京都逍遥

◇◆◇京都に暮らす大阪人、京都を歩く

六条河原院跡

2024-03-12 14:49:27 | まち歩き

前回の記事「渉成園」で次のように記した。

「当時、この辺りが…(中略)…源融の屋敷跡(六条河原院)とされていた…(中略)…実際の六条河原院庭園の池は…(中略)…渉成園北東角より北約500mほどの場所(現在の五条通富小路北側)ということがわかっている。なお、木屋町通五条下ル東側に『此附近源融河原院址』の石碑がある」

石碑の場所を確認する。あの弁慶と牛若丸の銅像のある河原町五条の広い交差点の南東。交差点から鴨川と高瀬川の間の道路を南に下り、すぐ左手にある。下の写真は、高瀬川にかかる橋の上から石碑を撮影したもの。

上の写真(立て看板)にある町名「塩竈町」「本塩竈町」は、五条通をはさんでそれぞれ北と南に現存する。本塩竈町には五条富小路の東角に佛性山本覚寺、同じ通りの西側少し下がったところに塩竃山上徳寺があり、両寺とも、河原院跡とされている(京都通百科事典)。

また、看板にある通りの敷地だったなら、現在の東本願寺境内地の四分の三程度、南辺が正面通までだったなら、同境内地よりも広かったことになる。

上徳寺(京都通百科事典):上徳寺 京都通百科事典 (kyototuu.jp)

本覚寺(京都通百科事典):本覚寺 京都通百科事典 (kyototuu.jp)

 

渉成園の場所は鴨川から250m程度の距離があり、「河原院」という名称は不似合いである。高瀬川沿いが河原院の東端なら、毎月三十石の海水を運んだという伝承(『顕註密勘』)も頷ける。鴨川からは10mほど、その水運を利用して海水を運び、池に水を引き入れることも可能だろう。あまりに贅沢ではあるが。ただし池跡は富小路五条(鴨川より約250m)に見つかっている。

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河原の左のおほいまうちぎみのみまかりて後 かの家にまかりてありけるに 塩釜といふ所のさまを造れりけるを見てよめる

君まさで𤇆たえにし塩かまの うらさびしくも見え渡かな

これハ河原大臣の六条河原にいみじき家建て池をほり水をたゝへてうしほ毎月に三十石まで入て海底の魚貝■をすましめたり

陸奥国のしほかまの浦をうつしてあまの塩屋に𤇆をたゝせてもてあそばれけるが 彼おとゝうせられて■塩かまの煙たえ■■をミて貫之のぬしよめる歌……

      (国書データベース『顕註密勘』p187ー188:https://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100097396/188?ln=ja)

       *読み取れない部分は■で表示

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渉成園(枳殻邸)*京の冬の旅

2024-03-10 11:59:44 | まち歩き

渉成園は、東本願寺の飛び地境内地である。東本願寺創建(1602年)後、家光より宣如上人に寄進された土地を同上人が隠居所と定め「渉成園」と名づけた(1653年)とのことである。「枳殻邸」と称されるのは、周囲に枳殻(カラタチ)を生垣として植えていたからだという(以上、「名勝 渉成園-枳殻邸ー」パンフレットより)。

渉成園の入り口は西側、つまり東本願寺に向かっている。北門と南門もあるが閉じられており、東側には木戸だけがある。

上の写真左は、東側(河原町通沿い)の、かなり傷んだ築地の様子。東西の塀にある軒丸瓦は左三つ巴である。同右は、北側(上珠数屋町通沿い)の築地。南北の塀にある軒丸瓦は「本願寺」の銘入りだった。

カラタチの生垣は、現在南門の左右各10m程度に見られるが、何度か火災被害にあっていることから、後世、植えられたものと考えられる。カラタチは、入口前方や左手にもわずかながら見られ、名前の由来を留めようとする意志が感じられる。鋭いトゲのある枝が絡み合うカラタチを生垣にした意図は何だったのだろう。俗世からの隔絶か、単なる防犯か、当時のはやりか。

