『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

30 瑞巌寺

2023-09-05 | 宮城県

第65番 瑞巌寺

神聖な石窟と伊達家の栄華

 

 

瑞巌寺

 

仙台・平泉への2泊3日の「いってみっか」の三日目は、松島と塩釜への寺社巡りである。塩釜にあるらくがんの銘菓「塩竃」を買いに行くのも楽しみの一つ。

瑞巌寺は、地盤沈下でゆがんだ建物を修繕するため、平成20年(2008)から「平成の大修理」に入り、今年平成30年(2018)の3月に10年間にわたる工事を終えた。修理中に東日本大震災が発生し被害に遭ったが、併せて修理と補強を行った。庫裏から本堂につながる回廊はこれまで非公開だったが、常時拝観できるようになり、日本庭園も眺めることができることになった。訪れた日は、6月22日で落慶法要の前夜祭で武者行列と花火大会が催されることで、人々が徐々に集まってきていた。なお落慶法要は6月24日でした。参拝者として記念の絵葉書をもらった。

 

松島を含む仙台藩を領しただ伊達政宗は、禅僧虎哉宗乙の勧めもありもともとあった円福寺の復興を思い立ち、慶長9年(1604)~14年(1609)までの全面改築で完成させた。今に伝わる桃山文化の本堂などの伽藍は、伊達政宗の造営によるもの。造営の際に寺の名を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」と改めた。住持が一時不在だったが、寛永13年(1636)に雲居希贋が入った。瑞巌寺は仙台藩の歴代藩主である伊達氏が大神主となって保護し隆盛を極めた。この間、それまで瑞巌寺とは別個に存在した五大堂も瑞巌寺の管理下に入った。

政宗の隠し砦という説があり、政宗が徳川家康を滅ぼして天下を奪い取ったあかつきには 瑞巌寺に天皇を招き入れる予定であり、その証拠である天皇が座すための間である上上の段の間が存在する。政宗が造った居城の仙台城にも天皇を招き入れるための上上段の間があったとされる。しかし明治元年(1868)の明治維新の際の戊辰戦争で、仙台藩は盟主として奥羽越列藩同盟を結成し、薩長同盟が中心の明治新政府に敗れる。同年、明治新政府は廃仏毀釈運動によって、瑞巌寺の所領を没収する。収入を失った瑞巌寺は付属の建物の多く荒廃して失われた。その後、明治9年(1876)の明治天皇の東北巡幸の際に下賜金があり、その後徐々に財政難を脱し、現在の興隆に繋がった。

 

参拝日   平成30年(2018) 6月23日(金) 天候晴れ

 

所在地   宮城県宮城郡松島町松島字町内91                        山 号   松島青龍山                                   院 号   関東祈祷所                                   宗 旨   臨済宗                                     宗 派   臨済宗妙心寺派                                 本 尊   聖観音菩薩                                   創建年   天長5年(828)                                 開 山   円仁                                      開 基   淳和天皇(伝)                                 中興年   臨済改宗 正元元年(1259) 瑞巌寺竣工 慶長14年(1609)            中 興   臨済改宗 北条時頼 法身性西(開山)                       中 興   瑞巌寺竣工 伊達政宗 雲居希贋(開山)                              正式名   松島青龍山瑞巌円福禅寺                               別 称   松島寺 瑞巌円福寺 円福寺 延福寺                       札所等   奥州三十三観音霊場6番                              文化財   本堂、庫裡、廊下(国宝) 中門、御成門(国重要文化財)

 

 

JR仙石線松島海岸駅。 平成30年当時の写真。 駅舎の改造計画が進んでいるとのこと。

 

 

松島海岸駅駅前。

 

 

松島海岸駅から徒歩5分くらいの松島海岸の街並み。

 

 

松島海岸の通りに面して瑞巌寺の入り口。

 

 

総門 参道の入り口に位置し、本瓦葺きの薬医門で両袖に太鼓塀。

 

正面に掲げる扁額は、瑞巌寺105世の天嶺性空禅師の筆により「桑海禅林」と書かれ、扶桑(日本)の海の禅寺という意味だという。

 

 

総門を入ると長い真っ直ぐな参道。

 

 

参道を振り返り総門方向を見る。

 

 

拝観の入り口。

 

 

境内に入る。鬱蒼とした大木の松林の間を縫って進む。

 

 

正面に中門。

 

 

 

中門。

 

中門【国重要文化財】 本堂の正面に位置し、切妻造の杮屋根葺きで四脚門となっている。瑞巌寺における柿葺きは唯一此処だけ。御成門と中門は太鼓塀と呼ばれる塀で結ばれている。

 

 

