『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

56 南禅寺

2023-11-13 | 京都府

百寺巡礼第29番 南禅寺

懐 深き寺に流れた盛衰のとき

 

 

南禅寺、もう何回きたのだろうか? 直近はと言っても1/4世紀も前のことである。日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上に置かれる別格扱いの寺院で、日本の全ての禅寺の中で最も高い格式を持つ。永観寺のすぐ南側にある寺で永観寺の正式名の禅林寺の南側にある寺に由来し「南禅寺」としたと言われる。

南禅寺のこの地に、寺の建立以前に亀山天皇が文永元年(1264)に造営した、離宮の禅林寺殿)があった。この離宮は「上の御所」と「下の御所」に分かれていたが、弘安10年(1287)に「上の御所」に亀山上皇が持仏堂を建立し南禅院と名付けた、これが南禅寺の始まりである。後に持仏堂の南禅院は南禅寺の塔頭・南禅院となっている。南禅寺伽藍の建設は実質的には二世住職の規庵祖円が指揮し、かつての禅林寺殿の「下の御所」を整備して、永仁7年(1299)頃に寺のかたちが整った。建武元年(1334)に後醍醐天皇は、南禅寺を五山の第一としたが、至徳3年(1385)に足利義満は、自らの建立した相国寺を五山の第一とするために南禅寺を「別格」として「五山の上」に位置づけ、更に五山を京都五山と鎌倉五山に分割している。この頃には南禅寺は塔頭60か寺を要する大寺院となっていた。

明徳4年(1393)の火災と文安4年(1447)の南禅寺大火に見舞われ、主要伽藍を焼失したがほどなく再建。しかし応仁元年(1467)に勃発した応仁の乱における市街戦で伽藍をことごとく焼失してから再建は思うにまかせなかった。復興がすすんだのは、江戸時代の慶長10年(1605)に依心崇伝が入寺してからである。翌、慶長11年(1606)には豊臣秀頼によって法堂が再建された。

以心崇伝は徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた政治家でもあった。塔頭の金寺院に住し、江戸幕府から僧録という地位を与えられ、全国の臨済宗の寺院を総括する役職で、金地僧録と呼ばれ、絶大な権勢を誇った。

慶長16年(1611)には豊臣秀吉が天正年間(1573~1593)に建てた女院御所の対面所が下賜され大方丈とされた。当寺の境内を通る琵琶湖疎水の水路閣は明治21年(1888)に建設された。明治28年(1895)に法堂が焼失し、明治42年(1909)に再建された。

 

参拝日   令和5年(2023)2月17日(金) 天候晴れ

 

所在地   京都府京都市左京区南禅寺福地町86

山 号   瑞龍山

宗 派   臨済宗南禅寺派

寺 格   大本山   京都五山および京都五山の別格上位

本 尊   釈迦如来  創建年 正応4年(1291)

開 山   無関普門(大明国師) 

開 基   亀山天皇

正式名   瑞龍山 太平興国南禅禅寺

文化財   方丈(国宝)、三門、勅使門(国重要文化財) 方丈庭園(国の名勝)

 

 

境内図

 

 

 

中門。     慶長6年(1601)に細川家の家老・松井康之によって伏見城内の松井邸の門を勅使門として寄進されたもの。日の御門の拝領に伴って現在地に移された。幕末までは脇門と呼ばれていた。 

 

 

勅使門【国重要文化財】。           寛永18年(1641)に明正天皇により御所の「日の御門」を拝領し、移築したものという。

 

 

 

 

 

門を潜り境内へ三門に進む。

 

三門【国重要文化財】    歌舞伎の「楼門五三桐」(さんもんごさんのきり)の二幕目に石川五右衛門が、「絶景かな!」「絶景かな!」という名セリフを廻す「南禅寺山門」がこれである。ただし、実際の三門は五右衛門の死後30年以上経った寛永5年(1628)に、津藩主・藤堂高虎が大坂夏の陣で戦死した一門の武士たちの冥福を祈るために寄進したものである。別名「天下竜門」と呼ばれる。知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに、京都三大門の一つに数えられている。

 

 

形式は五間三戸二階二重門、入母屋造、本瓦葺、西面で、両山廊(各切妻造、本瓦葺)付

 

 

軒瓦には南禅の字が刻まれている。

 

 

 

五間三戸から境内を見る。

 

 

 

三門から中門の入り口方面を振り返る。

 

 

門の一層部分。

 

 

上層は「五鳳楼」といい、釈迦如来と十六羅漢像のほか、寄進者の藤堂家歴代の位牌、大坂の陣の戦死者の位牌などを安置する。天井画の天人と鳳凰の図は狩野探幽筆。

 

 

二層部分に上がる。

 

 

二層の回廊から京都市街を見る。

 

 

華頂山とウィスティン都ホテル。

 

 

 

京都市街の真正面にホテルオークラ京都。

 

 

 

 

 

軒先の複雑ななかにも力強い木組み。

 

 

 

北東の角から。 すべすべとした床板、5間の幅を支える丸柱は年代を感じさせる。

 

 

 

 

 

 

二層の細部。

 

 

回廊の欄干。

 

 

三門の2層回廊から見る東山連峰。

 

 

二層回廊から法堂方向を見る。

 

 

 

三門の二層から降りて法堂方向を見る。

 

 

法堂から山門を見る。

 

 

法堂。  慶長11年(1606)に豊臣秀頼によって再建された。明治28年(1895)に失火により焼失し、現在の建物は明治42年(1909)に再建されたもの。

 

 

向拝の前の香炉。

 

 

向拝。

 

 

須弥壇に本尊の釈迦如来坐像を祀る。

 

 

法堂内部の天井には今尾景年による幡龍が描かれている。 今尾景年は明治から大正にかけて活躍した四条派の日本画家。

 

 

法堂を横から見る。

 

 

法堂の横から本坊及び往生に向かう。

 

方丈大玄関。       方丈の左手にある唐破風の玄関。この玄関は、特別な行事の際のみに使用される。大玄関左手には書院が配され方丈へとつながる。玄関前の敷石は、廃線になった旧京都市電の敷石を再利用したもので伏見線の敷石を使用。経年変化で年経た味わいが生まれ、苔が美しく育っている。

 

 

 

 

 

本坊。  庫裡(宗務本庁)と書院+大玄関で構成された建物で方丈に繋がる。一般の拝観はここから入館する。入館料が必要。

 

 

 

玄関は天井の無い吹き抜けの空間で、縦横に組まれた太く力強い梁と桁が見れる。

 

 

本坊から大方丈および庭園の位置図。              (植爾加藤造園HPより)

 

 

滝の間。  本坊入り口を入り右側の部屋。部屋名は庭園に見える滝に由来し、高低差のある滝は、明治23年(1890)に開通した琵琶湖疏水より導水し造成した。

 

 

竜虎の間。

 

 

 

大玄関の衝立。  瑞龍の字は南禅寺の山号で、南禅寺第8代管長の筆による。

 

 

本坊から方丈に繋がる廊下。

 

 

 

方丈庭園と華厳庭園に分かれる廊下の板戸。龍の絵が描かれている。

 

 

方丈【国宝】  大方丈と小方丈からなる。大方丈は慶長の御所建て替えに際し、天正年間(1573~1593)に豊臣秀吉によって建てられた旧御所の建物を慶長16年(1611)に下賜されたもの。御所の女院御所の対面御殿を移築したもの。

 

 

方丈縁側から大方丈庭園を見る。

 

 

大方丈庭園。  大方丈の南に面した庭で、 慶長16年(1611)頃の小堀遠州作と伝えられている。応仁の乱で焼失した南禅寺が以心崇伝(1569-1633)によって再興された際に作庭された。昭和26年(1951)に国の名勝に指定され、通称「虎の児渡しの庭」として親しまれている。

 

 

大方丈と庭園、借景となる大日山と調和を図って、優雅枯淡で品格のある禅院式枯山水の庭園となっている。白砂と築地壁に面して置かれた大小6つの石が調和し、その形が川を渡る虎の親子に見立て、中国の故事に倣って「虎の子渡しの庭」と呼ばれている。

 

 

 

 

大方丈の廊下。   廊下の外側に広縁が巡る。大方丈の間取りは六部屋あり、南側は西から順に花鳥の間(西の間)、御昼の間、麝香の間、北側が西から順に鶴の間、仏間(内陣)、鳴滝の間となっている。仏間を除く、それぞれの部屋は狩野派が描いた障壁画がある。障壁画は国の重要文化財に指定されている。

 

 

建物の東端は幅一間半の細長い部屋で、柳の間と呼ばれる。障壁画の作者は室町時代の絵師狩野元信。

 

 

麝香(じゃこう)の間。 障壁画は狩野元信による。 いずれも折り上げ格天井による格式高い部屋づくり。

 

 

御昼の間。 建物が御所にあった当時、昼の御座で御帳の間であった部屋だというから、皇族の方が日常に執務していた場所なのだろう。

 

 

西の間。 障壁画は狩野永徳の筆による。

 

 

大方丈東側の広縁。窓は上から引き上げて開放する蔀戸。 右手に枯山水の中庭が見える。

 

 

広縁の大方丈庭園と小方丈庭園への曲がり角にある欄間の彫刻は、左甚五郎の作だと言われる。

 

 

