第64番 黒石寺
薬師如来像に浮かぶ苦渋の色
中尊寺の参拝を終え、車で30分から40分くらいだろうか田た畑の道を通り、かなり山間部に入ったところにある黒石寺の参拝である。
黒石寺 天平元年(729)東北初の寺院として行基が開いたとされる。東光山薬師寺と称していたが、延暦年間(782~806)に、蝦夷征伐による兵火により焼失。その後大同2年(807)に坂上田村麻呂により再興され、嘉承2年(849)円仁(慈覚太師)が中興して現在の寺号となったとされる。もとは修験(山伏)の寺であり、最盛時には48の伽藍があったと伝えられ、一帯には多くの寺跡がある。現在の本堂と庫裏は明治17年(1884)に再建された。
参拝日 平成30年(2018)6月21日(木) 天候曇り
所在地 岩手県奥州市水沢黒石町字山内17 山 号 妙見山 宗 旨 天台宗 本 尊 薬師如来 創建年 天平1年(729) 開 山 行基 正式名 妙見山黒石寺 札所等 奥州三十三観音霊場第25番 文化財 木造薬師如来坐像、木造僧形坐像、木造四天王立像(いずれも国重要文化財)
黒石寺の参拝口。
参道の石段を上れば本堂。
階段を上り切って平たんな境内。
本堂(薬師堂)を脇から見る。
現在の本堂(薬師堂)と庫裏は、明治17年(1884)に再建された。
木造平屋建て、寄棟、銅板葺き、平入、桁行8間、張間5間、正面1間向拝付き、内部には本尊である薬師如来像が安置されている。
向拝の屋根庇の飾りを見る。斗供は質素であるが、向拝紅梁には龍の彫刻が施されている。
扁額は「薬師如来」と書かれている。
向拝を横から。かなり点込んだ彫刻を施した手狭。海老紅梁にも彫刻が施されている。
向拝を内側から。紅梁の上に龍がいるように見える。
これが内側からの龍の彫刻。かなりリアル。
広縁を見る。
木造僧形坐像【国重要文化財】 カツラ(あるいはシウリザクラ)材の一木造り、膝裏の部分に永承二年(1047)の墨書銘がある。古くは、寺域の大師山のお堂に安置してあったものである。像高67cm。
薬師如来坐像【国重要文化財】 カツラ材の一木造り、内刳りを施した像内には、貞観四年(862)の墨書銘が記されている。男性的で厳しい顔立ち、いかつく張った両肩、厚く幅の広い両膝、無造作に刻む衣文など、いかにも北方の奥地の作らしい雄大な像である。 像高126cm。
本堂の裏側。
釈迦観音堂。建物が新しく感じられ近年になって建立されたもののようだ。
妙見堂 本堂の脇から石段を上る。入り口に奉納された鋳鉄製の剣。
御供所兼鐘楼
明治16年(1883)に建てられた。1階が本尊に供える供物を準備する御供所、2階には200文字の漢文で黒石寺の由緒が刻まれている梵鐘が納められている。
土塀の中は庫裡。
庫裡・寺務所への入り口門。お寺というより武家屋敷の門を思わせる。
庫裡の中庭。
住職の居住スペースでいわゆる一民家。
庫裡であり寺務所でもある建物。
庫裡の入り口の軒下。
住職の居住屋と思う。
雰囲気のある石垣と土塀。
境内の庭。
石段を下り帰路となる。
付近の様子で、この道路の奥3キロ先に正法寺がある。
黒石寺で、毎年旧暦正月の7日に行われる蘇民祭は、裸の男と炎の祭とし、災厄を払い、五穀豊穣を願う裸参りに始まり、柴燈木登、別当登、鬼子登と夜を徹して行われる。翌早暁にかけて繰り広げられる蘇民袋の争奪戦は、この祭のクライマックス。厳寒をものともせず裸の男達のエネルギーが激しくぶつかり合う祭りである。(写真はネットから借用)
案内図 東北本線陸中折居駅から約6.5km 東北新幹線水沢江刺駅から約8.2km
五木寛之著「百寺巡礼」からーーー黒石寺の仏像を拝して感じたのは、同じ岩手の寺でも、中尊寺の仏像とはまったくちがう系統だということだった。中尊寺の金色堂に安置されている阿弥陀如来像は、藤原氏が京都の一流の仏師につくらせて、みちのくに運んだものだ。そのため、中尊寺の仏像は、京風文化の特徴を忠実に伝えているといわれる。その表情は慈悲にみちていて、いかにも優美なものだった。だが中尊寺より時代をさかのぼる黒石寺の仏像は、ひょっとすると、地元の人びとの手でつくられたのではないか、とさえ感じさせる。先住民である蝦夷と接しながら、みちのくのきびしい風土の中で生きる人びとの意識が、この特異な作風のなかに表れている。そんな気がしないでもない。京都や奈良の大寺に比べると、いまの黒石寺は非常に慎ましく小さな寺だ。だが、この寺がここに存在する背景には、西と東の大きな歴史のドラマが横たわっているのではないか。黒石寺の仏像は、無言のうちにそれを物語っているような気がしてならなかった。
御朱印
黒石寺 終了