扁額は「端嵓円福禅寺」と書かれ、瑞巌寺100世洞水東初禅師による。

 

 

境内の菩薩像。

 

 

庫裡から本堂および宝物館の青龍電への入り口門。

 

 

宝物館の青龍殿。

 

 

庫裡【国宝】庫裡は実用本位の建物で装飾を施す例は少ないが、本寺は表面の上部が複雑に組みあげられた梁と束が露出で見せている。

 

 

大屋根の上に切妻の煙出しを設けた。

 

 

妻飾りは、飾り金物などを使用していないが、豪壮な唐草彫刻で仕上げ、白の漆喰に調和し美しい。

 

 

庫裡の入り口。こちらから入り廊下を渡り本堂へ進む。

 

 

平成30年(2108)の瑞巌寺大改修の落慶法要に合わせて整備された枯山水の庭園。

 

 

廊下からは庭を通して非公開の埋木書院。北上川の中に埋まっていた欅の材で造られた建物で、仙台市の八木久兵衛氏の別邸を昭和18年(1943)に移築したもの。現在は貴賓室として使用。

 

 

廊下から本堂の前の廊下に進む。

 

 

廊下から本堂を見る。本堂は庫裡、御成門とそれぞれつながっている。

 

 

本堂【国宝】 慶長14年(1609) 伊達政宗の創建。本堂は書院造で、入母屋造本瓦葺の巨大な屋根を架し、南・北・東の三方に上縁、下縁をめぐらし、10室に画して中央奥に仏間を設けている。

 

 

中門から中庭に入ると正面に本堂(方丈)、右に庫裏と廊下、左に御成玄関が見られる。外観は見たとおり簡素な和風手法によっている。

 

 

東広縁 書院造りのため向拝はない。仏間の間の前の広縁。  (内部は撮影禁止により室内の写真はYouTubeからのコピーによる)

 

 

松の間  一番右側の部屋。

 

 

孔雀の間 襖絵は仙台藩初のお抱え絵師狩野左京による「松孔雀絵」で冬から順に各季節の松に孔雀の絵が描かれている。

 

 

孔雀間。 奥に仏間を配し、左に上段・上々段の間、右に控の間(羅漢間)・墨絵間を配している。また、仏間前面の室中間の左には文王間、右には鷹間・菊間・松間がある。

 

 

内部の彫刻、彩色、金具、襖絵や貼付絵には絢爛たる桃山建築の世界を表現している。

 

 

孔雀が描かれた襖。

 

 

文王の間  伊達家の控の間で、藩主との対面もこちらでされた。奥の一段高い部屋が、上段の間で藩主御成の間である。

 

 

襖絵は長谷川等伯の高弟、長谷川等胤による「文王尚呂図」。

 

 

伊達政宗公像。

 

 

 

 

 

本堂の南側を見る。

 

 

本堂広縁から中門を見る。

 

 

臥龍梅 伊達政宗公が文禄の役に朝鮮から持ち帰り、慶長14年(1609)に瑞巌寺の上棟祝にお手植えしたと言われる梅の木。(上の写真を参照)向かって右に白梅、左が紅梅。当写真は紅梅。

 

 

中門を本堂の庭側から見る。

 

 

御成玄関は、折れ曲がった石敷で本堂に通じ、武家の折衷門に似た形状をもつが、板敷でない点むしろ方丈建築の玄関の形を承けついだものとみられる。禅宗様の素木造建築である。

 

 

法身窟。 本堂の外側で受付所の左側にある岩窟。鎌倉時代の中頃に宋から帰国した法身性西禅師と諸国行脚中の北条時頼公が出合ったところと伝えられている。

 

 

参道の右側にある洞窟の壁面には、五輪塔や供養塔、戒名などが無数に刻まれており、供養場として使用されたことがうかがえる。

 

 

 

 

 

三聖堂。 天和2年(1682)に瑞巌寺101世の鵬雲東搏禅師によって建立された堂。正面に聖観世音菩薩像、左に達磨大師像、右に菅原道真公の像を安置したことから三聖堂と名をつけられた。

 

 

三聖堂の扁額。

 

 

総門のある松島海岸の浜辺に日本三渓の石碑。

 

五大堂のある島に向かう。日本三景の1つである景勝地・松島の景観上重要な建物であり、松島の海岸に近い小島に建つ。伝承によれば大同2年(807)、坂上田村麻呂が奥州遠征の際に、毘沙門堂を建立したのが始まりとされる。

 

 

五大堂は、陸と二つの島が赤い橋でつながっている。

 

