『五木寛之の百寺巡礼』を往く

五木寛之著「百寺巡礼」に載っている寺100山と、全国に知られた古寺を訪ね写真に纏めたブログ。

57 東寺

2023-11-19 | 京都府

百寺巡礼第24番 東寺

空海がプロデュースした立体曼荼羅

 

新幹線で大阪方面に降る窓際に、京都駅を発車してすぐ左側の車窓に見える大きな塔が東寺である。東寺は初めてで、春の特別拝観中ということもあり、朝一番に駆け付けた。

東寺は国宝や名宝を多く有する寺であり、真言宗の根本道場であり、教王護国寺とも呼ばれる。創建由来は、平安京鎮護のため国の官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海に下賜され真言密教の根本道場として栄えた。明治維新まで、東寺の長官である4人の東寺長者は真言宗の最高位であり、東寺長者は律令制における仏教界の首座である法務も兼任するのが慣例となっていた。中世以降の当時は弘法大使に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。

8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」の2つの寺院が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。東寺は、平安遷都後もまもない延暦15年(796)に、藤原伊勢人が建設工事の責任者である造寺長官となって建立した。それから二十数年後の弘仁14年(823)に、真言宗の宗祖である空海(弘法大使)は、嵯峨天皇から東寺を下賜されて真言密教の根本道場とした。この時から当時は国家鎮護の菅寺となった。平安時代になると東寺は一時衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは、後白河法皇の皇女である宣陽門院であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。

毎月21日の空海の命日に、供養を行う「生身供」の儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる、この儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。

何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。

 

参拝日    令和5年(2023) 2月18日(土) 天候曇り

 

所在地    京都市京都府南区九条1

山 号    八幡山

院 号    秘密傳法院

宗 旨    真言宗

宗 派    東寺真言宗

寺 格    総本山

本 尊    薬師如来(国重要文化財)

創建年    延暦15年(796)

開 基    桓武天皇

正式名    八幡山金光明四天王教王護國寺祕密傳法院

別 称    左大寺

霊場等    洛陽三十三所観音霊場第23番

文化財    金堂、大師堂(御影堂)、五重塔ほか(国宝)。                  

       講堂、南大門、木造大日如来坐像ほか(国重要文化財)。世界遺産。

 

 

 

 

境内図。

 

 

 

東寺の東南の角の九条大宮交差点から五重塔を観る。

 

 

九条通(国道1号線)が東門の前を通り、間には堀がある。

 

南大門【国重要文化財】     本来は慶長6年(1601)に方広寺の寺領に組み込まれていた三十三間堂の西大門として豊臣秀頼により建てられた八脚門。東寺の以前の門が明治元年(1868)に焼失したため明治28年(1895)に移築された。幅約18m高さ約13mで東寺で最大の門。

 

 

門の入り口の両脇には大きな空間があるが、仁王像を設置するスペースと思われるが、移築されたさいに像は移ってこなかったのだろう・・・か?

 

 

 

 

 

境内から門の外を見る。

 

 

南大門の正面に金堂がそびえたつ。

 

 

金堂【国宝】        東寺の中心堂宇で数々の堂塔のうち、最も早く建設が始められ、弘仁14年(823)には完成した推定されるが、文明18年(1486)の土一揆により焼失。現在の建物は慶長8年(1603)に豊臣秀頼の寄進により、片桐且元を奉行として再建されたもの。

金堂の修理工事では、金堂の棟札が確認された。それには豊臣秀頼の寄進によることや片桐且元を奉行として造立工事がなされたことが記されていた。また方広寺の鐘銘に類似した「国家太平 臣民快楽」の文言の記載があった。方広寺の鐘銘では「国家安康 君臣豊楽」と刻字され、それが家康の諱を分断して呪詛し、豊臣を君主とする意図があると徳川方に解釈され、方広寺鐘銘事件に発展してしまったことは周知の通りである。

 

 

