『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

32 興福寺

2023-09-11 | 奈良県

古寺を巡る 興福寺

 

国宝など文化財が数多くみられる美術館のような寺

 

 

興福寺は奈良の市街地の中心地にあり、参拝には便利な寺である。奈良は平成28年(2016)に訪れて、今回は二度目で、興福寺も二度目のお参りである。最初のときは中金堂の再建工事が行われていたが、今回参拝した際には工事が完了し華麗な姿を見せている。まだ建設用の重機や機材があり仮設の柵が周りを覆っているが、新しい中金堂は十分に拝むことができた。完全に出来上がり10月10日に落慶法要が営まれるという。その準備も境内では行われていた。

 

興福寺の歴史

藤原鎌足夫人の鏡王女が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669)に現在の京都の山科区で創建した山階寺が興福寺の起源となる。その後、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。和銅3年(710)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この和銅3年(710)が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。

奈良時代には四大寺、平安時代には七大寺の一つに数えられ、特に摂関家・藤原北家との関係が深かったために手厚く保護された。平安時代には春日大社(藤原氏の氏神)の実権を持ち、大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上の同国の国主となった。その勢力の強大さは、比叡山延暦寺とともに「南都北嶺」と称された。寺の周辺には無数の付属寺院の子院が建てられ、最盛期には百か院以上を数えた。

しかし、興福寺は創建以来、度々火災に見舞われその都度再建を繰り返してきた。特に中金堂は失火や兵火、落雷により七度も焼失している。現存の興福寺の建物は全てこの火災以後のものである。なお仏像をはじめとする寺宝類も多数が焼失したため、現存するものはこの火災以後の鎌倉復興期に制作されたものが多い。興福寺を拠点とした運慶や運慶派の仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られている。

様々な変遷を経て、近代の明治になり明治13年(1880)興福寺の広い境内は、築地塀が取り払われて樹木が植えられ奈良公園となった。一乗院跡は現在は奈良裁判所、大乗院跡は奈良ホテルとなっている。一時は廃寺同然となり、五重塔と三重塔も売りに出されていた。五重塔は250円(値段には諸説ある)で買い手が付いたといわれ、当初買主は塔自体は燃やして金目の金具類だけを取り出そうと考えていたというが、延焼を心配する近隣住民の反対で考えを変えたという。太平洋戦争を経て昭和に入り昭和34年(1959)に食堂後に宝物収蔵庫(国宝館)が建設された。平成10年(1998)に世界遺産に登録され翌年から国の史跡整備保存事業として、発掘調査が進められている。平城京での創建1300年を機に中金堂]と南大門の再建が計画され、中金堂は平成30年(2018)10月に落慶法要を迎えた。

 

参拝日    平成30年(2018)10月2日(木) 天候晴れ   


所 在    奈良県奈良市登大路48                            山 号    なし
寺 名    興福寺
宗 派    法相宗
寺 格    大本山
本 尊    釈迦如来
創建年       天智天皇8年(669)
開 基    藤原不比等                                  札所等    南都七大寺第2番 西国薬師四十九霊場第4番(南円堂)              文化財       東金堂 五重塔  ほか仏像多数(いずれも国宝)ほか重文多数
      

 

奈良公園の中。

 

 

猿沢の池から興福寺方向を見る。

 

 

 

 

 

奈良県庁の屋上から見た興福寺。真ん中に五重塔その右側に再建中で仮設に覆われた中金堂。

 

 

境内案内図。

 

 

落慶まじかの中金堂。まだ工事用の機材が見える。

中金堂。伽藍の中心的な堂宇である中金堂が落慶を迎え、一般公開された。長い寺史の中で7度の火災に遭い、享保2年(1717)の大火で焼失した後は仮堂が建設されただけで、今回は300年ぶりの復興となる。堂内には仮金堂(現仮講堂)に安置されていた釈迦如来像を本尊として還座。薬王・薬上菩薩像(いずれも重文)が脇侍として安置され、須弥壇の四方は、旧南円堂所在の四天王像がかためる。内陣には法相の14人の祖師を描いた「法相柱」が現代の日本画家の畠中光享氏によって再現された。

 

 

近くに落慶法要を控え、その案内立札が建てられた。

 

 

現代の再建でも鉄筋コーンクリート造が主流だが、創建時に忠実に木造で再建されたことが何よりである。丸柱はアフリカのカメルーンから取り寄せた欅材を使用。

 

 

棟の両脇の鴟尾(しび)にはまだ仮設材が取り付けられた状態。

 

 

 

 

 

 

中金堂の周りには回廊の跡として基壇が残されている。

 

 

奈良公園の中に位置する興福寺は、鹿も生きる場でもある。

 

五重塔【国宝】   応永33年(1426)再建し、本塔が6代目。本瓦葺の三間五重塔婆である。創建は天平2年(730)で、光明皇后発願によるものである。高さは50.1mで、現存する日本の木造塔としては、東寺の五重塔に次いで高いものである。

 

 

 

明治初期の廃仏毀釈政策により塔の撤去の命令が出て、頂上に網をかけて引き倒そうとしたが、叶わず、焼却のため周りに柴が積まれたが、類焼を恐れた近隣住民の反対により中止された

