京都逍遥

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大徳寺黄梅院 春の特別公開

2024-05-06 15:19:44 | まち歩き

大徳寺塔頭黄梅院2024年春の特別公開は、3/30(土)~5/19(日)の日程で行われている。こちらも特別公開事業は京都春秋の運営で、リーフレットには破頭庭の写真。その写真にあまり魅力を感じなかったので期待していなかったのだが、建物に入るまでのよく手入れされた前庭、苔の美しい庭園、禅宗らしい枯山水の庭園は、見応えがあった。

黄梅院の名の由来は、禅宗五祖(達磨大師から数えて五代目)と言われる弘忍(ぐにん/こうにん)の出身地、黄梅県(現 湖北省黄岡市黄梅県)から採ったものであるらしい。箱根の早雲寺に北条氏政の正室(1543-1569 法名:黄梅院)の菩提寺が同名で建立されたことからも、当時、禅宗において黄梅の名が使われることがあったとわかる。

入口を入って右手に、鐘楼や庫裡を寄進した小早川隆景などゆかりのある人物名の入った石碑が4基ある。黄梅庵(黄梅院の前身)は、そもそも信長の父、信秀(法名 萬松院殿桃巌道見大禅定門)の菩提を弔うために建立されたことから、「萬松院殿」の石碑が、別格であるようにみえる。

左手奥には小さな鐘楼。

さきの入り口から高尾紅葉の大木の下、石畳を進むと、右手奥に唐門がある。唐門は貴人の入り口であるため、締め切りである。この位置からだと、枝が伸びすぎていて唐門の様子は判然としないが、唐門・方丈の屋根はともに最も格式が高いと言われる檜皮葺。

さらに進んで小さな門をくぐり、受付を済ませて前庭を見ながら行く。

写真撮影が可能なのは、次の写真の入り口までである。

この前庭には、七角形の葉をした低木が多く植えられ、ヒイラギモチに似ているが、何の木なのかわからない。天が平たく、小ぶりで艶のあるしっかりした葉。

信長の菩提寺とするため秀吉は黄梅庵を増改築したが、結局別に総見院を建立し、黄梅庵の本堂・唐門を改築後、名称は黄梅院に改められた。

内部には「直中庭」「破頭庭」「作仏庭」がある。

「直中庭(じきちゅうてい)」は千利休作庭と言われ、目立つ場所に秀吉の千成瓢箪を模した池がある。池には伏見城遺構の石橋がかかり、瓢箪の口近くには加藤清正が朝鮮から持ち帰ったという灯籠(総見院の井戸の石も同様。一体どれだけ持ち帰ったのか)、比叡山の不動三尊石、鶴石亀石、庭を横切る渡廊下の反対側(北側)には、多賀大社(?うろ覚えなので、違うかも)から分祀された祠と、秀吉手製という蹲(直径60㎝はある石をくりぬいたもので、石工でなければ作れそうにない)など、さまざまいわれのあるものが。

「直中」は『論語』から採られたらしい。

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葉公語孔子曰、吾黨有直躬者、其父攘羊、而子證之、孔子曰、

吾黨之直者異於是、父爲子隱、子爲父隱、直在其中矣

  『論語』巻第七 子路第十三 十八(岩波文庫)

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最終部分、「正直さはそこに自然にそなわるものですよ」(同書口語訳)とある。父は子のために隠し、子は父のために隠すという行為の中に正直さが備わるとは、なんと難しい。

塀を隔てた東側には「破頭庭(はとうてい)」。ここが、リーフレットや立て看板の写真の庭である。本堂手前に大海を表す白川砂、奥に陸を表す苔。庭に面した本堂南側は、東から「礼(らい)の間」「室中(しっちゅう)と仏間」「檀那の間」があり、檀那の間の正面辺りに観音菩薩・勢至菩薩に見立てた「聴聞石」が立っている。仏間の正面ではなく少しずらした所からお釈迦様の話を傾聴する姿。白川砂は規則正しく横に細く・太く箒目があり、静かな海の様子を表しているという。砂の北東角だけ箒目が扇形になっており、川の河口を表しているらしい。その川は、本堂北にある「作仏庭(さぶつてい)」の立石の滝から庫裡への廊下の下を通り、流れてきたようだ。また、川は作仏庭を東から西に流れ、ぐるりと建物をまわっているようにも見える。川の流れは波打つ箒目によって表現され、小舟や島を表す岩石に遮られたところは、箒目は曲線を描いている。本堂北側には、東から「書院の間」、僧侶の寝室である「眠蔵(めんぞう)」、「衣鉢(いはつ)の間」が配されている。仏間の裏手が僧侶の寝室となっており、床から60㎝ほどのところに板絵の入った仏間への出入り口があった。有事の際に仏様のお顔だけ外して持って逃げる、あるいは作仏庭に設けられた小さい井戸にお顔を避難させるための間取りと伺った。解説の方がとても詳しくわかりやすくて助かった。ただ、情報量が多すぎて、覚えきれず。

破頭庭の東側にある唐門(入ってすぐ右手に見えた、締め切りの門)まわりには波型連子(弓欄間)が施され、きれいだった。採光と通風に優れているし、禅宗らしい簡素な造りでもある。

書院は「自休軒」と呼ばれ、武野紹鴎作の茶室「昨夢軒」が北側にある。ここには「貴人床*(きにんゆか)」と呼ばれる床の間があり(解説より)、現在の御住職の手になる掛け軸「生死涅槃(尚)如昨夢」が掛かっていた。昨夢の語は大乗経によるらしいが、手元に参照できるものがなく、確認できなかった。確認できたら追記するつもりである。

【2024.5.9追記】

・読み仮名追加

・*印「貴人床」について、リーフレットより転記する。「昨夢軒の席は貴人床になっていて、書院自休軒の中に組み込まれているところから囲え込み式と言われている」。これだけではどんなものかわからないので解説員の方に伺うと、「床の間」とのお返事。また別の方は「貴人畳は知っているけれども、貴人床は何のことだろう」と。Webで調べてみたが、どういうものかはっきりとはわからなかった。


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