年本を底本としているようだ。源融(822頃-895頃)、清輔(1104-1177)、貞応2年(1223)、顕昭(1130頃-1209頃)、こうして年代を並べると、異同は「伝承」の一言で片づけるしかない。

 

後世、世阿弥(1363-1443)が創作した能「融」のシテは次のように謡う。

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嵯峨の天皇の御宇に 融の大臣陸奥の千賀の塩竈の眺望を聞し召し及ばせたまひ この所に塩竈を移し あの難波御津の浦よりも 日ごとにを汲ませ ここにて塩を焼かせつつ 一生御遊の便りとしたまふ しかれどもそののちは相続してぶ人もなければ 浦はそのまま干潮となつて 池辺に淀む溜水は 雨の残りの古き江に 落葉散り浮く松蔭の 月だにまで秋風の のみ残るばかりなり されば歌にも 君まさで 煙絶えにし塩竈の うらしくも見えわたるかなと 貫之めて候

            (観世流謡曲集)

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渉成園での解説ボランティアの方が「毎日大阪から海水を運んで」と言っていたのが気になって、調べた。それは無理だろう、言い間違え?と思ったが、謡曲をもとに解説しておられたのかもしれない。

 

 *2024年3月14日加筆修正

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六条河原院跡

2024-03-12 14:49:27 | まち歩き

前回の記事「渉成園」で次のように記した。

「当時、この辺りが…(中略)…源融の屋敷跡(六条河原院)とされていた…(中略)…実際の六条河原院庭園の池は…(中略)…渉成園北東角より北約500mほどの場所(現在の五条通富小路北側)ということがわかっている。なお、木屋町通五条下ル東側に『此附近源融河原院址』の石碑がある」

石碑の場所を確認する。あの弁慶と牛若丸の銅像のある河原町五条の広い交差点の南東。交差点から鴨川と高瀬川の間の道路を南に下り、すぐ左手にある。下の写真は、高瀬川にかかる橋の上から石碑を撮影したもの。

上の写真(立て看板)にある町名「塩竈町」「本塩竈町」は、五条通をはさんでそれぞれ北と南に現存する。本塩竈町には五条富小路の東角に佛性山本覚寺、同じ通りの西側少し下がったところに塩竃山上徳寺があり、両寺とも、河原院跡とされている(京都通百科事典)。

また、看板にある通りの敷地だったなら、現在の東本願寺境内地の四分の三程度、南辺が正面通までだったなら、同境内地よりも広かったことになる。

上徳寺(京都通百科事典):上徳寺 京都通百科事典 (kyototuu.jp)

本覚寺(京都通百科事典):本覚寺 京都通百科事典 (kyototuu.jp)

 

渉成園の場所は鴨川から250m程度の距離があり、「河原院」という名称は不似合いである。高瀬川沿いが河原院の東端なら、毎月三十石の海水を運んだという伝承(『顕註密勘』)も頷ける。鴨川からは10mほど、その水運を利用して海水を運び、池に水を引き入れることも可能だろう。あまりに贅沢ではあるが。ただし池跡は富小路五条(鴨川より約250m)に見つかっている。

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河原の左のおほいまうちぎみのみまかりて後 かの家にまかりてありけるに 塩釜といふ所のさまを造れりけるを見てよめる

君まさで𤇆たえにし塩かまの うらさびしくも見え渡かな

これハ河原大臣の六条河原にいみじき家建て池をほり水をたゝへてうしほ毎月に三十石まで入て海底の魚貝■をすましめたり

陸奥国のしほかまの浦をうつしてあまの塩屋に𤇆をたゝせてもてあそばれけるが 彼おとゝうせられて■塩かまの煙たえ■■をミて貫之のぬしよめる歌……

      (国書データベース『顕註密勘』p187ー188:https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100097396/188?ln=ja)

       *読み取れない部分は■で表示

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