『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

52 銀閣寺

2023-11-02 | 京都府

百寺巡礼第22番 銀閣寺

暗愁の四畳半でため息をつく将軍

 

 

本日は、銀閣寺から白砂村荘、法然院、真如堂。そして金戒光明寺をめぐる予定。先ずは銀閣寺に京都駅からバスでいくことにした。団体客が来ないうちと思い8時30分の開門と同時に中に入る。さすが団体客は無く自由に写真も撮れる。しかし15分後には修学旅行生が押し掛けてきた。銀閣寺は何度も参拝しているが、何度来てもワクワクする寺である。

もともと足利義政の別荘として建てられたのが、この銀閣寺である。室町幕府8代将軍足利義政は、文政5年(1473)に子の足利義尚に将軍職を譲り、 文明14年(1482)から東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めた。この地は、応仁の乱で焼亡した浄土寺のあったところであり、近代以降も左京区浄土寺の地名が残っている。当時は応仁の乱が終了した直後であり、京都の経済は疲弊していたが、義政は庶民に段銭(臨時の税)や夫役(労役)を課して東山殿の造営を進め、書画や茶の湯に親しむ風流な隠栖生活を送っていた。造営工事は義政の死の直前まで8年にわたって続けられたが、義政自身は山荘の完成を待たず、工事開始の翌年である文明15年(1483)にはここに移り住んでいた。東山殿には会所、常御所、釣秋亭、竜背橋、泉殿、西指庵、漱せん亭、超然亭などの大規模な建物が建ち、義政の祖父で第3代将軍足利義満が建てた北山殿(後の鹿苑寺)ほどではないが、ある程度政治的機能も持っていた。ただし現存する当時の建物は銀閣と東求堂のみである。

延徳2年(1490)、同年1月に死去した義政の菩提を弔うため東山殿を禅寺に改め、相国寺の末寺として創始されたのが慈照寺である。金閣と通称される鹿苑寺舎利殿には金箔が貼り付けられているのに対し、銀閣と通称される慈照寺観音殿には外壁に黒漆は塗られているが銀箔は使用されていない。「当初は名前のとおり銀箔を貼る予定だったが、幕府の財政事情のためにできなかった」という説や、「銀箔を貼る予定であったが、その前に義政が他界してしまった」という説、「外壁の漆が日光の加減で銀色に輝いて見えたから」という説がある。平成19年(2007)に行われた科学的調査によって創建当時から銀箔が貼られていなかったことが明らかになっている。ちなみに、義政の妻・日野富子は資金援助を一切しなかったともいわれている。

金閣になぞらえて慈照寺観音殿が銀閣と呼ばれるようになったのは江戸時代以降のことである昭和27年(1952)には、庭園が国の特別史跡および特別名勝に指定された。平成6年(1994)には、古都京都の文化財としてユネスコ遺産に登録された。

 

参拝日    令和5年(2023) 2月16日(木) 天候曇り

 

所在地    京都府京都市左京区銀閣寺町2

山 号    東山

院 号    慈照院殿

宗 派    臨済宗相国寺派

寺 格    相国寺境外塔頭

本 尊    釈迦如来

創建年    延徳2年(1490)

開 山    夢窓疎石

開 基    足利義政

正式名    東山慈照禅寺

別 称    銀閣寺、銀閣、東山殿、東山山荘

札所等    神仏霊場巡拝の道第109番

文化財    観音殿(銀閣)、東求堂(国宝) 庭園(国の特別史跡、特別名勝)、世界遺産

 

 

 

参道の手前の堀と桜並木。

 

 

参道の商店街。

 

 

総門の前。

 

 

境内図。

 

 

 

総門へ進む。

 

 

総門。  寛政12年(1800)に再建された。

 

 

銀閣寺垣。   総門から中門を結ぶ入り口の道の両側には背の高い樹木と竹垣。約50mの間に設けられた生け垣で、椿、梔子、山茶花、樫などで構成されている。

 

 