もう一の橋は橋板が透かし構造になっているため透かし橋で、参詣する時はこの橋を渡らなければならない。橋を渡る際には、身も心も乱れの無いように足元をよく見つめて、かつ気を引き締めさせるための配慮と言える。

 

 

 

 

五大堂【国重要文化財】  円仁こと慈覚大師が延福寺(瑞巌寺の前身)を創建した際に仏堂を建立し、大聖不動明王を中央に東方隆三世明王、西方大威徳明王、南方軍茶利明王、北方金剛夜叉明王の五大明王像を安置したことにより、五大堂と呼ばれるようになった。

 

現在の堂は、慶長9年(1604)に伊達政宗公が瑞巌寺の再興に先立って再建した。東北地方最古の桃山建築と言われている。堂宇は宝形造りの本瓦葺きで、軒周りの蟇股には方位に従って十二支が彫刻されている。

 

 

扁額は「五太堂」であるが、名称は五大堂が正しい。

 

 

五大堂から見る日本三景の一つ松島。松島の海がよく見える。

 

 

欄干が朱塗りの陸地と福浦島を結ぶ福浦橋。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー

正宗は伊達家の菩提寺として円福寺を復興し、寺名を瑞巌寺とあらためる。木材は紀州熊野(和歌山県)から運び、各地の名工を呼び寄せ、まさに伊達家の面目をかけて大伽藍を造営した。当時の伊達家六十二万石には、それだけの財力も権力も充分あった。なんといっても”伊達男”の本家である政宗のことだ。その美意識にかなった寺をつくるために、あらゆる努力を払ったというのも納得できる。この寺が完成した慶長14(1609)年。正宗は朝鮮から持ち帰っためずらしい紅白梅と五葉松を手植えし、祝の歌として次のように詠じている。 松島の松の齢に此の寺の末さかえなん年は経るとも。  慶長16(1611)年には、正宗に招かれてスペイン使節のセバスチャン・ビスカインなる人物が瑞巌寺を訪れている。彼は瑞巌寺を目にして「石造建築ではわがマドリッドのエスコリアル宮殿。木造では当山をもって世界に並ぶものなしと言うべし」と本国に報告したという。 

 

 

 

御朱印

 

 

 

瑞巌寺 終了


29 正法寺

2023-09-05 | 岩手県

古寺を巡る 正法寺

 

 

 

参拝日    平成30年(2018)6月21日(木) 天候曇り

 

所在地    岩手県奥州市水沢黒石町字正法寺129                     山 号    大梅拈華山                                  宗 旨    曹洞宗                                    本 尊    如意輪観音                                  創建年    貞和4年(1348)                               開 山    無底良韶                                   文化財    総門、法堂、庫裡(国重要文化財)

 

正法寺は、黒石寺から3kmほどの先にある古寺。こちらの寺の認識はなかったが、知り合いから黒石寺まで行くなら直ぐ近くに有名な古寺がるからと聞き、参拝することになった。

正法寺は南北朝時代の貞和4年(1348年)に 無底良韶が曹洞禅の禅堂を建てたのがはじまり。東北地方で初の曹洞宗寺院となった。無底は、これに先立ち、康永元年(1342)に師である峨山韶硯から。開祖道元が中国から持ち帰った袈裟「僧伽梨(そうかり)」を授けられている。これは、道元から峨山まで、連綿と伝承されてきたものであって、これを授けるということは峨山門派を無底良韶が継承することを示唆していた。正法寺が開創されて2年後の観応元年(1350)に崇光天皇が、「出羽奥州両国における曹洞の第三の本寺」として、住職に紫衣の着用が許された。

その後、康安元年(1361)に13年の歳月を経ても跡を継ぐ門弟がないまま無底良韶が死去。そのため、師の峨山が、弟弟子の月泉良印に正法寺を継がせた。このとき、「正法寺は末代まで奥羽両州曹洞の本寺たるべし」とする書状を月泉良印に与えている。月泉は40年にわたってその住職をつとめ、正法寺発展の基礎をきずいた。東北地方に曹洞宗の拠点ができたことによって、布教は進み、月泉良印は「月泉四十四資」といわれる弟子を輩出することとなる。岩手県南部や宮城県を中心に次々に末寺が開かれることとなり、その数は508とも1200とも言われた。元和元年(1615)幕府法度により、本寺の格を失い、現在は72の末寺を持つのみである。正法寺は火災が多く、文安元年(1444)から寛政11年(1799)までの6回を記録している。寛政11年の最後の火事は、月泉良印の400回忌の当日に庫裏から出火したもので、惣門、土蔵、宝蔵を残すのみでほぼ全焼してしまった。このときは、仙台藩の庇護を受けていて、復興は仙台藩が行うことになっていたが、藩側も財政がひっ迫しており、50年経って、本堂と庫裏は再建された。仙台藩は、スポンサーような存在だったらしく、藩が関わったものには、藩の家紋が随所に入れられている。しかし、仏殿と山門は修理されず今日に至る。

