古寺を巡る 青蓮院
古くより皇室と関わり深く格式の高い門跡寺院
青蓮院は、現・・三千院、妙法院と共に、天台宗の三門跡寺院である。「門跡寺院」とは皇族や摂関家の子弟が入寺する寺院のこと。青蓮院は多く皇族出身で親王の称号を与えられた僧侶が住職を務め、格式を誇ってきた。江戸時代には仮御所となったことがあるため「粟田御所」の称もある。日本三不動の一つ青不動のある寺としても知られる。
青蓮院は比叡山東塔の南谷にあった最澄が建立した青蓮坊がその起源となる。青蓮坊は慈覚大師円仁、安恵、相応などの著名な僧侶の住居となり、東塔の主流をなす坊であった。
平安時代末期に、青蓮坊の第十二代行玄大僧正(藤原師実の子)に鳥羽法皇が御帰依になって第七王子をその弟子とされ、院の御所に準じて京都に殿舎を造営して、青蓮院と改称し門跡寺院としたのが青蓮院の始まりとなる。その後明治に至るまで、門主は殆ど皇族か、五摂家の子弟に限られてた。青蓮院は栗田御所と呼ばれており、「青蓮院旧仮御所」として国の史跡に指定されている。青蓮院には、本堂、宸殿、小御所、華頂殿、叢華殿、好文亭などがあるが、いずれも古いものではない。好文亭を除く各建物は渡り廊下でつながれている。
参拝日 令和5年2月18日(土) 天候曇り
所在地 京都府京都市東山区栗田口三条坊町69-1 院 号 なし 宗 派 天台宗 寺 格 京都五ヶ室門跡 本 尊 織盛光如来 創建年 久安6年(1150) 開 山 最澄 別 称 青蓮院門跡 旧栗田御所 札所等 近畿三十六不動尊霊場第19番 文化財 不動明王二童士像(国宝)木造兜跋毘沙門天像(国重要文化財)ほか
境内図。
青蓮院前から知恩院三門前の道側には白い塀を背景に楠の巨木。寺の塀に沿って同じような楠木が5本あり、いずれも天然記念物に指定されている。
四脚門(御幸門)。 その道沿いに明正天皇の中和門院の旧殿の門を移築したもので、明治26年(1893)の火災をまぬがれている。
正面に入り口門。右手には天然記念物の楠の大木。 この右手には正門となる長屋門がるが、撮影はしてなかった。
入口の門を潜り境内に。正面は寝殿であるが、工事中で拝観は出来ない。
一般の拝観入り口になり華頂殿の入り口となる。
華頂殿。 客殿であり白書院ともいう。書院造で部屋からの庭の眺めが素晴らしい。
客殿から庭を眺める。
床脇に設けられた書院。明り取りを円形にして障子を嵌め単純だが印象深い造り。
床の間を見る。 床脇には、天袋、地袋、違い棚。
部屋の欄間の意匠は透かし彫で波の形。
襖絵は、木村英輝氏奉納の蓮の絵で各部屋を合わせ60面の襖絵が見られる
(写真はネットから)
各部屋の小壁には三十六歌仙額絵が掲げられている。 (写真はネットから)
華頂殿から小御所に向かう、ここが渡り廊下の建物。
一文字手水鉢。 自然石で豊臣秀吉寄進と伝える。
師小御所。 本堂の北側に建つ入母屋造りで、桟瓦葺きの建物。もとの小御所は後桜町上皇の仮御所として使用された建物であったが、明治26年(1893)に焼失し、後に江戸時代中期の建物を移築して復興された。
室内から。
平安時代末は門主の居間として使用されたといわれる。後櫻町上皇が仮御所としても使用した。床の間には狩野探幽作と言われる障壁画。
寺にとっては必要不可欠な須弥壇や仏具など、あるいは仏像などが見られない。書院や居間として使用していたことがよくわかる。
左側に杉戸があり、祇園祭の山鉾が描かれているが、作者は不詳。床の間は障壁画は狩野探幽によるもの。奥の部屋は
小御所から見る庭。
小御所に続き本堂。
渡り廊下に繋がる玄関。
