『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

35 室生寺

2023-09-24 | 奈良県

第1番 室生寺

 

女たちの思いを包み込む寺

 

五木寛之著「百寺巡礼」の第一番目の寺が室生寺である。その本の書き出しに「室生寺は山中の寺である。奈良県宇陀郡室生村(編集部注/現在は宇陀市室生区)。緑濃い杉木立につつまれて、山肌にはりつくように伽藍が散在する。桜も石楠花もまだ咲かず、したたる緑もなく、燃えるような紅葉もないさびしい時期。三月の室生寺はひっそりと静まりかえっていた」。

春には桜、晩春には石楠花、初夏には青もみじ、秋には紅葉が平安初期の美しい伽藍を彩り、古と変わらぬ室生寺ならではの景観が広がる。

この寺は宝亀年間(770~781)に、興福寺の僧・賢環(714~793)によって開かれた。天武天皇の勅願により、修験道の祖である役の行者・小角がこの地に初めて寺を建立したと伝えられています。奈良時代末に至り、後に桓武天皇となられた山部親王の延寿祈祷をきっかけに、興福寺の高僧・賢璟が勅命を受け、平安遷都まもなく弟子の修圓が堂塔伽藍を建立。後に空海の弟子で修圓とも親交の深い真泰が真言密教を携えて入山し、灌頂堂や御影堂等が建立された。なお、宝亀年間に賢璟はすでに60歳代で、彼の在世中にどこまで寺観が整っていたかはわからず、室生寺の実質的な創建者は次代の修園(771~835)であろうといわれている。修園は興福寺別当を務めると共に、天台宗の宗祖である最澄と交流があった。室生寺は中世を通じ興福寺末寺であったが、江戸時代の元禄7年(1694)に護持院隆光の拝領するところとなり、護国寺末の真言寺院となった。翌年、徳川五代将軍綱吉の生母桂昌院は室生寺に2千両を寄進し、これをもとに堂塔の修理が行われた。元禄11年(1698)、室生寺は真言宗豊山派の一本寺となって護国寺から独立し、現代に至る。には昭和39年(1964)には真言宗豊山派から独立し、真言宗室生寺派の大本山となった。

 

参拝日    平成30年(2018)10月3日(金) 天候晴れ

 

所在地    奈良県宇陀市室生78                            山 号    宀一山(べんいちさん)または檉生山(むろうさん)              宗 旨    新義真言宗                                 宗 派    真言宗室生寺派                               寺 格    大本山                                   本 尊    如意輪観音(国宝)                             創建年    宝亀年間(770~781)                            開 基    賢璟                                    別 称    女人高野                                  札所等    仏塔古寺十八尊第18番 ほか                         文化財    金堂、五重塔、木造釈迦如来立像(国宝)弥勒堂、御影堂、木造文殊菩薩立像ほか  (国重要文化財)

   

 

奈良からJR桜井線に乘り約30分で桜井駅に着き、近鉄大阪線に乗換て、室生口大野駅で降りる。

 

 

室生口大野駅前。 駅前から路線バスで執着まで。

 

 

停留所から集落の中を歩く。

 

 

 

 

停留所から5~6分で室生寺の入り口に到着。「女人高野室生寺」と彫られた石碑がある。女人高野とは、女人禁制であった高野山に対し、女性の参拝も許されていた室生寺の別名。

 

門前に連なる茶店や旅館を過ぎると、室生川の清流に朱塗りの反り橋が架かっている。「太鼓橋」と呼ばれるこの橋を渡ると室生寺の境内になる。

 

 

入口の太鼓橋。室生寺の南側を流れる室生川に架かる朱色の橋。昭和34年(1959年)の伊勢湾台風によって流され、その後にお再建された新しい橋。

 

 

 

 

太鼓橋を渡った正面には室生寺の表門。 宝物殿の新設に工事に伴い通路を仮設材で覆われていた。

 

 

女人高野室生寺の石碑の上部には、九目結紋の家紋が彫られている。これは、五代将軍・徳川綱吉の生母であった桂昌院の寄進により、室生寺の堂塔が修繕されたことによるもの。

 

 

案内図。

 

 

表門を潜ったところに拝観受付がある。

 

 

表門から仁王門に続く。

 

 

左側に護摩堂。

 

 

案内地図

 

 

仁王門 江戸時代中期の元禄年間(1688~1704)に焼失し、その後しばらく放置されていた。昭和40年(1965)に再建された。 重層の檜皮葺きの楼門。一本柱四本の前後に控え柱四本が建てられた三間一戸の八脚門(八足門)。

 

 

 

 

金剛力士像(仁王像)右手は阿形像で、左手に仏敵を退散させる武器の金剛杵を持つ。左手は吽形像で右手の指を開き、怒気を帯びて口を結んでいる。

 