入口を入ると右手に受付があり、庭園維持の志納金(500円)を納めると、上述のパンフレットがもらえる。園内マップ・写真・園内の説明、といった内容でわかりやすい。パンフレットを参考にしながら園内を歩く。

 

以上、パンフレットにある参観ルートに従って撮影。

現在、二箇所で工事中、また庭師の方による剪定中でもあった。縮遠亭(上にある縦長写真)崖下に植わっている松の手入れは、舟を浮かべて葉を落とすという大変な作業。広大な池に島は3つ。ただでさえ危険の伴う高所作業に、水も加わるとは。熟練の職人さんであってもどうぞお気をつけください……。

左端に見える石塔は、「源融ゆかりの塔」である。鎌倉時代中期に源融の供養塔として建立されたといわれているとのこと(上記パンフレットより)。当時、この辺りが『源氏物語』にある光源氏のモデルとなった源融の屋敷跡(六条河原院)とされていたためであろう。実際の六条河原院庭園の池は、1994年の発掘調査で、渉成園北東角より北約500mほどの場所(現在の五条通富小路北側)ということがわかっている。なお、木屋町通五条下ル東側に「此附近源融河原院址」の石碑がある。

公益財団法人 京都市埋蔵文化財研究所の資料(京都アスニーにて入手の「平安京の主な施設と邸宅」)によると、河原院は、左京四坊にあり、北は六条坊門小路、南は六条大路、東は東京極大路、西は万里小路に囲まれた場所にあったことがわかる。

 

さて、特別公開の園林堂は、写真下の塀の向こうの右手にあり、入口がわかりにくく迷っている人もいた。

受付を済ませ閬風亭でガイドさんの説明を聞く。このい広間では撮影OKということで、作庭が伝えられる石川丈山筆の額を。

丈山の詩仙堂は、小ぶりな枯山水庭園と傾斜地を生かしたすばらしい庭である。小さな池もあるが、渉成園の広大な池を中心とした庭園とは、全く趣が違う。

閬風亭から寒い廊下を通り過ぎ、持ち物をすべてロッカーに預けて、園林堂へ。棟方志功作の襖絵44面は、薄暗い中での鑑賞であった。パンフレットのきれいな写真で再確認。

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仁和寺*京の冬の旅

2024-03-09 14:57:43 | まち歩き

一週間ほど前に仁和寺御所庭園・霊宝館・五大明王壁画の共通券を購入し、御所庭園しか行けなかったので、まだ券が使えるか、受付で聞いてみた。

「大丈夫ですよ」「金堂の入場は4時までなので、先に行ってくださいね」「まっすぐに奥まで進んで」と、受付で丁寧な応対。

国宝 金堂の五大明王壁画は、平成30年・令和5年の秋にそれぞれ公開されたそうだが、"京の冬の旅”初公開ということである。

第58回「京の冬の旅」特別公開 令和6年1月6日〜3月18日 | 世界遺産 真言宗御室派総本山 仁和寺 (ninnaji.jp)

靴入れとして、布製の袋を手渡される。前を行く人は皆、靴箱に靴を置き、袋はバッグに入れて持ち帰る様子。真似して持ち帰ってはみたものの、何に使うわけでもない。

 

ご本尊の阿弥陀如来坐像や、多聞天など諸仏が祀られた金堂を参拝。その裏手にまわると、金堂裏堂壁画があった。思った以上に色彩豊かで、迫力がある。僧侶のご説明はわかりやすく、満足度の高い拝観となった。

 

五重塔の姿は美しく、観光客が口々に「桜が咲いてたら」と言いながら通り過ぎていく。

境内地西に「JAXURY」という店名のカフェがオープンしていた。営業時間などの表示は、外から確認できなかった。

夕刻、境内側から二王門を撮影。16時、受付は終了していた。「京の冬の旅」非公開文化財特別公開は、原則10時~16時半(受付終了は16時)であるらしい。同特別公開は、1月6日~3月18日の期間。まだしばらく楽しめる。

なお、二王門前には次の看板が。自転車置き場は東にある。

 