 

 

 

柱上の組物は和様の尾垂木三手先。中備えは間斗束。組物で持ち出された桁の下には、軒支輪が見える。軒裏は二軒繁垂木。

 

 

初重の西面。柱間は3間で、3間四方の平面。中央の柱間は板戸、左右は連子窓。縁側はない。

 

 

東金堂から五重塔を見る。

 

 

東金堂【国宝】  応永22年(1415)に再建され5代目になる室町時代の建物。神亀3年(726)に聖武天皇が伯母にあたる元正上皇の病気平癒を祈願し、薬師三尊像を安置する堂として創建された。

 

 

様式は唐招提寺金堂を参考にした天平様式。桁行七間、梁間四間。屋根は一重、寄棟造、本瓦葺き

安置されてる主な仏像。

木造四天王立像のうち持国天【国宝】  ほかに増長天、広目天、多門天(いずれも国宝)の木造四天王立像を 堂内四隅に安置。堂内の他の像より古く、平安時代前期の重厚な作風の像。

木造維摩居士座像【国宝】 - 本尊薬師如来像の向かって左に安置。鎌倉時代、建久7年(1196)定慶の作。維摩は大乗仏教の重要経典の一つである『維摩詰所説経(維摩)』に登場する伝説上の人物で、在家仏教徒の理想像とされる。興福寺において、特に重要な存在と見なされている。実在の老人のようにリアルに表現されている。

 

 

東金堂正面。

 

 

 

南円堂【国重要文化財】  寛政元年(1789)に再建された4代目の建物。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂で、正面に拝所が付属する。藤原北家の藤原冬嗣が父・内麻呂の追善のために弘仁4年(813)に創建した八角堂である。

 

 

堂内には本尊である不空羂索観音坐像の他、四天王立像と法相六祖像を安置する。堂の前に生える「南円堂藤」は南都八景の一つで、毎年、美しい花を咲かせている。

 

 

 

北円堂【国宝】  承元4年(1210)に再建され、興福寺に現存する中で最も古い建物である。屋根を一重、本瓦葺とする八角円堂。養老5年(721)、藤原不比等の一周忌に際し、元明上皇・元正天皇の両女帝が長屋王に命じて創建させた。平面が八角形の「八角円堂」である。

 

 

 

 

 

南大門跡の基壇を見る。

 

三重塔【国宝】  鎌倉時代前期の再建(正確な建立年次は不明)。高さ19m、本瓦葺の三間三重塔婆である。康治2年(1143)に崇徳天皇の中宮・皇嘉門院によって創建された。現在の塔は建築様式から鎌倉時代に再建されたと考えられる。

 

国宝館  文化財の収蔵と展示を目的とする耐火式収蔵施設で、昭和34年(1959)に食堂及び細殿の跡地に建てられた。鉄筋コンクリート造であるが、外観は創建時の食堂と細殿、すなわち奈良時代の寺院建築を模したものとなっている。国宝館の内部には、食堂の本尊であった巨大な千手観音立像(高さ5.2m)が中央に安置され、仏像を始めとする多くの寺宝が展示されている。

 

 

入り口のホールに掲げられた写真パネル。

 

国宝館の主な仏像。

乾漆八部宗立像【国宝】  奈良時代の作。もと西金堂の本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた群像の1つ。五部浄、沙羯羅(しゃがら)、鳩槃茶(くはんだ)、乾闥婆像(くはんだ)阿修羅、迦楼羅、緊那羅、畢婆迦羅(ひばから)の8体が揃って現存するが、五部浄像は大破して胸から下の体部が失われている。中でも三面六臂(顔が3つで手が6本)の阿修羅像が著名。

八体の中から最も有名な阿修羅像。

 

銅造仏頭(国宝) - 白鳳文化を代表する作品である。木造仏頭(重要文化財) - 廃絶した西金堂の旧本尊・釈迦如来像の頭部。 鎌倉時代の作。

木像金剛力士立像【国宝】  木像 もと西金堂安置。 鎌倉時代の作。 定慶作とする説もある。

 

木像千手観音立像(国宝)  もとは食堂の本尊。 現在は、国宝館の中央に安置される。 高さ5.2mの巨像で、像内納入品の銘記から鎌倉時代、寛喜元年(1229)頃の完成と推定される。 

板彫十二神将(国宝)   平安時代11世紀半ばの作。 日本では珍しい檜板に浮き彫りで制作された仏像で、現在は剥落しているが、もとは彩色されていた。 12面完存している。 

金銅燈籠(国宝)   南円堂前に立っていた銅製の灯籠。

 

木造天燈鬼・龍燈鬼立像【国宝】 もと西金堂安置されていた。 大きな灯籠を天燈鬼は肩にかつぎ、龍燈鬼は頭上で支える。 架空の存在を写実的かつユーモラスに表現した鎌倉期彫刻の傑作である。 龍燈鬼像は運慶の子息である康弁の建保3年(1215)の作である。

 

 

奈良公園の通りであるが、まだ興福寺の境内かもしれない。

 

 

平成28年(2016)6月に参拝したときは、中金堂が工事中であった。

 

 

案内図

 

 

御朱印

 

 

興福寺 終了