渡り廊下の建物の下を潜り庭園に進む
庭園。
相阿弥の庭。 華頂殿と小御所から眺められる主庭園。 室町時代の芸術家相阿弥が作った庭。相阿弥は、室町幕府第八代将軍・足利義政の「同朋衆」で、三阿弥の1人。足利将軍お抱えの鑑定家(唐物や刀剣)であり、絵師であり、連歌師であり、作庭家でもあった。今でいえば足利将軍お抱えの芸術コンサルタント&プロデューサーであった。
室町時代からあったとされる“龍心池”を中心とし、粟田山の斜面を利用した回遊式庭園。
今の庭園は明治時代に火災に遭ったため、その後七代目小川治兵衛(植治)により改修された。
室町時代に作庭された概観は乏しく、山泉水式庭園の雰囲気は江戸時代以降に手が加えられたのではないかといわれる。
龍心池。 龍の背が水面に見えるように大石が池の中央に据えられた。
跨龍橋。 円形にむくりのある花崗岩の切石二枚で造られた橋。その右に洗心滝が落ちているが気が利かず写真で撮れなかった。
池には錦鯉。
好文亭。 後桜町上皇が当院を仮御所として使用の際の学問所としていた。明治以降茶室として活用していたが放火により平成5年(2000)に焼失。その後、平成7年に復旧落慶した。本院所蔵の創建当初の平面図「御学問所」を基に木材等の材質も全く同じ、工法も同じで、完全復元された本格的数寄屋造の建物。四畳半の茶室三部屋と六畳の仏間、水屋等からなる。
内部の襖絵は、平成5年(1993)中核派の放火により消失。その後、平成7年(1995)完全修復が実現した。なお、焼失前は一の間に調子和泉守、二の間に円山応挙、三の間と四の間に幽汀玄陳の襖絵が描かれていたが、現在は一の間と二の間に上村淳之の襖絵が描かれている。(写真は青蓮院HPより)
霧島の庭。 小堀遠州の作と伝える。好文亭裏側山裾斜面から一面に霧島つつじが植えてあり、五月の花の盛りには、一面を真っ赤に染める。相阿弥の庭園と比べ平面的であるが、統一と調和を感じさせる庭である。
好文亭。 江戸時代の天明8年(1788)に、大火によって御所が炎上したため、後桜町天皇は青蓮院を仮御所として避難した。好文亭はその際には学問所として使用されたもの。
青不動堂。 本堂と背中合わせで建物の東側半分を占める堂。青不動(国宝)が安置されていたが、現在は、少し離れた将軍塚の青龍殿に安置されている。こちらには、その複製が祀られている。その他、不動明王木像、薬師如来及び日光月光菩薩、十二神将像、歓喜天像、毘沙門天像、愛染明王像などが安置。堂内は撮影禁止となっている。
不動明王二童士像 【国宝】 平安時代に描かれた不動三尊の絵画で、不動明王が青黒い肌をしているので青不動と呼ばれている。制作の背景などは不明だが、平安時代の中期から後期にかけて描かれたと考えられ、優美さの中に力強さが感じられる。高野山の赤不動(国重要文化財)、三井寺の黄不動(国宝)とともに三不動とされる。(写真は青蓮院HPより)
本堂の横の板戸には、なにやら絵が描かれている。
本堂(熾盛光堂) ただいま工事中(2023年2月)の宸殿東側の堂で、屋根の頂部に宝珠がついている。本堂には、天台宗の四大秘宝の一つである熾盛光法の本尊が祀られている。寺院の本堂といえば一番大きい、あるいは立派な堂をさすが、ここでは三間ほどの宝形造の小堂となっている。
堂内の厨子にはご本尊「熾盛光如来」の秘仏曼荼羅が安置されている。
鐘楼。 除夜の鐘を一人ごとに付けることで有名。時間はだいぶかかるようだが・・・。
本堂の前の庭は、苔のじゅーたんになっている。左は寝殿で補修工事中。
帰りの道。
案内図
御朱印
青蓮院 終了