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神泉苑と古典

2024-03-05 12:45:41 | 国文学

ブログを再開して間がないからか、下書きが消えてしまうという不運に見舞われた。カテゴリーは追加されているのに、追加後に書いたものが消えるなんて。

神泉苑立て看板の「五位鷺」より、謡曲ほか国文学関連に現れる神泉苑を確認してみた。

以上、南側の立て看板。五位鷺の内容は、次のHPに詳しい。

 

銕仙会 能楽辞典:鷺 | 銕仙会 能楽事典 (tessen.org)

the能ドットコム:能・演目事典:鷺:あらすじ・みどころ (the-noh.com)

 

神泉苑HPでも同様、五位鷺について言及している。

神泉苑:神泉苑の歴史 (shinsenen.org)

 

一方、『今昔物語集』『宇治拾遺物語』に見える話は神泉苑にとってありがたい話ではない。

 

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 [一四五]穀断の聖、不実露見の事

 昔、久しく行ふ上人ありけり。五穀を断ちて、年ごろになりぬ。

帝きこしめして、神泉に崇め据ゑて、ことに貴み給ふ。木の葉をの

み食ひける。もの笑ひする若公達集まりて、この聖の心みんとて、

行きむかひて見るに、いと貴げに見ゆれば、「穀断ち、幾年ばかり

になり給ふ」と問はれければ、「若きより断ち侍れば、五十余年に

まかりなりぬ」と言ふを聞きて、一人の殿上人の言はく、「穀断ち

の糞はいかやうにかあるらん。例の人には変りたるらん。いで行き

て見ん」と言へば、二三人連れて行きて見れば、穀糞を多くひりお

きたり。怪しと思ひて、上人の出でたる隙に、「ゐたる下を見ん」

と言ひて、畳の下を引きあけて見れば、土をすこし掘りて、布袋に

米を入れて置きたり。公達見て、手をたたきて、「穀糞の聖、穀糞

の聖」と呼ばはりて、ののしり笑ひければ、逃げ去りにけり。その

のちは、行方も知らず、長く失せにけりとなん。

 ※『宇治拾遺物語』 (新潮日本古典集成)より全文引用

   ただしルビ・傍注は省略

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一読して概要を掴めるので、口語訳の必要はないだろう。

同書の頭注に、『今昔物語集』巻28第24話が「これと同話に当る」とあり、その原典が「『文徳実録』斉衡元年(八五四)」の記述だとしている。つまり、史実を説話(教訓)として語り伝えてきた、ということである。

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○乙巳 備前國貢一伊蒲塞  斷穀不食 有勅安置神泉苑 男女雲會 

觀者架肩 市里爲之空 數日之間 遍於天下 呼爲聖人 各々私願 

伊蒲塞仍有許諾 婦人之類 莫不眩惑奔■ 得月餘日 或云 

伊蒲塞夜人定後 以水飮送數■米 天曉如廁 有人窺之 米糞如積 

由是■價応時■折 兒婦人猶謂之米糞聖人

 *『日本文徳天皇実録』(国立公文書館デジタルアーカイブ巻五・巻六 p.34)

 :日本文徳天皇実録(archives.go.jp)

   ただし読み取れない文字は■で表示

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備前国から献上された穀断ちの在家僧が、帝によって神泉苑に据え置かれて都の人々の崇敬を集めていたが、実は穀断ちは嘘だった、その後は女子どもから「米糞聖人」と呼ばれた、という内容である。冒頭で述べたように、いい話ではない。が、ここからは神泉苑の由緒――帝が崇める僧を据える場所だったこと――が読み取れる。

 

ついでに、全文引用した『宇治拾遺物語』(新潮日本古典集成)の頭注について

参考書籍は初版なので、もしかしたらすでに訂正済みかもしれないが、頭注17に神泉苑の場所を「神泉苑町」としているのは誤りで、「門前町」が正しい。

 

2024年3月6日追記:新潮日本古典集成新装版(令和元年6月発行)を書店で確認したところ、訂正されていなかった。基本的な校正ミス。

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