 

潜った門を振り返り門前の参道を見る。門の脇に宝物殿の新築工事中。 

 

 

バン字池  仁王門から直ぐの左側に、梵字の「バン」の形をした池がある。その少し上方にある室町時代の春日造りの小さな祠に収められた河川の神・弁才天が祀られていた。

 

 

境内。

 

池の先は、自然石積みの幅広い石段の参道「鎧坂」へと続く。石段の両脇には低木の石楠花が植えられ、それらを見守るように高木の枝々が茂っている。登り始めると石段の頂きに金堂の屋根が見え、室生寺の序章ともいえる美しい景観となっている。

 

 

鎧坂を上がり切って下を見てみた。

 

 

金堂【国宝】 桁行5間、梁間5間で、桁行5間、梁間4間の正堂(内陣)の手前に、梁間1間の礼堂を孫庇として付した形になる。孫庇部分は片流れ屋根となり、両端を縋破風として収めている。

 

堂は段差のある地盤に建っており、建物前方の礼堂部分は斜面に張り出して、床下の長い束で支えている。このような建て方を懸造りが特徴。

 

 

正堂部分は平安時代前期(9世紀後半)の建立であるが、鎌倉時代末期に大修理を受け、多くの部材が取り替えられている。

 

 

外陣の様子 天井に駕籠が吊るされている・・・・。

 

 

金堂の扁額。

 

堂内に安置されていた仏像のうち、一部は2020年開設の寶物殿に移されている。かつては須弥壇上に向かって左から十一面観音立像(国宝)、文殊菩薩立像(重要文化財)、釈迦如来立像(国宝)、薬師如来立像(重要文化財)、地蔵菩薩立像(重要文化財)を横一列に安置し、これらの像の手前には十二神将立像(重要文化財)が立っていた。このうち、十一面観音立像及び地蔵菩薩立像ならびに十二神将立像のうち6体は寶物殿に移されている

 

釈迦如来立像【国宝】 平安前期を代表する、堂々として均整のとれた榧(かや)の一木像。本来は薬師如来として造像されたもの。特に朱色の衣の流れるような衣紋は漣波式と呼ばれる独特のもので、この様式を室生寺様とも称している。光背には同じ印相の七仏坐像や宝相華・唐草文が華やかに描かれている。

 

左手に特徴。

 

 

今度の柱間の苔むした様は年代を感じる。

 

 

一段上(本堂のある処)から見た金堂。

 

 

弥勒堂【国重要文化財】  金堂の左手にある。鎌倉時代の建築で、屋根は檜、椹の杮葺。周囲には縁が巡る。内陣には弥勒菩薩立像や釈迦如来坐像(国宝)などが祀られている。

 

弥勒菩薩立像【国重要文化財】 室生寺の仏像の中で最も古い。奈良時代から平安時代にかけての仏像で、榧(かや)の一本造。本体、蓮華座の上半分と両手・天衣・飾りまで、すべて一つの木材から彫り出されている。正面から見ると、腰のあたりを少しだけ曲げた姿勢をしているのも特長。 

  

 

本堂(灌頂堂)【国宝】   - 室生寺の密教か進んでいた鎌倉時代後期、元延慶元年(1308)の建立。入母屋造、檜皮葺き。桁行5間、梁間5間。梁間5間のうち、手前2間を外陣、奥の3間を内陣とする。この堂は灌頂堂(かんじょうどう)とも称され、灌頂という密教儀式を行うための堂である。

 

 

 

 

 

正面から見る。正面に蔀戸を配し和様となっているが、桟唐戸を使用するなど大仏様の折衷様式。

 

 

扁額「悉地院」 かつて室生寺にあった悉地院から移されたもの。如意輪観音菩薩像も、その悉地院に祀られていたという。

 

如意輪観音菩薩像【国重要文化財】本堂正面の厨子に安置される観音像は、穏やかな作風の榧(かや)の一木造り。観心寺・神咒寺(かんのうじ)の如意輪観音とともに日本三如意輪の一つ。

 

 

本堂の内部外陣の様子。ちなみに「灌頂」とは、頭に水をかけて、悟りの位に進んだことを証する儀式のこと。

 

 

 

本堂の脇から五重塔側に進む。

 

 

本堂の脇に出ると見えてきた・・・あの五重塔。

 

 

境内の急な石段の一歩ずつのぼっていくと、突然、空中に浮かぶように五重塔が現れる。その瞬間、思いがけないほどの小ささゆえの優美なすがたに目をうばわれた。(五木寛之著「百寺巡礼」より)

 

 

 

 