入母屋造本瓦葺き、外観からは二重に見えるが一重裳腰付き。建築様式は和様と大仏が併用され、貫や挿肘木多用して高い天井を支える点に大仏様の特色がある。

 

 

 

 

 

正面の組木。

 

 

 

 

金堂には大仏殿のように、堂外から内部に安置されている仏像の御顔を拝顔できるようにする観相窓が設けられているが、それの高さは、安置されている薬師如来の御顔の高さと合っていないので、窓を開けても如来の光背しか見えず、観相窓としては無用の代物になってしまっているという。

 

 

 

 

薬師如来坐像【国重要文化財】    内部は広大な空間の中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が安置されている。 慶長7年~9年(1602 ~1604)にかけて、七条大仏師康正が康理、康猶、康安らとともに制作した。                (写真は東寺HPより)

 

 

 

 

 

金堂の脇を進む。

 

 

境内の奥のから南大門の方向を観る。左に金堂、右に本坊の堂宇が並ぶ。

 

 

本坊は、土塀に囲まれ一般参拝者は出入りができない。

 

 

本坊の唐門。 通常は使用されてなく閉門のまま。

 

講堂【国重要文化財】       金堂の背後(北)に建つ。東寺が空海に下賜された弘仁14年(823)には建立されておらず、天長2年(825)に空海により建設工事が着工されて、承和6年(839)に完成。この頃は講堂と金堂の周囲を廻廊が巡る形をとっていた。この創建当初の堂は文明18年(1486)の土一揆による火災で焼失。5年後の延徳3年(1491)に再建された。

 

 

単層入母屋造で純和様。金堂が顕教系の薬師如来を本尊とするのに対し、講堂には大日如来を中心とした密教尊を安置し、立体曼荼羅を構成する。

 

 

 

 

 

講堂内部の立体曼荼羅。       須弥壇の中央に大日如来を中心とする五体の如来像が安置されている。右側には金剛波羅密多菩薩を中心に五体の菩薩像、左側には不動明王を中心とした五体の明王像が安置されている。須弥壇の東西端には梵天・帝釈天像。須弥壇の四隅には四天王像が安置され、計21の彫像が整然と安置されて、この様子が立体曼荼羅を構成している。21体の仏像のうち、五仏のすべてと五大菩薩の中尊像は室町時代から江戸時代の補作であるが、残りの15体は講堂創建時の像である。 

立体曼荼羅配置図。

 

これら21体の仏像群からなる立体曼荼羅については、他に例のない尊像構成であることから、空海がいずれの経典に基づき、どのような意図で構想したものか明らかでない。(写真は東寺HPより)

 

 

大日如来像【国重要文化財】  大日如来像は明応6年(1497)に仏師康珍の作。       

                               (下の写真とも東寺HPより)

 

 

帝釈天像【国宝】      甲を着け、白象に乗り、左脚を踏み下げる。両像の台座、帝釈天像の頭部などは後補である。

 

 

 

講堂入口。

 

 

食堂。      講堂の後方、境内の北寄りに建つ。観音堂とも呼ばれる。初代の食堂は空海没後の9世紀末から10世紀初めに建立されたが、度々の災害に遭い現在の建物は昭和8年(1933)の再建に完成したものである。

 

 

 

 

 

現在の食堂には明珍恒男作の十一面観音像が本尊として安置されている。(写真は東寺HPより)

 

 

 

脇から見た食堂。

 

 

 

 

食堂の前から有料拝観区域に入る。 

 

 

庭園は春は桜、秋は紅葉の名所。

 

 

瓢箪池。金堂と講堂の東側、五重塔の北側の一角は、瓢箪池を中心とした庭園になっている。五重塔とともに池泉回遊式庭園の要素になっている

 

 

庭園の先に五重塔が・・・・。

 

 

庭園の中央、瓢箪池の先に五重塔。

 

 

瓢箪池に逆さに移る五重塔と写真撮るには最適の場。

 

 

