愚生が若狭湾に繋がる福井・美浜町の日向湖に面した寂れた漁村で、雑貨屋を営む家の次男坊として生まれたのは1935年(昭和10年)6月だった。
父は、18歳で叔父さんを頼って米国に移民、約10年ロサンゼルスの日本人街で働き、28歳で帰国して雑貨屋を開業。29歳で旧朝鮮の京城(現在のソウル)病院で看護婦だった母と結婚。
その3年後に愚生は生まれた。故郷に住んだのは18歳迄である。
子供の頃は、湖岸でよく黒鯛や鯵釣りをした。夏場、外海(日本海側)の海岸で素潜りをしてサザエや鮑取りをしたり、春秋には里山で多くの餓鬼共と木登りや杉鉄砲で遊んだり、椎の実を摂って食べたりした記憶は今も鮮明である。
近年その湖上には、養殖筏やハマチ・アイナメ・メバル等が釣れる人気の釣堀りで風景も変わって来ている。しかし、我が心の中の故郷は昔のまま変わってはいない。中学当時の在京の同級生はもう僅か3名になってしまった。元気の証に時に会食もするが、話題は今も故郷の今昔話しが多い。遠くにあっても故郷は実に有難い。暫し偲ぶだけで心が癒される想い出の泉なのだから。
父は、18歳で叔父さんを頼って米国に移民、約10年ロサンゼルスの日本人街で働き、28歳で帰国して雑貨屋を開業。29歳で旧朝鮮の京城(現在のソウル)病院で看護婦だった母と結婚。
その3年後に愚生は生まれた。故郷に住んだのは18歳迄である。
子供の頃は、湖岸でよく黒鯛や鯵釣りをした。夏場、外海(日本海側)の海岸で素潜りをしてサザエや鮑取りをしたり、春秋には里山で多くの餓鬼共と木登りや杉鉄砲で遊んだり、椎の実を摂って食べたりした記憶は今も鮮明である。
近年その湖上には、養殖筏やハマチ・アイナメ・メバル等が釣れる人気の釣堀りで風景も変わって来ている。しかし、我が心の中の故郷は昔のまま変わってはいない。中学当時の在京の同級生はもう僅か3名になってしまった。元気の証に時に会食もするが、話題は今も故郷の今昔話しが多い。遠くにあっても故郷は実に有難い。暫し偲ぶだけで心が癒される想い出の泉なのだから。