五重塔 【国宝】 延暦19年(800)頃の建立。木部を朱塗りとした塔。屋外にある木造五重塔としては、法隆寺の塔に次いで2番目に古い。国宝・重要文化財指定の木造五重塔で屋外にあるものとしては日本最小である。高さは16メートル強、初重は1辺の長さ2.5メートルの小型の塔で、高さは興福寺五重塔の3分の1ほどである。

 

 

小規模な塔の割に太い柱を使用していることなどが特色である。

 

通常の五重塔は、初重から1番上の5重目へ向けて屋根の出が逓減(次第に小さくなる)されるが、この塔は屋根の逓減率が低く、1重目と5重目の屋根の大きさがあまり変わらない。その他、全体に屋根の出が深く、厚みがあること、屋根勾配が緩いこと、屋根の大きさが1重目と5重目とで変わらないのに対し、塔身は上へ行くにしたがって細くなり、5重目の一辺は1重目の6割になっている。

 

最上部の九輪の上に「水煙」という飾りが付くが、この塔では水煙の代わりに宝瓶(ほうびょう)と称する壺状のものがあり、その上に八角形の宝蓋(ほうがい)という傘状のものが乗っている珍しい形式である。

 

 

 

 

 

 

 

 

平成10年(1998)9月22日、台風7号により高さ約50mの杉の木が倒れ屋根を直撃。西北側の各重部の屋根・軒が折れて垂れ下がる大被害を受けた。しかし、心柱を含め、塔の根幹部は損傷せずに済み、復旧工事を平成11年(1999)から平成12年(2000)にかけ行った

 

 

修圓廟。

 

 

奥の院への入り口。

 

 

このような注意書きも・・・・・。

 

 

朱塗りの無明橋。ここから室生寺のさらに奥深いスポットに進む。

 

「無明橋」を通り過ぎると、いよいよ室生寺の長い石段に挑戦し、奥の院を目指す。石段はかなり勾配がきつく、先の見えない石の段がどこまでも続く。大自然に癒されながら、杉の大木の間を息を切らしながら上る。 注・仁王門から奥の院までの石段が700段となる。

 

 

階段の石に何かしら字が彫ってあるが、なんだろう。

 

 

勾配がきついので、後ろを振り返ると怖いくらい。

 

 

まだまだ続く。

 

 

やっと頂上が見えてきた。そこには懸崖造りの堂宇。

 

 

 

 

 

懸造りの堂宇・常燈堂。一般には舞台造りとして知られる懸造り。崖地をそのまま利用して堂宇を建てる。どうしても下から支える柱を補強するため、井桁に組む木組みが特徴。

 

 

 

階段を上り切った奥の院の納経所。

 

御影堂【国重要文化財】 弘法大師(空海)の42歳のお姿を写した像を安置する鎌倉時代に建立された堂宇。大師堂とも呼ばれている。方三間の単層宝形造り、屋根は厚板段葺きで頂上部に石造りの露盤が置かれる珍しい屋根。

 

 

常燈堂  昭和初期に建てられた。急な斜面に建築物を建てる懸造(かけづくり)で、ほとんどせり出して堂の建物が造られている。

 

 

堂の入り口に奉納された閻魔大王が大きく書かれた地獄絵の額。

 

 

扁額は金剛殿。

 

 

堂の周りは回廊が張り出し、懸造りに相応しく京都・清水寺と同じように幅の狭い舞台となっている。ここから見る景色が素晴らしい。特に秋の紅葉は素晴らしいと言う。

 

心地よい疲労感を抱きながらこの舞台に立ち、深い山の中に点在し大自然と共存する古寺の素晴らしさを改めて感じることができた。

 

常燈堂の舞台から、息を切らして昇ってきた石段を見下ろす。なんだか「奥の院」を征服したような気分になれる。

 

 

常燈堂の回廊(舞台)から見た景色。

 

 

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー寺というものは、寺だけで成り立っているのではない。その地区の村や町の人びとの思いや信仰心によってつづいてきているものだ。この室生寺も、室生のさとの人々の思いによって、千年、千二百年というふうにずっと守られ、育てられてきたのだろう。国宝級の伽藍や仏像を保ってきた寺にも、たいへんな苦労があっただろう。しかし、私はむしろ、その寺を支えている人びとの思いこそが国宝級ではないか、という気がする。そして、小さきゆえに強く、強くないがために強いという「女人高野」と呼ばれる室生寺の不思議さ。山中にこの小さな寺がつくられ、千三百年ものあいだしなやかに生きつづけきたこと。それは、女性が永遠の謎であるのと同じように、永遠の謎かもしれない。室生寺の急な石段をのぼりおりしながら、そのことを肌で感じた一日だった。

 

 

御朱印

 

 

参考文献   室生寺HP  フリー百科事典Wikipedia  奈良県観光局ならの観光力向上課HP

       五木寛之著「百寺巡礼」第一巻奈良(講談社)

 

室生寺 終了

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント