大徳寺総見院の春の特別公開は、3/30(土)~5/6(月)の日程で行われている。本坊同様、京都春秋が特別拝観を運営されていた。
快晴の2日、織田信長菩提寺という総見院に出かけた。信長一周忌に合わせ、その菩提を弔うため、秀吉によって建立された。総見院という名称は、信長の戒名(総見院殿贈大相国一品泰巌大居士 )に由来する。
信長の木造等身大坐像を実際に見るのが目的である。木像は吊欄間のある本堂の室中に安置され、多少薄暗い中ではあるが迫力がある。顎がしっかりとしており、教科書に掲載されていた緑の袴を身に着けた若い頃の肖像画とは雰囲気が違う。吊欄間の東側には、黒っぽい衣冠束帯姿の肖像画が掛けられており、これも違う。木像の作者(康清)も、肖像画の作者(狩野永徳)も信長と同時代人で実際に会ったことがあるとされているのに、また、どちらも当時の著名な芸術家であるのに、この違いは何だろう。
狩野永徳筆の信長肖像画は、大徳寺本坊と総見院に一枚ずつあるようだが、そのどちらかの絵が、本来は片身替わりの衣装だったことがわかっている(2011年6月)。左右の袖色が違う片身替わりは当時の流行で、新しいもの好きの信長にはぴったりだ。
日経新聞:目立たれては困る 信長の肖像画、秀吉が改変か 刀少なく、服装も地味に - 日本経済新聞 (nikkei.com)
im:狩野永徳の織田信長像、当初は派手だった | ニュース | アイエム[インターネットミュージアム] (museum.or.jp)
信長坐像は、秀吉が、二体作らせたうちのひとつだという。沈香で造られたというひとつは、葬儀の際に遺体の代わりとして火葬されたらしい。棺に入れたのなら、そちらは坐像ではなく立像だったのだろうか。また、沈香は貴重なものだし、等身大像を造ることができるほどの大きな香木が存在したとも思えない(正倉院所蔵の香木は156㎝×径43㎝、重量11.6㎏)。一部香木を使用した、ということか。
「2体彫られたうちの1体は、葬儀の際に荼毘にふされますが、香木によって作られたその木像の薫りは洛中一帯に広がったと言われます。」
京都市観光協会 総見院|【京都市公式】京都観光Navi (kyoto.travel)
写真左は正門。右は、通用口で、ここから左側約10mほどが「親子塀」と言われる二層の塀で、創建(1583年)当時のものということである。
親子塀は内側と外側で二重に塀が造られ、内部に人が入れるほどの空洞があるらしい。通用口の塀は、下部約80㎝、上部約60㎝、高さ2m未満であることが確認できた。下の写真は、通用口から、親子塀上部を撮影したもの。
明治の廃仏毀釈以降、堂宇や宝物が失われ、さきの木像や鐘は本山に避難させたらしい。木像は1961年本山より戻り、鐘は鐘楼とともに現在も塀のすぐ外側にある。鐘楼と鐘は創建当時のものというから、塀を新しく内側に作って、鐘は総見院のものではない体としたのだろうか。現在も、鐘は「本山に預けている」ことになっているらしい。
下の写真は、木像を本山から戻す際に載せた輿。外廊下上部に吊り下げられている。黒漆と赤漆が使用されているのだろうか。大切に取り扱われたことがわかる。
総見院には駒札がなく、市によるオフィシャルな解説は、上の「京都観光Navi」のみのようだ。フィールド・ミュージアム京都の「大徳寺」には、総見院は掲載されていなかった。
北山杉の台杉や小さめに仕立てられた低木など、上品な庭。入口傍にある侘助椿が有名らしいが、花の季節は過ぎていた。
加藤清正が朝鮮出兵の帰国時に持ち帰ったと伝わる石で造った井戸は、深く暗い。現在も地下水の流れがあり、水はとどまっていないのだという。
信長一族の墓所は境内北西にあり、「比叡山が見える」との解説が。境内外、西側の道路から、確かに比叡山を望むことができた。
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