百寺巡礼第86番 永観堂
紅葉の向こうの「見返り阿弥陀」
京都の三日目は、三井下鴨別邸を見学し、山縣有朋別邸の無鄰菴と南禅寺界隈別荘群をそぞろ歩き、永観堂に伺った。こちらも紅葉の名所であるが、真冬の2月中旬。人気の居ない頃を見計らっての参拝である。
古くより「秋はもみじの永観堂」といわれ、京都に3箇所あった勧学院(学問研究所)の一つでもあり、古くから学問が盛んな寺である。境内には地形の高低差を生かして多くの建物が建ち、それらの間は渡り廊下でつながれている。
空海(弘法大師)の十哲と呼ばれ高弟のひとりである真紹僧都が、都における真言宗の道場の建立を志し、毘盧遮那仏と四方四仏を本尊とする寺院を建立したのが起源。 真紹は仁寿3年(853)、歌人・文人であった故・藤原関雄の山荘を買い取り、ここを寺院とすることにした。当時の京都ではみだりに私寺を建立することは禁じられており、10年後の定観5年(863)、清和天皇より定額寺としての勅許と「禅林寺」の寺号を賜わって公認の寺院となった。
当初真言宗の道場として出発した禅林寺は、中興の祖とされる7世住持永観律師の時に念仏の寺へと変化を遂げる。禅林寺を永観堂と呼ぶのは、この永観律師が住したことに由来する。なお、「永観堂」は漢音読みで「えいかんどう」と読むが、永観律師の「永観」は呉音読みで「ようかん」と読む。
参拝日 令和5年(2023)2月17日(金) 天候晴れ
所在地 京都府京都市左京区永観堂町48
山 号 聖衆来迎山
院 号 無量寿院
宗 派 浄土宗西山禅林寺派
寺 格 総本山
本 尊 阿弥陀如来(みかえり阿弥陀)(国重要文化財)
創建年 仁寿3年(853)
開 山 真招
正式名 聖衆來迎山無量壽院禪林寺
別 称 永観堂
札所等 洛陽六阿弥陀めぐり第2番 ほか
文化財 山越阿弥陀図、金銅蓮華文磬(国宝)木造阿弥陀如来立像(国重要文化財)ほか
境内地図。
総門。天保11年(1840)に再建されたもの。切妻造り、本瓦葺きの一間一戸の四脚。この門の造りは城郭の外門などに多く見られる。
総門から中門までの参道。
中門(京都府指定有形文化財)。 正徳3年(1713)再建。門の造りは薬医門。拝観の手続きはこちら。
正面にある釈迦堂の入り口、大玄関が諸堂の入り口となる。
釈迦堂の正面。横並びの花頭窓。
境内には約3000本の大もみじやイロハもみじが植えられもみじ林となり、京都屈指の紅葉の名所となっている。もみじ林には道が整備されている。
中門方向を見る
大玄関。
大玄関の屋根裏は、緩やかなむくりの円で、垂木もむくり状に。
釈迦堂(京都府指定有形文化財)。 方丈ともいう。永正年間(1504 - 1521)に後柏原天皇にによって建てられたというが、実際の建築は寛永4年(1627)である。入母屋造、桟瓦葺き。平面は禅宗寺院の方丈と同形式の六間取りとなっている。
釈迦堂の大玄関を入ると、釈迦堂の左手に庫裡となる鶴寿台の堂宇、その奥に古方丈。釈迦堂の奥に紫宸殿があり池を中心とした方丈北庭を囲み、夫々が廊下でつ繋がっている。
古方丈側から方丈北庭を通し釈迦堂を見る。
古方丈から紫宸殿かかる渡り廊下。瑞紫殿は応仁の乱の際に奇跡的に焼け残った「火除けの阿弥陀」が祀られている。
右手、古方丈。左手釈迦堂。
方丈北庭。
釈迦堂を見る。
釈迦堂の廊下。
釈迦堂の四季の間。内部は
勅使門(京都府指定有形文化財)釈迦堂(方丈)の南庭にある唐門で、文政13年(1830)に再建されたもの。
外側からの勅使門。軒先の木鼻には架空の動物「獏」が置かれ、各所に雲龍や唐草の彫刻が施されているというが、写真ではよくわからない。
唐門の屋根部分。
釈迦堂南庭(方丈南庭)
釈迦堂杉の間。
釈迦堂仙人の間。
釈迦堂の方丈南庭に繋がる東庭。
釈迦堂から御影堂へ。こちらにも渡り廊下。