中門。   寛永年間(1624 - 1644)再建。昨日の雪がうっすらと残る。 左手側に拝観受付。

 

 

中門を潜り境内の中に進む。

 

 

左手に庫裡を見ながら進む。この先の宝処関という門を通り、庭園に入る。

 

 

宝処関を潜ると突然銀閣の建物が出現する。

 

観音殿(銀閣)【国宝】  木造2階建ての楼閣建築。境内の錦鏡池の畔に東面して建つ。上棟は長享3年(1489)。初層の平面規模は東面および西面が8.2m、北面が7.0m、南面が5.9mである(西面の北寄りに勝手口が突出しているため、北面は南面より1メートルほど長くなっている)

 

屋根は宝形造、杮葺き、頂に銅製鳳凰を置く。2月の中旬の真冬、昨日小雪がちらつき、屋根に真っ白の雪が残る。こちら側から錦鏡池に姿を映す銀閣の光景は境内随一のビュースポットとなっている。また手前に見えるのが浮石で周囲には当時の有力大名達が献上したといわれる数々の名石が確認できる。なお現在の庭園は江戸時代に改修されたも

 

 

金閣は金箔を貼った建物であるのに対し、銀閣には銀箔は貼られておらず、貼られていた痕跡もない。上層は当初は内外とも黒漆塗であった。

 

屋根は約30年ごとに葺き替えられ、平成20年(2008)から3年をかけ、屋根の葺き替えや柱や壁など傷んだ部材の交換、耐震補強、2階の潮音閣内部に黒漆を塗るなど、大正初期以来の大規模な修復作業が行われた。

 

 

外回りの詳細。

 

 

上層は内外とも黒漆塗で、軒下には彩色があったことが痕跡から判明している。

 

 

屋根の頂部には銅製の鳳凰を飾る。

上層は「潮音閣」と称し、初層とはに異なって禅宗様の仏堂風に造る。柱間は東西南北とも3間で、内部は仕切りのない1室に、観音菩薩坐像を安置し、四周に縁と高欄をめぐらす。東面と西面のみ形式が同一で桟唐戸を設ける。南面と北面は異なり、南面は中央間を桟唐戸、両脇間を花頭窓になっている。北面は中央間が桟唐戸、両脇間は窓がなく板壁である。東面と西面には出入口はなく、3間とも花頭窓とする。柱間寸法は、東面と西面が3間を等間隔に割り付けるのに対し、南面と北面は戸の立つ中央間を両脇間より広く取っている。

 

 

初層の外周は、南面と西面は腰壁入りの障子窓とし、北面は東半部が腰壁入りの障子窓、西半部は土壁とする。

 

 

地表面は苔に覆われている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東面と西面は、桁を支える主要柱の外側に張り出しを設けており、そのため、回縁は東側と西側において幅が狭くなっている。花頭窓はこの張り出し部に設けられ、東西の張り出しは、室内では造り付けの腰掛となっている。

 

 

観音堂のすぐ隣傍に八幡社という祠がありその石の鳥居を通して向月台を見る。

 

 

観音堂(銀閣)と向月台。 2つの砂盛りの一つで、今のような形になったのは江戸時代後期とされている。だが、最初は誰がどう作ったかはよくわからないという。

 

 

 

 

 

 

向月台。   白砂を円錐台形に盛り上げたもの。高さ約180cm、頂上部の直径は120cm。元々はお椀を伏せたような形だったが、人の手によって修正され、歳月と共に形状が変化し、今のような山形になったと言われている。

 

 

 

 

 

銀沙灘。   白砂を段形に盛り上げ、平面に波紋を表現したもの。

 

 

盛砂の厚みは約65Cm。盛砂は京都特産の白川砂を使用し、この砂は反射率が高いため、月の光を反射して方丈を淡く照らす効果があると言われる。

 

 

 

 