五重塔【国宝】      東寺のみならず京都のシンボルとなっている塔である。高さ54.8mは木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826)空海による創建に始まるが、実際の創建は空海没後の9世紀末であった。雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644)に徳川家光の寄進で建てられたものである。

 

 

 不二桜。  樹齢120年の八重紅枝垂桜で平成18年(2006)に三重県より移植された。樹高13m。弘法大師の「不二のおしえ」から命名された。

 

 

五重塔は枝垂れ桜によく似合うはずだ・・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する。真言密教の中心尊であり金剛界五仏の中尊でもある大日如来の像はここにはなく、心柱を大日如来とみなしている。諸仏は寛永20年(1643)から翌年にかけての作で、江戸時代初期の作風を伝える。初重内部は通常非公開だが、特別に公開される場合もある。

 

 

                               (写真は上とも東寺HPより)

 

御影堂【国宝】     かつて空海が住房としていた境内西北部の「西院」と呼ばれる一画に建つ住宅風の仏堂。前堂、後堂、中門の3部分からなる複合仏堂で、全体を檜皮葺きとする。当初の堂は康暦元年(1379)の火災による焼失後、その翌年に後堂部分が再建された。10年後の明徳元年(1390)に、弘法大師像を安置するために北側に前堂、その西側に中門が増築された。(写真は上・中・下とも東寺HPより)

 

 

 

 

 

小子房       昭和9年(1934)に再建。内部は6個の部屋(鷲の間、雛鶏の間、勅使の間、牡丹の間、瓜の間、枇杷の間)からなる。各部屋の障壁画は堂本印象により描かれた。(下2枚と写真は東寺HPより)

 

 

勅使の間。 障壁画は堂本印象の筆による。

 

 

鷲の間。

 

 

手水舎。

 

 

宝蔵【国重要文化財】           慶賀門の南側、掘割で囲まれた中に建てられている。平安時代後期の建立の校倉の倉庫で、東寺最古の建造物。床板は大きな建物の扉を転用したもので、金堂の扉とも羅城門の扉ともされる。

 

 

北大門【国重要文化財

 

 

宝蔵を囲む堀に写る五重塔。

 

 

東門付近と築地塀を通し五重塔を観る。東寺の築地塀は総長さは900mにも及ぶ。

 

 

 

 

 

案内図

 

 

 

五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー弘法大師は字が上手であるとか、多くの歌を作ったとか、ひらがなを考案したなどということから、人びとは慕わしさをつのらせているのではあるまいか。厄除けのご利益があることもよく知られ、全国に大師信仰の寺がある。ひとつの信仰がうまれた当時は、開祖自らの言葉が人びとの耳にじかに届いて、みんなが正しくその教えを受けとめることができる。いわゆる「正法の時代」である。それから、その人が死んで、なん百年かたったあとに、お弟子さんなどが信仰を伝える、コピーの時代がやってくる。その時代を「像法の時代」という。そして、さらにまた時間が過ぎると「末法の時代」になる。最初に創立したオリジナルな思想というものがまったく力を失ってしまい、形骸化してしまう。乱れてしまう。こう考えていくと、信仰というものでさえ、時間とともに少しずつ変わっていくのが、自然の理というものなのかもしれない。本来宗教は、人間の根源的な疑問に答えようとして、この世に生まれたものではないかと私は思っている。生きているとはどういうことなのだろう。現世の苦しみをどう受けとめればいいのだろう。この世というものが無常であるならば、その無常のなかで希望をもって生きていくためにはどうすればよいのか。そして、死んだあとに人間はどこにいくのか。あるいは、どうすれば喜びをもって死を迎えられるのか。こういう質問に対してまっすぐに語りかけるのが、本当の宗教の役割ではないだろうか。

 

 

 

 

御朱印

 

 

 

東寺 終了

 

(参考文献)
  
五木寛之著「百寺巡礼」第三巻京都Ⅰ(講談社刊) 東寺HP  フリー百科事典Wikipedia