 

 

正法寺の入り口。

 

総門【国重要文化財】切妻作り、とち葺の四脚門で寛文5年(1665)仙臺大工棟梁新田作兵衛による建築。寺院の四脚門としては岩手県最古の遺構。

 

 

 

 

 

掲げられた扁額は「大梅拈華山」。

 

 

蛇紋岩の石段はかなり急だが、古刹の風格を感じさせる。

 

 

石段を登り切り総門を振り返る。

 

 

法堂【国重要文化財】 仙台藩による造営で、江戸時代後期に再建されたもの。当初は「客殿」と称していた。入母屋造、茅葺き。正面30m、側面21mの大規模な建築である。本堂の茅葺屋根は、屋根の高さ約26m、勾配49度、面積は720坪と日本一の茅葺屋根を誇る。

 

 

元々、かなり多くの堂宇が建っていたようだ。その一つの仏殿の跡。

 

 

境内を見る。

 

 

茅葺の屋根の大きさが際立つ。

 

法堂  文化8年(1811年)に創建された。棟には伊達家の家紋、竹に雀、三引両、九曜がついている。仙臺伊達藩から寺領を受け、また建物の修復を受ける等別格の待遇を受けており、伊達家は正法寺にとって大檀越だったことを示している。

 

 

散る妻屋根の妻側には木彫りの飾り物が取り付けられている。

 

 

 

 

法堂正面。

 

 

 

法堂の庇下。大きな屋根は細かい間隔で地垂木と軒先側に飛燕垂木と二重に垂木が施され深い軒を造り出している。

 

 

正面入り口の扁額「円通正法寺」。

 

 

 

 

 

本堂の内陣を見る。

 

 

法堂とは住職が佛祖に代わって説法する道場。室内中央の須弥壇には本尊の如意輪観世音菩薩を祀る。

 

 

 

涅槃図 寛政年間頃(1700頃)の作品で伊達家からの寄進物。縦約4m、横約5mの大作。釋尊80歳の時、クシナガラの地で病に臥し、8本の沙羅双樹の間に北枕で右脇を下にして身を横たえ入滅される姿を描いたもの。周囲には嘆き悲しむ菩薩、弟子、天人、俗人、様々な動物たちが描かれており、右上には釋尊の母、摩耶夫人が飛来している。8本の沙羅双樹の中を選ばれたのは、佛の自在神力を示すためで、4本の沙羅双樹は最後の説法が終わるとたちまち枯れ、他の4本は青々と栄えたと言われる。これを四枯四栄といい、釋尊の肉体は涅槃に入りたもうとも、説かれし佛法は後世に残り栄えることを示す。毎年2月15日の涅槃会の時に開かれる。

 

釈迦三尊像 本来であれば佛殿に安置される三尊佛だが、寛政11年(1799)に火災に遭い、その後は佛殿は再建されず、法堂西序室中の上段に仮安置し現在に至っている。その為、現在は法堂西の間を佛殿としている。中央は釋迦牟尼如來、右は獅子座に乗る智慧の象徴の文殊菩薩。左は象座に乗る普賢菩薩は慈悲の実行の象徴の菩薩。

 

 

庫裡 寛政11年(1799年)頃に建築され、間口約33m、奥行約17mで、法堂に次ぐ規模の大きな茅葺の建物。

 

 

 

 

開山堂【岩手県指定有形文化財】 嘉永2年(1849)頃の再建。

 

 

開山堂への階段回廊。

 

お堂正面には永平寺開山道元禪師像、總持寺開山瑩山禪師像、總持寺二祖で正法寺開山の無底禪師の師匠にあたる峨山禪師像、歴代山主(住職)のお位牌をお奉りしている。

 

 

両脇には、釋尊の弟子で悟りを開かれた、特に優秀な16人の弟子である十六羅漢像が安置されている。

 

 

庭園。

 

 

開山堂から報道を見る。

 

 

 

 

庫裡・鐘楼堂【国重要文化財】江戸末期の建築で現在も定刻に時を知らせる梵鐘を一日も休むことなく撞いている。庫裡は寄棟造の160坪近い大建築で、応接間、尚事寮(寺務を司る)、旧典座寮(食事を司る)など様々な機能を持つ建物。

 

 

境内の様子。

 

 

案内図  東北新幹線水沢江刺駅から11.2km  東北自動車道奥州スマートICから12.7km

 

 

御朱印

 

 

正法寺 終了