方丈(本堂)。 江戸中期の建造。銀沙灘と対象をなすその堂々たるたたずまいは、義政公の遺徳をも偲ばせる。本尊として釈迦牟尼仏を安置。内部には江戸期の南宋画家の巨匠、与謝蕪村、池大雅の襖絵が所蔵されている。

 

 

正面の扁額は「東山水上行(トウザンスイジョウコウ)」と書いてある。

 

 

外廊下の居た扉に絵が描いてる。

 

 

本堂の全景。

 

 

 

 

 

本堂の袖に作られた花頭窓のある小部屋。

 

 

花頭窓を通して銀砂灘を覗くのが素晴らしい。

 

袈裟型手水鉢。   方丈(本堂)と東求堂をつなぐ渡り廊下の近くに置かれている。江戸時代の作で、花崗岩に市松模様の意匠が彫られ、それが僧侶の袈裟の模様に似ていることからと呼ばれている。

 

 

東求堂【国宝】。          観音殿(銀閣)とともに、東山殿造営当時の遺構として現存する堂宇。東求堂は本来持仏堂、すなわち阿弥陀如来を祀る阿弥陀堂だが、浄土信仰の象徴として東求堂を建て、禅宗様式の庭園を周囲にめぐらしたところに、義政公の精神世界を垣間見ることができる。

 

東求堂の内部は、阿弥陀三尊を安置した持仏堂、北向書院、西向床、四畳の間に分かれる。その中の北向書院は“同仁斎”と呼ばれる四畳半の小座敷で、その名は中国・唐を代表する文人・韓愈(かんゆ)の言葉“聖人は一視同人(聖人は人を上下隔てなく愛する)”に由来しているという。

 

 

分界橋。 写真中央の石橋で、向月台と銀閣の間を架け渡している。

 

 

錦鏡池    池泉回遊式の庭園で、中心となる錦鏡池が東求堂から銀閣にかけて配置されている。

 

 

池には仙人洲や白鶴島といった中島が配置され、それぞれ自然石を利用した橋が架けられている。

 

 

 

 

 

大内石。 錦鏡地には石がいくつもあって、ほかに「座禅石」「浮石」と書かれた札が立つ。この数々の石は、各地の大名によって献上された諸侯石である。

 

 

千代の槙。 樹齢500年という槙の大木。

 

 

洗月泉。   苔むした石組みの上から一筋の小さな滝が落ちている。山部山畔から流れ落ちる水を銀閣・東求堂のある下段の庭へ導いている。

 

 

よく手入れされた苔。

 

 

 

 

 

この日も庭師の人が苔の手入れを行っていた。

 

 

月待山の麓にある展望所に向かう。

 

 

展望所から見た京都市街。正面は吉田山。

 

 

展望所から見た銀沙灘。

 

 

展望所から見た、庫裡と本堂、東求堂、そして書院。

 

 

屋根に粉雪を冠った観音堂(銀閣)。

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー応仁の乱後の疲弊した状況にもかかわらず、たびたび抵抗されながらも義政は、大名から造園のための膨大な資金を集めてしまったのである。なぜ、それ可能であったのだろう。そこには、義政に代表される文化的な素養に対する諸大名の憧れ、尊敬というものがあったのではないか。文武両道ともいうのだろうか。当時の諸大名はもちろん武を大事にしていたが、カルチャーというものに対する尊崇の念も強く抱いていたのではないかと思われてならない。そして、政治手腕は無いけれども、文化に関しては、あの義政は第一人者である、というのが衆目の一致するところではないかと思われてならない。つまり、東山文化というのは、焦土と化した応仁の乱後、厭戦気分と文化への憧れが、ギリギリのエネルギーをはらんで京都の郊外に花開かせた。ある意味では。特異な文化だったと言っていいのだろう。

 

 

 

御朱印

 

 

 

銀閣寺 終了

 

(参考文献)  
五木寛之著「百寺巡礼」第三巻京都Ⅰ(講談社刊) 銀閣寺HP フリー百科事典Wikipedia 

(ブログ)京都トリビア×Trivia in kyoto