廊下に鐘。
御影堂へ。
御影堂の花頭窓。
御影堂への正面階段。
御影堂の正面。
御影堂。 大殿との呼ばれ、大正元年(1812)に完成した総ケヤキ造の仏堂。相祖法然を祀る堂で、寺内最大の建物。
横から向拝を見る
正面から境内および参道側を見る。
御影堂の側面。右手の斜面の上に阿弥陀堂がある。
廊下伝いに各堂をまわり、御影堂から阿弥陀堂へは、エレベーターも設置されている。
阿弥陀堂【京都府指定有形文化財】 入母屋造、本瓦葺き。本堂でもある。慶長2年(1597)に大阪の四天王寺に建立された曼荼羅堂を豊臣秀頼が慶長12年(1607)に現在地に移築。本尊の「みかえり阿弥陀」像(国重要文化財)を安置する。入母屋造、本瓦葺き。
本尊 阿弥陀如来立像【国重要文化財】 「みかえり阿弥陀」の通称で知られる、頭部を左(向かって右)に向けた特異な姿の像。像高77.6cmと、三尺像形式の中では小さい方である。かつては鎌倉時代の作とされたこともあったが、作風、構造等の特色から、平安時代末期、12世紀後半の作と見るのが妥当である。左方を向くという特殊な姿勢によって、像体の正面から見るとほとんど真横を向いてしまうため、頭部右側をやや大きく、左側を小さくする事で頭部の印象が損なわれないよう工夫を払っている。 (画像はネットから)
阿弥陀堂から御影堂を見る。
阿弥陀堂へはエレベーターがあり正面がエレベーター塔屋。
阿弥陀堂の外廊から御影堂を見る。
鐘楼された【京都府指定有形文化財】 宝永4年(1707)に再建されたもの。梵鐘は寛保3年(1743)に鋳造。
御影堂から開山堂への回廊。
開山堂。
臥龍廊。 寺伝では永正年間(1504~1521)の建立とされるが、現在の建物の部材は昭和時代のもの。階段部分は地形に沿ってねじれを作られた珍しい階段。
臥龍廊とは屋根の反りが龍の背中に似ていることから名付けられた。
崖に沿って建つ平坦の廊下。
臥龍廊の先に開山堂がある。
カップルが記念撮影をしていたので拝借。開山堂にて。 堂は写真で分かるように懸崖造り。
臥龍廊を下り堂宇巡りを終えて、いったん外に出て小高い山の中腹にある多宝塔へ。
多宝塔はいわゆる三重塔。その境内は狭く塔全体を撮る離れた余裕がない。
多宝塔から京都市街を見下ろす。
再びもみじ林に戻り、庭園を散策する。
庭園には大きな法生池がある。
池の中心には弁天社という祠が建てられている。 石の橋、錦雲橋が架かる。
法生池をとおし釈迦堂、御影堂の屋根と山の中腹に多宝塔。
法生池のほとりにある待合、展望舎の夢庵の花頭窓からもみじ林をみる。紅葉の季節なら最高のアングルになるだろうが・・・。
もみじ林を歩く。真冬のシーズンオフ誰もいない。
案内図
五木寛之著「百寺巡礼」よりーーー永観が京都の人びとに親しまれた理由は、いまでいう福祉事業に熱心に取り組んだためだった。奈良時代に勧進や地域開発をおこなった僧・行基のように、永観も衆生救済のために命がけで奔走したといわれている。寺伝によれば、永観は六十五歳のとき、永観堂の境内の薬王院という病院を建立したという。永観はここに病気で苦しむたくさんの人びとを収容して、薬湯を施すなどの治療をおこなったのだった。また永観は獄舎を慰問して、罪を犯した囚人たちのために念仏を称えてもいる。その上、永観は貧しい人びとに、自分が持っているものを、なんでも惜しげなく分け与えてしまったらしい。庭の梅の木が実をつけると、それもすべて病人に与えたので、人びとはその梅を「悲田梅」と呼んで永観を慕ったといわれる。最初は、エリート学僧だった永観は、それとは対極的な、庶民の念仏の指導者に転身したといえるだろう。永観は念仏を称えることによって、貴賤の差別なく阿弥陀如来の光明に浴することができる、と人びとに説いた。
御朱印
永観堂 終了