呆け防止の一環で昨秋から、韓国語は聞き流し、中国語はテキストを基にラジオ放送を聴講している。韓国語はその昔、1年間学んだことがあるので復習の積りで聞いている。
聴講しながら、「異言語はその国の文化をよく反映している」と思う。同時に、先人達は、どのようにして他国の言語を学び、目的に応じて公益に貢献する業績を築いたのだろうか・・という疑問が時々ついて回る。
若干例を挙げて考えてみよう。江戸時代、漁の最中に漂流・救助され在米経験のある「ジョン・万次郎」が、後年、幕府から旗本の地位を与えられ、1858年の日米和親条約締結時、通訳として幕府に貢献したことはよく知られている。万次郎は通訳としての役割を立派に果たしたのだろう。
更に慶長18年(1613)、仙台藩の支倉常長らが慶長遣欧使節として、スペイン国王およびローマ法王の下に派遣されている。僅か200トン足らずの帆船で長大な航海をするだけでも快挙だと思うが、見事に親善外交をして帰国している。この時、使節団にはスペイン語やイタリヤ語に通じた随員がいたのだろうか。いたとしても、彼らは鎖国下でそうした異国語をどこで、どう学び、どの程度語学能力のある随員は何人位いたのか?そんなことに関する話は聞いたことがない。
古くは中国唐の時代(618-917)、三蔵法師が、中国からインドに亘り、600余の経典を持ち帰って翻訳したとされている。その中国語訳経典を受けて、遣唐使歴のある当時の学僧が邦訳し、それが今日の多くの日本の経典になっている。
三蔵法師がどのようにしてインドの修行僧と対話をし、ヒンズー語を学び、加えて辞書も何もない状況の下で、どんな手法で中国語に翻訳したのか。 同様に、道元禅師など日本からの多くの修行僧がどのようにして受け入れ先唐側と折衝し、唐に長期滞在して仏典の翻訳に努めたのだろうか。
僅か278文字の「般若心経」の経典にも、偉れた苦行僧達の直向きな努力と労苦が凝縮されているように思う。如何に漢字文化の国だとはいえ、難解な中国語の多くの原典を1400年も昔の時代に、どのようにして学び、習得し、完訳したのか。唯々感嘆あるのみだ。
今日我々が親しんでいる文化言語は、先人達が残してくれた貴重な努力の賜物である。しかし、その割には、そうした異文化言語が時代の変遷の中で、どのような受け伝え方をして今日に至っているか。文化の伝来に伴う異言語秘話について、知りたいことは実に沢山ある。しかし、書店や図書館で調べても、立派な先人達が異言語をどのように学び取り、その道の後輩達に普及させて行ったのか。そんな業績を記録した書本にお目にかかったこともないのは、老生だけなのだろうか。
世界には6500種余の言語があるといわれ、夫々にその国の言葉の歴史がある。何語を学ぶにも、現代のように語学学習上も極めて恵まれている我々は、その面では実に大変幸せな時代に生かされている。だから、これも又大いなる感謝である。