前回の記事「六条河原院跡」の看板にある「難波の浦」の出典は、顕昭の『古今和歌集鈔』であるようだ。
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五 顕昭の『古今和歌集鈔』に、「毎月難波ノ潮二十斛ヲ汲マシメテ、日ニ塩ヲ煑テ、以テ陸奥ノ塩釜浦ノ勝槩ヲ 模ス」とある
(新潮日本古典集成『宇治拾遺物語』[151]「河原の院融公の霊住む事」頭注)
*ルビ省略
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ここでは「二十斛」と、数字が違う。
国書データベースの『古今集註』では、「難波」の記述は見つからなかった。
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カハラノ ヒタリオホイマウチキミノ ミマカリテノ後
カノ家ニ マカリテアリケルニ シホカマトイフトコロノサマヲ
ツクレリケルヲ ミテヨメル ツラユキ
キミマサテ ケフリタエニシ ゝホカマノ ウラサヒシクモ ミエワタルカナ
カノイエとイヘルハ■■河原院ナリ 六條坊門ヨリハ南 六条ヨリハ北 万里小路ヨリハ東 川原ヨリハ西
方四町也、池ニ 毎月ニ 塩三十斛ヲ入テ
海底ノ魚蟲ヲ 令住之由 清輔所注也 大臣之後為寛平法皇御所 ■■云 本号東六条院
令ハ堂也 隆国卿注者 作陸奥塩竃形汲湛湖水云々
(国書データベース『古今集註』p.152:国書データベース (nijl.ac.jp))
*訓点省略。読み取れない部分は■で表示
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ここでは、池には海水ではなく塩を入れたことになっているが、源隆国(醍醐天皇の曾孫)の注には湖水を湛えたなどとある、としている。
すべての底本を確認することはできないうえ、研究者でもないので深追いはしないが、引用の底本だけは調べておこう。
国書データベース(宮内庁書陵部蔵書)『古今集註』は貫之自筆の小野皇太后宮本を藤原通宗書写の通宗本をもとにした清輔本を底本とし、新潮日本古典集成『古今和歌集』は俊成本の昭和切をほかの写本で校合した定家本系統の貞応二年本を底本としているようだ。源融(822頃-895頃)、清輔(1104-1177)、貞応2年(1223)、顕昭(1130頃-1209頃)、こうして年代を並べると、異同は「伝承」の一言で片づけるしかない。
後世、世阿弥(1363-1443)が創作した能「融」のシテは次のように謡う。
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嵯峨の天皇の御宇に 融の大臣陸奥の千賀の塩竈の眺望を聞し召し及ばせたまひ この所に塩竈を移し あの難波の御津の浦よりも 日ごとに潮を汲ませ ここにて塩を焼かせつつ 一生御遊の便りとしたまふ しかれどもそののちは相続して翫ぶ人もなければ 浦はそのまま干潮となつて 池辺に淀む溜水は 雨の残りの古き江に 落葉散り浮く松蔭の 月だに住まで秋風の 音のみ残るばかりなり されば歌にも 君まさで 煙絶えにし塩竈の うら淋しくも見えわたるかなと 貫之も詠めて候
(観世流謡曲集)
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渉成園での解説ボランティアの方が「毎日大阪から海水を運んで」と言っていたのが気になって、調べた。それは無理だろう、言い間違え?と思ったが、謡曲をもとに解説しておられたのかもしれない。
*2024年3月14日加筆修正