両面透かし彫りで、図柄は「牡丹に唐獅子、竹に虎」なのだが、この写真ではよくわからない。

 

 

 

 

 

如心庭。   接続して建つ小方丈は、寛永年間(1624~1645)に建てられた伏見城の小書院とされる。その前庭が小方丈庭園の如心庭。「如心庭」は解脱した心の庭だという。

 

 

 

小方丈北側の広縁。 小方丈からさらに奥に進むと「六道庭」に行き当たりる。

 

 

六道庭。  昭和42年(1967)に作庭された。「六道庭」は、六道輪廻(りんね)の戒めの庭とる。六道輪廻とは、天界、人間界、修羅の世界、畜生界、餓鬼界、地獄界の六つの世界を我々は生まれ変わり続けるという仏教の世界観をいう。

 

 

 

 

 

それぞれに庭に面し長い廊下が続く。南禅寺の音特徴。

 

 

 

 

 

鳴滝庭。  回廊の突き当たり、華厳庭の西にある庭。小方丈にある狩野永徳が障壁画を描きいた「鳴滝の間」の前庭にあたる。

 

 

隅にある大硯石は、岐阜県で採掘された紅縞(めのう)で作られたもの。現在は紅縞は採れず大変貴重なもの。

 

 

還源庭。蔵と方丈、書院に囲まれた狭い空間の庭。

 

 

 

 

 

渡り廊下の先端は、最も奥の北庭になる左に龍渕閣、右に涵龍池という池のある龍吟庭。

 

 

龍吟庭の入口にある大きな石。元々三門の西にあった鞍馬石を移設し景観の主石とした。この石は4つに割れているがどんな意味があるか不明。存在感のあるよい形をした石。

 

 

豢龍池(かんりゅういけ)の池畔には十津川石の景石を配石してある。

 

 

茶室不識庵(ふしきあん)。  茶道宗偏流の八世山田宗有宗匠が寄進した茶室。昭和58年(1983)の龍渕閣建築に伴い、塔頭帰雲院(きうんいん)が移転され併せて移築された。不識とは武帝と達磨大師との問答から由来。

 

 

花厳庭(けごんてい)   昭和59年(1984)に作られた新しい庭。白砂が大海を表し、そこにいくつもの島が作られている。

 

 

竹垣の組方は、南禅寺垣という当寺独特のもの。

 

 

本坊裏の庭。

 

水路閣。  南禅寺境内にある琵琶湖疏水のレンガ、花崗岩造りのアーチ型の水路橋。明治23年(1890)に、水不足に悩む京都へ、琵琶湖の水を運ぶため建設。水路閣の全長は93.2m。設計・デザインした田邉朔郎は、ローマの水道橋を参考としたが、境内の景観に大変苦心した末にこのような形なったという。レンガのアーチを間近に見ることができるほか、水路に水が流れる様子も見れる。

 

 

観光の名所にもなっている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

案内図

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー人間に生きる力を与えてくれるもの、それは大きな輝かしいものであると同時に、私たちが日常、どうでもいいことのように思っている小さなことなのだという確信が強まっていく。たとえば、自然に感動するとか、夕日の美しさに見とれるとか、なつかしいメロディーを口ずさむとか、日常なにげなくやっている生活のひとコマが、じつは人間を強く支えてくれていることもありうるのだと感じられてくる。俳句をつくる人がいる。俳句をつくるといやでも周りの自然を見る目、感覚が鋭くなってくる。収容所の中で、もしも俳句をつくることを続けられる人がいたら、その人はほかの人よりも長く生き延びるかもしれない。あるいは、音楽が好きで疲れきっていても、口笛で何かのメロディを吹く人の方が、ひょっとしたら強く生き抜くタイプかもしれない。かって普門禅師は、人はこの場でしか生きることが許されないと言った。そのことを真正面から受けとめ、すべての運命をそのまま引き受けようと覚悟する。亀山天皇はそう覚悟して離宮を禅寺にしたはずだろう。その禅寺は、その法王の意思を忠実に守るかのように、栄枯盛衰の波をそのまま正面からかぶり続けながら、人びとを受け入れてきた。南禅寺には、栄華と苦難の歴史が幾重にも重いひだを作っておりかさなっている。それでいて寺の姿はなにごともなかったかのように私たちの前に立ち現れている。人びとが南禅寺に懐の深さと安心を感じる秘密はこのあたりにあるのかもしれないと、私は思いながら、あらためて三門を見上げた。

 

 

 

 

御朱印

 

 

 

南禅寺 終了

 

 
(参考文献)  
五木寛之著「百寺巡礼」第三巻京都Ⅰ(講談社刊) 南禅寺HP フリー百科事典Wikipedia 

京都朱雀錦HP  植爾加藤造園HP